2015年9月22日火曜日

宮崎市定著「古代大和朝廷」筑摩書房刊より抜粋

幕末の攘夷論と開国論

-佐久間象山暗殺の背景-

日本の幕末維新史は、長い間、いわゆる明治の元勲たちの圧迫をうけて、非常にゆがんだ形で述べられてきた。
戦後になって自由な研究が許されるようになったといっても、一度ゆがんだ形はなかなか真の姿を取り戻せない。
いわゆる攘夷運動というものの実態も、意外に真相が知られていないのではあるまいか。
そしてこれが分かっていないと、せっかく当時、一死を賭して開国論を唱えた佐久間象山の歴史上における位置づけも、十分みたされないおそれがある。
実は私は象山の事蹟については何も知識を持たない者であるが、幕末における開国の影響につき、中国との比較において、従来少し考えたことがあるので、当時の攘夷運動を背景として、彼の暗殺が政局に及ぼした波紋のあとをたどってみようと思う。

幕末の攘夷論には、きれいな攘夷論ときたない攘夷論の二つの異なった顔がある。第一は、観念的な攘夷論で、水戸派がこれを代表し、日本の国体というものを前提とした議論であるから、はなはだ純粋できれいである。ところが第二は、薩長によって主張された攘夷論で、もちろん水戸派の影響を受けているには違いないが、それを主張するに至った動機には、多分に地方的な利害、実益がからんでいるきたない攘夷論であり、この裏面の実情を知らないで議論だけをうのみにすると、本当の歴史の動きが分からない。

幕末には攘夷運動の張本人であった薩長が、いざ天下を取ってしまうと、急に開国主義に豹変したのは、いったいどうしたことか。政権担当者としての責任が、彼等の迷妄をさまして開眼させたのだろうか。天下の輿論が開国に向かったから、仕方なくそれに追随したのだろうか。しかしいずれにしても、あとから説明に困る程の急激な変わりようである。この問題を解くためには、もう少し遡った時代から歴史を説明してかからなければならない。

ゆらい薩摩と長州とは、徳川幕府にとって最も警戒すべき外様の大藩であった。しかしながら、単に石高から云えば、薩摩の七十七万石は加賀前田氏の百二万石に及ばず、長州毛利氏の三十六万石に至っては、広島浅野氏の四十二万石、仙台伊達氏の六十二万石、その他にもこれを凌駕する大藩が存在する。その間にあって何ゆえに薩長二藩だけが、幕末あのように精力的な活動をなしえたのであろうか。理由はいたって簡単である。藩の財政が豊富であったからにすぎない。

しからば何ゆえに薩長二藩の財政が豊富であったかといえば、皮肉にも、それは幕府の鎖国政策の結果であったのである。
周知のように、幕府は長崎一港をオランダと清国に開放し、これを幕府直接の統制化におき、他の大名は何人たりとも諸外国と直接交渉してはならないことを厳命したのである。
しかし実際問題として、海は広く海岸線は長いので、密貿易を徹底的に取り締まることは困難であった。そしてすべて統制経済は、きびしければきびしいほど、密貿易の利益はそれに正比例して多くなるものなのである。この密貿易を、挙藩一致して大々的に行ったのが、実に薩摩と長州とであった。

薩摩は密貿易に対して最も恵まれた条件の下にある。
それは琉球を臣属させているからで、琉球へ通うためだといえば大きな船も造れ、琉球を通じて中国と貿易ができる。
そのうえに自国の海岸地方へ清朝船を招き寄せたりして盛んな密貿易をやったものである。
次に長州は朝鮮に近い。
朝鮮との交通は、本来ならば対馬の宗氏があたるはずであるが、対馬自体にはほとんど産物がないから、本土の力を借りなければならない。
そこで実際には朝鮮貿易の実利をつかむのは長州であった。その他に対清国密貿易も抜目なくやっていたらしい。
そして長崎から遠いことがかえってその密貿易を容易にならしめたと思われる。

