2015年9月22日火曜日

宮崎市定著「アジア史概説」中央公論社刊pp.417-419より抜粋

ヨーロッパにおいても、西アジア、中国においても、古代的統一体を破った中世史の開幕は、異民族の侵入とともに始まる。日本の場合は、異民族ではないが、武士の勃興という事実のなかに、これとははなはだ類似した性格を見出すことができるのである。

武士は東国を中心として全国的に起きた新興勢力であるが、武士社会は京都朝廷にとって、下層社会というよりもむしろ異質的な存在といった方が適当なものであった。

唐制の衣服をまとった朝廷文化の地方への浸透は、日本の国情に適合せず、外延的にも内包的にもある限度があって、その限度外には多くの異質的なものが、畿内といわず辺境といわず、多量に残されていたのであるが、ことに東国にそれが多かったのである。

この場合武家の指導者である源氏平氏も、皇室から血統を引いているという系図は問題にならない。源氏は普通に清和天皇の子孫となっているが、頼信の告文によれば陽成天皇の末裔ということになって、結局その系図には仮託があるのではないかという疑問がある。

もし系図が確かであったとしても彼等は皇室の血を引くものとして京都文化の担当者として出現したのではなく、武家の棟梁という資格において登場したのであった。
そして京都方では、東国武士をよぶのに東夷をもってし、感情の上でもほとんどこれを夷狄扱いしていたのである。

頼朝の鎌倉幕府創立は大きな革命であった。それはたんに藤原氏に代わって源氏が実権を掌握したというだけでなく、また政権が京都を離れて鎌倉に移ったというだけでもない。
政治の方針および実情がこれに伴って大回転を行ったからである。

奈良朝、平安朝の政治は、それが実際の障害によって理想どおり実現しなかったとはいえ、その根本方針は中央集権を目標とし、地方を画一的な型式にあてはめていく中国流の郡県制度があった。この中央集権はとくに財政上に強調され、平安朝の幣政は、過度に地方の財力が地方に吸収されて、それが中央の貴族の奢侈生活に消費される点にあった。

租税が過重であるために地方の開発が立ちすくんでいたのである。

鎌倉幕府はこの点において、地方の財力は、地方に蓄積して、土地の開発をはかる方針をとった。幕府の御家人である武士は地方において所領としての荘園を安堵され、つとめて新田を開拓して資源開発を行ったのである。こうして武家権力の地盤が、地方武士の農耕地にあったため、幕府のもっとも重要な政治は土地訴訟の裁判にあった。

平安朝の政治はその根本となる律令格式をはじめ、辞令も公文書も漢文で書かれていた。

しかし鎌倉幕府の政治は日本語による政治であった。たとえその公文書が、京都文化崇拝の残滓を残して、極度に仮名を嫌い、漢字づくめで書かれているとはいえ、その法制も、あるいは「東鑑」のような記録も、明らかに国語で書き取られているのである。

世界の他の地域における中世は、多くの場合、夷狄による古代文化の蹂躙から始まっているが、日本の場合は、それが固有日本の復活をもって始まっている点に著しい特色がある。

源家三代実朝の和歌が、はるかに万葉の格調を継承し、鎌倉時代の彫刻やその他の美術が、繊細な平安朝の貴族的色彩を抜け出して、むしろ奈良朝あるいはさらにさかのぼった飛鳥時代の豪放なおもかげをしのばせるのは、偶然のことではない。

宮崎市定著「アジア史概説」中央公論社
宮崎市定著「アジア史概説」中央公論社
宮崎市定
河内源氏
河内源氏 - 頼朝を生んだ武士本流 (中公新書)

宮崎市定著 礪波護編「東西交渉史論」中央公論社刊pp.61-67より抜粋

人類の文化の進化はその経過の間に、幾つかの新しい文化の層(Schicht)を造っては重ねてきた。その最も有力なものは言語の層である。

然るに言語の伝統はあまりにも古く、従って派生し固定した種類はあまりにも多種多様であり、もし之を幾つかの語系に大別して見ても、それを以って直ちに歴史的地域区分とすることは出来ない。

言語の成立した時期があまりにも古いということは、言語史の年代は、文化の進歩した社会を対象とする歴史学の取り扱う年代とは、余りに懸け離れてずれていることを意味する。

言語の壁の後に出来たものは文字の層である。この文字の層はその起源が相当古いにも拘らず、それがユーラシア大陸の略々全部を蔽うまで成長するには長年月を要した。

故にこの層の広がりは時間による傾斜が甚だしい。例えば埃及バビロニアで右から文字、或いは左から文字が成立したのは西紀前20世紀の古代であるに対し、雲南の土着民族の文字が成立したのは西紀後16世紀前後のことに属する。

併し、こんな不均衡が存在するにも拘らず、この文字の排列法が、歴史地域区分法に有力な支持を与えることが出来るのは決して偶然ではない。

何となればこの文字の層の拡がってゆく30数世紀の間が、正しく歴史学の取り扱う時期と一致するからである。

そしてこの時代は既に文化の相当に進歩した時代である、進歩した文化が次々に未開の地域を征服してゆく時代でもある。

文字はある意味から言えば、文化の結晶である。一つの文化がその伝統を以って、一つの歴史的地域を形成してゆく時に、文字の伝播がその径路を示さない筈がない。

併しながら、あまりに文字を重視して、文字で歴史的地域区分を行うことにもなると、次に、然らば未開の民族、例えば蒙古キルギスステップ地方の遊牧民族が、未だ文字を持たなかった時代、彼等はその所属する地域が無かったかというと疑問が生じよう。
厳密に言えば或いはそういっていいかも知れない。

併し彼等が後世、蒙古人ならば立て書きの蒙古文字を有し、キルギスのトルコ人が右からの書きのトルコ文字を有するようになった事は、彼等が古くから如何に密接にその南方の文化民族と交渉を有していたかを示すものである。

故にたとえ彼等自身が未だ文字を有していなくても、彼等の将来を示すであろう如く、夫々立て書き地域、或いは右から書きの中に在ったと看做して差し支えないであろう。

このような物の見方について最後に残る問題は、文字の層が示す意義について、何故に字形其物よりも、字と字との間の空白を重要視したかの点である。

ある字形が行われる範囲は言うまでもなく、一種の有力な文化圏であろうことを示唆する。

併し乍ら広い世界の地位区分を行おうという時に、小さな文化圏の境界は暫く無視せざるを得ない。

ヨーロッパ地域を立てる為には、ゲルマンとラテンの民族差も、ロシア文字とラテン文字との差異も暫く目を閉じて看過せざるを得ない。

字形を無視し乍らその間から共通の要素を抽出しようとすれば、勢い文字の形よりもその排列法を重視する外はない。

文字の層は文化の層の重要な一種であるが、それは単一な層ではなくて、実は字形の層と排列法の層との複合体なのである。

文字の排列法というような、一見で重要ならざる、或は意味から言えば必然性のなさそうな所に絶大な意義が含まれている理由は先に已に一言したが、この意味は更に改めて考え直す必要がある。

文字の字形そのものは、どこかにそのモデルとなった文字の痕跡を残し、従ってどこかに古い伝統を伝えているものなるは言うまでもない。

併し乍ら文字の形は言葉との一致の為に大きな制約を蒙る。
異なる言語を写す文字を以って他の言語を写す時には、勢い多少の変形を蒙らなければならない。

この点で字形の層は言語の層と密接な関連を有して居り、両者全く相一致する場合が多い。

そして字形が転々として各地に伝わる間には最初の形が殆ど失われて了う場合も考えられる。

印度の古代文字の根源が今なお明確に指摘されないのはこのような事情によるものであろう。然るに文字排列法の層は三種に限られているから、その伝統を探る上に大なる便宜がある。

中国の漢字と、太古の埃及文字を除外すれば、文字の書き方は右から左からかの二通りとなる。

而して書き方の伝統は、何等かの理由がなければ変更することがない。

恐らく文字は宗教と密接な関係を保って発達したらしく、文字排列法の層は宗教の層と一致する場合が多いようである。

而して一たび右から文字の勢力が確立すると、この伝統は恰も宗教の如くどこ迄も持続する性質がある。

この場合、異種の文字が出現したり輸入されたりすることがあっても、文字の排列法は滅多に変化を蒙らない。

個々の異分子の闖入に対しては甚だ寛大であるが、それが異なった動き方をすることは厳然として拒否する。

こうしてアジアの有力な文化の中心に於いて、一たび文字排列法が成立すると、やがてそれが夫々の勢力範囲に普及して行ったので、従ってその範囲が必然的に歴史的地域区分と一致するのである。

