ここ最近の首都圏は、初夏を思わせるような陽気の良い日が続き、また、それに伴い読書の方もそれなりに進み、何冊か読了に至りました。そうした一冊である、ちくま新書の宮台真司・奥野克巳両先生による「宮台式人類学」は、ここ最近では、かなり時間をかけつつ読み進めましたが、読了に至ってもなお、よく分からない部分が多いことから、その後も続けて再読しています。
ともあれ、その一度目の読後感は、前作「制服少女たちの選択 完全版 After30 Years」とはまた異なる「没入による理解」の様相が述べられているように感じられました。両著作共に対象への没入に基づいて論じている点では共通していますが「宮台式人類学」の方が、よりメタな視座から、我々人類の普遍的な部分の構造を述べようと試みているところに知的な新鮮さがあり、大変興味深く感じられました。
さて、近年、何らかの事物の説明に際し「メタ的」あるいは「俯瞰的」といった言葉を耳にする機会が増えました。一般的には、それらは対象の観察あるいは、相対化の際に用いられるのだと思われます。しかし、本来的には、対象に深く入り込み(没入して)、その内部を充分に経験した上で、そこから一歩引き、その構造を捉え直そうとする動きのなかに本来の意味での「メタ的理解」が生じるのではないかと考えます。
そして、このことは思想用語としての「即自」と「対自」とも通底するものがあるように思われるのです。つまり、人は何かに深く没入している時、自らを意識する感覚は一時的に薄れます。仕事や読書、研究などに集中している時、我々は「対象そのもの」に没入しているのであり、それは即自的状態であると云えます。
しかしまた、その没入した経験を後で振り返り「何故、自分はそれほど没入していたのか」「そこでは何を考えていたのか」と、その経験を俯瞰的に再考することが出来ます。そして、そこではじめて、「対自化」すなわち自己を対象として捉え返す視座が生じるのではないかと考えます。
ここで興味深いのは、この「没入」と振り返ってからの「俯瞰的視座」との往還を繰り返すことにより、我々は単なる経験や記憶を超えて、その背後にある構造そのものを理解し始めることが出来るのではないかと云うことです。そのため、若い時分には、ただ経験として受け止めていたことも、年月を経て振り返ることにより「何故あの時代に、あのような事物が存在したのか」「何故、人々はそのように振る舞ったのか」といった、より大きな社会的・歴史的構造として見え始めることがあるのだと考えます。
そしておそらく、優れた文学や思想あるいは研究なども、この往還運動の過程から生まれてきたのではないかと考えます。他方、抽象的な理論をいくら積み重ねても、そこには人間存在の感覚は乏しいと云えます。そしてまた逆に、経験や、そこで生じた感情だけに埋没してしまえば、それは多くの場合、一過性の表現で終わってしまいます。それ故、双方を往復し続ける過程の中で、初めて、個人的経験が普遍性へと接続される契機が生じるのではないかと考えます。
その意味で、前述「宮台式人類学」は、既存の人類学や社会学をテーマとした新書とは、かなり異なる著作であるようにも感じられました。当著作では、現代社会のさまざまな現象を、その前提にまで遡ろうと試み、それは、現在の社会制度や価値観などを所与の絶対的なものとして扱うのではなく「そもそも人間の共同体とは何か?」「近代とは何であったのか?」という地点にまで一度遡り、そして、そこで得られた視座から、あらためて考えようとする試みであると思われます。
そして、そのような考え方は、おそらく、短い時間で消費出来るものではありません。むしろ、一度読んでも理解出来ない部分が残り、時間を置いて再読し、その度に少しずつ見え方が変化していくような性質があると思われます。
近年は、出来るだけ多くの情報を素早く処理することが重視されがちです。しかし他方で、本来の読書とは、こうした「分からなさ」を抱え、繰り返し没入を試みつつ、理解を深めようとする行為でもあると考えます。その意味で、当著作は大変優れたものであると思われました。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

ともあれ、その一度目の読後感は、前作「制服少女たちの選択 完全版 After30 Years」とはまた異なる「没入による理解」の様相が述べられているように感じられました。両著作共に対象への没入に基づいて論じている点では共通していますが「宮台式人類学」の方が、よりメタな視座から、我々人類の普遍的な部分の構造を述べようと試みているところに知的な新鮮さがあり、大変興味深く感じられました。
さて、近年、何らかの事物の説明に際し「メタ的」あるいは「俯瞰的」といった言葉を耳にする機会が増えました。一般的には、それらは対象の観察あるいは、相対化の際に用いられるのだと思われます。しかし、本来的には、対象に深く入り込み(没入して)、その内部を充分に経験した上で、そこから一歩引き、その構造を捉え直そうとする動きのなかに本来の意味での「メタ的理解」が生じるのではないかと考えます。
そして、このことは思想用語としての「即自」と「対自」とも通底するものがあるように思われるのです。つまり、人は何かに深く没入している時、自らを意識する感覚は一時的に薄れます。仕事や読書、研究などに集中している時、我々は「対象そのもの」に没入しているのであり、それは即自的状態であると云えます。
しかしまた、その没入した経験を後で振り返り「何故、自分はそれほど没入していたのか」「そこでは何を考えていたのか」と、その経験を俯瞰的に再考することが出来ます。そして、そこではじめて、「対自化」すなわち自己を対象として捉え返す視座が生じるのではないかと考えます。
ここで興味深いのは、この「没入」と振り返ってからの「俯瞰的視座」との往還を繰り返すことにより、我々は単なる経験や記憶を超えて、その背後にある構造そのものを理解し始めることが出来るのではないかと云うことです。そのため、若い時分には、ただ経験として受け止めていたことも、年月を経て振り返ることにより「何故あの時代に、あのような事物が存在したのか」「何故、人々はそのように振る舞ったのか」といった、より大きな社会的・歴史的構造として見え始めることがあるのだと考えます。
そしておそらく、優れた文学や思想あるいは研究なども、この往還運動の過程から生まれてきたのではないかと考えます。他方、抽象的な理論をいくら積み重ねても、そこには人間存在の感覚は乏しいと云えます。そしてまた逆に、経験や、そこで生じた感情だけに埋没してしまえば、それは多くの場合、一過性の表現で終わってしまいます。それ故、双方を往復し続ける過程の中で、初めて、個人的経験が普遍性へと接続される契機が生じるのではないかと考えます。
その意味で、前述「宮台式人類学」は、既存の人類学や社会学をテーマとした新書とは、かなり異なる著作であるようにも感じられました。当著作では、現代社会のさまざまな現象を、その前提にまで遡ろうと試み、それは、現在の社会制度や価値観などを所与の絶対的なものとして扱うのではなく「そもそも人間の共同体とは何か?」「近代とは何であったのか?」という地点にまで一度遡り、そして、そこで得られた視座から、あらためて考えようとする試みであると思われます。
そして、そのような考え方は、おそらく、短い時間で消費出来るものではありません。むしろ、一度読んでも理解出来ない部分が残り、時間を置いて再読し、その度に少しずつ見え方が変化していくような性質があると思われます。
近年は、出来るだけ多くの情報を素早く処理することが重視されがちです。しかし他方で、本来の読書とは、こうした「分からなさ」を抱え、繰り返し没入を試みつつ、理解を深めようとする行為でもあると考えます。その意味で、当著作は大変優れたものであると思われました。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
ISBN978-4-263-46420-5
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