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2022年2月12日土曜日

20220212 株式会社光文社刊 大西巨人著「神聖喜劇」第一巻 pp.554-557より抜粋

株式会社光文社刊 大西巨人著「神聖喜劇」第一巻
pp.554-557より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4334733433
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4334733438

「うう、負け戦のことは、もうええ、とにかく、そういつもいつも柳の下に泥鰌はおるめえちゅうことよ。階上班の古年次兵どもが、わがたちもアメリカ遠征軍になったごたぁる気色でしゃべっとるとを聞いてみりゃあ、サン・フランシスコに敵前上陸した暁にや、その足で脇目も振らじにハリウッド目がけて突進して、それこそ「逢うときに笠をぬげ。」じゃ、いっち上物(美人)からやり始めて順繰りに、わが身の破甲榴弾(男根)が続く限り、金髪女優たちを総嘗めにしちゃる、なんち吹きまくっとる。そのうちに貴様たちも思い当たるじゃろうが、これが座興の駄法螺でもあり長い目で見りゃ正真正銘の本心でもあるちゅう所が、軍隊のー戦争の摩訶不思議よ。まあ駄法螺にしろ本心にしろ、どっちみち勝手な熱でも上げとらんことにや、こげな守備地の兵隊もやり切れめえけん、そりゃそれで構わんじゃろう。ばってん、敵もおなじ頭で日本の女子たちを狙うとるちゅうことは、覚えていたほうがええ。」

私は大前田の言いぶりに淫猥軽薄の気を感じなかった。かえって、ある根源的な恐怖をもって、私は謹聴した。大前田が、語り続けながら西むきになって、火砲の北側を砲口のほうへ動き始めると、彼の、それまではいっそ切々として私語のようでもあった語調が、そこいらから嘈嘈たる急雨のおもむきを持った。

「ええか、ハリウッド女優を組み伏せる夢は見放題じゃが、やがて階上班の連中やらお前たちやらが持って行かれる先は、遠い海の向こうは向うでも、サン・フランシスコでもロス・アンジェルスでもありゃせん。」野砲の向こう勝手、車輪の脇に達した大前田が、東にひらりと身をひるがえして、動きを止めた、「南方じゃ、歌の文句で皆さんご承知の「赤道直下なんとか群島」の見当じゃ。おぉ、人事じゃない。おれもおなじよ。日本も、「乗りかかった船」で、今更こっちから止めもなるめえし、なおさら負けるわけにはいくめえ。その熱帯の島島で、新手の大軍を向うにまわして、これから先が本物の大がかりな殺し合いよ。敵も味方もトツケモナイ死人の山じゃろう。この前の大陸じゃ運よういのち拾いをして帰って来られたが、今度はおれもたいがい助からんと覚悟しとる。お前たちもそう心を決めとけ。うう、おたがいさまに、行きとうして行く南方でもなけりゃ、しとうとしてする人殺しでもないぞ。しかし行ったからにゃ、内地じゃ人一人殺した覚えもないこのおれが、敵の毛唐どもをならべといて、榴散弾・曳火信管の零距離射撃、水責め火責め、一寸試し五分刻みに、支那でやった数を上まわるぐらい、思う存分たたき殺してやる。敵と名のつく奴たちにゃどいつにもこいつにも仮借はせん。そうこうしよりゃ、いずれこっちが反対に打ち殺されて、煮つけにされた魚のごたある目を剝いて南方の赤土の上にひっくり返らにゃなるめえばってん、おれも目ん玉の黒いうちは、当たるをさいわいに、ありとあらゆる方法で、殺し散らかしてやるぞ。また国は、軍は、そうさせるつもりでおれたちを行かせるとじゃろうが?殺す相手は、日本人じゃない、毛唐じゃろうが?敵じゃろうが?殺して分捕るが目的の戦争に、余計殺して余計分捕ったほうが勝ちの戦争に、「勝ちゃ官軍、負けりゃ賊軍。」の戦争に、殺し方・分捕り方のええも悪いも上品も下品もあるもんか。そげな高等なこと言うとなら、あられもない戦争なんちゅう大事を初手から仕出かさにゃええ。いまごろそげな高等なことは、大将にも元帥にも誰にも言わせやせんぞ。」

 ゆくりなくも私の心は、「保元物語」における「梟悪頻リニ聞コエ、狼藉尤モ甚ダシキ」鎮西八郎為朝の「武士たるものは殺業なくては叶はず。それに取っては、武の道非分の者を殺さざるなり。依って為朝合戦すること二十余度、人の命を断つ事数を知らず。されども分の敵を討って非分の者を討たず。」という言葉を呼び出していた。たしか「内地じゃ人一人殺した覚えもない」にちがいなかろう大前田文七の「殺す相手は、日本人じゃない、毛唐じゃろうが?敵じゃろうが?」は、「幼少より不敵にして、兄にも所をおかず、傍若無人なりし」八郎御曹司の「分の敵を討って非分の者を討たず。」に相当する言い分ででもあるのか。

 大前田軍曹は、みたび左手で逆につかんだ帯剣の柄を前下に押し下げ、つと横に差し伸べた右手を車輪の上方輪帯に掛けて、凛然と胸を張った。

「この野砲のことが、『操典』になんと書いてあると思うか。「各種活目標ヲ殺傷シ」と書いてある。『各種活目標』ちゅうとは、馬なんかもそうじゃろうが、主に人間のことじゃ、敵国人のことじゃ。火砲の榴散弾は、たくさんの「活目標」を一纏めに吹っ飛ばすために出来とる。毒ガスの使用は国際条約で禁止されとっても、戦争がありよる以上、どこの間抜けな国がそげな条約を守るか。各国が作って持っとって、ここぞというときにゃばら蒔くちゅうことは、公然の秘密ぞ。殺人光線か電気砲か知らんが、相手方の戦争員も非戦闘員も一緒くたにして、いちどきに何万人も何十万人も皆殺しにしてしまうごたぁる新兵器でも早う拵えて、早う使うたほうの国が勝とうちゅう戦争に、殺し方のよし悪しを詮議しとる必要はない。なにがなんでも、『各種活目標ヲ殺傷シ」の一本槍で進むまでよ。」

 それで大前田の長広舌も、ついに終わったとみえた。片手に火砲の車輪をつかみ片手に帯剣の鞘を逆立てた勇壮な姿勢のままで、大前田は、両唇をしっかり結んだ。また静寂がわれわれを訪れた。

 大前田演説の全体は、多くの鮮烈な印象を私に刻み込んだが、この静寂の間、私は、ほかのことを考えなかった。日に照る三八式野砲を片えにした大前田の(いかにも「歴戦の勇士」という評判にふさわしい)屈強な立ち姿を眺めながら、私は、これも「保元物語」の為朝初登場場面を頭の奥で暗誦していた。そこは、「保元物語」の中で、私の好きな箇所の一つである。

 為朝は七尺許りなる男の、目角二つ切れたるが、紺地に色色の糸を以て、獅子丸を縫ったる直垂に、八竜といふ鎧を似せて、白き唐綾を以て縅したる大荒目の鎧、同じき獅子の金物打ったるを著る儘に、三尺五寸の太刀に熊の皮の尻鞘入れ、五人張の弓、長さ七尺五寸にて釻打ったるに、三十六差したる黒羽の矢負ひ、兜をば郎等に持たせて歩み出たる体、樊噲も斯くやと覚えてゆゆしかりき。謀は張良にも劣らざれば、堅き陣を破る事、呉子孫子が難しとする処を得、弓は養由をも恥ぢざれば、天を翔る鳥、地を走る獣、恐れずといふ事なし。上皇を始め進らせて、あらゆる人人、音に聞ゆる為朝見んとて挙り給ふ。

2018年3月4日日曜日

20180304 幾つかの種類の知の蓄積・・書籍の読解から思ったこと

本日の首都圏も昨日、一昨日に続き比較的気温が上昇し、日中は過ごし易い一日であったと思われます。しかし一方で花粉の飛散もまた多かったことから、花粉症気味の自身としては、ここ数日の春らしい陽気を楽しむことは難しかったと云えます・・(苦笑)。

また、ブログ記事に関しては、昨日投稿分の記事も比較的多くの方々(130人程度)に読んで頂けました。これを読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

さて、以前のブログにて少し触れましたが、医療機関において人文社会科学系学分野の勉強会の開催を希望される場合は、分野にもよりますが、出来る限り対応させて頂きます。
しかしながら、この分野での勉強会とは、市場経済的なものとして扱うことが困難であると思われることから敢えて、ご案内等は作成・掲示はしません。

そして、もしご興味がある場合は自身のメールアドレス:clinic@tsuruki.orgまでご連絡頂ければと思います(アットマークを半角英数に変換してください)。どうぞよろしくお願いいたします【その他ご要望などに関しても応じることが出来るものは出来るだけ対応いたします】。

さて、人文社会科学系ということで多少関連があるのかもしれませんが、現在読み進めている国際政治学の著作下巻は100頁近くにまで至り、おそらく明日には半分程度まで行くのではないかと思われます。以前にも書きましたが、こうした著作とは読み始めがかなり面倒であるのですが、ある程度まで理解しつつ読み進めますと、その後は思いのほか楽に読むことが出来る傾向があるように思われます。そして、この傾向は、いくつかの長編小説とは、また若干異なるのではないかと思われます。

