pp.203-205より抜粋
ISBN-10 : 4150504644
ISBN-13 : 978-4150504649
19世紀に日本がたどった制度発展の道筋からまたも明らかになるのは、決定的な岐路と、制度的浮動の小さな相違の生む小さな相違との相互作用だ。日本は中国と同じく絶対主義に支配されていた。徳川家はやはり国際貿易を禁じる封建体制を17世紀初頭に引き継ぎ、維持していた。日本もまた、西洋の干渉によって生じた決定的な岐路に直面した。1853年7月、マシュー・C・ペリー率いる四隻のアメリカ軍艦が江戸湾に入港し、アヘン戦争の際にイングランドが中国から勝ち取ったような貿易特権を要求した。だが、この決定的な岐路は日本ではまったく異なる役割を演じた。日本と中国は距離的に近く、頻繁な交流があったにもかかわらず、19世紀までに両国の制度はすでに隔たっていたのだ。
日本における徳川家の統治は絶対主義的で収奪的だったが、有力な藩主に対する支配力はわずかしかなく、挑戦を受けやすかった。中国では、農民の反乱や内戦があったにせよ、絶対主義はもっと強力だったし、敵対勢力の組織化や自治の程度は低かった。中国には藩主に当たる存在、つまり皇帝の絶対主義的支配に挑戦し、代わりとなる制度を推進できる者はいなかった。こうした制度上の相違は、中国や日本を西欧と分かつ相違と比べれば、多くの面で小さなものだった。しかし、イングランドや合衆国の武力を伴う出現によって生じた決定的な岐路に際しては、きわめて重要な影響力を持っていた。中国がアヘン戦争のあとも絶対主義の道を歩みつづけたのに対し、日本では合衆国の脅威のせいど徳川家の統治に対する反抗勢力が結束し、第10章で述べるように、明治維新という政治革命を引き起こしたのだ。
こうした政治革命のおかげで、日本では包括的な政治制度とさらに包括的な経済制度のもとで衰弱していったのである。
日本は根本的な制度改革のプロセスを始めることで、合衆国の軍艦による脅威に立ち向った。このことが、われわれを取り巻く情勢のもう一つの側面、つまり停滞から急成長への移行の理解を助けてくれる。韓国、台湾、最後に中国が、第二次世界大戦後に日本と同じような道をたどって猛スピードで経済成長を成し遂げた。これらのケースのいずれにおいても、成長に先立って各国の経済制度に歴史的な変化が起こっていたのだーもっとも、中国のケースで際立つように、必ずしも政治制度は変化しなかったのだが。
急成長の期間が突如として終わりを告げ、逆に衰退が始まるのはどうしてだろうか。そのメカニズムも重要だ。包括的制度への決定的なステップが急速な経済成長に火をつけるのと同じように、包括的制度からの急な離反は経済の停滞につながることがある。だが、急成長の行き詰まりは、アルゼンチンやソ連のケースのように、収奪的な制度のもとでの成長が終わった結果であることが多い。すでに見たように、これが起こる理由は次のどちらかだ。収奪の成果をめぐる内輪もめが政権の崩壊を招くこと、あるいは、収奪的制度のもとではイノヴェーションと創造的破壊が本質的に欠けているため、持続的な成長に限界があること。ソ連がこうした限界にぶつかった様子については、次章でより詳細に論じることにしよう。
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