八代将軍吉宗が就任すると、文面だけを見れば、これほどばかげた話はない。
藩の後援がなくてどうして密貿易ができようか。
この命令は実は暗に幕府が密貿易をやっている西方諸藩に対して警告を発しているものとしか受け取れないのである。
しかしそんなことでひるむような薩長ではない。

薩長二藩にとっては、幕府の鎖国政策は何十万石の加増にもまさる恩恵であった。
まさに鎖国さまさまである。
そこへ起こってきたのがヨーロッパ諸国の黒船の渡来、続いて開国論の擡頭であった。ところで開国が実現されれば、彼等の密貿易の利益は当然なくなってしまう。
季節風を無視し、いつでも蒸気船が渡来してくるというような新情勢に対して、普通の判断力を備えたものならば、開国の止むべからざることを悟るのは当然である。
第一に鎖国令を下した本尊の徳川幕府からして、開国に踏み切らざるを得なかった。ところがそこへ強い抵抗が起こった。
これは京都の朝廷を中心とする頑迷派であるが、これはかえって処理しやすい。
頑固な人間には臆病者が多いからである。
ところが最も扱いにくいのは、第二の薩長を中心とする利己的な、きたない攘夷論者であって、その本音は自分たちの密貿易の利益を温存するにあった。

佐久間象山の開国論に共鳴した吉田松陰が、安政元年(1854)、日米仮条約調印の直後、米船に投じて密航しようと計ったことはあまりにも有名な逸話である。
その松陰が長州へ送り返されて蟄居を命じられると、今度は急に攘夷論に早替りしたのはなぜか。
これは長州という土地固有の利己的攘夷論に同化されたと考えなければ、何としても理解できない不思議である。
松陰はまだ年が若かったせいもあるが、こういう点からみればたいして見識のある人物ではない。
何となれば、長州のような所においてこそ、もっと大局を見通した開国論が必要であったのだ。

まえに述べたように、薩長は鎖国政策によって莫大な利益をあげている。
ところが幕府がその鎖国政策を取り消して、横浜を開港し、ここで欧米諸国と貿易を開始するとなると、日本の対外貿易の中心は横浜に移り、幕府の直接統治下にある江戸付近が富強になって、ひいては幕府そのものも若返って勢力をもりかえしてこないともかぎらない。
そして清国がすでに諸外国に向って港を開いた後であるから、清国の物資も欧米人の手を通じて、横浜、さらには神戸から、直接日本の中央部に運ばれてきそうな形勢にある。
そのときには、長州の萩や、薩摩の鹿児島のような僻地の密貿易港は完全にその存在の意義を失ってしまうのだ。
これは藩の生命にかかわる重大事である。
是が非でも今のうちにもみ消して、幕府の開国体制をくつがえさなければならない。
これが薩摩と長州とに利害の共通した立場であり、大きな声で外部に向っていえないが、内部に対しては別に言を待たずしてわかる自明の理であったのである。

そこで新たな意味をもった攘夷運動は、薩長二藩によって、全力を挙げて展開され、執拗に継続されたのである。
幸いに二藩は当分の間、幕府も及ばないほど財政面に余裕がある。そこで思い切って金銀をばらまき、自藩の脱走者はもちろん、他藩の浮浪人をも誘って、尊王論を強調し、その陰に攘夷論をそのばせて、徳川政権を揺り動かそうとしたのであった。

こういう金ずるをもたない山国信州から出た佐久間象山のような政客は、だから哀れなものであった。
あくまで真正直な開国論で、きたいない攘夷論に立ち向かう。
それはほとんど単身素手で、組織のある暴力団の真ん中にとびこむようなものである。
その立場はいきおい既成の秩序に従って、世界の変化に追いつこうとする。
公武合体の開国論を唱えるよりほかはなかったのである。
しかもその既成勢力はまったく腐敗していてだらしなく、味方の身上を保護するだけの熱意も組織も持ち合わせていなかった。

古代大和朝廷 (ちくま学芸文庫)
ISBN-10: 4480082298
ISBN-13: 978-4480082299
宮崎市定

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