感覚的な意見ではありますが、ある種の長編小説とは、こうした人文社会科学系の比較的硬質な著作よりも読み進めることが困難ではないかと思われます・・。

具体的には、かねてより当ブログにて取り上げたトーマス・マン著『魔の山』であるとか大西巨人著『神聖喜劇』といった著作は、苦労して読了にまで至りますと、その書籍を読んでいなかった当時の自身とは、わずかではあるのかもしれませんが同時に有意に違った自身になっていることに気が付くのではないかと思われます・・。

そして、こうした経験を苦労と共に与えてくれる著作が所謂名著とされるのではないかと考えます。くわえて、こうした読書経験を持つことが出来る時期とは、人により多少の偏差はあるのかもしれませんが、自身の経験に基づいて述べますと遅くとも30代半ばぐらいまでではないかと思われます・・(それ以降は感性の柔軟さが損なわれるように思われる)。

またそれは、おそらくさきの人文社会科学系、特に教養系の勉強会においても同様であると思われ、おそらく医療機関などにおいて文学・思想などをテーマとした勉強会が開催されることは、皆無とは云えないにしても、相当稀ではないかと考えます・・(特に我が国の場合)。

おそらく、こうした人文社会科学系とは、何と云いますか理系・自然科学系学問とは異なった種類あるいは手法による知の蓄積が要求されるのではないかと思われます。そして我が国社会においては多分に理系・自然科学系学問の種類・手法による知の蓄積が重視されるのではないかと思われますが、同時にこの種類・手法による知の蓄積とは、現在進行形で発展を遂げているコンピューター・人工知能とも類似・被る部分が多いのではないかと思われます・・。あるいは、それは合理的(普遍性を目指した)な思考回路であるのかもしれません・・。そして、そのように考えてみますと、先日来のブログ記事にて述べました絶対矛盾的自己同一やアンビバレントなどといった考えとも、多少は関連があるのではないかとも思われてくるのですが、さて如何でしょうか?
【それでも、合理性・普遍性とは、かなり重要であるとは考えますが・・おそらく、それだけではダメであるのかもしれません・・。】

今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨今、
列島各地にて生じた、あるいは生じている地震・大雨・水害・火山噴火などの大規模自然災害により被災された諸地域の復興を祈念しています。


~書籍のご案内~
昨年師走に師匠による著作が医歯薬出版より刊行されましたのでご案内いたします。どうぞよろしくお願いいたします。
著書名:『CAD/CAMマテリアル完全ガイドブック』
ISBN978-4-263-46420-5












2017年8月27日日曜日

20170826 次に読む書籍に関して思ったこと【文体に慣れる】☜これが大事かもしれない

先日下巻を購入した著作はこれまでで半分程度にまで至りました・・。

下巻の方が個人的には興味深いことが多く書かれているようであり、もしも修士課程院生時代にこの著作に出会ってたら、おそらく参考文献のひとつに加えていたことでしょう。

ともあれ、近日中にこの著作を読み終えたならば、どうにか通史的な著作を読める(頭の)準備が整ったということで、次は他のこうした著作をあたり読んでみよう思います。

また、ここで『通史的』著作ということで不図思い出されたのがこれまでに数多くその抜粋引用を行ってきた加藤周一著『日本文学史序説』上下巻であり、これを現在頁を開いてみると如何なる感じを受けるのかと思い、手に取り見てみますと、その文体は簡潔・精緻であり分析は論理的であり『過去の自分はこの著作をよくも複数回にわたり通読したものだ・・。』とも思われるのです・・(苦笑)。

またそれと同時に『これこそ母国語で書かれた知的な著作である。』と一種有無を言わさないような実感が湧いてくるのです・・(笑)(加藤周一や大西巨人の文体より生じるあの迫力とは一体なんであろうか・・?この迫力とは邦訳された通史的な著作からはほぼ感じることは出来ないように思われるのだが。)。

ともあれハナシを戻し、これも先日ブログ記事にて書いたことではありますが、かつて自身が著作内に線引き、書き込みをしたいくつかの部分をあらためて開き読んでみますと、そうした部分に関しては、不思議なことに実際に読んでみると記憶がよみがえり、また著作文章と書き込み部分との関連も(ほぼ即座に)理解されるのです・・。

それ故、この次はあらためて『日本文学史序説』上下巻を通して読んでみようかとも思いましたが、この著作に関しては、もうしばらく寝かせておく方が良いと思われますので、新たに別の面白いと思われる通史的な著作を物色してみようと思います・・(笑)。

また、ここまで書いてきて強く思ったことは『書籍を読むということは、往々にしてその文体に慣れるということではないか?』ということであり、その意味において、決して多くはないにしても私はある程度の種類の文体には接してきたのではないかとも思われます・・。

しかしながら、そうであっても自身が文章を書く段となりますと、その文体とは未だ確立されたという自覚に至らず、かように何やら書き続けてはいますが、その出来上がった文章に対して心底より満足のいったものはこれまで皆無であると云えます・・。

時折、知人よりブログ記事に対して批評のコトバを頂戴することがありますが、それは文体に対してでなく、専ら記事の内容についてであり、そうしたことから『文体とはどうやら自分一人で練り上げて行く以外にないのだな・・』と思われます・・(苦笑)。

とはいえ、それと同時にブログ記事であれ、さすがに1000記事程度まで書き続けていると何か少しは変わり、分かってくるのかもしれないとも思われるのです・・。

さて、次に読む著作の選定の前に現在読んでいる著作の続きを読み進めます(笑)。

そして今回も、ここまで興味を持って読んで頂きどうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害により被災された地域での諸インフラの復旧・回復および、その後の復興を祈念します。」











2017年7月20日木曜日

20170719 読んでいた小説から思ったこと、歴史認識の方法について・・

A「昨日投稿分の記事に書きました著作は、その後かなり読み進み、おそらく本日の就寝間際の読書にて読了に至るのではないかと思われます。

その著作とは武田泰淳著『貴族の階段』であり、これは丁度2・26事件の頃(1936・昭11)の主に華族社会を舞台としたものであり、また、その書かれている世界とは、さきのブログ記事にも書いた野上彌生子著『迷路』とも類似するものであり、再読の際に、その比較を行うこともまた面白いのではないかと思われます(笑)。

ともあれ、この『貴族の階段』では、主に若い女性の登場人物たちを軸として物語が進行されるのですが、こうしたいわば『女の世界』の描写を何故、男性作家である武田泰淳が為し得ているのか、自身にはいささか不思議に思われました・・(笑)。

おそらく、これは自身の人生経験および観察力の不足によるものであると思われますが、いずれにしましても今後、自身がこうした物語を書くことはまず不可能であるように思われます・・(苦笑)。

また、2・26事件をも題材とすることから、軍隊(帝国陸軍)内の様相もまた著作内に書かれてはいるのですが、これに関しては、大西巨人著『神聖喜劇』あるいは山本七平による一連の軍隊(帝国陸軍)ものと比較しますと幾分精細に欠けるようにも思われます・・。

とはいえ、この著作とは、物語としては大変面白く、同時に、この時代の一つの様相を知る上においても有益であると思われます。

加えて、このことに多少尾鰭をつけてハナシを進めてみますと、1920・30年代(大正末~昭和初期もしくは戦間期)の概括的な歴史の流れを知るための一つの方法として、先ずマンガ『はいからさんが通る』を読み、次いでさきの『貴族の階段』に至り、そして『迷路』を読んでみるというのは、あるいはそれなりに有効ではないかとも思われますが如何でしょうか?

このことを書いてみますと、私はかねてより、こうした、どちらかというと帰納法的な方法にて歴史の流れを把握しようとする癖があるように思われます・・(笑)。

とはいえ、こうした方法によっても、ある程度の認識に達しますと、その分野の専門・学術書も特に無理なく読みこなすことが出来るようになり、またその継続によって、今度はいくつかの時代・地域に対しての認識に達しますと、次はより歴史を概括的に捉えた抽象的ともいえる哲学・思想関連のいくらかの著作をも特に無理なく自然に読むことが出来るようになるのです・・。

無論、こうした方法は時間も掛かり、面倒ではあるのですが、それでも自身としては、これが一つの歴史を知るうえの正当な手段ではないかと考えております。

また、ここまで書き、記事に登場する書籍・著者・マンガ等をリンクさせるため、インターネット検索をしていて不思議に思われたことは、さきに挙げたマンガ『はいからさんが通る』が今年の11月に新たなバージョンとしてアニメ映画化されることです・・(笑)。

あるいは私はこうした情報をどこかで見ており、ほぼ無意識ながら、このことを認識していたのかもしれません・・。

そして、こうしたこともまた、昨日投稿分の記事に書いた『シンクロニティ』と関連するものなのでしょうか(笑)?