但しアジアの三地域に対し、丁度それを区別する標準となる為であるかのように、三種しかない文字排列法が都合よく分配されたことに、何等かの理由があるのか、又は偶然の結果なのかは判明しない。

文字の字形は言わば、意識作用が働く範囲に属する。
始めて文字を制作する時には勿論大いなる精神的労力を要したであろうし、既に出来た文字を書写したり、読んだりする時にもなお多大の注意力の集注が必要である。

然るに文字の排列は言わば意識下の問題である。
我々は文字を読む時に、右へ読もうか下へ読もうかと意識することは殆どなく、只習慣に従って無意識に読み下す。

何となれば文字と文字との間は単なる空白であって、我々の意識に留まるような形態がないからである。

意識作用は伝統に対して反撥するか屈従するかであるが、空白は無意識であるから素直に伝統を受け入れる外はない。

翻って思うに我々の生活には無意識作用が大部分を占めている。

人間が或いは芸術家として、或いは思想家として、或いは政治家として、独特の意識生活を行う時間は、一生の間を通算して見ても、極く僅かな一小部分に過ぎぬのではあるまいか。

その他は殆ど伝統に従って、無意識か或いはそれに近い生活を送っているに過ぎない。

食事をするのも、栄養を採って生命を保つ為と考えての上ではなく、また特に空腹であるからというでもなく、只習慣に従って食事の時間が来たから食事をするに過ぎぬらしい。

然らばこの無意識作用は全人類に共通なものかと言えばそうではない。

尤も、睡眠などの反射作用になれば人類どころでなく動物にまで共通なものになるが、別に意識の直下のあたりに、意識の支配を受けない自覚されざる空白があって、それが各人各様に異なり、而もそれが人生に重大な役割を演じているのではないかと思われる。

勿論この無意識の空白は、文字と文字との間の空白のように、全然伝統に支配されるような、そんな簡単なものではあり得ない。

そこには伝統もあるが、また教養もあり、体質もあり、更に各人各時の健康状態も影響する、つまりこの複雑な空白には個性もあり、類型もあるのである。

人間は同じように口で立派なことを言い、意識で立派なことを考えても、この意識下の空白が実際にはそれを裏切って、その人の個性を決定しているのではなるまいか。

西洋では古画の真贋を鑑別するには、人物の耳を見るがよいろ言われてきた。

偽作者は人物の目や鼻や口や、特徴になりそうな部分には細心の注意を払うので、真に迫った偽作が出来るが、耳のような、特徴になりにくい部分は何気なく仕上げてしまう。

豈計らんや、そういう誰しも注意しない部分こそ、最も作者の個性が現れるのであって、本物と偽作とがすぐに見分けられるという意味だそうである。


更に同様のことは民族なり社会なりを対象とする時にもあてはまりそうである。

日本人とはどんなことを考え、どんな事を行うか、それは思想家や哲学者に聞いて見るよりも、意識下の空白の類型が最もよくそれを表しているのではないか。

日本人には日本人としての空白の類型があり、中国人には中国人の空白の類型があろう。

或いは東アジアには中国人と蒙古人との間に、その生活様式の全く相異なる一面があるにも拘らず、共通の空白の類型があって、ヨーロッパ人のそれと対照をなしているのではなかろうか。

歴史家は軈てこのような空白をも研究の対象として取上げなければならぬ時が来るであろうと思われる。

東西交渉史論 中公文庫
・ISBN-10: 4122031826
・ISBN-13: 978-4122031821
宮崎市定
礪波護





 
 



中央公論新社刊 中公クラシックス 宮崎市定著「アジア史論」中央公論社刊pp.325-328より抜粋

ところで、日本の金属器文化の受容は甚だ特徴的なものであった。それは遠くメソポタミアを出発した青銅器文化と鉄器文化とが、ほとんど時を同じくして、西暦紀元前後に到着したからである。

即ちメソポタミアから日本まで、青銅器文化が伝播するにはおよそ三千年ほどかかったが、鉄器文化は約一千年で同じ道程を踏破したのである。

つまり鉄器文化の出発がおよそ二千年ほど遅れていたから、両者はほとんど同時に到着したことになったわけである。
アジアの東西を貫く交通の大幹線において日本はその東の終点である。これから更に東は太平洋があるから進みにくい。
この終点で、青銅製の幌馬車と、鉄製のトラックとが同時についたから、さあ大変だ。今まで新石器時代の惰眠を貪っていた日本人は、上を下への大騒動を演じた。

新しい文化が輸入されるということは、今まで大した価値のなかったものに急に値が出たことを意味する。

先ず第一に値が出たのは人間だ。人間をつかまえて楽浪郡へ持って行けば奴隷として買ってくれる。その代価に鏡だの刀剣だのをもらって帰れる。楽浪郡まで行くには船が大事だ。
そこで船にする材木に値がでた。山から木を伐り、船をつくるには労力が必要だ。労力の根本は食物で、食物は土地から出る。そこで今度は土地に値が出た。新開地は新しい交通線の出現によってブームに沸く。将来どこまで発展するかもわからない。こういう形勢を見てとって、いわば大急ぎで広い土地を買い占めて大地主になったのが大和朝廷家だ。だから日本の古代文化の性格は、それがターミナル文化だと言う事が出来る。そしてターミナル文化の特色は、植民地的であって、自然資源を売り出して、製造品を買い入れることにある。日本は由来資源の貧弱な国だと言われるが、そうひと口にいって棄てたものでもない。値段さえ安ければ商品は必ずどこかへ売れて行くものだ。日本には海産物があり、分相応の貴石があり、材木があり、そして悲しいことには人口が多い。日本古代の奴隷の輸出は、労力の輸出の一形態である。
それは海外移民や出稼ぎや、あるいはまた商品のダンピングと、根底において共通のものがある。しかしそれだからと言って、まんざら悲観的にばかり考える必要もない。人口が過剰だということは、どこかに暮らし易いところのある証拠である。「日本書紀」などを見ると、時々天候不順のために飢饉の起こったことを記しているが、しかし日本の飢饉はまだ被害の軽い方である。世界中、どこを探しても地上に極楽のようなところはない。大きな資源はあればあるで、あるにつきまとう悩みの種はつきぬ。土地の肥沃な所では安心して人口が増えたときに、急に飢饉に襲われると、目もあてられぬ惨状を呈する。また資源の所有権をめぐって、食うか食われるかの残忍な殺し合いが常に起こっていたのである。例えば日本が初めて経験した今度の世界大戦における原爆投下のようなことを、大陸の人民は古来何度となく経験してきたのである。それに比べれば日本の歴史はまだましな方だ。

ターミナル文化は、中央と地方の文化の落差の最も激しいのが特徴である。特に日本の古代の場合、その文化の傾斜は落差がひどく、まるで滝の様な格好で大陸から日本へ、日本ではまた中央から地方へと流れ落ちていった。即ち日本はこれまでだいたい新石器文化程度のところへ、急に大陸から、青銅器文化を飛び越えて、いきなり鉄器文化が流れ込んだのである。

戦争の上で言えば、まだ充分に団体の駆け引きの訓練もできておらぬところへ、大陸で研究に研究を重ねた末に出来上がった騎馬戦術が入ってきた。

いまさら戦車など輸入するひまはない。政治組織の上でも氏族制度の体制もはっきり規制づけられぬところへ、中国の古代帝国の触手がのびてきた。今さら都市国家どころの話ではない。こちらも対抗上、大きくまとまらなければならない。何をおいても統一だ。幸い中国とは距離が大幅に離れており、朝鮮の南部あたりで、漢の政治力の東漸が抵抗を受けている間に時をかせいで、何でも早く日本国内を統一しなければならぬ。氏族制度から一躍して古代帝国を造ろうとしているのである。多少の無理を我慢しなければできる仕事ではない。大和朝廷は地方豪族を討伐して、だまし討ちにしたり、寝首をかいたりして、遮二無二、統一の道を進んだ。勝ちさえすればいいのだ。理窟は後の人がつけてくれる。そこには後世の武士道のようなものはない。こういうやり方は、明治政府と大いに似たところがある。彼等の哲学は権力が正義であり、勝利が名誉であることだけを信ずる。しかしながら、この大和朝廷が成し遂げた統一のおかげで、日本の人民は外部世界の進歩に追いつくいとまを得て、一息つくことができたという事実も否定することができない。だから大和朝廷がその被征服民に向って、自己を謳歌しろ、と言えば、彼等は唯々としてそれを謳歌したのである。この点、後の明治政府も全く揆を一にする。
日本の統一が何故に近畿地方を中心として成し遂げられたかについては、ちょうど世界の文化が何故に西アジアにおいて曙光を見出したかと同じ理由によって説明される。大陸の金属器文明が日本へ波及する以前の新石器時代の日本において、やはり当時は当時なりの交易ルートがあり、緩慢ながら物資や智識が動いていたに違いない。

