2017年4月23日日曜日

20170423 書店に行き、偶然手に取った書籍から思ったこと・・

昨日投稿分の記事においても述べましたが、現在となって思うことは、対話形式の文体の方が独白形式の文体に比べ、同じ文字数を書く場合においては大分書き易いと云えます。

あまり大したことではないかもしれませんが、これは自身にとっては発見といって良いものでしょう。

さて、本日は久しぶりに大規模書店に行き、興味のある分野の書籍コーナーを徘徊しておりましたが、その中で横溝正史の某作品を何気なく手に取り読み、その次に同じ書棚に並んでいた夢野久作の某作品をはじめて手に取り読んでみたところ、その文体が何とも云えず面白く、しばらくの間読み入ってしまいました・・。

この著者による作品は怪しげな作風・内容であるとの評により、これまで敬遠、食わず嫌いであったのですが、実際に読んでみますと『はまる人にははまる』のではないかといった感想を得ました(笑)。

重ねて私見ではありますが、その文体および物語の進行の仕方とは、同じ九州福岡出身の大西巨人による「神聖喜劇」にも相通じる『何か』があるのではないかと思われますが如何でしょう?

また、さらに思うことは、こうした書簡形式の文体、回想などが物語随所に挟まれる物語の進行の仕方とは、読み手側にとっては多少取っ付きにくいのかもしれませんが、我が国における小説、物語の叙述形式としては、そこまで異端視されるべきものでもないと考えます。

また、今後機会を見つけ、そうした叙述形式を採る作品を自身で探してみようと思いましたが、とりあえずは一冊、夢野久作の著作を読んでみようと思います。

また、それと関連があり、以前のブログ記事にも書いた記憶がありますが、昨今どうしたわけかタイムリープ、タイムスリップもののドラマ・映画作品が多いようですが、おそらく現今もてはやされるそうした作品(のみ)によって歴史およびその時代精神を理解しようと試みることは(かなり)危ういものであり、それは我が国において特徴的とも云える、外からの圧力、プレッシャーが生じた際のヒットポイントをずらす、はぐらかすような傾向・心性に親和性を持っているのではないかと思われます・・。

インターネットが普及した現在においては、おそらくそうした我が国の表層のみでの反応・共感しているようなしぐさに隠された真意・底意あるいは場合によっては無気力などは、諸外国に広く認識されつつあるのではないかと思われます・・。

それ故、やはり大事であると思うことは、実際のところ興味を持っていないことに対して、無理に外面を取り繕い、興味があるように見せることよりも、ただ各々主体が能動的な興味を持ち取り組むことが出来る何かを見つけ、そしてそれを社会が容認することではないかと思うのですが如何でしょうか・・?

おそらく、こうしたことは理想論以前の問題ではないかと思われます・・。

さて、そこで不図思い出した文章を以下に示します。

岩波書店刊 中江兆民著 「三酔人経綸問答」P.25より抜粋引用
『人間社会のあらゆる事業は、たとえて言えば、酒のようなもの、自由は酵母のようなものです。ブドウ酒でもビールでも、材料がいかによくても、もし酵母というものがなければ、材料はみな桶の底に沈殿して、アルコールをかもし出させようととしてもダメです。専制国の事物は、みな酵母のない酒です。みな桶の底の沈殿物です、ためしに専制国の文芸を見てごらんなさい。ときには見るべきものもあるようだが、よくよく観察すると、千年たっても一様、万個あっても一種、変化のすがたなどありはしない、作者の視覚聴覚にうったえる現象は、みな桶の底の沈殿物にすぎず、作者もまた沈殿した精神で、これを模写する。変化のすがたのないのは、当然じゃありませんか。』

今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂き、どうもありがとうございます。

昨2016年に熊本、山陰東部そして福島県周辺において発生した地震により被災された地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。






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