2026年5月31日日曜日

20260530 2471 記事に到達して思ったこと:引用記事の起源?

 直近の記事投稿により、総投稿記事数が2471に到達しました。そして残り30記事未満の投稿により、当面の目標としている2500記事まで到達することが出来ます。当ブログ開始当初の3年間は、ほぼ毎日1記事のペースで作成・投稿していましたが、そのためか当時は、毎日が眠かったことを記憶しています。これは、夜半に作成していたから眠かったのであるか、あるいは、たとえ眠くとも、作成していたのかは、現在となっては判然としませんが、いずれにしましても、当時の行為があったことから、現在も、どうにか、当ブログを継続することが出来ているのだとは云えます。それでも、投稿記事数が2400を超え、継続期間が11年近くになっても、未だ実感はなく、また同時に、文章作成に対する自信も乏しく、未だに毎回、綱渡りで作成しているような感覚があります。また、そうした感覚であっても継続出来ていること自体が実は驚くべきことであるのかもしれません…(苦笑)。また、去る5/25投稿『身体感覚と文献資料との記号接地の感覚について:南紀での記憶から』にて「ブログ記事の題材に困ることがあれば、南紀でのことを思い出して書けば良い」と述べましたが、たしかに、記事作成の際、地理関係の確認のため、グーグル・マップにて場所を確認していますと、その作業に付随して、また他の記憶も想起して、その要点をいくつかの単語や短い文章を下書きとして保存して、後日、それを見て、再度、その記憶を想起して、新たなブログ記事作成に繋がれば良いのですが、こうしたことは、毎度上手く行くわけではないようです…。それでも、以前に保存していた下書きを、久しぶりに開き、その続きを作成して、新たな記事作成が比較的スマートに出来ることも度々あります。それ故、こうした下書きは、出来るだけ作成しておいた方が良いと考えます。また、私見となりますが、このことは読書での犬耳(dog-ear)とも通じるものがあると考えます。以前より引用記事の投稿がしばらく続くことが度々あり、また、今後もあると思われますが、それらの引用記事は、まさに、さきの犬耳(dog-ear)のおかげで毎回比較的スムーズに選定して、作成することが出来ていると云えます。おそらく、引用記事のみの作成であれば、今後1~2年程度は、さらに継続することが出来るものと考えます。書籍からの引用記事は、元来、収入を企図しない当ブログにおいても考慮して、周囲の人文系の研究者の方々にご意見を伺い、現在のようなスタイルにしましたが、後に2020年からのエックス(当時はツイッター)との連携以降は、それまでに作成した引用記事を連繋して用いることが多くなり、また、その効果によって、より多くの引用書籍の購入に繋がれば良いと考えます。しかし、そのように考えてみますと、私の場合、社会人になっても読書する習慣を維持したからこそ、その後、大学院に進むことが出来、学位取得、そして、その後のいくつかの就職にも繋がったのだとも云えますので、あるいは、当ブログの本質・エッセンスとは、これまでの読書で興味深いと感じた著作・記述を開陳する目的で作成した引用記事であったのではないかとも思われるところです…。そして、この興味深い書籍・記述の開陳を実際に行っていた時期のはじめを想起しますと、それは、和歌山市在住の文系大学院生時代の頃であり、そのことも、以前にブログ記事題材にしていたことが思い出されました。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

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20260530 腸内細菌叢に関する資料をあたり思ったこと

