2015年9月22日火曜日

オリヴァー・トムソン著 山縣宏光/馬場彰訳 「煽動の研究」 TBSブリタニカ刊 pp.50-53より抜粋

プラトンは「国家」のなかで、大衆に対して巧みな嘘をつくように勧めているが、歴史の示すところによれば、まったくの嘘というものは、通常ろくなプロパガンダにはならない。
一度は聴衆の軽信性をうまく利用できても、嘘が発覚した時には、その宣伝源がもう一度信頼されることはほとんどあり得ないからである。

そのような好例は、ヒトラー時代の末期に見られる。
この時には新聞紙面のほとんどの部分がもはや信用されていなかったので、プロパガンダを忍ばせるために星占いの欄まで利用されたのである。
こうした事例は、ドゴール派のテレビが党のプロパガンダに使われ過ぎて信頼されなくなった時にも見られる現象である。

聴衆の信じやすさのもう一つの要因として偏見がある。
マギールは、偏見を持っている聴衆に対する新たなプロパガンダの効果について述べている。
基本的には、聴衆はそのようなプロパガンダを無視するか、あるいは先入観と合致するように宣伝内容の意味を歪めて受け取ってしまう。

聴衆の信条や態度は、引き続き何代にもわたるプロパガンダによってつくりだされたものであることを考えると、これと矛盾する思想を信じさせることは、いかなる宣伝家にとってもきわめて困難であることがわかる(伝統というのは、間接的なプロパガンダ以外のなにものでもない。)

人の態度がいつまでも変らなかったり、聴衆が一見保守的に見えることが多いのは、短期的な宣伝活動に比べて長期にわたるプロパガンダの方が、より深い実質的な効果をもっているためである。
宣伝内容が既往のものと比べて非常に激しく変化した場合―たとえば、イスラエルにおけるキリストの在世時代、ドイツにおける1930年代、十字軍時代の封建ヨーロッパ、もしくは福音主義復興時代のイギリス人などの場合―、初めは効果のあがらないプロパガンダが、その後突然、精神的準備を促す感情の高揚とともに、激しい回心を生じるのも、前と同じ理由によるものと考える。

換言すれば、真に根本的な態度変化が起きるためには、おそらく長い前宣伝や、大きな感情の高まり、あるいはサーガントが洗脳や改宗の研究のなかで記述しているように、身体への攻撃さえ要求される。

こうした例は、ダマスカスに赴く途中のパウロを襲った眩しい光とか、ケストラーがマルクス主義への回心を語った時のような目標喪失と帰依の物語などに見られる。

別のプロパガンダに前もって触れることは、後のプロパガンダにとってすこぶるハンディキャップになるという事実から、次のような可能性が出てくる。
すなわち、プロパガンダをイデオロギーに対する一種の予防接種として見立て、その機能をもっと徹底的に衆目にさらすことによって、将来予測されるプロパガンダに対して免疫性をつけるように国民を訓練できるということ。
そして、もう一つの可能性として、プロパガンダというものが議論もしくは問題の両面性を取上げ、自己の立場を論証したり支持したりすると同時に、相手の立場の過ちも証明したりその権威を落したりすることによって、より大きな効果をあげ得るということがある。

この分野では、マクガイアがいくつかの実権について報告しており、フェスティンジャーとカールスミスは偏見と認識の不一致というややむづかしい分野について同じく実権報告を行っている。
抽象的な心理学の理論は、こうした方面ではたいして説得力がないし、今のところあまり役にたっていない。

媒体が伝わる範囲を拡大する方法にはいくつもあり、また聴衆によってとくに高い受容性を示すこともあるが、宣伝効果を増す主な原因は、宣伝内容の組み立て方にある。
媒体面でよく知られた強化要因は、もちろん繰り返しである。

ゲッペルスは言っている。「何度も繰り返せば嘘でも人は信じる」と。1776年、フランスで親米宣伝をした際の繰り返しの効果に感銘を受けたベンジャミン・フランクリンは次のように言っている。

「鉄は熱いうちに打て、というのはもちろん正しいが、冷めないように絶え間なく打ち続けることも実行可能だ」。
しかし、繰り返しは、結局は「収穫逓減の法則」もしくは過剰効果という壁にぶつかる。
これは、ふつう退屈さが増大したり、繰り返しの持つある特徴のために敵対的な態度が引き起こされるからである。
にもかかわらず、繰り返しの限界についての絶対的な法則は存在しない。
限界は当然、宣伝内容、媒体、および聴衆の性格によって変化するからである。

聴衆が異常に高い受容性を示すのは、聴衆がとくに高い読み書きの能力とかその他の受容技能を持っている場合、もしくは時に漠然と精神的空白と呼ばれる状態で悩んでいたりする場合である。
聴衆が「倦怠」に苦しんでいるときは、既存の思想がいわば老朽化して新しい事物を導入する能力を失っているので、聴衆は新しいプロパガンダによりひかれる傾向がある。

すでに述べたように、一般に思想というものは保守的であるが、同時にまた一つの思想が終わりに近づくと、新しい観念形態を渇望するようにもなってくる。
ホッファによれば、「大衆運動がその発生期に信奉者をひきつけて放さないのは、その教義とか約束とかのためではなく、それが個人生活の不安とか無意味さから逃避する場所を与えてくれるからである」という。極論だが、検討の余地はあろう。

  • 出版社: TBSブリタニカ (1983/06)
  • ASIN: B000J78NSU

  • 馬場彰





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