そして日本の地図を開いて見る時、近畿地方は世界における西アジアのメソポタミア。シリア地方に相当する。もしも物資や智識の集積が行われるとすれば、それは近畿地方をおいて他にない。事実そういうことが起こっていたときに、大陸から金属器文化が渡ってきたので、そのまま近畿地方が外来文化輸入のターミナル基地に選ばれたのである。大和朝廷は近畿で地歩を固めると、すぐに各方向へ向けて四道将軍を派遣した。四道へ将軍を派遣できるような位置は、日本中、どこを探しても近畿より他にない。だから日本の歴史は、大陸からの影響で展開したにもかかわらず、大陸に近い九州をさしおいて、大和平野中心として始められたのである。
アジア史論 (中公クラシックス)
アジア史論
宮崎市定

加藤周一著「日本文学史序説」上巻筑摩書房刊pp.184-187より抜粋

奈良時代の日本の支配層は、大陸文化に圧倒され、その消化に忙しかった。9世紀には、輸入された大陸文化が「日本化」され、日本流の文化の型が、政治・経済・言語の表記法・文芸と美的価値の領域に、成立した。
その日本流の型は、次の時代、10世紀・11世紀(摂関時代)に完成されて、12世紀末(院政期)までつづく、その間大陸との交渉はほとんどなく、極東の島国はアジアの全体の中で孤立していた。
この孤立の300年は、この国の歴史のなかでは、第一の鎖国時代であり、その長さにおいても、社会と文化の体系の自己完結性においても、17世紀初めから19世紀末に及ぶ第二の鎖国時代に匹敵する。

島国の内部で起こったことは、第一に、貴族支配層が外来の文化と土着の習慣とを融合させながら、内的斉合性の著しい自己完結的な一箇の文化体系(平安朝文化、王朝文化などの名でよばれる。) をつくりだしたことである。
その包括的な体系は、政治権力の構造、その経済的背景、信仰体系、生活様式、文芸の形式と内容、美術の様式のすべてにわたり、明瞭な特徴を示すものであった。
第二に、本来大陸から輸入された要素、殊に仏教が、広汎な大衆の層へ浸透するようになり、その結果大衆の世界観が変わった以上に、仏教そのものが変わったということである。仏教的な支配層と非仏教的な大衆との平行線は、この時代に「日本化」された仏教を媒介として、近寄ったといえる。
まさに支配層内部の知識人の大陸型と土着型が、この時代に、「日本化」された漢文と漢文化された日本文を媒介として近寄ったように。

時代の権力機構は、1011世紀には「摂関政治」11世紀末から12世紀には「院政」という言葉で要約されるものであった。
前者は律令制の制度的な枠組みを崩さず、したがって天皇の形式的な権威を保存しながら、実質的には藤原氏一族が全く排他的な専制権力を行使するものであり、後者は天皇・藤原氏政府の権力と平行して、引退した天皇(上皇、しばしば法皇)が独立の権力機関をつくるものである。
「院政」の成立は、藤原氏の権力独占によって疎外された支配層内部の要素の不満が、どれほど大きかったかを示している。
天皇家、藤原氏以外の没落した貴族、律令制に依存したところの中・下級貴族(殊に地方官)、地方の名主、武士層など。

経済的に見れば、この時代を特徴づけていたのは、いうまでもなく「荘園」である。
律令制の枠の外で、「荘園」という私的大土地所有に依存する度合が大きかったという点では藤原氏権力と院政権力との間に、本質的なちがいはなかった。
「院政」が律令制への復帰を徹底し、中、下層貴族を藤原氏に対して組織できなかったのは、そのためである。
経済的には不在地主、身分的には天皇家と貴族、社会的には宮廷を中心とした都会的支配層の第二の権力が、地方の名主・武士層を動員して、第一の権力に対抗することは、あり得るはずがなかった。
要するに貴族支配層の内部で9世紀からはじまった政治・経済的権力の集中の傾向は、10世紀以後律令制を形骸化しながら、天皇家と藤原氏、大貴族と中・下級貴族官僚、中央貴族と地方の名主・武士との間の矛盾を強め、12世紀に「院政」を介して、自己崩壊へ向ったということができる。

しかし政略結婚を通じて天皇を一族のなかに組み込んだ藤原氏の権力の独占は、少なくとも200年の安定期をつくりだした。

宮廷を中心にした閉鎖的な貴族社会は、その成員の組み込まれの度合いにおいて、またその排他性において、日本史上まさに画期的なものであった。
宗教も、芸術も、文学も、風俗も、相互に県連した一箇の文化の全体として、その社会に組み込まれ、社会はその文化を制度化し、形式化し、恒久化するためにおどろくべき力を発揮した。
宮廷社会内部の文化的秩序をかき乱す要因は、大陸からも来なかったが、大衆からも来なかった。

アジアで孤立した島国のなかで、宮廷社会は孤立し、しかもその宮廷のなかで、女房社会は独立の単位的な小集団をつくっていた。
比喩的にいえば、鎖国のなかに鎖国(貴族社会)があり、そのなかにより小さな鎖国(女房社会)があったのである。文化の「日本化」の過程は、鎖国条件のもとで、文化の集団への組み込まれの過程と平行していた、ということができるだろう。


  • ISBN-10: 4480084878
  • ISBN-13: 978-4480084873


  • 加藤周一著「日本文学史序説」上巻筑摩書房刊pp.13-16より抜粋

    日本で書かれた文学の歴史は、少なくとも8世紀まで遡る。最も古い文学は、世界にいくらでもあったが、これほど長い歴史に断絶がなく、同じ言語による文学が持続的に発展して今日に及んだ例は、少ない。サンスクリットの文学は、今日まで生き延びなかった。今日盛んに行われる西洋語の文学(伊・英・仏・独語文学)は、その起源を文芸復興期(145世紀)前後に遡るにすぎない。ただ中国の古典語による詩文だけが、日本文学よりも長い持続的発展を経験したのである。

    しかも日本文学の歴史は、長かったばかりではない。その発展の型に著しい特徴があった。一時代に有力となった文学的表現形式は、次の時代に受け継がれ、新しい形式により置き換えられるということがなかった。新旧が交替するのではなく、新が旧に付け加えられる。たとえば抒情詩の主要な形式は、すでに8世紀に31音綴の短歌であった。17世紀以後もうひとつの有力な形式として俳句がつけ加えられ、20世紀になってからはしばしば長い自由詩型が用いられるようになったが、短歌は今日なお日本の抒情詩の主要な形式の一つである事をやめない。もちろん一度行われた形式が、その後ほとんど忘れられた場合もある。奈良時代以前から平安時代にかけて行われた旋頭歌は、その例である。しかし奈良時代においてさえも、旋頭歌は代表的な形式ではなかった。徳川時代の知識人たちがしきりに用いた漢詩の諸形式は、今日ほとんど行われていない。しかしそれは外国語による詩作という全く特殊な事情による。
    新旧の交替よりも旧に新を加えるという発展の型が原則であって、抒情詩の形式ばかりでなく、またたとえば、室町以後の劇の形式にも、実に鮮やかにあらわれていた。15世紀以来の能・狂言に17世紀以来の人形浄瑠璃・歌舞伎が加わり、さらに20世紀の大衆演劇や新劇が加わったのである。そのどれ一つとして、後から来た形式のなかに吸収されて消え去ったものはない。

    同じ発展の型は、形式についてばかりでなく、少なくともある程度まで、各時代の文化が創りだし、その時代を特徴づけるような一連の美的価値についてもいえるだろう。たとえば摂関時代の「もののあはれ」、鎌倉時代の「幽玄」、室町時代の「わび」または「さび」、徳川時代の「粋」―このような美の理想は、そのまま時代とともにほろび去ったのではなく、次の時代に受け継がれて、新しい理想と共存した。明治以後最近まで、歌人は「あはれ」を、能役者は「幽玄」を、茶人は「さび」を、芸者は「粋」を貴んできたのである。