 我々の身体の中には、もう一つの生態系とも云うべき腸内細菌叢が存在しています。これは単に食べ物を分解するだけの存在ではなく、免疫機能の調整、代謝の制御、慢性炎症の抑制など、全身の恒常性を支える重要な役割を担っています。こうした知見は、近年、腸内細菌叢の研究が急速に進展したことに因りますが、その背景には、次世代シーケンサー(NGS)の登場があります。これにより、従来の培養法では観察することが困難であった多くの腸内細菌をDNA配列から直接解析できるようになり、そこから、我々の腸内には想像をはるかに超える多様な細菌・微生物が共生していることが明らかになりました。そしてまた、この次世代シーケンサー(NGS)による技術革新は、人間を一つの生物として捉える従来の見方から、人間と微生物との共生体(ホロバイオント)として理解する新たな視点をもたらしました。
 こうした視点に基づき、昨今、欧米ではアッカーマンシア属(Akkermansia muciniphila)が「次世代の善玉菌」として注目を集めています。この菌は腸粘膜を覆うムチンを利用しながら生育し、腸管バリア機能の維持や代謝調節との関連が報告されています。一方で、他の研究からは、我々日本人では欧米人に比べてアッカーマンシア属の割合が低い傾向も報告されています。とはいえ、こうした腸内環境の違いから「我々日本人の腸内環境は欧米人よりも劣っている」と考えることは適切ではありません。むしろ、そこには長い歴史の中で形成されてきた食文化や生活環境への適応の結果として、それぞれ異なる特徴を持つ腸内細菌叢が形成されたのだと云えます。
 そして、こうした特徴の違いは、欧米社会における一神教的な世界観と、我々の社会における多神教的なそれに例えることが出来るのではないかと考えます。もちろん、実際の腸内細菌叢は極めて複雑であり、単一の菌が全体を支配しているわけではありません。しかし、欧米の研究では、アッカーマンシア属のような特定の有益菌が腸粘膜の恒常性維持に重要な役割を果たしていることが多数報告されています。言い換えますと、比較的目立つ中心的な存在がいる構図として理解することが出来ると考えます。
 これに対し、我々日本人の伝統的な食生活には、海藻、野菜、豆類などの食物繊維や、味噌、納豆、漬物などの発酵食品が数多く存在します。こうした環境では、プレボテラ属をはじめとする多糖類分解菌や、海藻由来成分を利用できる菌群など、多様な細菌がそれぞれの役割を担いながら相互に代謝産物をやり取りし、その結果として短鎖脂肪酸の産生や腸管環境の維持に寄与しています。そのため、我々日本人の腸内細菌叢は、特定の菌種のみが突出して機能するというよりも、多様な菌群が相互に補完しながら働く「分散型」の生態系として理解することが出来るのではないかと考えます。また、こうした様様は、まさに「八百万の神々」が、それぞれ固有の役割を担いながらも全体として均衡を保つ、多層的で柔軟な秩序にも通じるように思われます。
 そして、こうした腸内細菌叢の特徴や傾向を考える上で、近年注目されているのが「口腸連関(oral-gut axis)」です。お口は単なる食物の通り道ではありません。毎日大量の細菌が腸へと送り込まれる消化管の最初の入り口です。そのため、口腔内環境が乱れてしまうと、本来は口腔内に留まるべき細菌が消化管へと流入し、腸内細菌叢や全身の炎症状態に影響を及ぼす可能性があると指摘されています。
 特に歯周病関連菌として知られるフソバクテリウム・ヌクレアタム(Fusobacterium nucleatum)は、近年、大腸がんや炎症性疾患との関連が世界中で研究されています。この菌が直接病気を引き起こす原因であると断定することは出来ませんが、腸内の炎症環境に関与する可能性が示されており、腸内生態系のバランスを乱す要因の一つとして注目されています。
 そして、先述しました我々日本人の多様性のある腸内細菌叢は、多くの菌が協力しながら機能することで安定性を保っています。そのため、お口から炎症性細菌が継続的に流入する状況が続きますと、その細菌叢のバランスに少なからぬ影響を与える可能性があります。また逆に云えば、お口の健康が維持されていれば、腸は余計な炎症刺激にさらされにくくなります。もちろん、お口の健康管理だけで腸内環境の全てが決まるわけではありません。しかし、お口の健康を維持することは、健康な腸内細菌叢を支える一つの要因であるとは云えるでしょう。
 このように、腸内細菌叢における民族あるいは個人での特徴の相違は、単に医学的なものだけではなく、長い歴史の中で形成された食文化や生活習慣の違いを反映した、生態系そのものの個性を示すのではないかと考えられます。そこから、昨今流行の「菌活」と称してサプリメントなどで特定の菌を補おうとするだけでなく、お口から腸までを一つの連続した生態系として捉える視点を得ることも重要ではないかと思われます。
 我々日本人は、しばしば古来土着の神道における「八百万の神々」という言葉を用いますが、そうした世界観とは、あるいは思想や宗教観といった観念的なものとして存在するだけではなく、我々の身体そのものの中に、腸内細菌叢として微細ながらも物理的な存在として刻み込まれているのかもしれません。
 ともあれ、少なくとも近年の腸内細菌叢の研究が示しているのは、我々人間は決して単独で生きる存在ではなく、無数の他者との共生の上に成立しているという事実であるとは云えます。
 そしてまた、そのように考えてみますと、我が国の歴史において、古来からの神々による世界観の上に、当時、外来思想であった仏教が受容され、普及を図られたこととも関連性があるようにも思われてきます。「聖徳太子」として後世知られる厩戸皇子等が主導して制定した「十七条憲法」は、外来の仏教を新たな「国是」として掲げました。これは、それまでの古墳時代から続いて分権的であったヤマト王権から、中央集権的な律令国家にする宣言であったと云えます。また同時に、その憲法の第一条に「和を以て貴しと為す」が据えられていることも大変興味深いと云えます。それは、外来の思想を国是としつつも、既存の世界観を排除するのではなく、むしろ、それらを含め、大きな「和」と云うシステムに包摂、共生を目指した柔軟性のあるグランドデザインであったと考えられるからです。もちろん、当時の十七条憲法の制定者等が、腸内細菌叢の存在を知っていたはずはありません。
 しかし同時に、近年、最先端の生命科学が示す前出の「共生(ホロバイオント)」とは、我々の先祖が歴史を通じて経験的に培ってきた世界観とも、どこか通底するものがあるように思われます。そして、そのように考えますと「和を以て貴しと為す」という憲法冒頭もまた、単に政治的理念や道徳律としてだけでなく、多様な存在が互いを活かしながら、一つの系(システム)として調和するための普遍的な知恵として、現代の我々に新たな意味を投げかけているようにも思われますが、さて、実際のところはどうなのでしょうか?そして、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。