さて、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年より現今に至るまでに発生した一連の地震・大雨・水害といった大規模自然災害により被害を被った地域での諸インフラの復旧そしてその後の早期の復興を祈念しています。』









2017年7月3日月曜日

20170703 昨今の都議選から思ったこと・・『抑圧移譲』

以前にも当ブログ記事に書きましたが、自身はあまり政治に関することには特に期待をしていないため、ブログ記事主題として書くことは稀ですが、昨今、都議会議員の選挙にてその主要勢力の交代とも云える事態、ないしは大きな変動があったとのことは多少興味深く思われました・・。

ここで生じた流れ、動きといったものが今後、全国に波及していくかは分かりませんが、私見としては、あるいは余計な心配であるかもしれませんが、各道府県は急いでこれを波及、真似することは避けた方が良いと考えます・・。

何故ならば、未だこの先どうなるか分からない状態の都政において、ただ単に新たな勢力がその主導権を握ったからといって、その先を見ずに、この流れを取り入れることは、ごく普通に考えてもおかしなことではないかと考えるからです。

とはいえ、それと同時に自身はこの新たに都議会にて台頭した新たな勢力に対し悪意を持っているわけではありません。

むしろ団塊あるいはその周辺世代に多く見られる『変に』アメリカナイズされたパターナリズム、マッチョイムズ的な要素(ある意味、この国をここまで引っ張って、あるいは引き摺って来たもの)が機能することが困難になった昨今の御時世においては、東京都という部分的にではあれ、それが取り除かれ、新たな勢力が台頭することは少なくとも悪いことではないものと考えます・・。

それ故、その既存勢力を取り除いた新たな勢力が代わって、時代に即した(さまざまな業界のボス同士の利権を忖度し合うことのない・理解し難いような裏面を持たない)『良い都政』が為されるのであれば、全く問題はないと考えます・・。

しかし、ただ、それがどうも未だよく分からないということなのです・・。

それ故、とりあえず今後しばらくは、都政がどのように変わっていくかを期待しつつ静観するのが良いのではないかと思われます・・。

また、そのようなことを書いておりますと、否応なく思い出されるのが2010年夏~秋に掛けて生じた出来事であり、おそらく自身に関しては、その出来事により、その後の人生が大きく変化したと云い得ます・・。

しかしながら、
現在に至れば、それは本当に悔やんでも仕方のないことではあると考えるものの、その一方において、どうしても、さきの都議会勢力の交代の要因の一つともなったと評される、文部科学省が関与したとされる一連の出来事あるいは事件と、その背景に類似・同様のメカニズムを認識してしまうのです・・。

おそらく国会・議会・立法府側からのある種の圧力により、省庁とは、その実質的配下にある大学に対して更なる圧力をかけることとなり、そして大学側は、その省庁からの圧力に対して最終的には逆らうことが出来ないといった何やら厳然としたシステムが存在するのではないかと考えさせられます・・。

そして、それはまさしく丸山眞男の云う我が国における『抑圧移譲』の論理であり、また同時に大西巨人著『神聖喜劇』にて活写、象徴されている世界、我が国の社会そのものであるとも云い得ます・・。

しかしながら、そのような分析をしてみたところで何一つ現実の状況とは良くならないと考えることから、自身は冒頭に書いたとおり、特に政治に期待はしていないはずではあるのですが、それでも事態が周知の如く、このように推移し、また、それが大きく取り上げられるのを見聞きしますと、どうしても何かしら書かずにはいられないのです・・(苦笑)。

それ故、多少無茶を承知で書きますと、自身をとりまく状況が(大幅に)良くなれば、また、それを取り巻く更に大きな状況もまた幾分かは良くはなるのではないでしょうか・・(笑)?

ともあれ、今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。


昨年より現今に至るまで
生じている一連の熊本、山陰東部、福島県周辺などでの地震によって被害を被った地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しています。









2017年5月16日火曜日

20170516 言語文化の背景にある社会文化そしてそこにある【圧力】

A「本日は久しぶりにホンモノの理系、技術方面のハナシを伺うことが出来ました・・。

そうしたハナシはやはり聞いていて大変面白く、また勉強になります。

また、同時に、そうしたハナシには【我々が日常的に接する】ウソや変に婉曲的な言い回しがなく、概して率直であり、聞いていて大変気持ちが良いものです・・。

こうした率直なモノの云い方『のみ』にて世の中を渡ることができれば、さぞかし気持ちが良いだろうとは思うところではありますが、おそらく、我が国の言語文化いや、その背景にある社会文化には、そうした言語の使用を封じ込める圧力のようなものがあるのではないかと思われます・・(苦笑)。

とはいえ、そうした要素もまた、我が国古来からの文化、伝統であり、またそれが我が国特有とされる『繊細な感性』とも密接に関与しているとも思われますので、そう簡単には、非難あるいは除去できるようなものではないのかもしれませんが・・。

しかし、そうであったとしても、そうした社会文化に存在すると思しき圧力に呑み込まれ、【知らずに】屈服し、自身の言語を失う、放棄してしまうことは、出来る限り避けた方が良いのではないかと考えます・・。

また、山本七平が、その著作内にて軍隊教育に関して、類似したことを述べていたと記憶しておりますが、著作では、日々生活にて用いる言語の統制、強制、徹底化により、徐々に話し方、考え方なども固定され、パターン化されてしまい、さらに、さきに述べたような古くからの社会文化による圧力も加わり、独特の社会、雰囲気(内務班)が形成されるといったことが述べられていましたが、ここまで書いておりますと、自然、大西巨人著の「神聖喜劇」が思い起こされてきます・・(笑)。

この著作は、これまでに何度か当ブログにて扱いましたが、現在、この記事を書いており、ある程度判然としたことは、山本七平著の旧日本軍(帝国陸軍)を扱った諸著作とは「神聖喜劇」を読む際の良い参考資料となることであり、また、その関係性とは、可逆的なものであるとも云えるということです・・。

そして、ここまで書いていて、次に思い起こされる欧米の著作とは、察しの良い方はお分かりになっていたかもしれませんがジョージ・オーウェル著「1984」です・・。

この著作においては意図的な言語の改変、集約化(言語の削減)の様子が書かれておりましたが、ここでも、その結果として、話し方、考え方などが固定、パターン化され、ある意味『理想的な』全体主義社会が成立するとのことですが、このことは現在の東アジア情勢を考える上において、未だなお解決されず、示唆するものが多分にあるのではないでしょうか・・?

加えて、我が国の社会もまた、決してそれを『嗤う』ことは出来るものではないとも考えますが・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年に熊本、山陰東部そして福島県周辺を襲った地震によって被害を被られた地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」


2017年4月25日火曜日

20170425 夢野久作・谷川健一・大西巨人を結ぶもの・・

A「本日の首都圏もまた日中は気温も上昇し、比較的過ごし易い一日でした。

さて、本日も記事作成を止めておこうと思いつつ記事の閲覧状況を確認しますと、思いのほか読まれていたことから、また記事作成に取り組んでいる次第です・・(苦笑)。

また、先日600記事に到達してからも、まさしくどうしたわけか継続的に記事作成を行い、気が付きますと既に新たに5記事以上を作成しておりました・・(苦笑)。

加えて、直近ここ数回の記事に関しては、先日来より読んでいる夢野久作の著作の影響を受けているようにも思えます・・(笑)。

そして、このように考えてみますと、自身に関しては、何かしら著作を読んでいる時の方が記事作成も速やかにそしてスムーズに為されるように思われます・・(笑)。

その点、ブログ記事作成当初の記事全般とは、それまでに読んだ著作の影響が複合的に見受けられ、また同時に、その文体とは現在に比べ、何といいますか、頑なであり、現在読んでみますと「ああ、たしかにこの文体では長い期間の記事作成は困難であろうなあ・・」といった感想を持つに至ります・・(笑)。

とはいえ、その一方で自身とは、そうした頑なな文体に未だ憧れているようなところもあり、そこから時にはそうした(頑なな)文体を用いて文章を作成するのもまた、大事ではあるまいか・・?といった、さきとは相矛盾ような感想をも持つに至ります・・(笑)。

それ故、今回に関しては、このさきの文章を敢えて頑な、硬質な文体を用いて書いてみようと思い立ちました・・。

さて、現在読んでいる夢野久作の著作とは、偶然ながら、以前抜粋引用した谷川健一の著作においてもその一部分が抜粋引用されていることをつい先ほど思い出した。

谷川健一の著作とは、我が国の歴史の裏面あるいは民俗などについて取り扱ったものが多いと云えるのだが、その中で何故、本来(独特な作風の)小説家である夢野久作著作内の文章が抜粋引用されているのかと考えると、おそらく、その著作内で述べられている内容が、我が国古来よりの民俗的あるいは伝統的な、物事に対する視座に基づく叙述が随所に為されているからではないかと考える。

無論、こうしたある意味、歴史を貫く内容を持つ叙述とは、さまざまな文字文化において見受けられるのであろうが、特に谷川健一、夢野久作間のそれを結んで浮かび上がってくる特徴的な要素とは、おそらく我々が古来より普遍的に持っていると内面においては実感しつつも、同時にそれを表出することは進化発展を遂げた現代の我が国社会においては相応しくないものとされるような、恐ろしくも残忍な要素ではないかと考える。

また、その意味において、著作の中にて上記と類似した要素が随所に認められる著述家として大西巨人が挙げられるのではないかと考える。

そして、そうした要素を文章にて抉り出し露見させるような性質とは、あるいは九州出身の著述家を含めた表現者全般において、ある程度広く認められるのかもしれない。

感覚的ではあるが、そうした、いわゆる露悪的な文章において、前出三者とは、たとえば(九州に出自を持たない)山本七平、大岡昇平、会田雄次、丸山眞男などの類似した内容を持つ文章と比較した場合、その全体的なトーンが異なるのではないだろうか・・?

