株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」pp.311-315より抜粋
ISBN-10 : 4794204914
ISBN-13 : 978-4794204912
1890年、イタリアは列強のなかで最小のメンバーだったが、日本はまだその一員に数えられてもいなかった。何世紀ものあいだ、日本では各地に分立した封建領主(大名)と戦士階級(武士)による少数独裁政治がしかれてきた。天然資源に乏しく山地が多い地形であるために、耕作に適するのは国土のわずか20パーセントで、日本には経済発展に不可欠とされてきた条件がすべて欠けていた。日本語が複雑でほかによく似た言語がないことや、文化的な独自性を強く意識いたために、外の世界と隔絶していた日本は、もっぱら内側に目を向け、外国からの影響をこばみながら19世紀の後半を迎えた。こうしたことを考えると、日本は政治的には未成熟で、経済的にも立ち遅れ、世界の大国のなかで軍事的な重要性をもたない国であることを運命づけられていたようにみえる。しかし、数十年のうちに、日本は極東の国際政治において主役を演じるようになる。
1868年の明治維新に日本がこの変身をとげたのは、エリートたちが西側による支配と植民地化を避けようと決意していたためであった。そのころのアジアはどこでも西欧によつ植民地化が進んでゐたが、日本はこれに抵抗するために改革を断行し、封建秩序を打ちこわして武士階級の激しい抵抗を受けることも辞さなかった。日本が近代化しなければならなかったのは、個々の企業家が望んだからではなく、「国家」が近代化を必要としたからだったのである。当初の抵抗を粉砕してしまうと、日本はコルベールやフリードリッヒ大王も顔負けの統制経済を断行し、国家主導で近代化を進めた。プロイセン‐ドイツにならって新憲法が制定され、法律制度の改革も行われた。教育制度の大幅な拡充によって日本の識字率は比類のない高さになった。暦も変更された。衣服の習慣も改められた。近代的な銀行制度も発展した。英国海軍から専門家を招いて助言を求め、近代的な艦隊の創設に始まり、プロイセンの参謀将校が陸軍の近代化を手助けした。日本の軍人は西欧の陸軍士官学校や海軍士官学校に留学した。近代的な兵器が輸入されると同時に、国内の軍需産業の育成も行われた。国が先に立って鉄道網、電信、海運業の創設に努力し、台頭しつつあった企業家と力を合わせて鉄、鋼鉄、造船などの重工業を育て、繊維産業の近代化を促進した。政府の補助金は輸出を奨励し、海運業を促進し、新たな工業をつくりあげるために使われた。日本の輸出、とくに絹および繊維製品の輸出は急激に伸びた。こうした発展の陰には、富国強兵というスローガンを建製しようという強力な政治姿勢があった。日本人にとっては、経済力と陸軍力および海軍力は手をたずさえて伸びていくものだったのである。
だが、それには時間がかかり、いつまでも深刻な障害が残った。都市部の人口は1890年から1913年までに2倍に増えたが、耕作農民の数は変わらなかった。第一次世界大戦の直前でさえ、日本人の6割は農林水産業に従事しており、農業技術にかずかずの改良が加えられたにもかかわらず、山地の多い地形や小規模土地所有のために、たとえばイギリスのような「農業改革」は進まなかった。こうした「腰の重い」農業が基盤になったので、日本の潜在的な工業力や一人当たりの工業化水準は列強の最下位かそれに近かった(第14表、第17表くぉ参照)。1914年までの工業の伸びの大きさは、近代的なエネルギー消費律の急激な伸びと、世界の総生産に占めるシェアの増大にうかがえるか、ほかの領域ではまだ遅れていた。鉄と鉄鋼の産出量は少ないし、輸入への依存がきわめて大きかった。同じく、造船業が拡大していたものの、軍艦の一部は海外に発注していた。また資本の不足も深刻で、外国から多額の資金を借り入れなければならず、それでも工業や産業基盤の整備、軍事力の向上に投資する資金は充分ではなかった。経済的には非西欧諸国としては唯一、帝国主義のさかんな時代に産業革命を行うという奇跡をなしとげたが、それでもイギリス、アメリカ、ドイツとくらべれば工業面でも財政面でも見劣りは免れなかった。
