2015年9月22日火曜日

林屋辰三郎著「日本の古代文化」岩波書店刊pp141-146より抜粋

加藤周一著「日本文学史序説」上巻 筑摩書房刊 pp.152-154より抜粋および
谷川健一著「古代学への招待」日本経済新聞出版社刊pp.44-45より抜粋
とあわせて読んでみてください。

このころ日本国内は、さきにのべた星川皇子の乱のような吉備をも含めた動揺や、皇位継承をめぐる内紛があったが、とくに信用を失墜した注目すべき事件は、487(顕宗天皇3)に起こった紀生磐(きのおいわ)の事件である。

紀生磐は、さきに465(雄略天皇9)に新羅に出征し、同僚の蘇我韓子を射殺した紀大磐と同人物と見られるが、このころ任那に拠って高句麗と結び、自ら三韓王とならんとして官府を整え修めて、神聖を称したという事件であり、任那に帯山城を築いて百済と激戦したが、ついに敗退した。

この事件の真相は、百済の史籍に基づいたと思われる「日本書紀」の本文からは容易によみとれず、一説では、生磐の野望を百済側の虚説、造作であるとして、積極的に任那の防衛をはかり、百済の南進を食い止めんとしたものとも解されている。

果たして反乱か、それとも雄図か、大きく評価の分かれるところである。
いずれにしても、結果は百済の南進となって実現したのだが、生磐をどのようにみるかで、南鮮経営の重要な分岐点となるといえよう。

わたくしは、この生磐の事件は、継体朝における哆唎(たり)国守穂積臣押山、さては筑紫国造磐井などと一連のものとして考えたい。

これは第一に、百済史籍によったとしても、直ちに百済側の虚説、造作とするにはそれなりの実証が必要であり、「紀」がこれを採用した事実の方に重点があるだろう。

しかし第二に、その場合でも高句麗と内通したという理由は、筑紫国造磐井の場合にも用いられた反乱に対する支配者側の共通した認識方法で、必ずしも信憑しがたい。

この生磐の場合にしても、三韓王という野望と高句麗との内通というのは必ずしも一致するものではなく、矛盾を含んでいる。

従って第三の点として、わたくしは哆唎国守押山の場合と同様に、生磐も任那を私物化しようとしたものと考える。

押山は、継体天皇6(512)12月、百済の請をいれて任那の上哆唎(オコシタリ)・下哆唎(アルシタリ)・娑陀(サダ)牟婁(ムロ)の四県、全羅南道の四半分にあたる地域を割譲したのだが、当時、これは押山と大伴金村が百済の賂を受けた陰謀であるとして大きな反対を受けた。
いうまでもなく、これは任那の一部を自分の利益と交換した任地使臣の不信行為であった。

生磐はすでに雄略天皇のときに蘇我韓子を射殺するという重大な前科を持っており、その点からも、とくに帯山城の攻防に英雄的な評価を与えることは、やや恣意的であると考える。
わたくしは、「紀」編者の高句麗との内通という点には疑問を残しても、やはり生磐の反乱として理解したい。

そのように見ると、この事件は百済側の信頼を一挙に失墜させるものであり、ついでは任那諸国の離反も助長することになったのである。
既に自主性を失っていた日本の朝鮮経営は、継体天皇6(512)12月の任那四県の割譲に続いて、百済の外交的圧迫に屈して、翌年11月には己汶(コモン)・帯沙(タサ)の地を割譲した。

とくに己汶の地は任那の一国伴跛の熱望するところであったから、この決定によってますます任那諸国の失望を大きくしてしまった。

そこへ継体天皇18(524)になると、このさきすでに律令を頒ち百官の公服を制するなど内治を整えた新羅法興王が、拓地と称して南境に出巡し、翌年には百済とも交聘を深めて、ついに金官国(南加羅)・淥・己呑・卓淳その他の地を併呑してしまった。

金官国は、日本の朝鮮侵略の橋頭堡のような位置を占めていたから、この報は大和朝廷に大きな動揺を与えることになった。
大和の支配者間の対立がともかくも統一して、継体天皇が大和磐余に入り得た背景には、この任那日本府の危機への対応と、継体21(527)におこされた諸地復興のための派遣軍の準備ということが眼目としてあったであろう。

さて朝鮮遠征軍の派遣は、近江臣毛野のものに6万の大軍をもって編成することになった。しかしこの時に、筑紫国磐井の叛乱が惹起されたのである。
継体天皇21(527)6月、この遠征軍は磐井らによって完全に阻止されてしまった。
磐井はやくからひそかに叛逆をはかっていたが、事の成りがたきを恐れて常に間隙をうかがっていたところ、新羅がこれを知ってひそかに賄賂を送って磐井と結び、毛野臣の軍を抑圧することをすすめたため、ついに叛乱に及んだというのである。
それと同時に磐井は揚言して、今回の出征に当たってかつての同僚毛野の下に使われるのを喜ばぬ意志を示しているから、単に新羅との結託ということだけでなく、軍役じたいに不満があったことは確かであろう。