    このような歴史的発展の型は、当然次のことを意味するだろう。古いものが失われないのであるから、日本文学の全体に統一性、時代が下れば下るほど、表現形式の、あるいは美的価値の多様性がめだつ。抒情詩・叙事詩・劇・物語・随筆・評論・エッセーのあらゆる形式において生産的であり得た文学は、若干の欧州語の文学を除けば、他に例が少ないし、文学・美術にあらわれた価値の多様性という点でも、今日欧米以外には、おそらく日本の場合に比較する例がないだろう。清朝末期までの中国文学と同じように、伝統的な形式が何世紀にもわたって保存された事情は、日本の場合には、中国の場合とは逆に、むしろ新形式の導入を容易にしたように見える。中国の場合のように、旧を新に換えようとするときには、歴史的一貫性と文化的自己同一性が脅かされる。旧体系と新体系とは、そういう問題がおこらない。今日なお日本社会に著しい極端な保守性(天皇制、神道の儀式、美的趣味、仲間意識など)と極端な新しいもの好き(新しい技術の採用、耐久消費財の新型、外来語を主とする新語の濫造など)とは、おそらく盾の両面であって、同じ日本文化の発展の型を反映しているのである。

    文化のあらゆる領域においてこのような歴史的発展の型が成立した理由は何であったか。その問題に十分答えることは、ここではできない。しかし文学に即していえば、その言語的・社会的・世界観的背景にあらわれたある種の「二重構造」が少なくともさしあたりの答えをあたえることになるだろう。

    加藤周一著「日本文学史序説」補講 筑摩書房刊 pp.91‐95より抜粋

    「日本霊異記」では「仏」「法」「僧」の三法に従わないものが〈悪〉となっているが、同時にとんでもないエピソードもいろいろ出てくる。善導主義というよりも〈人間〉の発見があるのでは。

    「日本人は仏教説話集というものを受け入れました。「日本霊異記」から代表的なものとしては「今昔物語」になって、それから「沙石集」になりましたが、みな同じ系統のもので、仏教説話集はお寺のお坊さんのための一種の教師用参考書に近いものです。学問のあるお坊さんが書いたと思いますが、もちろん写本で回覧するのだけれども、お寺に集まる人たちの大部分は字が読めなかった。お寺は宮廷と違って、宮廷は貴族しか集まらないけれども、お寺は一般人のための学校兼病院兼教会でした。これは念頭に置く必要がある。
    お寺は宗教的なものだけじゃなくて、唯一の学校はお寺のなかにあった。学校だから当然講義します、仏教の話をするのだけど、面白い話をしないとみんな飽きてしまいますから参考書が必要だった。
     
    字の読めない人が「日本霊異記」を読めたはずがない。そうではなくて、講義をするお坊さんが「日本霊異記」から面白い話を仕入れておいてお寺で話したと思います。聞いている人は一般大衆ですから、話が面白くなければいけない。凡庸な文部科学省が編纂した善い話ばかりの退屈な善導主義ではうまくいかないでしょう。大衆は字は読めなくても人生の経験はあるのだから、そんな甘っちょろい話をしても何の関心ももってくれない。ほんとうに彼等を動かすには実際の場面に臨んで、もちろん悪いやつもいるし、自分のなかに悪い要素もあるだろうし善い要素もあるだろうが、人生複雑で、そのなかを生き抜いていくときの知恵みたいなものが必要でしょう。そこにふれない限り相手にされないのです。それはきれいごとじゃない。
     
    平安朝の貴族社会は税金で成り立っていて生産的な仕事はしていなかった。平安朝の京都は産業がなくて税金都市でした。そのうえ階級的世襲制度でしたから生活の心配なしに暮らせたわけで、「源氏物語」の登場人物のほとんどすべては経済問題の心配をしていない。心配なのは、彼女が私を愛しているかどうかということだけです。ところが「日本霊異記」の聞き手の関心事は経済問題です。まずくやれば暮らせない命がけの問題でしたから、猟師はどうしても猟の仕事を、商いの人はどうしても商いを成り立たせないといけないので、その時の知恵、そのときに必要な人間理解、人間心理に対するリアリズムがなければもたないということを見事に反映しています。「日本霊異記」だけでなく、「今昔物語」の本朝編、つまり日本の話の部分も、「沙石集」も同じです。善いことか悪いことかというよりも、困難な状況をいかに切り抜けるかということの知恵、知識、戦略、勇気、決断力、必要ならば腕力ということです。90パーセントの日本人はそっちのほうで暮らしていた。それが反映している。天皇に帰依することより、毎日の暮らしを維持しなければならないということです。座ってものおもひなんかしていたのでは食べられない。早く家を出て畑を耕すか、鳥や獣をとらないと食べていけないでしょう。だから、二つの日本があるということが、「日本霊異記」にあらわれたのであって、文部科学省は支配層の側ですから、そちらのほうだけ学校で教えてきましたが、ほんとうはその二つを並べて教えるべきです。
     
    ただ、少し注釈が必要なのは、では「日本霊異記」の話の目的はわかったが、そのためにどういう材料を使ったかというと、一つは日本の民間の伝説や昔話から採っていて、中国文学の影響があとの半分。中国の仏教説話である「法苑珠林」などからエピソードを採っています。では、「法苑珠林」はどこから採ったかというとインドです。インドの仏教説話集というのは膨大なもので、一部は翻訳されて中国に入り、それは中国語で語られていて、それから日本でまた採って語り直しました。全部がそうだというのではなく日本製のものもありますが、かなりの部分はそうです。余談ながら全部じゃないですが追跡できる話もあります。地名や人名なんかを変えるのがうまい。なんとか村のなんとかという男がいて、なんてやってますが、元は中国の話で、そのまた元はインドの話です。面白いことは、「法苑珠林」と「日本霊異記」とを比較すると、話の筋はまったく同じですが、どこを詳しく話してどこを簡単に済ますかという語り口は違うんです。一つの話だけではなくて、いくつもそういう例があって、同じような仕方で食い違いがあると、その食い違いは大いに日本の大衆のメンタリティーを表現しているということになるでしょう。奈良時代の大衆の感情生活を推察する材料は極めて限られていますから、「日本霊異記」はまさにそういう意味で貴重です。それだけじゃなくて、話もたいへん面白い。」
    「日本文学史序説」補講

    「加藤周一対談集 歴史・科学・現代」 ちくま学芸文庫刊 pp.135-140より抜粋

    科学の「進歩」
    加藤(周一) 科学の「進歩」という概念は、必ずしも人間的価値の実現とか、それ自身いいものであるとか、ないとかいうこととは別に、人間社会の進歩というようなことと直接結び付けないで、定義できるのではないでしょうか。知識がだんだん増大して、より美しくより純粋な形でその知識が叙述され、それによって自然をコントロールする力、あるいは社会科学なら社会をコントロールする力が増大するということ、これをかりに「進歩」というとすれば、その「進歩」ということは、今までもあったし、これからもあるでしょう。
    ただ、今までは、その進歩が自動的に人間にとっていいことであると考えられてきたけれども、今では科学の進歩が人間にとって悪いことかもしれないという問題につき当たっているということじゃないですか。ただ、進歩の概念そのものをそういうふうに定義すれば、進歩は止まりそうじゃなくて、どんどん行きそうじゃないですか。

