運転をしながら兄は「次の目的地はね、本州最南端のK本の少し手前にある、S町というところで、ここからはまた1時間くらいはかかると思うから、近くのコンビニで何か買って行こうか。」と云った。
S浜を過ぎ、更に南下すると、いよいよ人家や店は疎らになり、また他方で、未だ冬であるにも関わらず、道路沿いの緑は多く、濃くなり、さらに首都圏では見ることのない、南方的な植物も目に入るようになってきた。
続けて、兄は運転しながら、地域のことを話してくれたが、それによると、S浜から少し南にT田川という川があり、その下流域が本州での銅鐸出土地の南限であり、また、おそらく、そこで出土した銅鐸の一つが現在、大英帝国博物館に収蔵・展示されている銅鐸と同一であろうとのことであった。明治当初、国の制度があまり整備されていなかった頃は、古くからの文化財が海外に流出していったと聞いているが、これもその一例であろう。とのことであった。
また、兄によると、ここ(T田川下流域)での出土銅鐸は、さきの道成寺でのハナシに出た、境内出土銅鐸と類似した後期大型の近畿式銅鐸であるとのことであったが、そうすると、おそらく、弥生時代当時(多分1・2世紀頃)においても、さきほどのH川流域とT田川流域には、共通した祭祀を行う文化が地域・地域に根付いていたと考えられるが、それが、具体的にどのようなものであったのかは、今となっては分かる術もないのだろうか・・?
あるいは、この2000年近くの時間を貫く「何か」(事であれ物であれ)をある程度明瞭に見出すことが出来れば、それを基軸として、遠い過去の祭祀の様子もどうにか想像出来るようになるのかもしれない・・。
などと、おそらくはごく短い時間であろうが、ボンヤリと考えていて、不図、周囲に意識を向けると、さらに車から見える景色は単純化しており、左に1月らしからぬ横溢とした自然と疎らに建つ家々、そして右側には、白波の立つ海といった様相を示していた。また、興味深かったのは、このあたりの地名全般が、首都圏の感覚では面白いものが多かったということである。おそらく、それら地名も大昔には、何らかの通じる意味を持っていたのだろうが、時代の経過に伴い、音だけが残り、その意味の方はボヤけてしまったのだろう・・。しかし、これも、おそらく研究によって、ある程度の意味は明らかになるのではなかろうかと思われた。他方、そのようなことを、自分の得た経験から考えることが出来ているのも、この地域にそうしたものが、自然なカタチで残っているからであるとも云えるのである・・。
それはそれで貴重なことであり、たとえば、これが都心部であれば、当面での有用性が認められない多くは、古墳であれ神社であれ、再開発と称して潰してしまうか、ビルに収納してしまい、有名無実化してしまうのだろう・・。そして、その結果、自分の生の体験から歴史を考える(想像する)ことが出来なくなり、結果、興味を消失するか、減衰させてしまうのだろう・・。また、そうした土壌で教えられる学校科目の歴史に、どの程度の価値を見出すのかも、むべなるかなであろう・・。おそらく、物事は一見しただけでは分からないが、こうして違う場所から眺めてみると、それらの繋がりの仕組みのようなものが見えてくるか、その意味合いについての仮説を立てやすくなるのではないだろうか・・。
さて、車の方は道路左側のコンビニエンスストアの駐車場に入った。兄は後部座席に置いたリュックから財布を取り出し、また私の方も同様にして車外に出た。道路の右側は防砂林と云うのであろうか、おそらくは松科の樹木が植えられ、その先には砂浜そして海が広がっていた。
我々は少し遅くなった昼食をコンビニエンスストアで手早く済ませ、飲みかけのペットボトルを持ち、車に乗り込み、再度出発した。時刻は12:40頃であり。また兄曰く「もうあと少しで着くから。」とのことであったが、肝心の具体的な目的地については、何も情報がなかったが、まあ隠しておいた方が面白いというのであれば、それはそれで、私としても、乗っかった方が面白いというものである・・。
*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
~勉強会の御案内~
S浜を過ぎ、更に南下すると、いよいよ人家や店は疎らになり、また他方で、未だ冬であるにも関わらず、道路沿いの緑は多く、濃くなり、さらに首都圏では見ることのない、南方的な植物も目に入るようになってきた。
続けて、兄は運転しながら、地域のことを話してくれたが、それによると、S浜から少し南にT田川という川があり、その下流域が本州での銅鐸出土地の南限であり、また、おそらく、そこで出土した銅鐸の一つが現在、大英帝国博物館に収蔵・展示されている銅鐸と同一であろうとのことであった。明治当初、国の制度があまり整備されていなかった頃は、古くからの文化財が海外に流出していったと聞いているが、これもその一例であろう。とのことであった。
また、兄によると、ここ(T田川下流域)での出土銅鐸は、さきの道成寺でのハナシに出た、境内出土銅鐸と類似した後期大型の近畿式銅鐸であるとのことであったが、そうすると、おそらく、弥生時代当時(多分1・2世紀頃)においても、さきほどのH川流域とT田川流域には、共通した祭祀を行う文化が地域・地域に根付いていたと考えられるが、それが、具体的にどのようなものであったのかは、今となっては分かる術もないのだろうか・・?