そして、そこにある程度同意が為されるのであれば、おそらく、その基底にあるものとは、地方、地域独特の口語、文語を含めた言語世界ではないかと思われる。

今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺において発生した地震により被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」


2017年4月23日日曜日

20170423 書店に行き、偶然手に取った書籍から思ったこと・・

昨日投稿分の記事においても述べましたが、現在となって思うことは、対話形式の文体の方が独白形式の文体に比べ、同じ文字数を書く場合においては大分書き易いと云えます。

あまり大したことではないかもしれませんが、これは自身にとっては発見といって良いものでしょう。

さて、本日は久しぶりに大規模書店に行き、興味のある分野の書籍コーナーを徘徊しておりましたが、その中で横溝正史の某作品を何気なく手に取り読み、その次に同じ書棚に並んでいた夢野久作の某作品をはじめて手に取り読んでみたところ、その文体が何とも云えず面白く、しばらくの間読み入ってしまいました・・。

この著者による作品は怪しげな作風・内容であるとの評により、これまで敬遠、食わず嫌いであったのですが、実際に読んでみますと『はまる人にははまる』のではないかといった感想を得ました(笑)。

重ねて私見ではありますが、その文体および物語の進行の仕方とは、同じ九州福岡出身の大西巨人による「神聖喜劇」にも相通じる『何か』があるのではないかと思われますが如何でしょう?

また、さらに思うことは、こうした書簡形式の文体、回想などが物語随所に挟まれる物語の進行の仕方とは、読み手側にとっては多少取っ付きにくいのかもしれませんが、我が国における小説、物語の叙述形式としては、そこまで異端視されるべきものでもないと考えます。

また、今後機会を見つけ、そうした叙述形式を採る作品を自身で探してみようと思いましたが、とりあえずは一冊、夢野久作の著作を読んでみようと思います。

また、それと関連があり、以前のブログ記事にも書いた記憶がありますが、昨今どうしたわけかタイムリープ、タイムスリップもののドラマ・映画作品が多いようですが、おそらく現今もてはやされるそうした作品(のみ)によって歴史およびその時代精神を理解しようと試みることは(かなり)危ういものであり、それは我が国において特徴的とも云える、外からの圧力、プレッシャーが生じた際のヒットポイントをずらす、はぐらかすような傾向・心性に親和性を持っているのではないかと思われます・・。

インターネットが普及した現在においては、おそらくそうした我が国の表層のみでの反応・共感しているようなしぐさに隠された真意・底意あるいは場合によっては無気力などは、諸外国に広く認識されつつあるのではないかと思われます・・。

それ故、やはり大事であると思うことは、実際のところ興味を持っていないことに対して、無理に外面を取り繕い、興味があるように見せることよりも、ただ各々主体が能動的な興味を持ち取り組むことが出来る何かを見つけ、そしてそれを社会が容認することではないかと思うのですが如何でしょうか・・?

おそらく、こうしたことは理想論以前の問題ではないかと思われます・・。

さて、そこで不図思い出した文章を以下に示します。

岩波書店刊 中江兆民著 「三酔人経綸問答」P.25より抜粋引用
『人間社会のあらゆる事業は、たとえて言えば、酒のようなもの、自由は酵母のようなものです。ブドウ酒でもビールでも、材料がいかによくても、もし酵母というものがなければ、材料はみな桶の底に沈殿して、アルコールをかもし出させようととしてもダメです。専制国の事物は、みな酵母のない酒です。みな桶の底の沈殿物です、ためしに専制国の文芸を見てごらんなさい。ときには見るべきものもあるようだが、よくよく観察すると、千年たっても一様、万個あっても一種、変化のすがたなどありはしない、作者の視覚聴覚にうったえる現象は、みな桶の底の沈殿物にすぎず、作者もまた沈殿した精神で、これを模写する。変化のすがたのないのは、当然じゃありませんか。』

今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺において発生した地震により被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。






2017年3月14日火曜日

20170314 再び時間をかけて読んでみたい著作などについて・・

A「今回の記事投稿により総投稿記事数が565となります。
そして600記事まで残り35記事ということになり、この調子にて記事作成を継続すれば来月中に目標とする600記事に到達することが出来るのではないかと思います・・。

しかし600記事に到達した場合『その次はどうしようか・・?』といった先のビジョンは、これまでと同様、特に考えておりません・・(苦笑)。

また、その一方で先日の勉強会への参加から強く思ったことは『何か硬質な書籍』を通読、精読してみたいといったことであり、具体的にはバートランド・ラッセル著『西洋哲学史』全三冊に再チャレンジしてみたいと思います・・。

この著作は修士課程院生時代に知り、院修了に至る時点においても読んでいたのですが、結局読了には至ることが出来ませんでした・・。

とはいえ、この著作とは当時の感覚にて大変面白く、また、そのいささか断定的ともいえる高い見地からの論述には魅了され『このラッセルという人は天才であろう・・』と思い、また現在においても『少なくとも、こうした才能を持った人物は稀であろう・・』といった認識は保持しております・・。

今後、再度この書籍を手にして読んだ場合、一体どのような感慨が湧き、そして読了にまで至ることが出来るのでしょうか・・?

また、自身の感覚として、この著作に類似するものは加藤周一著『日本文学史序説』全二巻であり、これは幾度か集中して読む期間がありましたが、読了に至ったのは2013年冬であり、その後も折を見て読んでおりますが、それは当ブログ記事の特に初期の記事にて、そこからの抜粋引用が多いことからも理解されるのではないでしょうか・・?

この著作もまた、今後随時、再読、更なる精読を試み、また、この著作に関しては、特に英訳本での読了に至りたいといった願望もあります・・。

さらに、硬質な書籍として、小説ではありますが大西巨人著『神聖喜劇』全五巻が挙げられます。

この著作は文系の師匠に勧められたものでしたが、読了後、師匠にそのことを話しますと『君はあれを全部読んだのかね?』と多少驚かれた記憶があります・・(笑)。

この著作はその文体により、大変魅力的ではあるのですが、同時に読み進める速度が遅くなってしまい、読了に至るまで、半年程度の月日を費やしたことが思い起こされます・・。

(ちなみに、もし、この著作が英訳にて刊行されたら、それはそれで問題であるかもしれません・・。)

そして、私見として、この著作から内容的に類似したものを感じさせるのは作家ではありませんが南方熊楠、金関丈夫です・・。

ともあれ、現代の我々日本人の中で、これら方々の著作と比肩する程度の内容の緻密さ、独創性、博識さを示す文章を書くことが出来る人は果たして存在するのでしょうか・・?

しかし一方、かつては時代もまた現代に比べ、多少はのんびりしていてさまざまな著述には良かったのかもしれませんが・・。

また、そこから人間の創造的行為という点に関して考えてみますと、それは多少の負荷があるものの、全体的にはゆったり、のんびりしていた環境の方が長期的視野に立つ良い仕事が出来ることが多いのかもしれません・・。

そして、その意味から『近代以降、東京出身の長編を書ける作家が少ない』という意見の確からしさが再考され得るのかもしれません・・。

さらに、そのように考えてみますと、現在、自身が継続しているブログ記事の作成に対しては果たしてどのような分析が為されるのでしょうか・・(笑)。

また今後、記事を書く環境が変化した場合、書かれるものにどのような変化が生じるのでしょうか?

ともあれ、ただ自身が願うことは、ブログあるいは文章を書く時間を出来るだけ減じることなく、長い著作を精読さらにそれに付随する調べものが出来る環境を手に入れることでしょうか・・(苦笑)。

もちろん、困難であることは承知しておりますが・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。


昨年に熊本、山陰東部そして福島周辺にて発生した大地震により被災された地域の出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」











2017年3月5日日曜日

20170304 久しぶりに読んだ著作から思ったこと・・

A「昨日の投稿記事は風邪気味にて作成したわりには多くの方々に閲覧して頂いたようです。

この記事を興味を持って読んで頂いた皆さま、どうもありがとうございます。

さて、明日より数日間、記事の更新を休もうと考えております。
おそらく来週後半あたりから再開しようと考えておりますので、どうぞよろしくお願いします。

そういえば、昨日の記事を作成、投稿した後、どうしたわけか久しぶりに山本七平著「私の中の日本軍」を再び読んでみたくなりました・・。

山本七平をはじめ太平洋戦争に従軍された研究者、著述家による著作とは、どれも一種独特の迫力があり、たとえ用いている言語が同一であっても、現代のそれらとはどうも『次元が異なる』のではないかと思うことがあります・・。

果たして書かれた文章から、その著者の経験とはにじみ出てくるものなのでしょうか・・?

ともあれ、この「私の中の日本軍』末尾に著者と司馬遼太郎との対談が掲載されているのですが、そこで語られている内容、指摘とは、現代の我が国においても通用する大変興味深いものが多いのではないかと思われました。
興味がある方は読んでみてください。

また、対談といえば、先日、当ブログにて複数回取り上げた「俘虜記」の著者大岡昇平と「神聖喜劇」の著者大西巨人との対談を掲載した書籍を古本屋にて見つけ、立ち読みしましたが、これもさきと同様、大変興味深く、いずれ機会を見つけ購入し精読したいと考えております・・。

以前のブログ記事にても書きましたが、これら世代(太平洋戦争従軍経験を持つ)に属する著述家、研究者等がここ20年間で次々と亡くなっていくに伴い、我が国の書籍全般とは、徐徐に手頃で扱いやすい方向に、つまり軽く、そして薄くなっていっているのではないかと思われるのです・・(笑)。

また、このことを書いて想起することは、以前、長年大学にて教鞭をとっている(いた)複数の知人から『今世紀に入った頃から明らかに学生の何かが変わった』という意見を聞いたことでした・・。

また、その変わった内容として印象的であったのは『感覚的にはなるけれども、多分一人暮らしであれ、実家暮らしであれ、そもそも家に書籍が、本棚がない環境ではないかな・・。』であり、これはおそらくPCの普及とも何かしら関係があるのではないかと思われます・・。

また『ゆとり世代についてはどうか?』と尋ねたところ『ゆとりを重視した教育環境でも勉強をしようと思う人については、それ以前とあまり変わっていないのではないか?ただ、全体としては、やはり影響があるように思う。』でありましたが、これもまた昨今『ゆとり教育』から大幅に国の教育方針が軌道修正されたとのことです・・。

何も知らないまま、ある世代に勝手に組み込まれ、教育され、そこからさらに勝手に評価されるのは、どうもおかしいのではないかと考えさせられます・・。

これは仕方がないことなのでしょうか?