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2026年5月26日火曜日

20260525 身体感覚と文献資料との記号接地の感覚について:南紀での記憶から

 既に2カ月近く前のことにはなりますが、ここ10年以上定例となっている、半年毎の和歌山市訪問の際、紀伊田辺まで足を延ばし、わずか2時間ほどの滞在ではありましたが、其処で大変懐かしい感じを受けました。紀伊田辺駅近くの街並みの様子は、かつて私が隣の南紀白浜(西牟婁郡白浜町)に在住していた頃と比べ、明らかに寂れてはいましたが、それでも街は息づいており、その雰囲気も以前と同様であるように感じられました。
 こうした感覚を覚えつつ、駅前通りを扇ヶ浜方面に歩いていますと、内からの思い付きであるのか、あるいは、外からの啓示であるのか「ブログ記事の作成に困ることがあれば、南紀でのことを思い出せば、いくらでも書けるだろう。」という言葉が生じました。もちろん、それは実際の声として聞こえるものではありませんが、心の中で、そうした主張が自然と生じたのです。
 こうしたことは、度々あるわけではなく、また、何らかの感興が湧いた際に随伴して生じるものでもないようですが、それでも何度か、そのような経験があったことは記憶しています。そして、こうした内面での思い付きや啓示のようなものは、当ブログでも以前、記事題材として述べましたが、どうしたわけか、南紀白浜在住の時期に集中しています。
 一つは、大雨のなか、夕刻過ぎに富田川沿いの国道311号線を中辺路方面へ自動車で走行していた際、ヘッドライトが正面道路上に大きなカエルを照らし出したため、自動車を道脇へ寄せて停車し、ハザードランプを点灯させて、懐中電灯を手に車外に出て、カエルを照らしました。すると、それが異様なほど大きく感じられ、さらに「ここから先へは行くな」との、先ほど述べたような思い付き、あるいは啓示のような感覚を覚えたため、すぐに来た道を引き返したことがありました。
 二つめは、休日に自転車で、JR白浜駅方面から県道にて峠を越え、上富田町へ入り、さらに直進して富田川を渡り、庄川という地区へ入り、さらに進みますと、徐々に人家が疎らとなり、富田川の支流である庄川の流れが、小橋を渡るたび左右に変わりつつ、なおも自転車を走らせますと、庄川の流れがほぼ真正面を横切る場所に架かる小橋の左側に、河の神様でもある弁天様を祀る祠があり、その辺りで、先ほどのカエルの時とはまた異なる、これは言葉にならない畏怖の感情を覚えたため、そこから先へは進まずに引き返したことがありました。
 その後、同地域の大学院に進みましたが、其処でも、このことが気になり、大学図書館にて資料をあたっていますと、かつて、この地域で行われていた雨乞い祭祀についての記述を見つけました。
 この特徴的な雨乞い祭祀は、当地域だけでなく、少し北のみなべ寄りの田辺地域(芳養)、さらに北の日高川流域においても類似した祭祀を確認することが出来ました。そこから、これは一つの村落などの小規模単位ではなく、ある程度広域的な共同体で行われた祭祀、つまり、地域全体が旱魃という危機へ直面した際に実施された雨乞い祭祀であったものと考えられます。

現在、手元にある資料での記述は以下の通りです。

株式会社角川書店刊『日本民俗誌大系』全12巻 第4巻 近畿 p.201より抜粋
『北富田村庄川奥に牛屋谷(一に牛鬼谷)という滝あり、滝の奥に洞窟あり主住むという。昔、主を怒らしたため一万余の材木を洞窟に取り込まれ行き先知れず、それだけ洞窟の深さはかられずという。旱魃の時ここに雨を祈り、いかにしても雨降らぬ時は牛の首をこの滝壺に投ず、さすればその穢(けが)れを清むるためにたちまち雨降ると伝えられ、現に大正二年大旱魃の時、牛の首を投げ入れた。』

この雨乞い祭祀についての記述は、他の複数の文献資料にも確認することが出来ました。ともあれ、当時の私にとって、こうした文献資料の発見は衝撃的なものであり、いわば、かつて自らが感じた身体感覚と、文献資料とが繋がる感覚であったと云えます。あるいは、こうした現象も一種の「記号接地」であったのかもしれません。
 そうしたことから、私は地域での雨乞い祭祀を基軸として、地域性について考察することにしました。そして、そのようにして研究を進めていきますと、この雨乞い祭祀が、どのような経緯、経路で当地域に伝播したのかという疑問に至りました。
 その際、以前に何となく読んでいた『日本国現報善悪霊異記』(『日本霊異記』)の内容が、不意に思い出されました。しかし後になり考えてみますと、このように、かつて何となく読んでいた書籍を後年、必要とされる場面において想起されるということは、当時においては、それなりに運の良いことであったのではないかと思われます。
 あるいは、人工知能が広く実装された社会において、我々人間は、こうした曖昧で断片的な過去の記憶を、その都度の必要性に応じて、自らの力で想起させる必要性そのものが徐々に失われていくのかもしれません。その結果として、人間側のそうした能力自体も、少しずつ退化していく可能性があるのではないかとも思われました…。
 ともあれ、この『日本国現報善悪霊異記』(『日本霊異記』)において興味深い、関連性があると思われた説話につきましては、また別の機会に述べさせて頂きたく思います。
 そして最後に、改めて南紀在住時代の記憶を掘り起こしてみますと、たしかに、まだそれなりに文章化することが出来そうなものが残されているようにも感じられましたが、実際のところは、どうなのでしょうか…。
 また、人工知能を援用せず文章を作成することは、当初のうちは、それなりにしんどさを伴うものではありましたが、徐々に、自らの記憶と文語化とのギアが噛み合い始めますと、むしろ次第に捗るようになり、そしてまた、それなりに楽しくもなってくるようです…。ともあれ、今回もまた、ここまでお読み頂き、どうもありがとうございます。


