一方、九月から十一月にかけて、ノモンハン事件の責任を明らかにするための人事異動が行なわれ、中央部では参謀本部次長、第一部長が予備役にまわされ、関東軍では軍司令官、参謀長が予備役に編入され、第二三師団では師団長がいったん関東軍司令部付となった後、予備役に入った。
また参謀本部第二課長、関東軍参謀副長、第一課全作戦参謀、重傷を受けた第二三参謀長が更迭された。
新しい幕僚の人選はできるだけ大本営勤務の経験者または堅実な者を選び、事件後関東軍の独断的行動は少なくなったといわれている。
大本営の稲田作戦課長は、新参謀次長の問いに対して、中央部がその意思を関東軍に強要しなかったのは、従来の悪習を踏襲したものであり、統帥上の大失策であった。
また関東軍中央と対等の観念を持ち、中央からの連絡を無視したことも満州事変以来の悪習であり、断固改革しなければならない、統帥の要は人にあり、関東軍をコントロールするには適正な人事が必要で、首脳部の更迭を実行すべきである、との意見を述べている。
一一月には中央部は、関東軍関係者と中央部が任命する委員より成る「ノモンハン事件研究委員会」を設置し、ノモンハン事件の再検討を始めた。
研究討議の結果は、低水準にある日本軍の火力戦闘能力を飛躍的に向上させる必要がある、というものであったが、一方、物的戦力の優勢な敵に対して勝利を収めるためには、日本軍伝統の精神威力をますます拡充すべきである、とも述べていた。
日中戦争の初期、小畑敏四郎中将は、日本軍が中国軍相手の戦争ばかり続けていると、戦術が粗雑になり下手になると心配し、囲碁をする者が下手とばかり手合わせをすると手が落ちるのと同じだ、といったことがある。
当時の関東軍は、満州国の内政指導権が関東軍司令官に与えられていることを理由に、しばしば政治に干渉し、満人官吏の任免や土建業者の入札にまで関与していた。
対ソ戦争の準備に専念すべき各地の師団も政治経済の指導に熱中し、また治安維持のために兵力を分散配置し、対ソ訓練はほとんど行われなかったといわれる。当時の関東軍の一師団に対する検閲後の講評は、「統率訓練は外面の粉飾を事として内容充実せず、上下徒に巧言令色に流れて、実戦即応の準備を欠く、その戦力は支那軍にも劣るものあり」というものであった。
日中戦争の初期、小畑敏四郎中将は、日本軍が中国軍相手の戦争ばかり続けていると、戦術が粗雑になり下手になると心配し、囲碁をする者が下手とばかり手合わせをすると手が落ちるのと同じだ、といったことがある。
当時の関東軍は、満州国の内政指導権が関東軍司令官に与えられていることを理由に、しばしば政治に干渉し、満人官吏の任免や土建業者の入札にまで関与していた。
対ソ戦争の準備に専念すべき各地の師団も政治経済の指導に熱中し、また治安維持のために兵力を分散配置し、対ソ訓練はほとんど行われなかったといわれる。当時の関東軍の一師団に対する検閲後の講評は、「統率訓練は外面の粉飾を事として内容充実せず、上下徒に巧言令色に流れて、実戦即応の準備を欠く、その戦力は支那軍にも劣るものあり」というものであった。
また関東軍の作戦練習では、まったく勝ち目のないような戦況になっても、日本軍のみが持つとされた精神力と統帥指揮能力の優越といった無形的戦力によって勝利を得るという、いわば神懸り的な指導で終わることがつねであった。
ノモンハン事件は日本軍に近代戦の実態を余すところなく示したが、大兵力、大火力、大物量主義をとる敵に対して、日本軍はなすすべを知らず、敵情不明のまま用兵規模の測定を誤り、いたずらに後手に回って兵力逐次使用の誤りを繰り返した。情報機関の欠陥と過度の精神主義により、敵を知らず、己を知らず、大敵を侮っていたのである。
また統帥上も中央と現地の意思疎通は円滑を欠き、意見が対立すると、つねに積極策を主張するん幕僚が向こうに意気荒く慎重論を押し切り、上司もこれを許したことが失敗の大きな原因であった。なお日本軍を圧倒したソ連第一集団軍司令官ジューコフはスターリンの問いに対して、日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である、と評価していた。一方辻政信はソ連軍について、薄ノロと侮ったソ連軍は驚くほど急速に兵器と戦法を改良し、量において、運用において日本軍を凌駕した、革命軍の大きな特色というべきであろう、と述べている。満州支配機関としての関東軍は、その機能をよく果たし、またその目的のためには高度に進化した組織であった。しかし統治機関として高度で適応した軍隊であるがゆえに、戦闘という軍隊本来の任務に直面し、しかも対等ないしはそれ以上の敵としてのソ連軍との戦いというまったく新しい環境に置かれたとき、関東軍の首脳部は混乱し、方向を見失って自壊作用を起したのである。中国侵略そしてその植民地的支配の過程で、日本軍の戦闘機関としての組織的合理化は妨げられ、逆にさまざまな側面において退化現象を示しつつあった。このような退化現象を起しつつあった日本軍の側面を初めて劇的な形で示したのが、ノモンハン事件であった。
「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」
「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」
ISBN-10: 4122018331
ISBN-13: 978-4122018334
戸部良一
寺本義也
鎌田伸一
杉之尾孝生
村井友秀
野中郁次郎
ノモンハン事件は日本軍に近代戦の実態を余すところなく示したが、大兵力、大火力、大物量主義をとる敵に対して、日本軍はなすすべを知らず、敵情不明のまま用兵規模の測定を誤り、いたずらに後手に回って兵力逐次使用の誤りを繰り返した。情報機関の欠陥と過度の精神主義により、敵を知らず、己を知らず、大敵を侮っていたのである。
また統帥上も中央と現地の意思疎通は円滑を欠き、意見が対立すると、つねに積極策を主張するん幕僚が向こうに意気荒く慎重論を押し切り、上司もこれを許したことが失敗の大きな原因であった。なお日本軍を圧倒したソ連第一集団軍司令官ジューコフはスターリンの問いに対して、日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である、と評価していた。一方辻政信はソ連軍について、薄ノロと侮ったソ連軍は驚くほど急速に兵器と戦法を改良し、量において、運用において日本軍を凌駕した、革命軍の大きな特色というべきであろう、と述べている。満州支配機関としての関東軍は、その機能をよく果たし、またその目的のためには高度に進化した組織であった。しかし統治機関として高度で適応した軍隊であるがゆえに、戦闘という軍隊本来の任務に直面し、しかも対等ないしはそれ以上の敵としてのソ連軍との戦いというまったく新しい環境に置かれたとき、関東軍の首脳部は混乱し、方向を見失って自壊作用を起したのである。中国侵略そしてその植民地的支配の過程で、日本軍の戦闘機関としての組織的合理化は妨げられ、逆にさまざまな側面において退化現象を示しつつあった。このような退化現象を起しつつあった日本軍の側面を初めて劇的な形で示したのが、ノモンハン事件であった。
「失敗の本質 日本軍の組織論的研究」
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ISBN-10: 4122018331
ISBN-13: 978-4122018334
戸部良一
寺本義也
鎌田伸一
杉之尾孝生
村井友秀
野中郁次郎