ともあれ、そういった点からも我が国とは『ヒトが制度を作り、その後は制度がヒトを作る』とは本質的に製造業の工作機械のようにはいかないということを『敢えて知ろうとしない』のではないかと考えさせられるのです・・。

そしてイヤな見方をすれば、それが我が国の理系学問分野での優秀さの、まさしく残酷な側面であるのかもしれません・・。

また、こうしたことは、さきに挙げた方々の著作を通じ、否応なく認識するところではあると思うのですが、それでも現在のような状況であることは、その根本において一体どのような原因が作用しているのだろうかと考えさせられるのです・・。

あるいはここまでで循環論法となっているのかもしれません。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨年、熊本、山陰東部そして福島県周辺にて発生した大地震によって被災された地域の出来るだけ早期の復旧、そしてその後の復興を祈念しております。」




2017年2月13日月曜日

20170213 総閲覧者数20万到達・・【歯科理工学・文系それぞれの師匠について】

本首都圏は日中は気温がそこそこ上昇しましたが、陽がかげるにつれ、また寒くなってきました・・。

そして、そのような中、週初めの月曜日から多少飛ばし過ぎの感がありますが地下鉄四駅程度分は徒歩にて移動しました・・(苦笑)。

首都圏、特に都心部にて複数の目的地に出向く際、地下鉄を用いると逆に遠回りになることも往々にしてあるため、これは妥当な選択であったのではないかと考えます・・。

とはいえ、やはり一方において飛ばし過ぎの感もまたありますが・・(苦笑)。

さて、投稿記事数ですが、今回の投稿を以て一区切りともいえる540記事に到達します。

そして今現在、特に大きな変化といったものはありませんが閲覧して頂いている方々の数は、以前記事に書いたとおり、ここ最近上昇しており、おそらく本日の記事投稿により200000人に到達するのではないかと思われます・・。

他の人気があるブログに比べた場合、その数とは大したものではないのかもしれませんが、ともかくブログ開設後1年8ヶ月程度にて、ようやくここまで到達しました(笑)。

これもひとえに読んで頂んでくださっている方々皆様のお蔭です。
どうもありがとうございます。

さて、以前投稿した歯科理工学のテキスト冒頭の文章を題材として記事を作成しましたが、これまで師事した師匠とは、そうした一見関連のなさそうな事物間の関連性を場面に応じ述べられる傾向がありました・・。

また、それは日常的な会話においても然りであり、歯科理工学の師匠とは、登山の最中、さまざまな植物を見て「これは食べることが出来る、これは出来ない」さらにはその調理法についても解説をされることもありました・・。

後になり北杜夫著「どくとるマンボウ医局記」内にてこれと類似した描写を見つけた時は、いささか驚きました・・(笑)。

また、それまで都会を離れ暮らした経験はありましたが、こうした植物の知識を得ることはなかったため、それを熱心に聞き、丁度この時期(2月半ば)の登山の折であったと記憶しておりますが、多くの「ふきのとう」を見つけ、帰宅後それで佃煮を作ったことが思い出されました・・(笑)。

この時作った佃煮とは、それまで自作した料理の中で、最も野趣に富み、且つ美味であったものと記憶しております・・。

「ふきのとう」には植物の「芽吹きの力」のようなものが詰まっているのかもしれません・・。

そして、そうした経験を通じ野菜類を好きになったのではないかとも思えます・・(笑)。

また別の文系学問分野での師匠は、さきの師匠とはまた異なり、主として都会的な文化全般について独特の(良い)センスを持たれており、記憶にあり現在即座に思い起こすことは高田馬場界隈の昔ながらの映画館にて日活の超大河映画のリバイバル連続上映を観た後、これまた古めかしい近隣の喫茶店にて観た映画についてのさまざまな視点から説明を試みられていたことです・・。

この時は丁度今しがた観てきた映画の時代背景の中に我々がいるのではないかと錯覚を生じさせるといった、よく分からない感覚がありました・・(笑)。

とはいえ、そうした記憶、感覚があったことから後になり大西巨人著「神聖喜劇」、野上彌生子著「迷路」といった長編および同時代について扱った数々の著作を楽しみながら読むことが出来たのではないかとも思えます・・。

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

去る2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺において生じた大地震により被災された地域の出来るだけ早期の諸インフラの復旧、そしてその後の復興を祈念しております。



















2016年11月17日木曜日

20161111 「楡家の人びと」から「迷路」「神聖喜劇」などの長編について・・☆☆

A「昨日は風が強く、またそこそこ寒いなか、屋外にいる時間が長かったためか、風邪をひいてしまい、今現在多少頭が重く、体全体が気怠い感じがしております。

それ故、本日の記事更新は止めにしようと考えましたが、これまでに培った習い性とは、意外と強いものであるようで、こうして本日分の記事作成に取り組んでいる次第です・・(笑)。

また、面白いもので、一旦記事作成に取り掛かりますと、多少頭の重さ、気怠さも忘れるか、軽減されるようであり、こうしていくうちに、何かしらの主題が見つかるのではないかと思われます・・。

さて、先日より読んでおります北杜夫著「楡家の人びと」は、残すところ第三部のみとなりましたが、これは明日早々に購入し読んでみようと考えております。

そして、おそらくこの調子にて読み進めますと、来週中には全巻読了に至るのではないかと思われます。
そうしますと、また久々に野上彌生子著「迷路」以来の長編読了ということになりますが、この比較的新しい読書記憶に基づき、両著(「楡家の人びと」、「迷路」)を比較してみますと、後者は前者に比べ思想的あるいは内面の情緒的な記述の分量が多く、そのことにより、著作内容の理解が多少困難となり、また、そのことから読み進む速度においても相違が生じるのではないかと思われます・・。

あるいは、これはあくまでも私見ではありますが、各々著作に対象年齢を設けるとすれば「迷路」の方が、多少その年齢層が高くなるのではないかとも考えます。

また、そのような視点にて考えてみますと、我が国の長編小説の一つの金字塔?ともいえる大西巨人著「神聖喜劇」は一体どのような扱い(対象年齢)となるのでしょうか・・(笑)。

この著作に関しては端的、一言にて感想を述べることが困難であり、ただ「面白く、大変勉強になると思いますので機会、興味がありましたら、是非読んでみてください。」といった感じになります・・。

また、私も機会がありましたら、この著作全巻をもう一度読み、そして、その面白いと思われる部分をタイムリーに抜粋引用してみたいとも考えております・・。

しかし「迷路」にても、そうした傾向はあると思われますが、特に、この著作(「神聖喜劇」)に関しては、そうしたことを行っていると「何かしら問題が生じるのではないか・・」といった危惧もまたありますが・・(苦笑)。

そして、その危惧を含めて、この著作を大変魅力的なものにしているとはいえますが・・。

また、何といいますか、我が国の社会、歴史の深層、古層からの問題点を作中にて抉り出し、あからさまに提示しているという意味において「神聖喜劇」、「迷路」とは類似した要素を持っているともいえます。

とはいえ、前者の方がより強烈であるとは思いますが・・(笑)。

そして、そこから正直なところ「神聖喜劇」は女性向けの著作ではないと考えます。

また、そのよう考えてみますと、不図疑問に思ったことは、加藤周一著「日本文学史序説」下巻にて野間宏著「真空地帯」という「神聖喜劇」と類似した主題を扱った著作に関して割合長く述べられているのに対し「神聖喜劇」には一行も触れられていないのは、一体何故であろうか・・?ということであり、これは単純に双方の出版年度によるものなのでしょうか・・?

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

先日の博多駅前の道路陥没事故の復旧、さる熊本での大地震、山陰東部での大地震にて被災された地域の出来るだけ早期の復旧そして、その後の復興を祈念しております。」



2016年10月31日月曜日

20161031 小説、物語とその映像化作品について・・

A「昨日は不図「ブログ記事の作成を止めておこう・・。」と考え、どちらかというと意図的に記事作成を止めました。

その理由とは、昨日は休日ということもあり、また目標とする500記事まで年内に到達することが可能であるならば、多少の小休止もまた合理的な判断ではないかと考えたためです。

加えて1日意識的に休むことにより、如何なる影響が自身の記すブログ記事に生ずるのかを確認することもまたできます・・。

とはいえ、こうしたことをこの程度長々と記しますと「それはただのサボりの言い訳ではないのか?」と思われる方々もいらっしゃるかもしれませんが、たしかにそれは穿った見方として間違いではないと思われますし、意識しなくとも、あるいは、文字に記さなくとも、おそらくそうした心情とは、正直なところないとは言い切れません・・(苦笑)。

とはいえ、一方において、これまで多少の断続はありながらも、どうにか継続的と云える程度にはブログ記事を作成してきましたので、その見地にて考えて頂ければ、たとえサボりの部分が多少あったとしても、それは今後のブログ記事作成を円滑に行う為の小休止であったと認識、見做して頂くこともまた出来るのではないでしょうか・・?