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2026年5月22日金曜日

20260521 スマートフォン時代での紙の読書に意味について:

 現代を生きる我々は、これまでの歴史のなかで最も多く、文字や文章に接して生きているのではないでしょうか。街中の景色はもちろんのこと、スマートフォンを開けば、ニュース、SNS、動画、広告などで、無数の解説や情報を容易に見つけることが出来ます。かつてであれば、大学や図書館へ行かなければ知り得なかった専門的な情報に、誰もが瞬時にアクセス出来るようになったことは、人類の科学技術史における画期的な進化であると云えます。
 しかし、こうした利便性の高まりの一方で、現在の我が国社会全般からは、ある種の絶望感にも通じる強い疲労感が感じられます。そして私は、この社会に漂う疲労感こそが、さきに述べた文字や文章を取り巻く環境の激変と、深く関連しているのではないかと考えます。有史以来、最も多くの人々が文章を読むことが出来て、さらに、多くの文字情報に接しているにも関わらず、不思議なことに、社会を生きる人々の思索や思想などは必ずしも活性化されていません。それどころか、我々の思考は以前よりも短いものへと断片化され、その内容の方も浅薄化しているのではないかと思われます。
 これは、単純に「昔の方が良かった」と過去を美化したいのではありません。デジタル技術がもたらした情報の民主化それ自体は、大きな意味を持つ進歩です。しかしその一方で、そうした新しい情報環境が、それを受け取る側である我々の思考のあり方や、脳の認知構造そのものを変えているのではないかという懸念があるのです。
 パソコンであれスマートフォンであれ、スクリーン上の文字は、スクロール操作により次々と画面から流れ去っていきます。そして、そのような環境で日常的に文章を読むことに慣れていきますと、人間は、ある程度の長さと論理的構成を持つ文章を、一つの有機的な繋がりを持った全体として認識することが徐々に困難になっていくのではないかと考えます。
 こうしたスクリーン上での文章の読み方において重視されるのは、全体を熟読することではなく、自分に必要なキーワードを素早く拾い集める能力です。そこでは、我々の脳は深い理解や知性の発達を促すモードではなく、効率性を最優先した「流し読む」状態へと自動的に切り替わります。そして、この状態の変化は、単なる文章の読み方の違いに留まらず、もっと深いところで、人間の認識の本質や世界観そのものにまで影響を及ぼすのではないかとも考えられるのです。
 これまでの人類の知的営み、あるいは大半の科学研究は、「見えているもの」の背後にある「見えない構造」を読み解こうとする情熱により支えられてきたと云えます。たとえば、映画であれば、画面に映る俳優の演技を追うだけではなく、その背後にある監督の演出意図や時代背景を読む。社会現象の分析であれば、表面的な出来事に一喜一憂するのではなく、その奥にある権力構造や制度、歴史的経緯を考える。つまり「すぐ目の前にある分かりやすいもの」に飛びつくのではなく、その内奥にある本質を想像し、考えることこそが、知性の重要な役割であると信じられてきました。
 ところが近年の情報環境では、この「背後を読む」という極めて人間的な行為が、著しく困難になりつつあるのではないかと思われます。特にSNS空間においては、情報は「深く読む対象」というより、むしろ「触れて瞬時に反応する対象」として現れます。タイムラインをスクロールし、直感的にタップし、拡散し、短い感想を述べる。そこでは、その瞬間ごとの感情的快楽や反応速度ばかりが優先され、一度立ち止まって、その情報の真偽や背景をじっくりと考える時間は失われやすい環境にあります。
 さらに深刻であるのは、アルゴリズムの存在です。デジタル空間では、自分にとって心地よい情報や、既に最適化された言説ばかりが次々と提示されてきます。その結果、我々は大量の情報を浴びながらも、実際には他者の思考のコピーを消費しているだけになり、自分自身でゆっくりと考えることが出来なくなっているのではないでしょうか。
 本来、知性とは、単に知識を多く所有していることを意味しません。外から得た情報を一度、自らで咀嚼し、既存の知識と突き合わせながら、自分なりに組み替えて再構成すること。その往復運動の過程で初めて「自分はこれをどう考えるのか」という問いが生まれるのだと考えます。そして、その過程を経て、我々は、少しずつ自らの思想や考えを形成していくのだと考えます。そして、そのためには、どうしても効率性とは対極と云える「立ち止まる時間」が必要になります。
 そして、そうした内省的な営為を支えるものの一つが、冒頭で述べました文章のあり方とも繋がる「紙の書籍」ではないかと考えます。紙の書籍を開くと、そこには文字が流れ去るスクロールはありません。手には頁の紙の厚みがあり、視界には余白があり、文章は印刷された位置に留まっています。我々は自分のペースで読み進め、気になった一文があれば自由に立ち止まり、いつでも前の頁に戻ることも出来ます。これは決して単なる懐古趣味やデジタル嫌悪ではなく「自分で考える」という精神的行為を物質的に支える極めて重要な身体的環境であると云えます。
 紙の本を読んでいる時、我々は単にインクで刷られた文字を目で追っているだけではありません。行間を読み、文脈の起伏を感じ取り、あえて書かれていない著者の思想や沈黙を想像しています。そこでは「見えるもの」の背後にある「見えないもの」へと、人間の意識が自然と向かっていきます。
 情報が絶え間なく流れ続け、その速度により、社会全体が疲弊している現代だからこそ、時にはスクリーンから距離を置き一冊の本を開いてみる。その時間は、コスパ・タイパという意味では遠回りであるかもしれませんが、スクロールにより流れ消えていく言葉を消費し続けるだけの状態から抜け出し、自らの思考を取り戻すためには、そうした遠回りこそが必要ではないでしょうか?
 そして、おそらく今後の社会では「素早く反応する能力」だけではなく、「遅く深く考える能力」が、むしろ希少な知性として再び価値を持ち始めるのではないかと思われます。大量の情報を処理することは、やがて人工知能により代替されていくと思われます。しかし、立ち止まり、矛盾を考え、行間を読み、背後にある構造を想像しつつ、自らの言葉として思考を形成することは、最後まで人間にしか出来ない知的行為として残り続けるのではないかと考えます。
 流れていく言葉に即座に反応するのではなく、一度立ち止まり、言葉を理解して、自らの言葉で再び言語化する読書の時間を、これからの時代にこそ、日常のどこかで意識的に持つことが、さらに重要になってくるのではないかと思われます。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。



