しかし、こうした利便性の高まりの一方で、現在の我が国社会全般からは、ある種の絶望感にも通じる強い疲労感が感じられます。そして私は、この社会に漂う疲労感こそが、さきに述べた文字や文章を取り巻く環境の激変と、深く関連しているのではないかと考えます。有史以来、最も多くの人々が文章を読むことが出来て、さらに、多くの文字情報に接しているにも関わらず、不思議なことに、社会を生きる人々の思索や思想などは必ずしも活性化されていません。それどころか、我々の思考は以前よりも短いものへと断片化され、その内容の方も浅薄化しているのではないかと思われます。
これは、単純に「昔の方が良かった」と過去を美化したいのではありません。デジタル技術がもたらした情報の民主化それ自体は、大きな意味を持つ進歩です。しかしその一方で、そうした新しい情報環境が、それを受け取る側である我々の思考のあり方や、脳の認知構造そのものを変えているのではないかという懸念があるのです。
パソコンであれスマートフォンであれ、スクリーン上の文字は、スクロール操作により次々と画面から流れ去っていきます。そして、そのような環境で日常的に文章を読むことに慣れていきますと、人間は、ある程度の長さと論理的構成を持つ文章を、一つの有機的な繋がりを持った全体として認識することが徐々に困難になっていくのではないかと考えます。
こうしたスクリーン上での文章の読み方において重視されるのは、全体を熟読することではなく、自分に必要なキーワードを素早く拾い集める能力です。そこでは、我々の脳は深い理解や知性の発達を促すモードではなく、効率性を最優先した「流し読む」状態へと自動的に切り替わります。そして、この状態の変化は、単なる文章の読み方の違いに留まらず、もっと深いところで、人間の認識の本質や世界観そのものにまで影響を及ぼすのではないかとも考えられるのです。
これまでの人類の知的営み、あるいは大半の科学研究は、「見えているもの」の背後にある「見えない構造」を読み解こうとする情熱により支えられてきたと云えます。たとえば、映画であれば、画面に映る俳優の演技を追うだけではなく、その背後にある監督の演出意図や時代背景を読む。社会現象の分析であれば、表面的な出来事に一喜一憂するのではなく、その奥にある権力構造や制度、歴史的経緯を考える。つまり、「すぐ目の前にある分かりやすいもの」に飛びつくのではなく、その内奥にある本質を想像し、考えることこそが、知性の重要な役割であると信じられてきました。
ところが近年の情報環境では、この「背後を読む」という極めて人間的な行為が、著しく困難になりつつあるのではないかと思われます。特にSNS空間においては、情報は「深く読む対象」というより、むしろ「触れて瞬時に反応する対象」として現れます。タイムラインをスクロールし、直感的にタップし、拡散し、短い感想を述べる。そこでは、その瞬間ごとの感情的快楽や反応速度ばかりが優先され、一度立ち止まって、その情報の真偽や背景をじっくりと考える時間は失われやすい環境にあります。
さらに深刻であるのは、アルゴリズムの存在です。デジタル空間では、自分にとって心地よい情報や、既に最適化された言説ばかりが次々と提示されてきます。その結果、我々は大量の情報を浴びながらも、実際には他者の思考のコピーを消費しているだけになり、自分自身でゆっくりと考えることが出来なくなっているのではないでしょうか。
本来、知性とは、単に知識を多く所有していることを意味しません。外から得た情報を一度、自らの内部に沈め、咀嚼し、既存の知識と突き合わせながら、自分なりに組み替えて再構成すること。その往復運動の過程で初めて「自分はこれをどう考えるのか」という問いが生まれるのだと考えます。そして、その過程を経て、我々は、少しずつ自らの思想や考えを形成していくのだと考えます。そして、そのためには、どうしても効率性とは対極と云える「立ち止まる時間」が必要になります。
そして、そうした内省的な営為を支えるものの一つが、冒頭で述べました文章のあり方とも繋がる「紙の書籍」ではないかと考えます。紙の書籍を開く時、そこには文字が流れ去るスクロールはありません。手には頁の紙の厚みがあり、視界には余白があり、文章は印刷された位置に留まっています。我々は自分のペースで読み進め、気になった一文があれば自由に立ち止まり、いつでも前の頁に戻ることも出来ます。これは決して単なる懐古趣味やデジタル嫌悪ではなく「自分で考える」という精神的行為を物質的に支える極めて重要な身体的環境であると云えます。
紙の本を読んでいる時、我々は単にインクで刷られた文字を目で追っているだけではありません。行間を読み、文脈の起伏を感じ取り、あえて書かれていない著者の思想や沈黙を想像しています。そこでは、「見えるもの」の背後にある「見えないもの」へと、人間の意識が自然と向かっていきます。
情報が絶え間なく流れ続け、その速度により、社会全体が疲弊している現代だからこそ、時にはスクリーンから距離を置き一冊の本を開いてみる。その時間は、コスパ・タイパという意味では遠回りであるかもしれませんが、スクロールにより流れ消えていく言葉を消費し続けるだけの状態から抜け出し、自らの思考を取り戻すためには、そうした遠回りこそが必要ではないでしょうか?
そして、おそらく今後の社会では「素早く反応する能力」だけではなく、「遅く深く考える能力」が、むしろ希少な知性として再び価値を持ち始めるのではないかと思われます。大量の情報を処理することは、やがて人工知能により代替されていくと思われます。しかし、立ち止まり、矛盾を考え、行間を読み、背後にある構造を想像しつつ、自らの言葉として思考を形成することは、最後まで人間にしか出来ない知的行為として残り続けるのではないかと考えます。
流れていく言葉に即座に反応するのではなく、一度立ち止まり、言葉を自分の内部へ沈め、自らの言葉として再び言語化する読書の時間を、これからの時代にこそ、日常のどこかで意識的に持つことが、さらに重要になってくるのではないかと思われます。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
ISBN978-4-263-46420-5
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