2023年5月14日日曜日

20230514 ブログ記事作成についての工夫から思ったこと

つい先日、当ブログの総投稿記事数が1990に到達し、その後も2記事投稿しましたので、2000記事の到達まで残り、当記事を含めて8記事の投稿を要することになりますが、この目標達成まであと少しというところで、ここ数日の不安定な気候といった環境によるものであるのか、本格的なスランプとまでは行きませんが、何やらブログ記事の作成が疎ましく思えてきました・・。

しかし、であるからと云って記事作成を行わないと、目標としている2000記事まで到達出来ませんので、記事作成を行うため環境を変えるべく、久しぶりに喫茶店に入り、そこでノートを開き、使い慣れたペリカンの万年筆を準備して、あまり考えずに書き始めてみますと、意外なことに比較的滑らかに文章は書かれていくのです。しかし、その書かれた文章を現在、判読を試みますと、なかなか難しいところもあり、また、その文章自体も、当ブログの記事として投稿出来るものであるのかは難しいように思われます。

そして、そのように考えた主な原因は、先述のノートに記した文章は何と云いますか、あまりにも「即物的」な文章であったと思われたからです。具体的にはノートに「・・席に着きノートを開いて向かうと、こうした文章は割にスラスラと出て来るようである。そして、ここまで書き進めることが出来たのは、先ほど、あまり考えずにペンを持ちノートに向かったからではあるが、であるからと云って、そこで作成された文章が、そのままでブログ記事に出来るかは、また別問題と云える。」と書いていましたが、ここで、その部分を実際に引用してみますと、たしかに物理的にはブログ記事の一部にはなりましたが、私としては、やはり、この引用部は当ブログの文章としては、未だに何か違和感を覚えてしまいます・・。他方で、久しぶりに、こうした行為(ノートに手書きした文章をPCで入力する)をしますと、さきの違和感も実のところ、そこまで意味を持つものではないことも、かなり以前でのブログ記事作成で経験して知っていたことが想起されたことから、こうした方法は、これまでにも種々試みており、そして現在では(すっかり)忘れてしまっていることもあるのでしょうが、本格的なスランプ状態に陥ることなく、記事作成を継続出来るように、色々と試みることは、さきの思い出すという観点から、それなりに意味があるように思われるのです。

そして、そのおかげで、当記事は、どうにか、ここまで書き進めることが出来ました(笑)。以前のほぼルーチンとして記事作成を行っていた時期であってもスランプはしばしば(慢性的に?)ありましたので、その際も、さきのように自分なりに考えて、ブログ記事作成を続けてきましたので、そうした折に経験した、記事作成に関する少しの工夫(場所を変える・ノートに書くなど)は、前述しました「想起」からも理解されるように、ある種「身体化」されていたのではないかとも思われるのです・・。

そして、文章作成に関して、これまでのブログ記事作成により半ば無意識ながらも蓄積された「何か」をさらに励起させて、今後、何かに役立たせることは出来るのでしょうか・・?

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
一般社団法人大学支援機構


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20230513 株式会社岩波書店刊 コンラッド著 中野好夫訳「闇の奥」 pp.6-8より抜粋

株式会社岩波書店刊 コンラッド著 中野好夫訳「闇の奥」
pp.6-8より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4003224817
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4003224816

長閑な、輝かしい一日が静かに暮れようとしていた。水面はなごやかにかがやき、雲一つない空は澄み切った夕映に、広々と微笑みかけている。エセックスあたりの沼沢地の薄靄までが、なにかまるで薄織のように照り映えながら、木深い丘脈をこめ、低い河岸を透きとおった襞模様に押し包んでいた。ただ西の方、上流河区の空を垂れこめた暗雲だけが、まるで太陽の接近を怒るかのように、刻一刻その暗澹さを加えていた。

 やがてついに、動くともない曲線を描きながら、陽が低く傾いた。そしてその大都市の群集の上を垂れこめた暗雲に触れると、頓死でも遂げたかのように、みつみつ白熱の輝きから、光も熱もない鈍赤色に変って行った。

 と、まもなく河面にも変化が起った。水面は艶やかな光沢を失うとともに、いっそう沈痛な澄明さを加えて来る。何千年か、両岸に住むあらゆる種族に豊かな余沢を恵んで来た老大河は、いまや落日の下に漣波一つ起らず、はるか地の果てまでつづく水路の威厳を誇るかのように、眼路のかぎり広々と静もり返っていた。いわば高徳の長者ともいうべきこの河の流れを、われわれは、ただ来ては去る短い一日のあざやかな夕映えの下に眺めていたのではない。もっと悠久な記憶をとどめた荘厳ともいうべき光の下に眺めまわしていたのだ。敬虔と愛とをもって「海に生きてきた」ものならば、あのテムズ河の下流河区を眺め渡して、それが持つ過去の偉大な精神を思い浮かべないものはあるまい。不断の恩沢をもたらしながら、あるいは故郷の安らかな休息へと、あるいはまた海の戦いへと、数知れぬ人と船とを載せて送った、そのさまざまな想いで出を秘めたまま、いまもなおたえまなく満干をくりかえしているのだ。サー・フランシス・ドレーク(1540-1596。英国の航海者、スペイン無敵艦隊を撃破す)の昔から、サー・ジョン・フランクリン(1786-1847。英国の北極探検家 第三回目の遠征に消息を絶ち、極地に死す)に至るまで、この国民のもって誇りとする海の騎士たちーそうだ、彼等こそ真の騎士だったのだ。爵位の有無など、それがなんだーを、この河はことごとく知っているばかりか、身親しく奉仕して来たのだった。

 かつてこの流れの運んで行った幾多の船、それらこそは、時という闇黒の中にまるで宝石のように光を放っている光栄の名前なのだ。円々と膨れ上がった船艙に数々の財宝を充して帰り、かしこくも女王陛下に親しく訪問の光栄をえたあと、そのまま偉大なる海洋発展史物語の上から姿を消してしまった「金鹿」(ゴールデン・ハインド)号(前記ドレイクの乗船、世界一周した最初の英国船)をはじめ、新たなる征服を目指して船出し、-ついにふたたび帰らなかった「エレバス」、「テラー」の二船(前記フランクリンが最後の遠征に用いた船名)に至るまで、流れはすべてそれらの船を知り、人を知っていた。デッドフォドから、グリニッジから、そしてエリスから、-冒険家、移住者、王室の所有船、取引所商人の船、船長、提督、東洋貿易の「もぐり商人」、東インド商会艦隊の新「将軍」たちー彼等はすべて船出して行ったのだ。黄金を求め、名声に憧れて、あるものは剣を、あるものは文化の炬を携えて、すべてこの流れを下って行ったのだ。奥地に対する力の使者、聖火を伝える光の使者、それにしても未知の国々の神秘へと、この河の退潮が載せて行ったもののいかに大きかったことだろう!・・・人類の夢、社会の胚種、そして帝国の萌芽!

 日は沈んだ。流れの上にも夕闇が落ちて、岸沿いには夜の灯が瞬きはじめた。泥床の上に三脚を据えたチャップマン灯台の灯が、にわかに光を増し、水路のあたりは、おびただしい船の灯が、あるいは高く、あるいは低く、静かに揺れて行く。だが、まだ遥か上流河区のあたりは、あの怪物のような大都会のあり場所が、落日の残映を受けた暗雲と、星空に赤く燃える反映とで、まるで凶事の前兆のように、夜目にもそれと眺められるのであった。