2021年10月8日金曜日

20211008 株式会社光文社刊 大西巨人著「神聖喜劇」第一巻 pp.244-246より抜粋

 株式会社光文社刊 大西巨人著「神聖喜劇」第一巻

pp.244-246より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4334733433
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4334733438

われわれは、教育期間中に数回、堀江隊長の精神訓話を聞かされた。その精神訓話は、すべて「勅諭」の無味乾燥な祖述、月なみな忠君愛国説話であった。「一つの誠心」という語句が、たいそう彼の気に入っていて、精神訓話のおりにも、そのほかのおりにも、彼は、バカの一つ覚えのようにその語句を反復力説していた。この「一つの誠心」の出典もまた「勅諭」であって、そこには「右の五カ条ハ軍人たらんもの暫も忽にすべからず。さてこれを行ハむには一つの誠心こそ大切なれ。抑此五カ条ハ我軍人の精神にして一つの誠心ハ五カ条の精神なり。」と書かれていた。

 ある日の精神訓話中、めずらしいことに堀江隊長は、「君がためいのち死にきと世の人に語り継ぎてよ峯の松風」という和歌一首を感慨無量の朗詠調で引用してから、「この歌を作ったのは誰か。答えられる兵は、手を挙げよ。」と求めた。しばらく誰も手を挙げなかったが、さらに堀江隊長が「誰もおらないのか。誰かおるだろう?」とうながしたあと、やがて谷村「帝大出」二等兵が、名告り出て、「「万葉集」の大伴家持であります」と臆面もなく言明し、堀江隊長は、「む、そのとおり「万葉集」、尊王攘夷の忠臣の歌じゃ。」とこれまた臆面もなく谷村の答えを確認した。幕末の一志士が残したその短歌に多少の愛着を持っていた私は、ひとしお彼らの問答が愉快でなかった。

 こういうふうに、堀江隊長の精神訓話は、くだらなかった。しかし、ただ一つだけ、第一回の精神訓話において、彼が開口一番「軍人は死してのち「おのれ」である」と引導を渡すように断定したのを、私は肝に銘じた。彼は、その後の精神訓話時にも何度かおなじ言葉を口に出したけれども、それに直接の注釈を加えようとはしなかった。私は、彼の低級陳腐な精神訓話一般中で特別例外的に神妙独自なその警句の意味をあれこれと思案し、結局それを「没我」とか「滅私」とかにかかわらせて解釈した。・・・(義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽しと覚悟せよ。」とは「勅諭」の説くところである。軍人には「私」も「おのれ」も存在するべきではない、軍人は死んでのち初めて「自己」を問題にすることができる、軍人は生きている限り滅私無欲の忠節を尽くさねばならない、-そういう内容に、彼は、「死してのち「おのれ」」という非凡な詩人表現を与えたのであろう。・・・私は、それでもまだちょっと変な気がしながらも、そのように無理納得をしていた。

 私は長い間だまされていたのであった。そのうち私は、堀江隊長がわれわれ以前の入隊兵たちにも年来その文句を授けてきたという事実を(神山、村崎その他から)おいおい聞き知ってもいた。ところが、教育期間の後半、三月二日(月曜)の精神訓話時に、堀江隊長は、その警抜な金言をみずから訂正した。「いつぞや隊長が「軍人は死してのち「おのれ」である。」といったのは隊長のあやまりであったから、ここに訂正する。あれは「軍人は死してのちやむである。」と言うほうが正しい。いいか。」と堀江隊長は、いかめしく宣言したのである。堀江隊長は、ただ「死してのち已む。」ないし「死而後已。」の「已」を「己」と取り違えていたに過ぎなかったのである。かつて彼は、書物の中か何かで、その文句を見たのでもあったろうか(私は、「曾子曰ク、士ハ以テ弘毅ナラザルベカラズ、任重クシテ道遠シ、仁以テ己ガ任ト為ス、亦重カラズヤ、死シテ後已ム、亦遠カラズヤ。」を思い出したが、堀江隊長が「論語」を読んだ、とは私に信ぜられなかった)。その時期どういう内情が彼の長年の蒙を啓いたのか、私は知り得なかった。その無知無学の所産からまんまと一杯食わせられていた私自身も、なにしろ好い面の皮であったのであろう。

20211007 本日の書店での立読みと物色から思ったこと・・

10月に入り首都圏もさらに秋めいてきましたが、本日は久しぶりに都心の大型書店に出向き、しばし、立読みを伴う書籍の物色をしてきました。そうしたなか、偶然に面白そうな書籍を手に取り見つけた時は、現在でも気分が高揚するものであり、そしてまた、それは何と云いますか、その時の自分の心持ちによって(気分が高揚する)対象となる書籍の種類が変わることから、果てが見つからず、また、どうも飽きがこないようにも思われるのです・・。

ともあれ、考えてみますと、私はこの行動をこれまでに、どのくらいの期間続けてきたのでしょうか・・?それはおそらく、本格的に書籍を読むようになった大学院修士課程の頃からであると思われますので15年程度になると云えます。

そして、この行動はその後、何処に住んでいようとも、あまり変化することはなく、また、地域によっては、大規模書店に出向くことが、それなりの距離の散歩にもなっていたことから、この立読みを伴う書籍の物色は運動ともなって、心身の健康にも幾分かは寄与したのだと云えます。

くわえて、本日に関しては、スマートフォンを自宅に忘れて出て来てしまったため、久しぶりに、スマホの検索機能に頼らず、手にした書籍の情報を入手する必要性が生じましたが、大変面白いことに、検索機能に頼らず、自ら頁を広げ、その書籍の吟味をしている時の方が、得られる充実感は大きいと感じられました。

そういえば、当ブログをはじめた2015年の頃、私はスマホを所持しておらず、そしてまた、当ブログの過去の複数記事にて、スマホの危険性を述べていたことがありましたが、たしかにそれは、少なくとも全面的な間違いではなく、また、ある程度普遍的なことであるようにも思われました。そしてまた、その感覚を受けたあとに電車に乗り、車両内を眺めてみますと、目に付く乗客の半分程度がスマホ画面を見ていることに、ある種の驚きをもって気が付かされるのです・・。

とはいえ、おそらく、そうした機器をより多くの人が持つことによって、社会全体にとって有益なことも少なからず生じるとは思われるものの、他方で、さきの述べたような、ある種の情報の入手、および能動的な価値判断のもとになる「感覚」の知覚ついては、その機能を退化、減衰させるような性質もまた、あるように思われるのです・・。

そうして、これまでのスマホを用いた書籍情報の入手の仕方が、それ以前と比べて安逸であり、あまり感覚に訴えないものになってしまっていたことを悟るわけですが、それでも、今後もやはり、必要であれば、スマホの機能を用いるものと思われます。しかし、その頻度などを意識して出来るだけ変えて行きたいとも思いました。我々には、ある道具の使用法に慣れますと、それに馴染んでやがては始終使うようになるといった性質(福沢諭吉の云う「惑溺」にも近いものであるのでしょうか?)もあると思われますので、こうしたことをあらためて考えることにも意味があるのではないかと思われました。

しかし、以前にスマホの危険性を述べておきながら、その本人が数年後には、そうした状態に普通に浸かっていることは、恐ろしくもありますが、同時に何だか滑稽にも思われます・・。

今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
順天堂大学保健医療学部


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ISBN978-4-263-46420-5

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