    湯川(秀樹) その辺なんですが、近ごろいろんな人がいろんな問題提起をしておりまして、たとえば十九世紀的な考え方ですと、科学の進歩はつまり人間社会の進歩でもある。その区別は本来あるはずだったけれども、ほとんど区別がないと思ったのが近代の西欧社会でしょうね。ところが、二十世紀も後半になりますと、その関係がひじょうにおかしくなってきた。西洋たると日本たるとを問わず、科学の進歩といっても、やはり自然科学の進歩が主になっていて、それと人類とか人間社会というものの進歩とはどういう関係があるのか。
    少なくとも二十世紀前半までのほとんどの人は、科学の進歩と人間社会の進歩とは、だいたいとして並行している。そんなに食い違っていないと思ってきた。ところが、今やそれらが食い違ってきてるんだというくらいのステートメントなら、全く常識化している。ところが、むつかしいのは、科学の進歩は急に止まるわけではない。ほんとの進歩かどうかは別にして、いわゆる進歩なるものはなかなか止まらぬ、また止めるのがむつかしい。社会に対する科学の影響力は圧倒的に強いということがありまして、ですから、別の基準で、人間個人、あるいは人間社会、あるいは人類全体についての価値体系みたいなものをかりにきめておきましても、そういうものは浮き上がっちゃって、科学の進歩に流されてしまうということが、ふり返ってみると、今までは、確かにあった。
    そこで、これから先はそういうことがないようにしようと思っても、実際は大変なことだと思いますね。さきほどから芸術論について私がちょっとお聞きしたのは、芸術のように本質的にサイエンスと違うものでも、実際相当流されているんじゃないか。つまり抽象芸術なんかが盛んになるのは、芸術自身の必然性もあるけれども、やはり科学文明に流されるというと言葉が悪いかもしれんけれどもそういうこともあるんじゃないですかね。

    加藤 それは強いと思いますね。科学的な考え方が芸術家に強い影響を与えていると思いますね、科学的進歩の芸術への影響には、およそ三つぐらいあると思いますが、一つは、科学者の考え方が直接に影響する。もう一つは、科学的な考え方が大衆化されるというか、普及して社会全体のなかに一種の大衆化された形での科学主義が成立して、それがその社会に生きている芸術家に影響する。それから三つ目は、科学者の考え出したことが技術と結びついて、その技術がいろんな媒体をつくり出す。そのために社会が変るし、芸術家の利用する事のできる材料や表現手段も変り、芸術がそのために影響を受けるということ。たとえば、音楽家の場合に、電子音楽というのは、あれは科学の影響というよりも、科学者の仕事がもとになって電子工学が発達して、ああう機械ができるようになった。要するにピアノが出すよりもたくさんの音が自由に出せるということになったために、今度は音楽家の手に渡って、音楽家が何かやってみたいということがあるような、そういう影響、それは三番目だと思います。第一の影響についていえば、たとえば一人の音楽家をとった場合に、音楽家自身、音楽に対するアプローチというか、態度が科学者のものの考え方に直接影響されているという面がある。それは方法的・分析的な考え方だと思うんですね。芸術制作の過程そのものに芸術家が意識的になり、分析的になって、その過程を方法化しようとする。分析的・方法的な形で芸術的な制作を考える傾向は、科学者の科学的なものの考え方の芸術家への直接の影響だと思うんですよ。それから第二の影響は、たとえば、音楽家が金属的な堅いキーキーいう音を出しますね。大衆化された科学といいますか、能率的によく動く新幹線とか、高速道路とか、そういうものの浸透した社会のなかで我々は生きている。ところが、モーツァルトは、十八世紀のいなかの貴族の別荘で弦楽合奏用の曲を書いていた。
    今ミュンヘンならミュンヘンの高速道路でスポーツカーですっ飛ばしているという状況のなかでは、音楽家自身がモーツァルトよりもキーキーいう音を使うようになるということがあると思うんです。それから三番目は、南ドイツ放送局が電子音楽の機械を持っているので、それを使ってやろう、その機械を使えばキーキーいう音を出したければ出せるので、それを使って出すという。こういう三段階で芸術家のなかに科学が直接入ってくるんだと思いますね。
    湯川 私は音楽はまりよくわからんので、ただ理屈しかいえないんですけれども、西洋音楽は―東洋の音楽はそれほどでもありませんけれども―ひじょうに古い時代からサイエンスと密接な関係がありまして、たとえばピタゴラスというような人は、数理的な性格を持った科学、そういう意味での精密化学の原点に立っている人の一人ですね。その後からデモクリトスのような人も出てくるわけですが、ピタゴラスは弦の振動のような最も単純な楽器による音楽と数―といっても整数―との間の関係を発見したわけですね。ですから音楽の原理的なものと、物理の原理的なものとは、そこで密着しておったといってもいいわけですね。それからいろいろに変っていきますけれども、西洋音楽というのは、どこまでいっても数学や物理とわりあい近い関係にあった。第一、西洋の楽譜を見ますと、あれは典型的なディジタル情報ですね。つまり、整数あるいは、もう少し広く台数的な数をあらわしているわけですね。連続的なアナログ情報ではない、ディジタル情報に従って演奏する。ハーモニーといったって、みなそうですわね。もちろん音の強さとか音色とかいう点になると、ディジタル情報で片付けられないでしょうが・・。それに比べて東洋の音楽は、もっと違うわけでしょう。ディジタルな情報でない部分が多くて、個人差みたいなものが、大きくものをいうようですね。しかし、それだって、実は程度の違いにすぎないのかもしれませんね。音譜に全然あらわせないのじゃなくて、近似の程度の問題だという見方もできましょう。ですから、とにかく音楽というのは、芸術のなかでもさきほどの彫刻とか絵画とかいうものとずいぶん違っておりまして、たとえば肖像画というものを考えると、肖像画である以上は、誰か、人間というひじょうに複雑な、しかもユニークな対象がありまして、加藤さんなら加藤さんがおられて、そのエッセンスを如何に表現するかというわけですね。これは数に還元する、あるいは数に対応づけるのとは、非常に違いますね。そういう違いがあって音楽と絵画というのは性格が大きく違うわけだけれども、そして、民族によって事情は多少違うわけでしょうけれども、やはり音楽の方が科学文明との並行関係は、より強いのじゃないですか。