あるいは、この2000年近くの時間を貫く「何か」(事であれ物であれ)をある程度明瞭に見出すことが出来れば、それを基軸として、遠い過去の祭祀の様子もどうにか想像出来るようになるのかもしれない・・。
などと、おそらくはごく短い時間であろうが、ボンヤリと考えていて、不図、周囲に意識を向けると、さらに車から見える景色は単純化しており、左に1月らしからぬ横溢とした自然と疎らに建つ家々、そして右側には、白波の立つ海といった様相を示していた。また、興味深かったのは、このあたりの地名全般が、首都圏の感覚では面白いものが多かったということである。おそらく、それら地名も大昔には、何らかの通じる意味を持っていたのだろうが、時代の経過に伴い、音だけが残り、その意味の方はボヤけてしまったのだろう・・。しかし、これも、おそらく研究によって、ある程度の意味は明らかになるのではなかろうかと思われた。他方、そのようなことを、自分の得た経験から考えることが出来ているのも、この地域にそうしたものが、自然なカタチで残っているからであるとも云えるのである・・。
それはそれで貴重なことであり、たとえば、これが都心部であれば、当面での有用性が認められない多くは、古墳であれ神社であれ、再開発と称して潰してしまうか、ビルに収納してしまい、有名無実化してしまうのだろう・・。そして、その結果、自分の生の体験から歴史を考える(想像する)ことが出来なくなり、結果、興味を消失するか、減衰させてしまうのだろう・・。また、そうした土壌で教えられる学校科目の歴史に、どの程度の価値を見出すのかも、むべなるかなであろう・・。おそらく、物事は一見しただけでは分からないが、こうして違う場所から眺めてみると、それらの繋がりの仕組みのようなものが見えてくるか、その意味合いについての仮説を立てやすくなるのではないだろうか・・。
さて、車の方は道路左側のコンビニエンスストアの駐車場に入った。兄は後部座席に置いたリュックから財布を取り出し、また私の方も同様にして車外に出た。道路の右側は防砂林と云うのであろうか、おそらくは松科の樹木が植えられ、その先には砂浜そして海が広がっていた。
我々は少し遅くなった昼食をコンビニエンスストアで手早く済ませ、飲みかけのペットボトルを持ち、車に乗り込み、再度出発した。時刻は12:40頃であり。また兄曰く「もうあと少しで着くから。」とのことであったが、肝心の具体的な目的地については、何も情報がなかったが、まあ隠しておいた方が面白いというのであれば、それはそれで、私としても、乗っかった方が面白いというものである・・。
*今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
祝新版発行決定!
ISBN978-4-263-46420-5
~勉強会の御案内~
歯科材料全般あるいは、いくつかの歯科材料に関する勉強会・講演会の開催を検討されていましたら、ご相談承ります。また、上記以外、他諸分野での研究室・法人・院内等の勉強会・特別講義のご相談も承ります。
~勉強会・特別講義 問合せ 連絡先メールアドレス~
conrad19762013@gmail.com
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どうぞよろしくお願いいたします!