その背景をさぐってみると、やはり長期にわたった朝鮮侵略のために最も大きな負担を蒙ったのは、まず北九州一帯の族長層であり、その部民であったといえよう。
もともと彼らは、吉備とならんで、筑紫といえば大和国家に対して最も独立的な地域であり、それだけに外征には批判的であっただろう。磐井はその批判を叛乱という形でぶちまけたのである。
北九州についでは、東国一帯の負担が大きい。
この地方には当時、皇室の直轄領が名代・子代という形で存在しており、その領民たちは奈良時代にも防人として西辺の防衛に当たったことを考えると、すでにこの時点でも。北九州の現地なみに負担をうけたにちがいない。
さらに畿内には、毛野臣のような遠征軍の場合には、地元からの徴発が考えられるし、そのようにいえば、多かれ少なかれ全国的な影響を免れ得なかったのである。
とくに大和国家の成立過程に征服された氏族や、それとゆかりのある地域はなおさらである。
それでも朝鮮経営が順調であれば、その軍役上の不満も抑えることができるが、失敗となれば不満は倍加して、ついに爆発に至る。

この時、筑紫の磐井の軍は「火豊二国に掩拠」ったといわれるから、筑紫はもとより肥前・肥後・豊前・豊後の諸豪族あげての反抗となっていた。
磐井は、外は海路に朝鮮諸国のっ修貢船を誘致し、内は毛野の軍を肥豊という内陸に引き入れたから、毛野の軍はたちまち妨げられて、中途に渋滞する有様となった。

この飛報告に接した朝廷は、秋八月、物部大連麁鹿火をして磐井を追討せしめることとした。大連の覇権というなかに、朝廷としても事態の重大性を明確に認識したことが知られる。
天皇は斧鉞をとって大連に授け、「長門以東をば朕が制らむ。筑紫以西をば汝制れ。
賞罰を専ら行ひ、頻りに奏すことにな煩ひそ」と詔したと伝える。
この処置は、「称制」というべきもので、のちに、斉明天皇7(661)七月天皇歿後、天智天皇七年(668)正月天智天皇の即位まで、皇太子中大兄皇子の称制が行われたが、この時も、天智天皇二年(663)の朝鮮半島における白村江の戦いが示すように、国家的危機に当たっていた。
朱鳥元年(686)九月天武天皇の歿後、皇后が臨朝称制し、持統天皇の即位に至った期間も、大津皇子の謀反が示すような政治的動揺があった。
皇后の場合はともかく、中大兄皇子があえて直ちに即位せず、称制としたことは、それじしん一つの研究題目であるが、百済救援の出兵問題ときりはなして論じ得ないことであり、そのことが最大の理由であったと考えられる。
それと同じく磐井の叛乱においても、すでに筑紫以西が磐井の傘下に置かれた事態のなかで、この地域の支配を麁鹿火の軍政に委ねたものであろう。
大和国家の天皇支配の支配は、この時点では長門以東にとどまったことを、ここではきわめて明確に宣言した。大連麁鹿火が授けられた斧鉞は、まさに久米ノ子の「手量」のように軍政権の象徴となっていったのである。(*下に示す引用を参照されたし。抜粋者)

大将軍麁鹿火の活動は、必ずしも急速な軍功とはならなかった。しかし継体22(528)11月に至って、麁鹿火は磐井と筑紫の御井郡で交戦し、激闘の結果、ついに磐井を斬ることができた。
その間1年有半、磐井の反抗闘争がいかに根強かったかを示すとともに、これを圧倒した大和国家の軍事体制もまた、一段の権威を帯びることになったといえよう。
12月、筑紫君葛子は。父の罪によって誅せられることをおそれ、朝廷に糟屋屯倉を献じて死罪を償わんことを求めるに至った。

これが継体・欽明朝内乱の前段階というべき国造磐井の叛乱の全貌である。
日本の古代文化 (岩波現代文庫)
ISBN-10: 4006001667
ISBN-13: 978-4006001667

林屋辰三郎

ファスケス 関係あるかどうかわかりませんが面白い類似であると思います。20150913

ちなみに前掲引用部を読みますと、私はコンラッドの著作「闇の奥」あるいはコッポラの映画作品「地獄の黙示録」を想起します。
その場合、紀生磐とは、クルツ(闇の奥)あるいはカーツ大佐(地獄の黙示録)に置換されるのでしょうか?
ともあれ、少なくともその役回りは類似しているのではないかと考えます。
そして、このことはさらに様々な分野における類推に及ぶのですが、それが果たして当を得ているかどうかは不明です。
ともあれ、先に進みます。20150914





 






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