2017年7月11日火曜日

20170711 観察された事実・知識の集積からより大きな思想へ至る方法とは・・?【書籍からの抜粋引用あり】

当たり前のことであるのかもしれませんが、我々日本人と欧米あるいは中東などの所謂一神教を奉じる人々との間の『宗教』あるいは『神』に対しての概念とは大きく異なるといえます。

我々日本人は古来より草木から川、山、動物、人間に至るまで、何かしら人々に畏れを抱かせるような働きを持つ事物に対して『迦微・神』(カミ)の字をあててきました。

地方に行きますと御神体が山であったり瀧であったりすることは割合一般的であることは周知のことと思います。

そして、現代の我々もまた、あまりそうした状況を不思議に思うことなく受け入れて過ごしていると云えます。

こうした神に対する考え方とは『汎霊説』(Animism)と称されるものであり、平たく云えば『すべてのものは神(霊)である』といったものであり、さらにこれを我が国特有の言い回しにしますと『八百万の神』となります。

そして、この『八百万の神』とは、冒頭に書いた『何かしら人々に畏れを抱かせるような働きを持つ事物』とも結び付くのですが、こうした神々に対する観念とは、欧米人に云わせると『原始的な宗教ともいえる自然崇拝に近い』となるのでしょうが、原始的であるかどうかはさておき(原始的なものが同時に(時代を通じ)普遍的であれば、それは決して原始的ばかりとはいえない)たしかに自然崇拝に近い感情を我々日本人は今なお保持しているといえます。

そして、そうした感情に基づいた思想とは決して閉鎖的ではなく、外来の事物の摂取に対して積極的でさえあるといえます。

また、おそらく我々はそうした(外来の事物の摂取)対象の一環として12月25日の神の御子の生誕祭もまた、ほぼ無意識ながら受け取っているのではないかとも思われます。

それが、起源の地でのそれとは異なる思想背景となっても、それはあまり考慮すべきことではなく、大事なことは、ただ『その神の御子の生誕を祝っている』といった『感情』あるいは『行い』そのものといったことになるのではないでしょうか・・?

しかし、であるからといって、それは決して否定されるべきものではなく、良い悪いを抜きにして、単に『そうした性質も持っている』ということであると考えます。

また、そうした文化土壌において培った性質とは(極めて)高度な観察力を要する視覚的・即物的な学問・研究においては有効であり、それが『理系立国としての我が国の近現代の基礎となる性質』であると云えるのではないでしょうか・・?

そして、そうしたことを念頭に置きつつ、あるいは応用しつつ、観察現象に対して精確にコトバを当て嵌めていき、何かしら普遍的な思想・考えといったものの構築を試みれば価値があるのではないかと考えるところなのですが、自身も含めて我々日本人とは、この段階がどうも苦手なのではないかと考えさせられます・・(苦笑)。

そして、ここまで書いていて不図思い起こされた書籍の記述を以下に抜粋引用しようと思います・・。

岩波書店刊 J.S ミル著 竹内一誠訳 『大学教育についてISBN-10: 4003910117
ISBN-13: 978-4003910115

『科学教育の価値は、人間本来の仕事に知性を適用させるための訓練あるいは鍛錬過程にあると理解する方がはるかに重要なのです。

事実はわれわれの知識の素材であり、他方、精神は知識を作り上げる道具です。

そして事実を集積する方が、事実から何が証明されるかを、あるいは、すでに知っている事実から知りたいと思う事実に達するにはどうしたらいいのかを判断するよりずっと簡単なのです。

一生を通じて人間の知性がもっとも活発に働き続けるのは、真理を探究するときです。

われわれは、絶えず、あるなんらかの事柄について何が本当に真実であるかを知る必要があります。

われわれと同世代の人々すべてにとってだけではなく、今後の世代の人々にとっても光明となるような偉大な普遍的真理の発見は、もとよりわれわれすべてのなしうることではありません。

しかし、一般教養教育が改善されれば、そのような発見をなしうる人の数は現在よりはるかに増大することでしょう。

とにかく、われわれすべては、重要な真理として提示されていて相対立する見解について正しい判断を下せる能力を身につけなければなりません。』

昨年から現在に至るまでに発生した一連の地震、大雨といった自然災害によって被害を被った地域の出来るだけ早い諸インフラの復旧、そして、その後の速やかな復興を祈念しています。











20170710 ネガティブなことがらの大きさが創造に与える影響について・・

昨日投稿分の記事もまた、これまでに作成した記事の中では平均的な閲覧者数でした。また、そのことから、自身は一種の安堵感らしきものを感じます・・。

それはつまり、こうしたネガティブなことがらを記事として書いても、あまり変な受け取られ方はしていないということであり、またそこから『この先も、もうしばらくは記事作成を継続しようといった』気持ちを生じさせてくれます。

とはいえ、昨日の記事を投稿して以来、今現在に至るまで著しく元気になったというわけでもありませんが同時に、以上のことから、その心境とは幾分かはマシになったのではないかとも思われます・・。

そして、それが継続し、ある程度の改善が為されたと感じられたら、今週中にでも応募書類の作成を再開したいと考えております・・。

さて、そういえば昨日投稿分の記事後半部において『継続的な文章の作成を行うためには、その前提として、ある程度の知識・思想の蓄積がなければ難しいのではないか?』といった意味のことを書きましたが、これはたしかに一理あるのではないかと考えます。

しかし、であるからといって、知識・思想さえ有していれば継続的な文章作成が出来るというわけでもなく、それに加えて何と言いますか、一種の感情・精神の【継続的な】発動あるいは気合いのようなものがなければ難しいのではないかとも考えます・・。

そして、この要素において、ネガティブなことがらより生じる精神の停滞、落ち込みといったものは文章の【継続的な】作成を妨げるものなのです・・。

そして、それは文章の作成のみならず創造的な活動全てに対しても当て嵌まり、そのことから、こうした要素【精神活性の程度・状態】とは、さまざまな『時代精神』あるいは『地域性』に対しても大きな影響を与えているといえ、さらには、こうした要素を抜きにして国、地域の歴史を生き生きと『物語る』ことは不可能ではなかろうかと考えます・・。

一方、『ネガティブなことがらを糧として創造の原動力にしているといった場合もあるのではないか?』といった意見もまたありますが、たしかにそうした要素【ネガティブなことがらと精神の発動・気合い】の内面での葛藤により創造的な行為を為されるということは、創造活動の一つの王道ではあると考えますが、そうしますと、ここで問題となるのはネガティブなことがらの『大きさ・程度』であり、それが感情・精神にとって大きすぎる、耐え難いものであれば創造の妨げとなり、一方慣れ得る程度のものであれば、それは内面での葛藤をひいては創造を駆動させる一つの要素ともなるということです。

その意味で昨今受け取った一連の公募での『選考もれ』の通知とは、自身のブログ記事作成を断念させるほどに大きなものではなかったものの、ある種自身を精神的にジリ貧、無気力な状態に追い込んでいたと評することが出来るのではないかと思われます。

そして、そうした状況を改善・打破するため、そうした状況自体を書こうとする試みとは、あるいは愚かではあるのかもしれませんが、同時にそうした試みとは、行ってみる価値はあるのではないかとも思われます・・。

現にそのことによって、一つのブログ記事は作成することが出来たようですし・・(笑)。

今回もまた、ここまで興味を持って読んでくださったみなさま、繰り返しになるかもしれませんが、どうもありがとうございます。

昨年より現在に至るまでに生じた一連の地震・大雨といった自然災害によって被災された地域での出来るだけ早期の諸インフラの復旧そして、その後の速やかな復興を祈念しています。