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2026年5月20日水曜日

20260519 メタ的視座について :『宮台式人類学』を読みつつ思ったこと

 ここ最近の首都圏は、初夏を思わせるような陽気の良い日が続き、また、それに伴い読書の方もそれなりに進み、何冊か読了に至りました。そうした一冊である、ちくま新書の宮台真司・奥野克巳両先生による「宮台式人類学」は、ここ最近では、かなり時間をかけつつ読み進めましたが、読了に至ってもなお、よく分からない部分が多いことから、その後も続けて再読しています。
 ともあれ、その一度目の読後感は、前作「制服少女たちの選択 完全版 After30 Years」とはまた異なる「没入による理解」の様相が述べられているように感じられました。両著作共に対象への没入に基づいて論じている点では共通していますが「宮台式人類学」の方が、よりメタな視座から、我々人類の普遍的な部分の構造を述べようと試みているところに知的な新鮮さがあり、大変興味深く感じられました。
 さて、近年、何らかの事物の説明に際し「メタ的」あるいは「俯瞰的」といった言葉を耳にする機会が増えました。一般的には、それらは対象の観察あるいは、相対化の際に用いられるのだと思われます。しかし、本来的には、対象に深く入り込み(没入して)、その内部を充分に経験した上で、そこから一歩引き、その構造を捉え直そうとする動きのなかに本来の意味での「メタ的理解」が生じるのではないかと考えます。
 そして、このことは思想用語としての「即自」と「対自」とも通底するものがあるように思われるのです。つまり、人は何かに深く没入している時、自らを意識する感覚は一時的に薄れます。仕事や読書、研究などに集中している時、我々は「対象そのもの」に没入しているのであり、それは即自的状態であると云えます。
 しかしまた、その没入した経験を後で振り返り「何故、自分はそれほど没入していたのか」「そこでは何を考えていたのか」と、その経験を俯瞰的に再考することが出来ます。そして、そこではじめて、「対自化」すなわち自己を対象として捉え返す視座が生じるのではないかと考えます。
 ここで興味深いのは、この「没入」と振り返ってからの「俯瞰的視座」との往還を繰り返すことにより、我々は単なる経験や記憶を超えて、その背後にある構造そのものを理解し始めることが出来るのではないかと云うことです。そのため、若い時分には、ただ経験として受け止めていたことも、年月を経て振り返ることにより「何故あの時代に、あのような事物が存在したのか」「何故、人々はそのように振る舞ったのか」といった、より大きな社会的・歴史的構造として見え始めることがあるのだと考えます。
 そしておそらく、優れた文学や思想あるいは研究なども、この往還運動の過程から生まれてきたのではないかと考えます。他方、抽象的な理論をいくら積み重ねても、そこには人間存在の感覚は乏しいと云えます。そしてまた逆に、経験や、そこで生じた感情だけに埋没してしまえば、それは多くの場合、一過性の表現で終わってしまいます。それ故、双方を往復し続ける過程の中で、初めて、個人的経験が普遍性へと接続される契機が生じるのではないかと考えます。
 その意味で、前述「宮台式人類学」は、既存の人類学や社会学をテーマとした新書とは、かなり異なる著作であるようにも感じられました。当著作では、現代社会のさまざまな現象を、その前提にまで遡ろうと試み、それは、現在の社会制度や価値観などを所与の絶対的なものとして扱うのではなく「そもそも人間の共同体とは何か?」「近代とは何であったのか?」という地点にまで一度遡り、そして、そこで得られた視座から、あらためて考えようとする試みであると思われます。
 そして、そのような考え方は、おそらく、短い時間で消費出来るものではありません。むしろ、一度読んでも理解出来ない部分が残り、時間を置いて再読し、その度に少しずつ見え方が変化していくような性質があると思われます。
 近年は、出来るだけ多くの情報を素早く処理することが重視されがちです。しかし他方で、本来の読書とは、こうした「分からなさ」を抱え、繰り返し没入を試みつつ、理解を深めようとする行為でもあると考えます。その意味で、当著作は大変優れたものであると思われました。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。