そして、それすらもまた「言い訳ではないのか?」と追及されるのであれば、そこから先は私も何もその点に関しては記すコトバがありません・・(苦笑)。

さて、この点はこのくらいにしまして、先日、これまで投稿しましたブログ記事において度々取り上げた作家北杜夫の小説が映画化されていることを知りました。

この小説につきましては、これまでに読んだことがありませんが、とりあえずは、以前ブログ記事に記しました、かねてよりの企図にしたがい同著の「楡家の人びと」を読んでみようと思います。

また、長編小説といえば、今春~夏にかけて読みました野上彌生子著「迷路」の次となりますが、この「楡家の人びと」もまた、さきの「迷路」と時代背景が重なるため、なかなか面白く読むことが出来るのではないかと考えております・・(笑)。

しかし、そう考えてみますと、どうも最近の私は、この時代(戦間期~戦中、戦後)を舞台にした長編小説を好んで読んでいるようです・・。

さらに加えて、それ以前(2007~2008)に読んだ大西巨人著「神聖喜劇」もまた、主に戦中を舞台(この著作は主人公の作中での回想あるいはかつて読んだ著作からの想起により、描かれる時代が実に多岐に渡る。)としていることから、あるいはこの時代(戦間期~戦中、戦後)とは、おそらく我が国の近代文学がある程度成熟した、それに加え、認識し得る我が国の歴史の中で最も波瀾に富んだ時代(の一つ)であることから小説、物語などに対し格好の時代背景を提供するのではないかと思われます・・。

とはいえ、そうしたかつての我が国社会の一面を「活写」したと思われる著作とは、これまでに映像化されたということは(少)ないようです・・。

これはなかなか面白いことであると思うと同時に、おそらく現今の我々の社会においては技術的云々よりも、それを演じる方々のそれら小説、物語の登場人物への同期化した行動、言動つまり演技が困難であるのではないかと思われます・・(時代精神との同期化が困難・・?)。

その点においてやはり、かつて製作されたこの時代(戦間期~戦中、戦後)を舞台にした映像とは、舞台となった時代と製作された時代が比較的近い(当事者が存命)ことから、何といいますか、無理なく、その舞台となった時代として製作された映像を観ることが出来るのではないかと思われます・・。

あるいは、こうした現象とは、我が国の映像作品にのみ当てはまるものなのでしょうか・・?

とはいえ、こうしたことからもまた、おそらく国民性の一端らしきものは看取、認識することが出来るのではないかと思われますが、さて如何でしょうか・・?

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さる四月の熊本における大地震、昨今の山陰東部における大地震によって被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」




2016年10月2日日曜日

20161001 様々なお話しを伺って思ったこと・・【生きた歴史意識とは・・?】

おかげさまで9月の閲覧者数も20000人に到達しました。
これは7・8月そして今月と継続して3カ月の20000人到達となりますので、このことから一連のブログ記事を閲覧してくださっている方々が徐々にではありますが増加していることが示唆されるのではないかと思われます・・。

しかし、今後1月(ひとつき)に30000人に到達するまでが、なかなか困難な道のりではないかと思われます。

1月に30000人ということは、平均して1日に大体1000人以上の方々が閲覧しているということになりますので、これは現状(1日におおよそ400~700人、多い日で1000人以上)から考えてみますと、多少難しいのではないかと思われます・・(苦笑)。

とはいえ、とりあえず記事を記し続けることにより、閲覧してくださる方々が増加すると一般的にいわれており、また、このことは私の実体験とも合致しておりますので、まあ、そうしたことはあまり考えず記事を作成し続けようと思います。

また一方で、こうした経験則・法則らしきものとは、その有効範囲があると云えますので、こうしたこともまた頭の片隅に留めておきます・・(笑)。

そして、これまで閲覧してくださっている皆様、今後ともどうぞよろしくお願いします。

さて、以前もブログ記事に記しましたが、ここ最近仕事にて主に都内・首都圏の歯科医院に行くことが多いです。

そこで院長である歯科医師の先生からお話しを伺うと不思議なことに、その内容に関して共通していると思われることが多いのです・・。

こうしたことは一体何故生じるのか、その理由とはわかりません。あるいは私が先生方にそうした共通性を引出す何かしらの因子を持っているのであろうか・・?とも考えてみましたが、おそらくそれは自意識過剰であると思われます・・(苦笑)。

また、それと同時にこうした共通性を認識しますと、私はどうも北杜夫著の長編小説「楡家のひとびと」あるいはその構想のもととなったトーマス・マン著の同じく長編小説「ブッテンブローグ家の人々」といった著作を連想します・・。(後者は未だ読んでいないが・・)。

おそらく、こうしたお話しを首都圏のみならず、各地方の歯科医院にて数十件程度伺い、その記録を採り、それらを適宜合成、調整し物語と為すことにより、日本の(近代)歯科医療の歴史といったものを集約・抽象化した物語を作ることが出来るのではないかと思われました・・(こうした手法とは、あとになり考えてみますと、我が国に古くからあるのではないかと思われました。(例:ヤマトタケル))。

無論、現在の私にはその任が重すぎるとは思いますが・・・(苦笑)。

とはいえ、そうした考えが不図頭をよぎる程に、これらの伺ったお話しは含蓄および自然な歴史感覚に富むものであると私は考えます・・。

しかしながら、考えてみますと、おそらく、こうしたことは何もさきに挙げた歯科医療職種に限定されるものでもなく、たとえば、村上兵衛著の「桜と剣」あるいは比留間弘著の一連の著作などからは、近代日本陸軍(帝国陸軍)に対する現在の一般的な認識とはまた異なった認識、評価が得られるのではないかとも思われます・・。

また一方において、丸山眞男、会田雄次、山本七平、大西巨人、大岡昇平、司馬遼太郎等の近代日本陸軍(帝国陸軍)に対する視点も極めて重要であるとは思いますが・・。

そして、現代の我が国において歴史認識、歴史感覚(あるいは単に偏狭な国粋主義かもしれない)を高揚させることを意図したとも見ることができる様々な著作、映画、ドラマにおいて決定的に欠けているのは、高揚(あるいは煽情的)とは縁がない・目的としない、その時代、その職業における「日常性を活写した要素」「生きた歴史認識、感覚」といったものではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか?

今回もここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本にて発生した大地震によって被災された地域の今後出来るだけ早期の復旧と、その後の復興を祈念しております。」

2016年9月22日木曜日

20160921 スランプとパンチの効いた警世的なるもの・・・

A「先日よりどうもブログ記事の良い着想が思い浮かびません・・。

これは現在、季節の変わり目であるからか、あるいは先日赴いた公募の面接がダメであり、それにより何となく萎縮してしまったからであるか、あるいはまた、その他にも何か要因があるのかもしれませんが、ともかく、どうも良いブログ記事の着想がパッと思い浮かびません・・(苦笑)。

そして現在はそうした思いを文章として記せば、それはそれで、とりあえずは記事になるのではないかと考え、これを記している次第です・・。

そういえば、本日は仕事上にて伺ったある歯科医院にて、古くか続いている某歯科大学の付属歯科衛生士専門学校が、このたび短期大学として認可されたということを伺いました。

そして、さきほど、このことをインターネットにて調べてみたところ、それは既に公式なことであると記されていたため、ブログ記事の題材として記している次第です。

また、そういえば、先日記したブログ記事において、歯科衛生士の教育に関して記したものがありましたため、これもまた何となく面白く感じました・・(笑)。

あるいは本日伺った歯科医院の先生は、このかつて投稿した記事を読んで頂いていたのかもしれません・・(笑)。

しかし、そのように考えてみますと、こうしたことは私が思う以上に多くあるのかもしれません・・。

そして、単に私がそうしたことを認識していないだけであるのかもしれません・・(苦笑)。

しかしながら、ブログ記事を記し、その一方で日常生活にて、そうしたことを気にし出しますと、ますます自意識過剰となり、そして、さらにその後反転し、萎縮してしまい、自由にブログ記事を記すことが困難になってしまうのではないかという危惧が生じてきます・・(笑)。

また、それがなくとも、さきに記したように今現在どうもブログ記事作成においてスランプに近い状態であると思われますので、こうしたことは出来る限り考えない方が良いのかもしれません・・(笑)。

そして、そのようなことを認識してみますと、案外こうした公開を前提とする継続的なブログ記事の作成とは、高所における綱渡りに近いようなところがあるのかもしれません・・(苦笑)。
(フリードリヒ・ニーチェ著「ツァラトゥストラかく語りき」冒頭近く・・)

渡る場所を単に横幅が狭い場所での移動(前進)であると考えれば、特に恐怖も湧かないのかもしれませんが、それが高所であると認識することにより恐怖が湧いてくるといったような感じではないでしょうか・・(笑)?