    加藤 それはおっしゃるとおりです。

    加藤周一・木下順二・丸山真男・武田清子著 「日本文化のかくれた形」 岩波現代文庫刊 pp.31-37より抜粋


    超越的価値に束縛されない文化は、どこへ向うのでしょうか。
    そこでは宗教戦争が起きにくい。また社会の現状を否定するためには、現状から独立した価値が必要であり、そういう価値のないところでは、「ユートピア」思想が現れないでしょう。
    「ユートピア」思想を支えとする革命も起こらない。個人的な行動様式としては、それとして自覚されない便宜主義(opportunism)・大勢順応主義―しばしば「現実主義」と呼ばれる態度―が、典型的になる。
    芸術的な表現についてみれば、全体の秩序よりも、部分の感覚的洗練が強調されることになるでしょう。個別的・具体的状況に美的価値も超越しない。細部から離れて全体を秩序づける原理がない。
    この部分強調主義の典型的な例は、たとえば平安朝の仮名物語と、十七世紀初めの大名屋敷の平面図だろうと思います。平安朝物語の話全体の構造ははっきりしない。始めがあり、終わりがあって建築的にできているものではない。たとえば「宇津保物語」は、ほとんど、短編をたくさん積み重ねて行くうちに、おのずから全体になった、という形のものです。こういう長い小説に、一人の人間が子供の時から次第に大きくなって、多くのことを経験して遂に死ぬまで、というような整った形がないわけです。それぞれ独立性の強い章が並列されて、まとめてみると、非常に長い物語になっている。
    これは明らかに、部分の方がまずあって全体に辿り着いたので、全体がまずあって部分を書き込んでいったというものではありません。
    徳川初期の大名屋敷の平面図は―左右対称でないばかりか、途方もなく複雑です。これも明らかに、まず建物全体の空間の形を考え、その空間を細分して部屋を作ったのではなく、まず部屋から作り出して、作りやめたときに、初めには想像もしなかった全体の形ができあがっていた、ということに違いない。これは要するに、建て増し精神です。普通我々が建て増すのは、一度に建てるお金がなかったからですが、大名屋敷の方は、おそらく金の問題ではない。
    むしろ空間の部分と全体との関係について、基本的な一種の見方、一種の哲学を反映しているのだろう、と思います。その哲学は、部分から出発して、おのずから全体に至るというものです。たくさんの部屋が続き全体になる。部屋を作るのにくたびれた時に終わる。どこで終わるか初めから計画していたわけではない。徳川初期の大名屋敷の平面図は、いくつも残っていますから、こういう特徴は一般化して考えることができる。それが部分尊重主義で、日本の芸術の一つの特徴、さらに進んで、空間に対する日本人の考え方の特徴だと思います。
    この様な空間の概念と並行関係にあるのが、「現在」の並列的な継起として表象される時間の概念です。部屋から部屋へ続けていったものが屋敷で、今日・現在からもう一つの今日・現在へ続いてゆくものが、歴史的時間です。その意味での、現在主義。そこには始めがなく、終わりがない。神話の水準でいえば、創世記神話と終末論を欠くのです。反論したい方は、「古事記」に創世記があるじゃないか、とおっしゃるでしょう。しかしあれは、外国の直接の影響のもとに書かれたものです。中国・朝鮮は創世記の話を持っているんで、日本も対抗上作らなきゃいけないと考えて作ったので、日本土着の基本的な時間の見方とは、あまり深く係っていないでしょう。
    日本では、いつ始まるともなく歴史が始まり、いつまでということはなく、ただどこまでも現在が続いてゆく。そういうのが、私の言うところの「現在主義」です。(中略) このような時間の概念をよく反映しているのは、またおそらく十二世紀頃から十三世紀・十四世紀にかけて、さかんに作られた絵巻物です。絵巻物は、細長いものを丸めてあって、展覧会では、一部しか見られない。絵巻物の全体を一緒に見ることはそもそも不可能です。むやみに長いから、ある部分を見ていると、別の部分は遠くなって見えません。
    これは本来、自分の前に置いて、右から少しずつ展げて見てゆく。見てしまった所は、巻いてしまう。これから見るところ、まだ展げてないから、見えない。物語は時間の経過と共に進み、挿絵もその順序を追うわけで、絵巻物を見る人は、話の前後から切り離して、絶えず現在の場面だけを見るということになります。現在の状況を理解、あるいは評価するために、前の事情も、後の発展も、基本的には必要ない。そういうことは、ヨーロッパの中世の「プリミティブ」と対照的です。
    そこではキリストの受難という時間的に長い経過の出来事を、一枚の絵に描いている。そういう時間経過の空間的表現は、日本にはあまりない。日本では絵巻物の方が典型的です。現在だけが、問題だということになるでしょう。その現在は、いわば予測を超えて、次々に出現する。突如として、何かが出て来る。またその次の何かが出て来る前に、あまりぐずぐずしないで速くそれに反応する必要がある。絵巻物の世界は、予測しがたい状況の変化への、速い反応の連続だ、という風に考えることができます。
    状況が変化するのは、絵巻物の世界だけでなく、現実の世界でもそうです。日本では、状況は「変える」ものではなく、「変る」ものです。そこで予想することの出来ない変化に対し、つまり突然あらわれた現在の状況に対し、素早く反応する技術―心理的な技術が発達する。実はそのことが、絵巻物における時間観念に、集約的に反映していたと考えられます。また、そのことの反映は、絵巻物に限らない。たとえば、今日の日本の外交みたいなものです。
    第二次大戦後の日本の外交で、非常に大きな問題の一つは、あきらかに中国との関係をどう調整するかということだった。しかし、日本政府は、米国の中国封じ込め政策に同調し、北京政府の承認を全く考えていなかった。
    つまり将来の状況を予測せず、現状をそのまま認めていたのです。ところが突然一九七二年の春に、ニクソン政府の中国接近が始まると、その後、半年経つか経たぬうちに、もう田中首相が北京政府を承認していました。中国封じ込め政策の状況を変えたのは、米国で、日本ではない。日本側は他力によって変化した状況に敏捷に反応したのです。
    これは、まさに座頭市外交と称ぶのにふさわしい。座頭市の目はみえないから、敵の近づくのが分からない。しかし仕込み杖の届く範囲まで相手が来たときには、非常に速く反応する座頭市と日本外務省の行動様式は、根本的に似ています。「ニクソン・ショック」の次が「石油ショック」。むやみに「ショック」が多いのは、先の見通しが全くついていないということと同じです。ただし「ショック」の後の反応は速くて、適切です。鎌倉時代の美術から、今日の外交まで、日本文化の「現在主義」は生きています。



    
    

    谷川健一著「古代学への招待」日本経済新聞出版社刊pp.44-45より抜粋

    林屋辰三郎著「日本の古代文化」岩波書店刊pp141-146より抜粋
    とあわせて読んでみてください。

    邪馬台国の後身であるヤマト朝廷は屈服した物部氏を厚遇した。三輪山の周辺に根拠地を持つ物部氏の勢力を無視できなかったことによる。ヤマト朝廷の組織の中に組み入れられて宮廷に奉仕する物部を、「古語拾遺」には「饒速日命(にぎはやひのみこと)内物部を師(ひきい)て、矛、盾を造り備ふ」とある。「内物部」に対して物部氏の傍流はヤマト政権の中核に奉仕することなく、蝦夷と行動を共にする姿勢を見せた。その体制の外にある物部は、いうなれば「外物部」と称すべき存在にちがいなかった。この「外物部」は、物部王国の崩壊を契機として、東海地方への進出をはかったことが推定される。それは東海地方の国造がほとんど物部氏によって占められていることからも推測できる。「先代旧事本紀」を見ると、美濃、尾張、三河、遠江、駿河、伊豆の国造はいずれも物部氏の流れを汲んでいる。それはヤマト朝廷から派遣されたとばかりは言い切れない性格を持っていた。
    国造はヤマト政権に必ずしも従順なものばかりではなかったのである。それが物部氏につながるものとすれば、「外物部」の性格をうらなうに足りる。
    古代学への招待(日経ビジネス人文庫)
    ISBN-10: 4532195284
    ISBN-13: 978-4532195281

    「銅鐸について1」より抜粋
    その一方、一世紀末頃から近畿圏を主として大型化、装飾化という独特の発達を遂げた新式の銅鐸は、その本来の機能から離れ見ることに重点を置いたものと考えられることから「見る銅鐸」と分類される。
    それはさらにその意匠(デザイン)、作製地により、近畿式、三遠式と分類される。近畿式はおそらく大和、河内、摂津地域にて作製され、三遠式は濃尾平野にて作製されたと考えられている。
    これらの出土分布は近畿式は近畿圏一帯を中心として、東は遠江、西は四国東半、山陰地域において見られる。
    三遠式は、東は信濃、遠江、西は濃尾平野一帯を一応の限界とし例外的に伊勢湾東部、琵琶湖東岸、京都府北部において見られる。
    静岡県沼津市にて近畿式銅鐸の鰭飾部のみを装飾品として加工したものが発掘されたが、これは大変面白い事例であり、その来歴は興味深い。


    林屋辰三郎著「日本の古代文化」岩波書店刊pp141-146より抜粋

    加藤周一著「日本文学史序説」上巻 筑摩書房刊 pp.152-154より抜粋および
    谷川健一著「古代学への招待」日本経済新聞出版社刊pp.44-45より抜粋
    とあわせて読んでみてください。

    このころ日本国内は、さきにのべた星川皇子の乱のような吉備をも含めた動揺や、皇位継承をめぐる内紛があったが、とくに信用を失墜した注目すべき事件は、487(顕宗天皇3)に起こった紀生磐(きのおいわ)の事件である。

    紀生磐は、さきに465(雄略天皇9)に新羅に出征し、同僚の蘇我韓子を射殺した紀大磐と同人物と見られるが、このころ任那に拠って高句麗と結び、自ら三韓王とならんとして官府を整え修めて、神聖を称したという事件であり、任那に帯山城を築いて百済と激戦したが、ついに敗退した。

    この事件の真相は、百済の史籍に基づいたと思われる「日本書紀」の本文からは容易によみとれず、一説では、生磐の野望を百済側の虚説、造作であるとして、積極的に任那の防衛をはかり、百済の南進を食い止めんとしたものとも解されている。

    果たして反乱か、それとも雄図か、大きく評価の分かれるところである。
    いずれにしても、結果は百済の南進となって実現したのだが、生磐をどのようにみるかで、南鮮経営の重要な分岐点となるといえよう。

    わたくしは、この生磐の事件は、継体朝における哆唎(たり)国守穂積臣押山、さては筑紫国造磐井などと一連のものとして考えたい。

    これは第一に、百済史籍によったとしても、直ちに百済側の虚説、造作とするにはそれなりの実証が必要であり、「紀」がこれを採用した事実の方に重点があるだろう。

    しかし第二に、その場合でも高句麗と内通したという理由は、筑紫国造磐井の場合にも用いられた反乱に対する支配者側の共通した認識方法で、必ずしも信憑しがたい。

    この生磐の場合にしても、三韓王という野望と高句麗との内通というのは必ずしも一致するものではなく、矛盾を含んでいる。

    従って第三の点として、わたくしは哆唎国守押山の場合と同様に、生磐も任那を私物化しようとしたものと考える。

    押山は、継体天皇6(512)12月、百済の請をいれて任那の上哆唎(オコシタリ)・下哆唎(アルシタリ)・娑陀(サダ)牟婁(ムロ)の四県、全羅南道の四半分にあたる地域を割譲したのだが、当時、これは押山と大伴金村が百済の賂を受けた陰謀であるとして大きな反対を受けた。
    いうまでもなく、これは任那の一部を自分の利益と交換した任地使臣の不信行為であった。