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2026年5月18日月曜日

20260517 株式会社日経BP刊 武見敬三著「繁栄か、衰退か 活力ある健康長寿社会を創る」 pp.41‐47より抜粋

株式会社日経BP刊 武見敬三著「繁栄か、衰退か 活力ある健康長寿社会を創る」
pp.41‐47より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4296207784
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4296207787

岐路に立つ日本の未来、活力ある社会をつくる政策を
 今後想定される人口動態からは、2つの未来が考えられるでしょう。まず、何も手を打たなければこうなるという自然的な未来で、衰退していく社会が1つです。そしてもう1つは、社会生物学的にも経済的にも活力を持続させるような政策をつくり、繁栄する社会です。
 これから待ち受ける危機を考えると、過去からの延長線上に未来をつくり上げるという、これまでのフォーキャスティング型の政策では、もはや立ちゆかないのは明白です。そうではなく、大胆に将来のあるべき姿を定め、その目標から逆算して必要な政策と行動計画を立案・遂行する「バックキャスティング型」の政策形成が重要です。
 先手を打てば未来は変えられます。この考えにも、父の影響は色濃いかもしれません。父が1976年に発表した「未来からの反射」という概念があります。未来の設計図を描き、そこから現代と比較して足りない部分を確認して補う、という考え方です。過去からの延長線上ではなく、あるべき未来の姿からの反射で学び、行動するという教えです。父の受け売りですが、私はこれを実践しています。

2030年代の危機を乗り切る4つの柱
 私が考える2030年代の危機を乗り切るための柱は、大きく4つあります。
1:医療DXの推進
 1つ目は「医療DX(デジタルトランスフォーメーション)」です。医療のデジタル化、システム化を徹底的に進めなければなりません。デジタル化とデータベースに基づいて新たな制度を設計し、より効率的なシステムをつくるのです。生成AI(人工知能)なども駆使しつつ、人が担っている業務を医療DXで置き換えていくことが必要です。とはいえ、医療・介護は人でなければできない部分も多いのは事実です。人でなければできない部分は2030年代でも持続可能な形でできるよう、どう仕組みを設計するか、かつできる限り人をかけずにやれるようにしていくことが必要でしょう。

2:女性の活躍
 2つ目は「女性の活躍」です。今や医学部生の約4割が女性という時代です。2022年の女性医師の割合も23.6%と年々上昇しています(厚生労働省「2022年医師・歯科医師・薬剤師統計」)。この分野で働く女性を、男女共同で育て、支援していく。男性中心だった職場カルチャーを変えることも必要です。

3:高齢者が社会参加できる仕組みづくり
 3つ目が、健康寿命の延伸による「高齢者が社会参加できる仕組みづくり」です。国民の
健康増進が、各自が長く元気に暮らしていく上で重要であることは言うまでもありません。それのみならず、健康寿命の延伸は、前述した働き手不足の問題に対する解決の一助にもなります。
 元気な高齢者が社会参画し、60~75歳で働く意欲・能力のある方々に活躍していただければ、より明るい未来が期待できます。高齢者自身が希望すれば、より積極的に働けるように社会を制度設計し、かつ所得も確保できるようにする必要があります。
 そのためには、現在の年金制度のように、「収入が高いと年金は出せない」といった制度設計では、これからの時代にはそぐわないでしょう。年金も雇用制度も、元気な高齢者が働きやすいものに組み替えていく必要があります。もちろん働きやすい環境をつくったり、高齢者が仕事をしやすいようにムダな仕事を減らして標準化するといった生産性向上も急務です。前述の医療DXの推進なども生産性向上や働きやすい環境づくりと関係してきます。
 健康増進のためには国民の健康リテラシーの向上を図る必要もあるでしょう。「自分の健康は自分で守る」という意識を持って、必要な知識を身につけ、行動を変容させていくのです。医師や薬剤師などからのアドバイスを受けながら、体調を崩さない生活習慣を心がけたり、また軽度な不調であれば、薬局やドラッグストアなどで医師の処方箋がなくても購入で
きるOTC医薬品(一般用医薬品)を服用して重症化を防いだりなど、「セルフメディケーション」の考え方も重要になってきます。
 私の母校である慶應義塾大学を創設した福沢諭吉は、「一身独立して一国独立す」という言葉を残しました。一人ひとりが独立した人間であって初めて、国として独立できるという教えです。この考えと全く同じです。自立した個人が社会の中で増えていけばいくほど、社会全体の健康度は確実に改善され、健康寿命のさらなる延伸につながっていくでしょう。

