2023年10月20日金曜日

20231020 株式会社筑摩書房刊 祖父江孝男著「県民性の人間学」 pp.11-13より抜粋

株式会社筑摩書房刊 祖父江孝男著「県民性の人間学」
pp.11-13より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 448042993X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480429933

私たちは、初対面のひとに、何気なく、「ご出身はどちらですか」と聞くことがある。たいして深い理由はないのだが、出身県がわかるとなぜか納得することもある。

 日本はいうまでもなく小さな島国であるが。たしかに沖縄と北海道の自然環境には大きな違いがあるが、これだけ交通網が整備されマスメディアが発達した現代にあって、出身県がどれだけの意味を持つのか、考えてみれば不思議なことである。

 にもかかわらず、私たちは相手の出身県がわかると、なにかそれまで見えなかったものが見えたような気になることがある。

 たとえば東北地方の出身と聞いただけで、「無口」「保守的」「内向的」あるいは「我慢強い」などのイメージを持ってしまう。九州出身と聞くと「情熱的」「陽気」「外向的」「質実剛健」といったイメージを浮かべる。

 そんな場合、当然、大きな疑問が湧いてくる。「はたしてイメージ通りの性格なのか」という疑問だ。県民性というものを、どこまで信じていいのかという疑問である。

 これは突きつめて考えれば「県民性は実在するか」という疑問である。青森県出身なら、誰でも無口で内向的とはかぎらない。おしゃべりで外向的な人もいるだろう。鹿児島県出身の人でも、陰気でクヨクヨ悩むタイプの人がいるだろう。したがって、固定観念に当てはめて相手の性格を決め付けるのは、はなはだ危険なのである。

濃淡はあっても県民性は実在する

 誤解のないように最初に断っておくと、県民性とは多分にイメージであることが多い。いま述べたように、東北人といえば暗くて内向的と思われ、九州人といえば明るくて情熱的に思われるのもイメージのせいである。東北と九州の風土的なイメージを、そのまま性格に反映させている。

 そのイメージに当てはめて他県人を解釈すると、相手の性格を一部しか見ていないことになる。青森県人を無口だと思い込んでしまうと、初対面の人が青森出身と聞いただけで、「この人は無口な人だな」と決め付けかねない。

 けれども、いろいろなデータにあらわれた数字や、その地域の人だけの集まりを見ていると、なるほどたしかに県民性は実在するなと思うことが多い。

 事実、ほとんどの県には最大公約数的な特徴が実在する。それがはっきりあらえあれる県と、ばくぜんとしたままの県に分かれることはあっても、県民性が実在するとしかいいようのないケースが多いのだ。 

 ではいったい、この狭い日本のなかで、なぜ県民性が生れてきたのだろうか。

 

 

20231019 光文社刊 湯川秀樹・市川亀久彌著「天才の世界」 pp.73-76より抜粋

光文社刊 湯川秀樹・市川亀久彌著「天才の世界」
pp.73-76より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4334785204
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4334785208

いいご指摘をしてくださいました。いずれにしても、転換期社会で、社会経済史的に大きく変わろうとしている。具体的には奈良から京都への遷都ということをいわれましたけれども、そういうふうにみていきますと、1970年代、一挙に現代にもどりますけれども(笑)、わたしがなぜ先生にこういうことをお聞きしたかと申しますと、歴史的に現代から過去の教訓、あるいは知識というものを若干考慮に入れようとしているわけなんです。現在のような異常な世界史的な、危機的状況といいましょうか、混乱を目の前にして感じますことは、20世紀の後半から21世紀にかけて、大創造をする人間が、可能性としては多発する社会経済史的条件があるのじゃないかということ・・・。

湯川 そうでありそうに、ぼくにも思えますね。あなたのおっしゃられるように、いままでいろんな時代がありまして、ひじょうに独創的な人、あるいは天才といわれるような人がわりあいかたまって出た時代と、そうでない時代と、明らかにあるわけですね。方面によって多少時期がずれておりますけれどね。そういう点からみると、この20世紀の最後の30年というのは、やはり大きな転換期にならなければ困るわけでしょうね。

―ということは、同時に大きな才能をもった人物が・・。

湯川 出てこないと困るのじゃないか。しかし、それを出す力を人類は喪失しつつあるのかどうか、これはたいへんむつかしい問題で、たとえば管理社会とかなんとかいわれて、先進国からはなかなか出にくい。先進国でない国からは、また別の理由でなかなか出てこないということであれば、それも困るわけです。待望論というものはありうるわけですけれども、待望どおりほんとうにそういうふうになるかどうか、わたしにはまだちょっと見通しがつかないんですね。なぜかというと、一口に情報化社会とか管理社会とかいわれる新しい形態にだんだんなってくる。これはひじょうにむつかしい社会でして、そのなかでたとえば創造的なマイノリティ、少数者というものを生み出すことは、ひじょうに困難な状況があるわけでしょう。ものを考えんでもよい、考えたければコンピューターに考えさせろという式の風潮が盛んになっている。

たとえばお月さんに行こうといったら、大きなお金を使って、何万人がそのなかに組み込まれ、無事にお月さんへ行けたという状況で、そこで創造者というものはどこにいつのか、そこにも何人かの創造者がいるかもしれませんよ。しかし、それはわれわれが真の創造者といっているものとは違うわけでしょう。計画どおりお月さんへ行けるようになったということであって、なにか思いがけないものを生み出したという状況とは違いますし・・・。

―ただ、問題意識としては、いま先生がおっしゃったようなトータルな、真の意味における大創造者が、どうしても生まれてこなければならないような条件のもとにある・・。

湯川 それは認めますね。狭く日本だけの状況をみましても、市川さんやわたしが、ずっと昔から創造性ということをいつもいっていても、世間はいっこう相手にしなかった。それがこのごろは創造性の開発というようなことをしきりにいっている。まだ、こっちのいうていることばがほんとにわかっていないと思うけれども、みながそういうことを口にするようになってきたということは、たしかに変化であり、またそうなる必然性があったのでしょうな。したがって、そこから何かを期待していいのじゃないかなという感じもするわけですね。
(1971年4月21日)