2017年12月17日日曜日

20171217 創造性・進化発展に寄与する要素とは【脱抑制・リラックスした状態】

本日は休日ということもあってか、当ブログの閲覧者数も比較的多く、また昨日投稿分の「『無双感』と『脱抑制』について・・」は投稿翌日にしては比較的多くの方々(70程度)に読んで頂けました。

そしてまた、そこで述べた主張とは端的に『リラックスした状態にて深く・知的なことを面白く話すことが出来るということは一つの鍛錬に基づく能力であり、なかなか演技などで真似することは出来ない』といったところでした。

あるいは、このことをさらに考えていきますと、我が国の性質のかなり深いところにまで達する何かがあるようにも思われます。

また、こうしたことは、特に我が国の場合、昨今のコンピューター技術の進化発展によって以前と比べて明瞭に認識され得るようになったのかもしれません。

これを異言すると、コンピューターの能力向上により、機械的な要素にて為し得る要素と本質的に人間の精神によってのみ為し得る要素との相違点が明らかになりつつあるといったことであると云えます【それは今後もコンピューターが精神を持つに至るまで継続するのかもしれない・・】。

その意味において我々日本人とは、これまで人間が行ってきた各種労働を機械に担当させるさまざまな仕組みの開発、洗練によって、その経済的優位性を獲得してきたと云い得ます。

無論、こうした開発・洗練への努力もまた我が国の場合、特有のある種ストイックな性質に基づくものであったと考えますが、しかし本質的にそうした方向(人間が行う労働の軽減→無化)への進化発展とは、既存のそうした労働・作業が成立以来よりおそらく長い時間をかけて獲得・保持してきたさまざまな精神性・文化を根底から覆すようなものでもあり、また同時にそれは奇しくも19世紀半ば過ぎより科学・技術をも含む各種西欧文化の理解・吸収・実装に明け暮れていた我が国のいわば習い性的な行動様式・傾向と一致するものであるとも云い得ます。

そして、こうした我が国にて各種西欧文化の理解・吸収・実装が為される過程において、実用の見地からのいくらかの改良が加えられることがいわば我が国能力の真骨頂であるようにも思われます。

しかしながら、それは本質的な創造であるよりも付加的な要素、あるいはオリジナルを真似する際の一種の追加的な工夫といったものであるように思われるのです。

そのように考えますと、ハナシは記事冒頭に戻り『リラックスした状態にて深く・知的なことを面白く話すことが出来るということは一つの鍛錬に基づく能力であり、なかなか演技などで真似することは出来ない』と、あるいは何らかの関連性があるのではないかと考えさせられます・・。

コンピューターの能力向上により、人間的な要素と機械的な要素の判別が比較的明瞭に為し得るようになり、人間の精神によってのみ駆動する要素すなわち『本質的な創造とは何か?』といったことがある程度客観的に認識され得るようになると、おそらく国毎、地域毎のそうした傾向といったものも同様に認識され得るようになると思われます。

そうした場合、我が国日本及び日本人とは一体どのような評価を得ることになるのでしょうか・・?


今回もまたここまで読んで頂きどうもありがとうございます。


昨年より現在までに列島各地にて発生した一連の地震・大雨・水害等などの大規模自然災害によって被害を被った諸
地域のインフラの復旧・回復および復興を祈念しています。

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20171216 『無双感』と『脱抑制』について・・

議論や学術会議などの質疑応答の場にて、質問に対してかなり鮮やかな受け答え、先の先を読んだような見事な返答をたて続けにされている様子を時折見受けることがあります。

こうした状況は文章にて書いてもあまり伝わらないと思われますが、実際にそうした状況に遭遇してみますと、自然と身体が前のめりになったり、あるいは目が見開いていくような感覚を得るのではないでしょうか?

また自身の場合、そうした場において見事な受け答えをされている方に対して最近の若者コトバでもありますが『無双』といったコトバが不図浮かんできます・・(笑)。

とはいえ、実際そうした場面に遭遇することは多くはなく、それ故、あくまでも感覚的ではありますが、そうした場面・人とは、ある程度(精確に)判断することが出来るのではないかと思われるのです。

あるいは『ヒトは見かけによらない』といわれ、またそれは事実であると考えますが、しかし、その語るところを、ヒトと話しているところを、あまり意識はしないでも、しばらく見ていますと、やはりそうした方々には、さきに書いたような動物的な感覚を通じ感知され得る『何か』があるのではないかとも思われます。

しかし、その感知される『何か』とは具体的には分からず、現段階においてはあくまでも感覚的なものであるため視点を変え、そういった方々が共通して持つ特徴について以降少し述べます。

さて、自身がこれまでに見受けた、さきほどのいわゆる『無双感』のある方々の共通する大きな特徴として『脱抑制』のスタンスが挙げられます。

つまり態度、話し言葉が特に硬くなく、専門用語なども必要に応じて話され、おそらくあまり意識されていないのかもしれませんが聞き手に分かり易く話され、さらには多少早口気味のやや高音であり、また英語にて話される場合においても、同様に早口気味である割には聞き取り易くコトバが明瞭であるといった傾向が共通してあると思われます。

とはいえ、これら全ては表層的な傾向であり、その本質にある真髄とは、あくまでもその方御自身が話される内容にあると云えますが・・。

それ故、こうした傾向・性質とは、おそらく真似・演技をすることが困難ではないかと思われるのです・・。

また、昨今テレビ番組の視聴率が概してあまり芳しくない一つの要因とは、さきに述べたことがインターネットの普及により、ある程度社会において自明のことになりつつあるからではないかとも考えられます。

また、この脱抑制に関連して思い出されたことはやはり自身の師匠であり、おそらくこれらの方々もまた、少なからずこの共通する特徴である『脱抑制』が当て嵌まるのではないかと思われます。

くわえて、さらに思い出されるのはトーマス・マン著の長編小説『魔の山』の主要登場人物の一人であるセテムブリーニ氏であり、この人物にもある種の『無双感』があると思われます・・(笑)。

ともあれ、そうしますと、さきに述べたように、こうした人物像とは、ある程度の最大公約数的な何かしらの傾向といったものがあるのかもしれないと思い至るのですが、さて如何でしょうか・・?

今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。


昨年から現在に至るまで列島各地において発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された
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