4:外国人労働者の活用
 ここまで取り組んでも、国内の力だけでは足りないところは2030年代には厳然として残ります。保健・医療・介護の分野は間違いなくそうでしょう。そこで4番目の柱となるのが「外国人労働者の活用」です。日本で外国人労働者に活躍してもらう仕組みをつくる必要があります。
 これは日本の医療・介護などの国内需要を支えるためだけではありません。先ほども触れましたが、将来的には日本の後を追う形で、インドネシアやフィリピン、ベトナムなどが高齢社会を迎えます。そのときに、日本で働く外国人人材が将来の自国の医療・介護政策を担う根幹の人材になるのです。いわば人材を日本で養成し、グローバルに還流する仕組みをつくる形で、日本と世界の両方にとって有益です。
 既に介護の分野で活躍する外国人は少なくありません。介護福祉士養成施設における留学生の割合は、2024年度で入学者全体の46.7%に達しています(日本介護福祉士養成施設協会)。養成施設は留学生を受け入れることで、カリキュラムの多言語化などを進めるとともに、組織風土も多様性を受け入れる方向に変わっていったと聞いています。
 医療でも私は厚労大臣時代、大学医学部を対象として、2025年度から返還義務のない給付型の奨学金を提供する奨学金制度を創設しました。アジア地域の留学生を中心に受け入れ、医学部教育の中でグローバル化を実現していく取り組みです。
 日本での在留外国人は年々増加しています。出入国在留管理庁の報告によると、22024年6月時点の在留外国人数は358万8956人で、過去最高となっています。日本人が外国人を受け入れる際には、日本固有の文化や社会規範に対する理解を求めるのは当然のこととして、彼らの文化などにも心を配り、双方が地域社会の中で共に生きていくことが望ましいことは言うまでもありません。しかし、デジタル化などを活用し、外国人労働者の制度管理を徹底しつつ、安心で安全といわれる日本社会を守る万全の準備を進める必要もあるのです。2030年代に外国人嫌いが広がり、排斥感情が日本政治の大混乱の原因となるようにしてはいけないのです。

試練を乗り越え、世界の高齢化に道を示す日本に
 日本は医療・介護における「最大の試練」を必ず乗り越えます。その解決の後に、健康・高齢化社会への対応を世界に提示するのが、国際社会における日本の役割です。日本がソフトパワーを示せる分野は、マンガや日本食、コスプレだけではありません。保健・医療・介護も日本のソフトパワーとして十分なポテンシャルがあると私は確信しています。
 司馬遼太郎は歴史小説『坂の上の雲』で、明治維新を経て近代国家として歩み始め、日露戦争勝利に至るまでの日本の姿を描きました。当時の日本は若く、「西洋に追いつけ、追い越せ」という空気だったでしょう。
 しかし、今は違います。2030年代の日本のあるべき姿、これからの日本の国家目標は何か。それは高齢化という世界共通の課題にいち早く対応した社会のあり方を示し、各国のモデルとなる活力のある健康長寿社会をつくることです。