    生磐はすでに雄略天皇のときに蘇我韓子を射殺するという重大な前科を持っており、その点からも、とくに帯山城の攻防に英雄的な評価を与えることは、やや恣意的であると考える。
    わたくしは、「紀」編者の高句麗との内通という点には疑問を残しても、やはり生磐の反乱として理解したい。

    そのように見ると、この事件は百済側の信頼を一挙に失墜させるものであり、ついでは任那諸国の離反も助長することになったのである。
    既に自主性を失っていた日本の朝鮮経営は、継体天皇6(512)12月の任那四県の割譲に続いて、百済の外交的圧迫に屈して、翌年11月には己汶(コモン)・帯沙(タサ)の地を割譲した。

    とくに己汶の地は任那の一国伴跛の熱望するところであったから、この決定によってますます任那諸国の失望を大きくしてしまった。

    そこへ継体天皇18(524)になると、このさきすでに律令を頒ち百官の公服を制するなど内治を整えた新羅法興王が、拓地と称して南境に出巡し、翌年には百済とも交聘を深めて、ついに金官国(南加羅)・淥・己呑・卓淳その他の地を併呑してしまった。

    金官国は、日本の朝鮮侵略の橋頭堡のような位置を占めていたから、この報は大和朝廷に大きな動揺を与えることになった。
    大和の支配者間の対立がともかくも統一して、継体天皇が大和磐余に入り得た背景には、この任那日本府の危機への対応と、継体21(527)におこされた諸地復興のための派遣軍の準備ということが眼目としてあったであろう。

    さて朝鮮遠征軍の派遣は、近江臣毛野のものに6万の大軍をもって編成することになった。しかしこの時に、筑紫国磐井の叛乱が惹起されたのである。
    継体天皇21(527)6月、この遠征軍は磐井らによって完全に阻止されてしまった。
    磐井はやくからひそかに叛逆をはかっていたが、事の成りがたきを恐れて常に間隙をうかがっていたところ、新羅がこれを知ってひそかに賄賂を送って磐井と結び、毛野臣の軍を抑圧することをすすめたため、ついに叛乱に及んだというのである。
    それと同時に磐井は揚言して、今回の出征に当たってかつての同僚毛野の下に使われるのを喜ばぬ意志を示しているから、単に新羅との結託ということだけでなく、軍役じたいに不満があったことは確かであろう。

    その背景をさぐってみると、やはり長期にわたった朝鮮侵略のために最も大きな負担を蒙ったのは、まず北九州一帯の族長層であり、その部民であったといえよう。
    もともと彼らは、吉備とならんで、筑紫といえば大和国家に対して最も独立的な地域であり、それだけに外征には批判的であっただろう。磐井はその批判を叛乱という形でぶちまけたのである。
    北九州についでは、東国一帯の負担が大きい。
    この地方には当時、皇室の直轄領が名代・子代という形で存在しており、その領民たちは奈良時代にも防人として西辺の防衛に当たったことを考えると、すでにこの時点でも。北九州の現地なみに負担をうけたにちがいない。
    さらに畿内には、毛野臣のような遠征軍の場合には、地元からの徴発が考えられるし、そのようにいえば、多かれ少なかれ全国的な影響を免れ得なかったのである。
    とくに大和国家の成立過程に征服された氏族や、それとゆかりのある地域はなおさらである。
    それでも朝鮮経営が順調であれば、その軍役上の不満も抑えることができるが、失敗となれば不満は倍加して、ついに爆発に至る。

    この時、筑紫の磐井の軍は「火豊二国に掩拠」ったといわれるから、筑紫はもとより肥前・肥後・豊前・豊後の諸豪族あげての反抗となっていた。
    磐井は、外は海路に朝鮮諸国のっ修貢船を誘致し、内は毛野の軍を肥豊という内陸に引き入れたから、毛野の軍はたちまち妨げられて、中途に渋滞する有様となった。

    この飛報告に接した朝廷は、秋八月、物部大連麁鹿火をして磐井を追討せしめることとした。大連の覇権というなかに、朝廷としても事態の重大性を明確に認識したことが知られる。
    天皇は斧鉞をとって大連に授け、「長門以東をば朕が制らむ。筑紫以西をば汝制れ。
    賞罰を専ら行ひ、頻りに奏すことにな煩ひそ」と詔したと伝える。
    この処置は、「称制」というべきもので、のちに、斉明天皇7(661)七月天皇歿後、天智天皇七年(668)正月天智天皇の即位まで、皇太子中大兄皇子の称制が行われたが、この時も、天智天皇二年(663)の朝鮮半島における白村江の戦いが示すように、国家的危機に当たっていた。
    朱鳥元年(686)九月天武天皇の歿後、皇后が臨朝称制し、持統天皇の即位に至った期間も、大津皇子の謀反が示すような政治的動揺があった。
    皇后の場合はともかく、中大兄皇子があえて直ちに即位せず、称制としたことは、それじしん一つの研究題目であるが、百済救援の出兵問題ときりはなして論じ得ないことであり、そのことが最大の理由であったと考えられる。
    それと同じく磐井の叛乱においても、すでに筑紫以西が磐井の傘下に置かれた事態のなかで、この地域の支配を麁鹿火の軍政に委ねたものであろう。
    大和国家の天皇支配の支配は、この時点では長門以東にとどまったことを、ここではきわめて明確に宣言した。大連麁鹿火が授けられた斧鉞は、まさに久米ノ子の「手量」のように軍政権の象徴となっていったのである。(*下に示す引用を参照されたし。抜粋者)

    大将軍麁鹿火の活動は、必ずしも急速な軍功とはならなかった。しかし継体22(528)11月に至って、麁鹿火は磐井と筑紫の御井郡で交戦し、激闘の結果、ついに磐井を斬ることができた。
    その間1年有半、磐井の反抗闘争がいかに根強かったかを示すとともに、これを圧倒した大和国家の軍事体制もまた、一段の権威を帯びることになったといえよう。
    12月、筑紫君葛子は。父の罪によって誅せられることをおそれ、朝廷に糟屋屯倉を献じて死罪を償わんことを求めるに至った。

    これが継体・欽明朝内乱の前段階というべき国造磐井の叛乱の全貌である。
    日本の古代文化 (岩波現代文庫)
    ISBN-10: 4006001667
    ISBN-13: 978-4006001667

    林屋辰三郎

    ファスケス 関係あるかどうかわかりませんが面白い類似であると思います。20150913

    ちなみに前掲引用部を読みますと、私はコンラッドの著作「闇の奥」あるいはコッポラの映画作品「地獄の黙示録」を想起します。
    その場合、紀生磐とは、クルツ(闇の奥)あるいはカーツ大佐(地獄の黙示録)に置換されるのでしょうか?
    ともあれ、少なくともその役回りは類似しているのではないかと考えます。
    そして、このことはさらに様々な分野における類推に及ぶのですが、それが果たして当を得ているかどうかは不明です。
    ともあれ、先に進みます。20150914





     






    加藤周一著「日本文学史序説」上巻 筑摩書房刊 pp.152-154より抜粋

    林屋辰三郎著「日本の古代文化」岩波書店刊pp141-146より抜粋および
    中島岳志篇 「橋川文三セレクション」 岩波現代文庫刊 pp.90-93より抜粋
    とあわせて読んでみてください。