そして、もし少なからずこうした(感情的な)要素がこれまでのブログ記事作成において良い方に作用してきたのであれば、少なくとも今現在までは、ブログ記事を書き続けるといった意味においては、どうにか上手くやってこれたのではないかと思われます・・(笑)。

そして、願わくは、今後しばらく(500記事程度迄)は、そうした状態(特に大きな反応がない)が続いてくれた方がありがたいと思います・・。

とはいえ、感情的な非難、批判、言いがかりとは、どのようなことをきっかけとしてでも、行うことは出来ると思われ、また、それに加え、おそらく私はそうしたことに対し強い耐性があるというわけではありませんので、繰り返すようではありますが、これまで通り、どちらかというと静かに見守って頂けた方がありがたいです。

読まれている皆様、どうぞよろしくお願いいたします・・。

さて、そうしたことを置いておいて、先日来より読んでおりました山田風太郎著「戦中派虫けら日記」を読了しました。

この著作は読了に至るまで大変短い期間であり、おそらく一週間程度であったのではないかと思われます・・。

また、この著作からも大変面白いと思われる記述が少なからずありましたので、今後、折を見て、それら記述を当ブログにて抜粋引用してみようと考えております・・。

そして、私見とはなりますが、ここ最近少なからず警世的な意味合い、あるいはそうした目的、意図を持った著作が刊行されているようですが、それらの著作と比べ、古書店にて(安価で程度の良いものが)購入することが出来る、山田風太郎著のこの時代(戦中戦後期)を扱った著作、あるいは、大岡昇平著の「俘虜記」、野上彌生子著「迷路」、大西巨人著「神聖喜劇」、そして山本七平著「私のなかの日本軍」などの方が、案外と普遍性のある、そしてパンチの効いた「警世的」なるものを明示してくれるのではないかと思われますが、さて如何でしょうか・・?

今回もここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。

さる四月に熊本にて発生した大地震によって被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧そしてその後の復興を祈念しております。」

2016年5月7日土曜日

20160506 いくつかの著作、著述家について・・

A「つい先日読了した野上彌生子著の「迷路」は英訳も刊行されているようですが、これは大変高価であり、今後しばらく購入することは困難ではないかと思われます・・(苦笑)。

とはいえ、こうした日本語で書かれた長編小説が英訳にて刊行されていること自体、驚くべきことであるのかもしれません・・。

そして、そうであればこそ、前述の価格(大変高価)であるのも仕方がないことであるのかもしれません。

しかし、小説などといった書物に対し、それだけの金額を投じて購入しようとすること自体、本来は多少酔狂であるともいえます・・。

そうはいいながら、世間には高価な希少本を「あえて」収集するような方々がいらっしゃるとも聞きます。

そうした方々とは、そのような書物に対し、一体どのような魅力を感じ、高い価値を認めるのでしょうか?

私も書物はキライではなく、むしろ好きな方であると考えておりますが、同時にそうした希少本が持つ魅力の内容、意味合いとはイマイチよくわかりません・・。

また単に高価な書物といえば、医学関連の研究書、専門書などは、一般的に他の学問、研究分野のそれに比べ、高価なものが多いのではないかと思われます。

これらは、神田神保町にある、そうした書物を専門に扱っている書店にて、時折、安価な掘り出しものがあるか見てみるのもなかなか面白いものです・・。

そういえば、先日神田神保町に所用にて行った際、偶然立ち読みした一冊が大変面白そうであり、今後機会があれば是非購入して読んでみようと思いました。

その一冊とは、つい先日読了した「迷路」にも通じる要素があると考えられますが山田風太郎著の「昭和前期の青春」という著作です。山田風太郎は私が中学生の頃、一時期集中的に読んでいた記憶がありますが、これらを現在読んでみますと、当時とはまた違った感想が湧き、それはそれで大変面白く感じます・・。

また、それと類似した感想を持つ著述家として、私としては、司馬遼太郎、北杜夫が挙げられますが、如何でしょうか?

加えて、同様に私見としましては「どくとるマンボウ医局記」、「どくとるマンボウ青春記」、「どくとるマンボウ航海記」を英訳、刊行してみたら大変面白いのではないかと思います・・(笑)。

また、以前より私がよく抜粋引用する加藤周一著の「日本文学史序説」において司馬遼太郎は決して評価されているような感じではなく、あまり「よく」書かれていないようですが、この部分に関しては、現在尚、あまり納得できておりません。

それに加え、この著作がもう少し後の時代の文学まで関連、包括し記述していたとすれば、その中で北杜夫、また時代は多少くだりますが、ノーベル文学賞の候補として呼び声が高く、現在、海外においても高く評価されている作家の方は、一体どのように評価、記述されていたのだろうか?と不図考えてしまいます。

また、そこまで書いて不図思ったことは、加藤周一、大西巨人といった戦前、戦中を知る知の巨人ともいえる方々がここ数年で亡くなったことにより、文芸あるいはより広く、国の文化一般に対し如何なる、そしてどの程度の影響を与えたのかとは、今現在になって考えてみますと、そこには、なかなか深い意味があるのかもしれません。
さて、皆様はどのようにお考えになるでしょうか?

ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
そして、先日の熊本における大地震にて被災された地域の諸生活インフラが復旧し、地域全体が早期に復興されることを祈念しております。」

2016年4月12日火曜日

20160412 書店新刊本コーナーにて思ったコト・・

先日駅近くの書店に立ち寄りましたら、ベストセラーのコーナーにカエルを登場人物とした物語風の作品が並んでおり、そこで、その作品に興味をひかれ少し読んでみました。

ほんの少し読んだだけですが、おそらく、この作品を読むのであれば、特に若くみずみずしい知性を持った方々にはトーマス・マンの「魔の山」、ニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」、セルバンテスの「ドン・キホーテ」あるいは大西巨人の「神聖喜劇」、野上弥栄子の「迷路」あたりを読んでみた方が面白く感じるのではないかと思いましたが、如何でしょうか?

さて、さきほどのカエルの物語とは、思想と現実の政治の間に生じる出来事を扱っていると云えます。

そして、そういったものとは殆ど多くの場合、そこまで簡単に描くことのできるものではないかと考えます。

その意味で、この作品とは、はじめから結論(正当とされる政治思想)ありきといった感じが強く、また、それに加えて、登場するカエル達の名前がどこかで聞いたことのあるような横文字風の名前がついていることに対し「どうもウケる層、読者層をピンポイントで定めているのではないか?」といった感じを多少覚えました・・。

こうした物語で横文字感覚のオシャレ感を漂わせるのは、私個人としてはどうも違和感をおぼえます・・。

また、こうした内容の物語としては竹山道雄の「ビルマの竪琴」の方が良いのではないかと思いますが、如何でしょうか?

加えて、加藤周一の「羊の歌」、大岡昇平の「俘虜記」、会田雄次の「アーロン収容所」などは、そうした物語ではありませんが、しかし、今の時代であるからこそ、これら作品が訴えかけるものを明瞭に感じとることが出来るのではないかと考えます。

また、防御、防衛といったコトバによって隠されながらも他者に対する攻撃性を基底に湛えた思想とは、あまり長く続けることが出来るような、持続可能性を持ったものではないように思われるのです。

特に我々日本人の場合、なおさらそうであるのではないかと思います。

ここまで興味を持って読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。 

つい先日、1日の閲覧者数が過去最高を越えました。
お蔭さまです。

2016年4月11日月曜日

20160411 「迷路」「神聖喜劇」などについて

現在、野上弥栄子著の「迷路」を再読しておりますが、読みながら、その登場人物について色々と考えてみるのも小説を読む際の大きな楽しみの一つではないかと思います。

その点において、この著作の登場人物の多くは、そのモデルとなっている実在の人物、もしくは、この作品の登場人物がモデルとなっている後の時代の小説、映画のキャラクターなどが想起されます。

そして、そうした要素が多く見出され、またオリジナルに近い古い時代に書かれた始原ともいえる作品とは、やはり名作といっても良いのではないかと思います。

そうしますと、この「迷路」とは、少なくとも書かれた当時においては他にあまり類例を見ないタイプの長編小説であったのではないかと思います。

また「迷路」の少し後の時代を舞台とした長編小説として大西巨人著の「神聖喜劇」が挙げられますが、この作品の文体とは「迷路」と大きく異なります。

両作品ともに著者が北部九州出身であることは、私にとってはなかなか面白い発見であり、また、双方の文体における相異には、否応なく両著者の性差に、その主な原因を見つけようとしてしまいます・・(笑)。

とはいえ「神聖喜劇」の文体そして、その書かれている内容とは、極めて男性的であり、また同時に当時の普通、一般的な通念、世論が隠されも、誤魔化されもせずに堂々と書かれております。

それ故、この著作を一度精読してみて、過去の戦争において為された非道とされる行いについて考えてみますと、随分視野が広がるか、あるいは多少考えも変わるのではないかと思います・・。

そして、まさしくその意味において、この作品とは問題作であるのではないかと思われます。

また、そのように考えますと、この「迷路」も少なくとも上巻においては、前記と同様(問題作)ではないかと思います。

しかし、一般的にこうした長編の問題作といわれるものは、概ね子供の時分に読んでも、意味が分からないことから、あまり意味はなく、またそれとは逆に、年齢を重ねた後に読むと、今度は目が疲れ、さらに真剣に内容を読めなくなることから、同様にあまり意味がないように思われます。
無論そうでない方々も少なからずいるとは思いますが・・。
とはいえ、やはりこうした問題作といわれるような作品とは、若いうちに、真剣に読めるうちに読んでおいた方が良いのではないかと思いますが、如何でしょうか?

