2020年5月30日土曜日

20200530 文藝春秋刊 山本七平著「ある異常体験者の偏見」pp.69‐71

文藝春秋刊 山本七平著「ある異常体験者の偏見」pp.69‐71
ISBN-10: 4163646701
ISBN-13: 978-4163646701

『一体「扇動」とは何であろうか。扇動は何も軍隊だけではなく、日本だけでなく、また現代だけのことでもない。「扇動」は外部から見ていると、何かの拍子に、何かが口火となって、全く偶発的にワッと人が動き出すように見えるが、内実はそうではない。「扇動」には扇動の原則があり、扇動の方法論があって、この通りにしさえすれば、だれでも、命令なくして人を動かし、時には死地に飛び込ますことが出来るのである。これは非常に恐ろしい力をもつ一種の誘導術であって、その術を完全に心得て自由自在につかえるものが、いわば二型(叱咤・扇動型)の指揮官である。

 原則は非常に簡単で、まず一種の集団ヒステリーを起させ、そのヒステリーで人びとを盲目にさせ、同時にそのヒステリーから生ずるエネルギーがある対象に向かうように誘導するのである。これがいわば基本的な原則である。ということはまず集団ヒステリーを起さす必要があるわけで、従ってこのヒステリーを自由自在に起さす方法が、その方法論である。この方法論はシェークスピアの「ジュリアス・シーザー」に実に明確に示されているので、私が説明するよりもそれを読んでいただいた方が的確なわけだがー実は、私は戦争中でなく、戦後にフィリピンの「戦犯容疑者収容所」で、「シーザー」の筋書き通りのことが起るのを見、つくづく天才とは偉大なもので、短い台詞によくもこれだけのことを書きえたものだと感嘆し、ここではじめて扇動なるものの実体を見、それを逆に軍隊経験にあてはめて、「あ、あれも本質的には扇動だったのだな」と感じたのがこれを知る機縁になったわけだから、まずそのときのことを記して、命令同様の効果をもつ扇動=軍人的断言法の迂説的話法に進みたい。

まず何よりも私を驚かしたのは「シーザー」に出てくる、扇動された者の次の言葉である。

市民の一人「名前は?正直にいえ!」
シナ「名前か、シナだ、本名だ。」
市民の一人「ぶち殺せ、八つ裂きにしろ、こいつはあの一味、徒党の一人だぞ。」
シナ「私は詩人のシナだ、別人だ。」
市民の一人「ヘボ詩人か、やっちまえ、ヘボ詩人を八つ裂きにしろ。
シナ「ちがう、私はあの徒党のシナじゃない。」
市民の一人「どうだっていい、名前がシナだ・・・」
市民の一人「やっちまえ、やっちまえ・・」

こんなことは芝居の世界でしか起こらないと人は思うかも知れないーしかし「お前は日本の軍人だな、ヤマモト!ケンペイのヤマモトだな、やっちまえ、ぶら下げろ!」「ちがいます、私は砲兵のヤマモトです。憲兵ではありません」「憲兵も砲兵もあるもんか、お前はあのヤマモトだ、やっちまえ、絞首台にぶら下げろ」といったようなことが、現実に私の目の前で起こったのである。これについては後で詳述するが、これがあまりに「シーザー」のこの描写に似ているので私は「シーザー」を思い出したわけである。新聞を見ると、形は変わっても、今も全く同じ型のことが行われているように私は思う。
 一体、どうやるとこういう現象が起こせるのか。扇動というと人は「ヤッチマエー」「ヤッツケロー」「タタキノメセエー」という言葉、すなわち今の台詞のような言葉をすぐ連想し、それが扇動であるかのような錯覚を抱くが、実はこれは「扇動された者の叫び」であって、「扇動する側」(?)ではないーすなわち、結果であって原因ではないのである。

ここまでくればもう扇動者の任務は終ったわけで、そこでアントニーのように「・・動き出したな、・・・あとはお前の気まかせだ」といって姿をかくす。というのは扇動された者はあくまでも自分の意思で動いているつもりだから、「扇動されたな」という危惧を群集が少しでも抱けば、その熱気は一気にさめてしまうので、扇動者は姿を見せていてはならないからである。もっとも、指揮者の場合は、大体、この「二型」が「一型」(教祖型)の仮面をかぶるという形で姿をかくすがー。

 従って、扇動された者をいくら見ても、扇動者は見つからないし、「扇動する側の論理」もわからないし、扇動の実体もつかめないのである。扇動されたものは騒々しいが、扇動の実体とはこれとは全く逆で、実に静かなる論理なのである。これは「シーザー」の有名なアントニーの演説を仔細に読まれれば、だれにでもわかる。そこには絶叫や慷慨はない。彼は静かに遠慮深く登壇し、まずシーザーの死体を見せる。そして最後をシーザーの「遺言書」で結ぶ。いわば「事実」ではじめて「事実」で結ぶ。この二つの「事実」の間を。一見まことに「静かで遠慮深い問いかけ」を交えつつ、あくまでも自分は「事実」の披露に限定するという態度をとりつづけ、いわゆる意見や主張を述べることは一切しない。』