議論や学術会議などの質疑応答の場にて、質問に対してかなり鮮やかな受け答え、先の先を読んだような見事な返答をたて続けにされている様子を時折見受けることがあります。
こうした状況は文章にて書いてもあまり伝わらないと思われますが、実際にそうした状況に遭遇してみますと、自然と身体が前のめりになったり、あるいは目が見開いていくような感覚を得るのではないでしょうか?
また自身の場合、そうした場において見事な受け答えをされている方に対して最近の若者コトバでもありますが『無双』といったコトバが不図浮かんできます・・(笑)。
とはいえ、実際そうした場面に遭遇することは多くはなく、それ故、あくまでも感覚的ではありますが、そうした場面・人とは、ある程度(精確に)判断することが出来るのではないかと思われるのです。
あるいは『ヒトは見かけによらない』といわれ、またそれは事実であると考えますが、しかし、その語るところを、ヒトと話しているところを、あまり意識はしないでも、しばらく見ていますと、やはりそうした方々には、さきに書いたような動物的な感覚を通じ感知され得る『何か』があるのではないかとも思われます。
しかし、その感知される『何か』とは具体的には分からず、現段階においてはあくまでも感覚的なものであるため視点を変え、そういった方々が共通して持つ特徴について以降少し述べます。
さて、自身がこれまでに見受けた、さきほどのいわゆる『無双感』のある方々の共通する大きな特徴として『脱抑制』のスタンスが挙げられます。
つまり態度、話し言葉が特に硬くなく、専門用語なども必要に応じて話され、おそらくあまり意識されていないのかもしれませんが聞き手に分かり易く話され、さらには多少早口気味のやや高音であり、また英語にて話される場合においても、同様に早口気味である割には聞き取り易くコトバが明瞭であるといった傾向が共通してあると思われます。
とはいえ、これら全ては表層的な傾向であり、その本質にある真髄とは、あくまでもその方御自身が話される内容にあると云えますが・・。
それ故、こうした傾向・性質とは、おそらく真似・演技をすることが困難ではないかと思われるのです・・。
また、昨今テレビ番組の視聴率が概してあまり芳しくない一つの要因とは、さきに述べたことがインターネットの普及により、ある程度社会において自明のことになりつつあるからではないかとも考えられます。
また、この脱抑制に関連して思い出されたことはやはり自身の師匠であり、おそらくこれらの方々もまた、少なからずこの共通する特徴である『脱抑制』が当て嵌まるのではないかと思われます。
くわえて、さらに思い出されるのはトーマス・マン著の長編小説『魔の山』の主要登場人物の一人であるセテムブリーニ氏であり、この人物にもある種の『無双感』があると思われます・・(笑)。
ともあれ、そうしますと、さきに述べたように、こうした人物像とは、ある程度の最大公約数的な何かしらの傾向といったものがあるのかもしれないと思い至るのですが、さて如何でしょうか・・?
今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
昨年から現在に至るまで列島各地において発生した一連の地震・大雨・水害等の大規模自然災害により被災された諸地域のインフラの復旧・回復そして復興を祈念しています。
昨今再び噴火をはじめた新燃岳周辺の方々の御無事をも祈念しています。
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