とはいえ、こうした日本語で書かれた長編小説が英訳にて刊行されていること自体、驚くべきことであるのかもしれません・・。
そして、そうであればこそ、前述の価格(大変高価)であるのも仕方がないことであるのかもしれません。
しかし、小説などといった書物に対し、それだけの金額を投じて購入しようとすること自体、本来は多少酔狂であるともいえます・・。
そうはいいながら、世間には高価な希少本を「あえて」収集するような方々がいらっしゃるとも聞きます。
そうした方々とは、そのような書物に対し、一体どのような魅力を感じ、高い価値を認めるのでしょうか?
私も書物はキライではなく、むしろ好きな方であると考えておりますが、同時にそうした希少本が持つ魅力の内容、意味合いとはイマイチよくわかりません・・。
また単に高価な書物といえば、医学関連の研究書、専門書などは、一般的に他の学問、研究分野のそれに比べ、高価なものが多いのではないかと思われます。
これらは、神田神保町にある、そうした書物を専門に扱っている書店にて、時折、安価な掘り出しものがあるか見てみるのもなかなか面白いものです・・。
そういえば、先日神田神保町に所用にて行った際、偶然立ち読みした一冊が大変面白そうであり、今後機会があれば是非購入して読んでみようと思いました。
その一冊とは、つい先日読了した「迷路」にも通じる要素があると考えられますが山田風太郎著の「昭和前期の青春」という著作です。山田風太郎は私が中学生の頃、一時期集中的に読んでいた記憶がありますが、これらを現在読んでみますと、当時とはまた違った感想が湧き、それはそれで大変面白く感じます・・。
また、それと類似した感想を持つ著述家として、私としては、司馬遼太郎、北杜夫が挙げられますが、如何でしょうか?
加えて、同様に私見としましては「どくとるマンボウ医局記」、「どくとるマンボウ青春記」、「どくとるマンボウ航海記」を英訳、刊行してみたら大変面白いのではないかと思います・・(笑)。
また、以前より私がよく抜粋引用する加藤周一著の「日本文学史序説」において司馬遼太郎は決して評価されているような感じではなく、あまり「よく」書かれていないようですが、この部分に関しては、現在尚、あまり納得できておりません。
それに加え、この著作がもう少し後の時代の文学まで関連、包括し記述していたとすれば、その中で北杜夫、また時代は多少くだりますが、ノーベル文学賞の候補として呼び声が高く、現在、海外においても高く評価されている作家の方は、一体どのように評価、記述されていたのだろうか?と不図考えてしまいます。
また、そこまで書いて不図思ったことは、加藤周一、大西巨人といった戦前、戦中を知る知の巨人ともいえる方々がここ数年で亡くなったことにより、文芸あるいはより広く、国の文化一般に対し如何なる、そしてどの程度の影響を与えたのかとは、今現在になって考えてみますと、そこには、なかなか深い意味があるのかもしれません。
さて、皆様はどのようにお考えになるでしょうか?
ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
そして、先日の熊本における大地震にて被災された地域の諸生活インフラが復旧し、地域全体が早期に復興されることを祈念しております。」