ここまで興味を持って読んでいただいた方々、どうもありがとうございます。

2016年1月2日土曜日

20160101文学と社会をめぐる対話

A「新年あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしくおねがいします。
そういえばBさんは最近引越されたのですね。」

B「どうも、新年あけましておめでとうございます。
今年もどうぞよろしく。
引越しは職場と実家の丁度中間ぐらいが具合がいいと思いましてね・・**にしました。
それでAさんの求職活動の方はどんな感じですか?」

A「相変わらず続けております。
また数日経ちましたら、活動再開です・・。
お陰さまでいくつか面接まで進むことができましたが、やはり職務内容などが合わないと、どうも長続きしないような気がしますので・・どうも臆病、慎重になってきてしまいます・・。
しかし、ここはゼイタクをいわずに、とりあえず目先の生活の安定を目指すべきなのでしょうか?
あるいはこのままの調子で求職活動を続けた方が自分にとってより良い職を得ることができるのでしょうか?」

B「・・それはおそらくAさんの考え次第ではないでしょうか?
ただ、ひとつ思うのは、ある程度Aさん自身の裁量で仕事が出来ることが大事なのではないでしょうかね?
しかし一方、収入つまり給与がどの程度であるかという要素も考慮しなければならないことが、ことを難しくしているのではないですか?」

A「ええ、まさしくそこなのです・・。
そこで最近はそうした点を考慮して「では、私はどのような職に就くのが良いのか?」と考えてしまうのです・・。
たしかにこれまで様々なことを経験させていただきましたが、それらの中のある部分を活かした職につくのは、職に就くという意味においては良いのかもしれませんが、それだけですとどうも私の場合ダメであるような気がするのです・・。
無論こうした意見は「甘い」といわれても仕方がないとは思うのですが、一方において職務に活かせる経験の割合をより多くしたいという希望もまた自然なものではないかとも思います。
ですから、もしも今後そういった職を得ることができれば、それは丹念に職探しを行った結果の良い選択ということになります。
それ故、出来得る限り、丹念に自分に合う職を探すことは特に非難されることはないと思うのですが・・。」

B「まあ君のことを心配してくれる方々がいるのはありがたいことですよ・・。
それでも、人によってはどの様な根拠、理由によって就職を急かすのかよくわからなくなることがありますからね・・。
我々日本人のなかには自分が安泰な地位にいるときに限って他者に対して居丈高に出るような人も少なくないですからね・・。
ああいう性分とは多分今後も簡単には変らないのではないでしょうか(苦笑)。
・・しかしそうした傾向とは特に我が国特有というわけでもないのかもしれません。
たしかシェイクスピアの「ジュリアス・シーザー」のなかに「謙遜さは若き野心の梯子であり、梯子を登るとそれを背後に退けて見向きもしない。」というような内容があったと思いますが、それも似たようなものではないでしょうか・・?」

A「・・ああ、たしかにそういった科白がありましたね。
しかし「ジュリアス・シーザー」といえば、シーザーが殺害された後のローマ市民に向けたアントニーの演説が印象的でした。
ああした物語、劇の内容が浸透している国の国民とは、なかなか簡単に上手く騙すことができないのでしょうね・・。」

B「ええ、そのアントニーの演説については、たしか山本七平の著作で、それを扱った章がありましたね、題名はたしか「アントニーの詐術」でしたか・・?
これはAさんは既に読まれているのではないでしょうか?」

A「・・さすがによく御存知ですね。
今さっきの私の発言もその読書の記憶から出てきたものです・・。
しかし、こうしたことはBさんにはかないませんね・・(苦笑)。」

B「いやいや、丁度今の御時勢でそれを取上げるのは様々な意味でタイムリーであると思いますよ(笑)。
しかし、現代の我々の社会の何というか、そうしたドロドロした要素を描いた作品となるとどんなものがあるのだろうかね・・?」

A「はあ、それでしたら山崎豊子の作品がそういった要素が強いのではないかと思います・・。
もっとも私はそれらは原作を読んだことがなく映画、テレビドラマのみですが・・。」

B「たしかに山崎豊子の著作ではそうした傾向がありますね・・。
あとは、そうですね大西巨人の「神聖喜劇」なども、かなり日本社会のイタイところに踏込んでいるのではないかな?
それに君の昨年末のブログで取上げた大岡昇平の「俘虜記」もその点については同様であるかもしれないし・・。
ただ、不思議に思うのは、それらの作品は、我が国の中では間違いなく名作であり、また海外の作品にも決して負けていないと思うのだけれど、どうも国外いや現在ではもう国内でもあまり認知されていないのではないかなと思います・・。」

A「ええ、さすがに「神聖喜劇」はあの全五巻の英訳はかなり難しいと思います・・。
それにあの著作は様々な意味で反時代的な要素があると思いますし・・加えて多分、女性にとってあの著作は、生理的に受け付けない部分が多くあるのではないかと思います・・。
それはたしか瀬戸内寂聴が「神聖喜劇」のあとがきで書いていたような気がします。
しかしながら「俘虜記」の方はどうやら英訳で刊行されているようです。
ともあれ、この著作を海外の方々が読まれていることには多少驚きますが、同時にこの著作の海外の読者は、現在の日本の文学をどのように見ているのでしょうかね・・?」

B「うん、現在もっとも海外で一般的な邦人作家の一連著作と比べると、やはり色々違うと思われているでしょうが・・その具体的な評価に関してはよくわかりませんね・・。
そうしますと我々日本人は、海外で読まれている邦人作家およびその著作の傾向などを情報としてある程度知っておくと面白いかもしれませんし、国際関係上何かの役に立つかもしれません。
少しなまぐさくなってしまいましたが・・(苦笑)。」

A「ははあ、なるほど、それはなかなか面白い考えですね(笑)。
たしかに小説などの出版物とは、その国のリアルタイムに近い状況をニュースなどと関連しながらもまた違った視点で映し出すものですからね・・。」

B「ええ、そうですね、我々が享楽の要素と見做している文芸一般の質、傾向とは、それが本質的に享楽であるがゆえに、文化水準、社会の傾向などの正直な反映となり、ごまかしがきかないのでしょう・・。
また国外の読者の方々はそうしたものを案外我々日本人よりもノイズなしに客観的に判断している、できているのかもしれませんね・・。」

A「ううむ、それはちょっとこわいような気もしますが、たしかにそのとおりかもしれません・・。」

2015年12月14日月曜日

大西巨人著「神聖喜劇」第一巻 光文社刊pp.221-223より抜粋

私の「学生一般の精神には、「永遠の形而上的憂愁」か「世界苦」か、「シェストフ的不安」か、あるいは「時代閉塞の現状にたいする慨嘆」か、何か名状しがたいような物の鬱憤がある。」という少々気取ったような科白は、それでもたぶんたいてい事実に叶っていたであろう。
また私の「そういう鬱憤は、いつどんな小さなことでも契機にして爆発するかもしれないのですよ。」といういくらか示威的な言いぐさも、たぶん多かれ少なかれ事実に叶っていたであろう。

しかしそういう鬱憤は、何者かの「マルクス主義的策動」ないし「左翼的アジ・プロ」類による組織的・団体的・連帯的爆発への具体的可能性を概して持っていなかった。

生徒主事が言ったようにたしかに「その後(1931、2年以後)時代は大きく変換し」ていた。
そういう鬱憤が孕んでいたのは、むしろ主としてそれがたまたま個人的・孤立的・亜流ラスコーリニコフ的異常行為へ爆発することの具体的可能性であった。
如上の状況一般と、たとえば当時ある人文主義的思想家(谷川徹三)が青年学生(の教養問題)に関して「ニヒリズムの無関心」、「デカダンスの痙攣」などの語句をも用いつつ書いた一批評文章中の次ぎの部分などとは、内容上おおかたたがいに見合っていたのである。

新しい文化の可能が指示されている。新しい文化理想が掲げられている。そこから在来の個人主義的教養が蔑視せられるのである。さういふ意志と情熱とに生きる者にとっては教養は有閑的な社交的装飾的なものと考へられるのである。
それは生活の必需品ではない。食べられない人が沢山いる時そんなことは問題ではない。

フランス革命の当時、展覧会出品の絵を前に一市民が、それらの作品の「革命の偉大な原理を十分に表現していないことを遺憾とし」更に「彼らの兄弟達が祖国のために血を流しているその時に彫刻に従事しているとは一体何といふ人達であらう!」と嘆いたことをかつてプレハーノフの本で読んだがさういふ感情である。
そこからしてまた当時の一愛国者は、最もよい画家は国境に於いて自由のために戦っている市民達であることを熱心に証明しようとしたといふが、この感情が文化否定となり教養否定となるのである。
数年前われわれの国の若い人達の間にもこの感情を私は見た。

今日(1936年)も尚ほかういふ感情はどこかに何かの形で生きているのであらう。
従って若い人達に教養がないといふ場合には、彼らに教養への意志がない場合のあることを知らねばならない。
彼らは、できないのではない、しないのである。他の情熱と意志によって教養への意志を塞がれているのである。
最近あらためて教養の問題が取上げられているのはそれに対する反動であらう。
歴史的事実としてもフランス革命やロシア革命の直後に於ける文化否定的言動はやがて訂正された。
さういふ大きな情熱と意志とによって教養への意志が塞がれることさへ必ずしも正しくないとすれば、さういふ大きな情熱と意志とのない教養蔑視は一層正しくないであらう。
現代の青年達の示している虚無的な感情には、青年の理想家的情熱の凡て塞がれている鬱屈から由来したものがあるにしても、その表れ方に人々は好意を示さないのである。
それをもってわれわれの国にヒューマニズムの堅い地盤の欠如しているためと考へている者がある。
私もまたそれに賛する者であるが、この見地からすれば今日あらためて教養の意義が説かれなければならない。