そのため、現在となっては、他の考えが浮かんできたり、他の記述などを思い出さない方が純粋に読書を楽しんでいるようにすら感じられます。そして、そうした読書の仕方が可能であるのは、おそらく、全く見知らぬ領域・分野での読書の時であろうと思われますが、これはこれで、言葉や用語、言い回しなどに慣れるまで読み込むのが大変であり、また、どうにかそれらに慣れてきた頃になりますと、今度は、そのある程度慣れてきた言語、言い回しの世界から生じてくる考え、他の記述などが想起されるようになり、その時点で既に純粋な楽しみとしての読書は出来なくなっているようにも思われるのです・・(苦笑)。
いや、しかし、そもそも読書というものは、純粋に現在読んでいる書籍だけを楽しむというよりも、読者の過去の、さまざまな読書経験と、現在、生じつつある読書経験が内面にて化合し、反応することにより、何か新たなものが生まれることに、その「楽しみ」といったものがあるのではないかとも思われるのです。
そこから、やはり、冒頭に述べた、半ば無意識ながらの参照的とも云える活動こそが、読書をより楽しく、また、深みのあるものにしてくれているのだと思われてくるわけですが、他方で、そこからの分野的な広がり、展開がないというもまた、面白くありませんので、時には全く知らない分野の書籍を読んでみたくなるところですが、まさに、この時点においての読む書籍の選択が、かなり重要であるのではないかと私は考えます。
つまり、自分がそれまである程度慣れ親しんだ要素がないと、徐々に読み続けるのが苦しくなり、他方で、未知の領域としての記述が文中にある程度ないと、それは既定の読書路線からの展開や広がりといった新たな要素はなく、その意味においては「つまらない」と云えます・・。
そして、そうした状況において比較的選択し易いと思われるのが、何であれ「歴史」を扱ったものであると思われます。如何なるものであれ、そこに至るまでには歴史的経緯があり、そして、それを土台として現在の状況が成立していると云えますので、既知の分野から未知の分野への、読書のはじめの分岐点あるいは乗換え場所として適当であるのは「歴史」ではないでしょうか?
また、当初、既知と思われていた「歴史」についてを扱った書籍を読み進めていますと次第に、あまり知らない領域に入っていることが度々ありますが、しかし、そうであっても、当初の既知の要素との比較により、相対的な理解は一応担保されていることから「全く知らない」という状態とは異なることから、多くの場合、そこを基点として、どうにか読み進めることが出来ると云えます。そして、そこから、なおも読み進めて行きますと、次第に当初の「あまり知らない」という状態が多少変化していることに気が付くということもあるのではないでしょうか・・。
そして、そうしたところにも、歴史のみならず、さまざまな人文社会科学系諸学問のナマモノである人間の精神に対する価値といったものがあるように思われますが、さて如何でしょうか?
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