そしてまた、そこで述べた主張とは端的に『リラックスした状態にて深く・知的なことを面白く話すことが出来るということは一つの鍛錬に基づく能力であり、なかなか演技などで真似することは出来ない』といったところでした。
あるいは、このことをさらに考えていきますと、我が国の性質のかなり深いところにまで達する何かがあるようにも思われます。
また、こうしたことは、特に我が国の場合、昨今のコンピューター技術の進化発展によって以前と比べて明瞭に認識され得るようになったのかもしれません。
これを異言すると、コンピューターの能力向上により、機械的な要素にて為し得る要素と本質的に人間の精神によってのみ為し得る要素との相違点が明らかになりつつあるといったことであると云えます【それは今後もコンピューターが精神を持つに至るまで継続するのかもしれない・・】。
その意味において我々日本人とは、これまで人間が行ってきた各種労働を機械に担当させるさまざまな仕組みの開発、洗練によって、その経済的優位性を獲得してきたと云い得ます。
無論、こうした開発・洗練への努力もまた我が国の場合、特有のある種ストイックな性質に基づくものであったと考えますが、しかし本質的にそうした方向(人間が行う労働の軽減→無化)への進化発展とは、既存のそうした労働・作業が成立以来よりおそらく長い時間をかけて獲得・保持してきたさまざまな精神性・文化を根底から覆すようなものでもあり、また同時にそれは奇しくも19世紀半ば過ぎより科学・技術をも含む各種西欧文化の理解・吸収・実装に明け暮れていた我が国のいわば習い性的な行動様式・傾向と一致するものであるとも云い得ます。
そして、こうした我が国にて各種西欧文化の理解・吸収・実装が為される過程において、実用の見地からのいくらかの改良が加えられることがいわば我が国能力の真骨頂であるようにも思われます。
しかしながら、それは本質的な創造であるよりも付加的な要素、あるいはオリジナルを真似する際の一種の追加的な工夫といったものであるように思われるのです。
そのように考えますと、ハナシは記事冒頭に戻り『リラックスした状態にて深く・知的なことを面白く話すことが出来るということは一つの鍛錬に基づく能力であり、なかなか演技などで真似することは出来ない』と、あるいは何らかの関連性があるのではないかと考えさせられます・・。
コンピューターの能力向上により、人間的な要素と機械的な要素の判別が比較的明瞭に為し得るようになり、人間の精神によってのみ駆動する要素すなわち『本質的な創造とは何か?』といったことがある程度客観的に認識され得るようになると、おそらく国毎、地域毎のそうした傾向といったものも同様に認識され得るようになると思われます。
そうした場合、我が国日本及び日本人とは一体どのような評価を得ることになるのでしょうか・・?
今回もまたここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年より現在までに列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等などの大規模自然災害によって被害を被った諸地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。
昨今から再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事をも祈念しています。