2026年5月14日木曜日

20260514「フィルターとしての私」と知性

 我々は日々、会話、SNS、PC・スマホ、テレビ、書籍などからの膨大な情報に接して生きています。これらから得られる情報は、意識しなければ、そのまま通り過ぎていきます。こうして、ただ情報を得ている状態は、いわば情報の「消費」に留まっている状態であると云えます。そして、そこには知性はあまり関与していません。では、知性が情報に関与するとは、どういうことでしょうか?それは、端的に、ある情報に触れた時に「私はこれをどう認識するのか?」と云う、能動的な問いが自然に生じる状態であると考えます。そして、ここで重要であるのか「フィルターとしての私」です。我々は皆、普段、同じ世界を見ているようでいながら、実際には異なるものを見ています。ある人は数字に目を向け、ある人は歴史的な背景を読み取り、またある人は自らの感覚に注目します。こうした差異は、単に知識量の違いではなく、それぞれの人が積み重ねてきた経験や思索の蓄積によって形成された「ものの見方の癖」によるものと云えます。つまり、読んだ本、出会った人、繰り返してきた習慣や鍛錬が、幾層にも重なり、その人独自ののフィルターを形成するのです。そうした意味から知性とは、まず、この自分なりのフィルターを持ち、そして、それを通して世界に「引っかかり」を見出すことから始まるのだと考えます。そして次に、その引っかかりを「解釈」へと進める段階があります。ここでの解釈とは、ただ意味を付与することではなく、与えられた事実に対して問いを深めていく営為であると云えます。具体例を挙げますと「地方大学の多くで受験生が減少している」という情報に接したとき、「少子化だから仕方がない」と結論づけて終わるのは、さきの情報の消費にすぎません。しかし「何故、少子化とはいえ地方大学から先に受験生の深刻な減少が生じるのか?」そして「地方で大学が減少すると、どのような変化が社会に生じるのか?」といった問いを重ねていきますと、そこから、また新たな意味の連関が惹起されます。これは、バラバラの情報を単に並べるのではなく、それらを結びつけて、自分しか見えないような構造を見出す作業であると云えます。換言しますと、点と点を結び付け、自分なりの星座を見出すような営みと云えるのではないでしょうか?そして最後に、その解釈を「言語化する」という段階に至ります。そして、この段階、過程こそが知性の核心であると云えます。なぜならば、我々は言語化にしない限り、自らが何を考えているのか精確に把握することが出来ないからです。頭の中で「理解したつもり」になっている状態は、多くの場合、曖昧なまま放置されている状態です。それを口語なり文語なり言語化してはじめて、その論理の飛躍や前提の曖昧さなどが露わになります。そして、この時に初めて、自らの思考が試され、磨かれるのだと考えます。言語化することは、単に他者に伝えるための行為ではなく、自らの考えを明晰化するための不可欠な過程なのです。さらに重要であるのは、自分の言葉で言語化することは責任が伴うという点です。既存の正解をなぞるだけであれば、安全であり、批判を受けることも少ないです。しかし、そこには「自分」が存在しません。一方で、自分のフィルターを通して解釈を言語化することは、「私はこのように世界を見ている」と表明することです。それは誤りを含む可能性もありますが、そのリスクを引き受けた言葉だけが、他者にとって新たな視点となり得ます。ここにおいて、知性とは単なる能力ではなく、一つの態度、あるいは覚悟となります。以上のことを踏まえますと、知性とは「ただ情報を蓄積すること」ではなく、「世界を一度自分の中で咀嚼し、再構成して表現する力」であると整理することが出来るのではないでしょうか?料理にたとえますと、材料を集めることが知性ではなくて、それをどのように調理し、どのような料理にするかに本質があると考えます。同じ材料であっても、料理人によって全く異なる料理が生まれるように、同じ世界を前にしても、人によりその意味は異なります。その差こそが知性の相違であると考えます。そして、この営みは一度きりのものではなく、反復により鍛えられていきます。考え、言語化し、表現して、また考え直す。この循環を繰り返すことにより、フィルターはより精緻なもなものとなり、解釈はより深まり、言葉はより明晰になっていきます。そこから、知性とは、瞬間的なひらめきではなく、むしろ、この循環、反復のなかで徐々に考えが形成されていくメカニズムであると云えるのではないでしょうか。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。


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2026年5月13日水曜日

20260512 調べものという習慣:引用記事から科学的文章作成への連関

 ここ最近、続けて書籍からの引用記事を作成・投稿してきましたが、そのおかげもあり、これまでの総投稿記事数は2460を超えました。引用記事の作成は、それなりに楽しい部分があるため、一旦始めますと継続することが出来るのですが、そればかり続けていますと、徐々に精神が変容するのか、あるいは精神の他の部分が主張を始めるのか、こうした自らによる文章の作成をしたくなります。

 さて、こうした自発的な文章作成は、以前にも述べましたとおり、2015年より現在まで当ブログにて(どうにか)継続しており、また、そのおかげもあってか、現在は当ブログ以外においても定期的に執筆の機会を頂いております。そこで作成する文章は、当ブログにて作成するものと比較して、さらに科学的要素が強いと云えます。それは基本的な文章の作成方法が異なるからであり、科学的要素が相対的に乏しいと云える当ブログでは、執筆中に書籍などを用いた調べものをすることは多くありません。しかし、もう一つのより科学的な文章の方では、その都度、調べものや確認をしつつ作成するといった進め方であり、こちらは、勉強にもなり、また時には当ブログでの新たな記事作成の材料にもなります。それ故、こうした文章作成の機会があることは、大変にありがたいことであると云えます。

 つまり現在の私は、当ブログでの文章作成、より科学的な内容での文章作成、そして先に述べました引用記事の作成という、三つの方法を使い分けていることになります。さて、さきに引用記事の作成には楽しさがあると述べましたが、その楽しさとは、書籍の頁を開き文章をキーボードで入力し、その言葉が画面上に顕われるのを見て、そこで用いられている単語などの意味を改めて調べたくなるような楽しさです。

 そのようにして一記事作成しますと、当ブログでの執筆と比較しても同程度の疲労感がありますが、この引用記事作成での「調べものをする習慣」があったからこそ、新たな科学的要素の強い文章作成も出来るようになったのではないかと考えます。

 それぞれにある種のやりがいはあるのですが、私の文章作成の原点はあくまで当ブログであり、ここでの継続、そして2020年以来のエックス(旧ツイッター)との連携により、当ブログ自体も性質が多少変わり、以前よりも、さらに読まれることを意識して記事を作成するようになったと云えます。これまでの継続と幾たびかの環境の変化を経て、新たな文章作成の方法を知りましたが、やはり、それらは単独ではなく、組み合わせと繰り返しによって、身体化されるもののようです。そのため、上達の感覚こそ乏しいですが、2022年の人工知能の社会実装以来、これを用いて新たな文章作成を当ブログとは関係なく試み続けてきたことで、どうにかそれも使えるようにになってきたのではないかと思われます。

 ともあれ、今後もまたしばらく引用記事の投稿が続くでしょうが、私個人としては、その間も当ブログとは別に文章を作成していますので、大きな能力の低下はないと考えております。しかし、時にはこうした「息継ぎ」のように、自らによる文章作成を行うことも、大変良い刺激になることが分かりました。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。


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