しかし、さらに二つの要因が働いて、日本は列強の仲間入りをはたし、たとえばイタリアをしのぐほどになる。その第一は地理的に孤立していたことである。すぐ近くの大陸にあるのは滅びかけた帝国たる中国で、ほとんど脅威にはならなかった。そして中国や満州、それに挑戦(朝鮮の植民地化はかなりの不安の種だった)などが他の列強の手に落ちるにしても、日本はどの帝国よりもこれらの地域に近い。ロシアは1904年から5年にかけての戦いで6000マイルにわたる鉄道を利用し、苦心して軍隊に補給品を送ったときにこのことを知ったし、イギリスとアメリカの海軍はそれから数十年後、フィリピン、香港、マラヤに救援軍を送ったとき、平坦問題と取り組んで苦労することになる。東アジアでは日本が着実な成長をとげていたことを考えれば、他の大国が日本の進出を阻止することは至難のわざで、やがて日本がこの地域で支配力をふるうようになるのは当然といえよう。
第二の要因は、モラルである。日本人が文化的な独自性を強く意識し、天皇崇拝や国家にたいする畏敬の念が強く、軍人の名誉と尊厳にたいする武士的な気質がゆきわたり、規律と勇気が重視されていたことから、きわめて愛国的で犠牲をものともしない政治的風土が育まれた。それが一つの要因となって、拡張政策を追求して「大東亜共栄圏」を確立し、製品市場と原材料の供給地を確保すると同時に、戦略的な安全保障をはかろうという流れがさらに強まったというのは異論のないところだろう。この姿勢が明確になったのは、1894年に日本の陸海軍の対中国作戦が成功したときである。このとき、両国は朝鮮における権益をめぐって争い、陸と海の両方で、装備にすぐれた日本軍は勝利への意志を固めて突き進んでいった。戦後処理をめぐってロシア、フランス、ドイツの「三国干渉」の脅威にあって、日本政府はしぶしぶ旅順と遼東半島を返還した。このことで、日本政府は捲土重来の決意をいっそう固めただけだった。林男爵の次のような苦々しい決意に共感しない者は、日本政府のなかにはほとんどいなかったのだ。
新しい軍艦が必要ならば、われわれはどんな犠牲を払っても建造しなければならない。わが陸軍の組織が不備だというなら、ただちに改善にとりかかなければならない。必要なら軍事制度全体をも変更しなければならぬ…。
現在、日本は平静を保ち毅然として身を処し、外国から向けられた疑惑を晴らさなければならない。そして、そのあいだに国力の基本を固め、東洋に進出する機会を待つのだ。その機会はきっと到来する。その日がきたとき、日本は国としての運命を決することになるのだ…。(R・ストリィの引用による)
復讐のときは10年後にやってくる。朝鮮および満州にたいする日本の野心がロシアのツァーリのそれと衝突したのである。海軍の専門家は、東郷提督の艦隊がロシアの艦隊を対馬沖の日本海海戦で破ったことに感歎したが、他の人びとを驚かせたのは日本の行動そのものだった。旅順奇襲(1894年の日清戦争に始まり、1941年にふたたび採用された慣行)を西側は拍手をもって迎え、日本の国家主義者がいかなる犠牲も省みず徹底的な勝利を求める情熱にも感心した。それよりさらに驚異だったのは、旅順要塞の包囲戦と奉天の会戦における日本軍の将兵の戦いぶりだった。何万人もの犠牲を出しながら、地雷原を渡り、鉄条網を越え、機関銃の弾丸を浴びつつ突撃し、ロシアの塹壕を制したのである。サムライ精神を発揮して銃剣をふるえば、大量の武器が投入される近代戦においても勝利を獲得できるかにみえた。当時の軍事専門家が考えたとおり、モラルと規律が国力の充実に欠かせぬ必要条件だとすれば、日本にはこの資源が豊かにあったのである。
それでも、日本はまだ駆け出しの大国にすぎなかった。日本が戦った相手がさらに遅れた中国やツァーリのロシアだったことは幸運だった。ロシアの軍部は頭でっかちで、しかもペテルブルグと極東をへだてる広大な距離のために不利益をこうむっていたからである。さらに、1902年に日英同盟が締結されていたので、第三国の介入を恐れることなく地元で戦うことができた。日本海軍はイギリスで建造された軍艦が頼りだったし、陸軍ではクルップ製の大砲が主力だったのである。さらに重要なのは、多額の戦費を国内の資金だけではまかなえなかったが、アメリカやイギリスの金融市場で調達できたことだった。事実、1905年末にロシアとの和平交渉を進めていたとき、日本は破産の瀬戸際に立っていたのだ。この事実を、東京の市民は知らず、和平交渉がロシアに比較的有利に終わったと考えて怒りを燃やした。とはいえ、日本の勝利は確定し、軍部は栄光と賛美に包まれ、経済は回復することができた。そして(地域的なものであったにしろ)列強としての地位がどこからも認められるところとなり、日本は一人前になった。極東では、日本の反応を考慮することなくして、どんな行動に出ることもできなかった。だが、日本がさらに拡張政策をとっても、他の列強から横やりが入らないかどうか、それはまだ不明だったのである。