    奈良朝以来政治的に有力な一族であった紀氏は、藤原氏の圧力のもとで、九世紀中葉には早くも影響力を失いつつあった。

    没落貴族紀氏のなかからは、学問や芸術に専心する者が輩出し、紀長谷雄(845-912)道真に学んで、九世紀末の有力な漢詩人となった。
    その子、淑望は、最初の勅撰和歌集「古今集(905)のために、シナ語の序(「真名序」)を作った。
    紀興道雅楽頭となり、その甥有常も音楽で身をたてた(同じく雅楽頭)。興道の孫は、紀貫之(-945)で、「古今集」の撰者の一人、「真名序」を意訳して日本語の序(仮名序)をつくり、土佐守を勤めた(931-34)後、「土佐日記(935)を書いた。
    70歳をすぎてようやく従五位上(941)に達した貫之の貴族としての地位は高くなかった。
    しかし後述するように、勅撰集に載せるその歌の数は古今を通じて最も多く(451)、歌人としては、九世紀を代表し、後世にあたえた影響も大きい。
    貫之の従弟、友則は「古今集」の有力な歌人で、撰者の一人、息子の時文は「後撰集(951)の撰者の一人である。
    学芸を以って官界に地位を築いた菅原氏の場合とは異なり、紀氏は政界に望みを失って学芸に拠って立ったのである。
    もし前者を知識人の上昇型と称ぶとすれば、後者は下降型であり、九世紀の知識人社会は、両者の交わるところに成立したといえるだろう。

    知識人の二つの型を代表していたのは、衆目のみるところ、菅原道真と紀貫之である。
    官界に地位を得るための学芸(いわば表芸)は、シナ語の詩文であったから、道真は当然シナ語で書いたし、また書かざるをえなかった。
    不遇の貴族、貫之は、おそらく官界に野心がなく、日本語の新しい表記法(かな)を利用して、母国語の抒情詩(裏芸)に専念することをためらわなかった。
    道真の詩文の内容は、直接に公事に係るか、あるいは少なくとも公事を背景としている。
    その「菅家文章」は彼自身が編んで天皇に奉った「菅家三代集」の一部であった。
    貫之の歌と文章の内容は「古今集」の序を除けば、全く私的なものである。
    「土佐日記」に到っては、天皇に奉るどころか、その第一行に、仮託して、女の書いたものだと断り(「おとこもすなる日記といふものを、をむなもしてみんとてすなり」)、その最後の行には、早く破りすててしまった方がよかろう(「とまれかうまれ、とくや()りてん」)とさえ書いていた。
    「土佐日記」のところどころにあらわれる軽い諧謔は、日記そのものに向けられていたのである。
    道真は悲劇の主人公であった。しかし貫之は自分自身を笑って暮らすことのできる人物であったらしい。

    しかし道真の世界と貫之および「古今集」の世界との、相触れるところがなかったわけではないし、相通うところがなかったわけではない。道真の親友、紀長谷雄の息、淑望が「古今集」の「真名序」を作ったことは、まえにいった。「真名序」はその冒頭の一般的理論を「詩経」の「大序」に採り、貫之の「仮名序」は大いに「真名序」に拠る。
    「大序」によれば、詩の定義は次のようである。「詩者志之所之也、在心為志、発言為詩」。
    「真名序」の第一行は、「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろずのことの葉とぞなれりける」という。これは明らかに一つながりであって、道真の漢詩の世界と、貫之の和歌の世界とは、全く別の目的を追っていたのではない。

    ISBN-10: 4480084878
    ISBN-13: 978-4480084873

    オリヴァー・トムソン著 山縣宏光/馬場彰訳 「煽動の研究」 TBSブリタニカ刊 pp.50-53より抜粋

    プラトンは「国家」のなかで、大衆に対して巧みな嘘をつくように勧めているが、歴史の示すところによれば、まったくの嘘というものは、通常ろくなプロパガンダにはならない。
    一度は聴衆の軽信性をうまく利用できても、嘘が発覚した時には、その宣伝源がもう一度信頼されることはほとんどあり得ないからである。

    そのような好例は、ヒトラー時代の末期に見られる。
    この時には新聞紙面のほとんどの部分がもはや信用されていなかったので、プロパガンダを忍ばせるために星占いの欄まで利用されたのである。
    こうした事例は、ドゴール派のテレビが党のプロパガンダに使われ過ぎて信頼されなくなった時にも見られる現象である。

    聴衆の信じやすさのもう一つの要因として偏見がある。
    マギールは、偏見を持っている聴衆に対する新たなプロパガンダの効果について述べている。
    基本的には、聴衆はそのようなプロパガンダを無視するか、あるいは先入観と合致するように宣伝内容の意味を歪めて受け取ってしまう。

    聴衆の信条や態度は、引き続き何代にもわたるプロパガンダによってつくりだされたものであることを考えると、これと矛盾する思想を信じさせることは、いかなる宣伝家にとってもきわめて困難であることがわかる(伝統というのは、間接的なプロパガンダ以外のなにものでもない。)

    人の態度がいつまでも変らなかったり、聴衆が一見保守的に見えることが多いのは、短期的な宣伝活動に比べて長期にわたるプロパガンダの方が、より深い実質的な効果をもっているためである。
    宣伝内容が既往のものと比べて非常に激しく変化した場合―たとえば、イスラエルにおけるキリストの在世時代、ドイツにおける1930年代、十字軍時代の封建ヨーロッパ、もしくは福音主義復興時代のイギリス人などの場合―、初めは効果のあがらないプロパガンダが、その後突然、精神的準備を促す感情の高揚とともに、激しい回心を生じるのも、前と同じ理由によるものと考える。

    換言すれば、真に根本的な態度変化が起きるためには、おそらく長い前宣伝や、大きな感情の高まり、あるいはサーガントが洗脳や改宗の研究のなかで記述しているように、身体への攻撃さえ要求される。

    こうした例は、ダマスカスに赴く途中のパウロを襲った眩しい光とか、ケストラーがマルクス主義への回心を語った時のような目標喪失と帰依の物語などに見られる。

    別のプロパガンダに前もって触れることは、後のプロパガンダにとってすこぶるハンディキャップになるという事実から、次のような可能性が出てくる。
    すなわち、プロパガンダをイデオロギーに対する一種の予防接種として見立て、その機能をもっと徹底的に衆目にさらすことによって、将来予測されるプロパガンダに対して免疫性をつけるように国民を訓練できるということ。
    そして、もう一つの可能性として、プロパガンダというものが議論もしくは問題の両面性を取上げ、自己の立場を論証したり支持したりすると同時に、相手の立場の過ちも証明したりその権威を落したりすることによって、より大きな効果をあげ得るということがある。

    この分野では、マクガイアがいくつかの実権について報告しており、フェスティンジャーとカールスミスは偏見と認識の不一致というややむづかしい分野について同じく実権報告を行っている。
    抽象的な心理学の理論は、こうした方面ではたいして説得力がないし、今のところあまり役にたっていない。

    媒体が伝わる範囲を拡大する方法にはいくつもあり、また聴衆によってとくに高い受容性を示すこともあるが、宣伝効果を増す主な原因は、宣伝内容の組み立て方にある。
    媒体面でよく知られた強化要因は、もちろん繰り返しである。

    ゲッペルスは言っている。「何度も繰り返せば嘘でも人は信じる」と。1776年、フランスで親米宣伝をした際の繰り返しの効果に感銘を受けたベンジャミン・フランクリンは次のように言っている。

    「鉄は熱いうちに打て、というのはもちろん正しいが、冷めないように絶え間なく打ち続けることも実行可能だ」。
    しかし、繰り返しは、結局は「収穫逓減の法則」もしくは過剰効果という壁にぶつかる。
    これは、ふつう退屈さが増大したり、繰り返しの持つある特徴のために敵対的な態度が引き起こされるからである。
    にもかかわらず、繰り返しの限界についての絶対的な法則は存在しない。
    限界は当然、宣伝内容、媒体、および聴衆の性格によって変化するからである。

    聴衆が異常に高い受容性を示すのは、聴衆がとくに高い読み書きの能力とかその他の受容技能を持っている場合、もしくは時に漠然と精神的空白と呼ばれる状態で悩んでいたりする場合である。
    聴衆が「倦怠」に苦しんでいるときは、既存の思想がいわば老朽化して新しい事物を導入する能力を失っているので、聴衆は新しいプロパガンダによりひかれる傾向がある。

    すでに述べたように、一般に思想というものは保守的であるが、同時にまた一つの思想が終わりに近づくと、新しい観念形態を渇望するようにもなってくる。
    ホッファによれば、「大衆運動がその発生期に信奉者をひきつけて放さないのは、その教義とか約束とかのためではなく、それが個人生活の不安とか無意味さから逃避する場所を与えてくれるからである」という。極論だが、検討の余地はあろう。

  • 出版社: TBSブリタニカ (1983/06)
  • ASIN: B000J78NSU

  • 馬場彰