2024年4月29日月曜日

20240429 昨日の続き、ある程度大きな規模の歴史を扱う著作から

おかげさまで昨日の投稿記事は、投稿翌日としては比較的閲覧者数が伸びました。これを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。

さて、昨日の投稿記事でアレクシ・ド・トクヴィルとユヴァル・ノア・ハラリとの著述の仕方に類似するとして宮崎市定を挙げましたが、その後、それ以外に「銃・病原菌・鉄」上下巻の著者であるジャレド・ダイアモンドの文章とも通じるものがあることが思い出されました・・。

「銃・病原菌・鉄」上下巻が我が国で刊行されたのは20年以上前であり、私は和歌山市在住期間に読んだ記憶があります。そして、その後、2016年、世界規模でのベストセラーとしてハラリによる「サピエンス全史」上下巻が広く書店に並ぶようになりましたが、いくつかの書店での陳列で、「サピエンス全史」の隣やごく近くに「銃・病原菌・鉄」が関連著作のように並んでいるのを見たことを記憶しています。

あるいは、そのような配置を採る書店は現在もあると思われます。そして、その理由を考えてみますと、両著共に「ある程度大きな視座から眺めた、さまざまな歴史の推移を述べて、それらから考えられる知見や見解などを述べる」といったところにあると云えます。

私見としては、そうした著述・書きぶりにて歴史を扱った著作は、興味深いものであり、さらにまた、そうした書きぶりでの歴史の著作は、比較的読み易いものになると思われます。また、そうした著作の代表的なものとしてフレイザーによる「金枝篇」が挙げられると考えます。

こちらの著作は、記載内容の真偽などをあまり考慮せずに読み進めますと、大変に興味深いものであり、これまで知ることがなかった、かつての人類のさまざまな様相が浮かんでくるのですが、こうした、いわば帰納法的な記述(具体例の羅列)の著作(特に大著)とは、比較的容易に我々をこれまで知らなかった世界に誘うことが出来るようで、あるいは先述の「銃・病原菌・鉄」や「サピエンス全史」が世界規模でのベストセラーになった理由は、このようなところにもあるのではないかと思われるのです。

ともあれ、そうしますと、昨日の投稿記事で述べた宮崎市定の諸著作もまた、ハラリによる「サピエンス全史」が発売する際に関連著作として近隣に配置することも適切であったと思われるのですが、そうした書籍の配置を採る書店は2016年当時なかったと思われます。

そしてまた、その後もハラリによる新著が定期的に刊行されましたが、それぞれの発売の際においても、宮崎市定の著作が関連著作といった扱いで、近隣に置かれていたことはなかったと思われますので、今後の世界情勢を検討するためにも「ある程度大きな歴史の動き」を扱った著作が読まれる世界的気運・傾向があるなか、我が国では、宮崎市定などの研究者がもう少し取りあげられ、そして、より多くの興味を持つ方々に読まれたら良いと思われました。

ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂きどうもありがとうございます!

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2024年4月28日日曜日

20240428 トクヴィル、ハラリそして宮崎市定から

ここ数日間は、久しぶりに自らの文章によるブログ記事を作成しましたが、数日続けますと、また自らの文章を作成する感覚が作動するのか、このように、あまり躊躇なく文章を作成することが出来、また同時に、そのさきに続く文章の主題についても、同様にあまり躊躇なく選択して、書き進めることが出来るようになるのだと思われます。

そういえば、ここ最近はアレクシ・ド・トクヴィルによる「旧体制と大革命」を読んでおり、それと並行して文庫版のユヴァル・ノア・ハラリによる文庫版の「21lessons 21世紀の人類のための21の思考」も読み進めてきたのですが、少し辛く感じられてきたため、ここ数日は片方を読むのを止めています。とはいえ、それにより、ここ2日間、自らによる文章のブログ記事作成が出来ていたのであれば、それはそれで問題はないと考えます。

そうした事情で「旧体制と大革命」は現在も読み進めており、またトクヴィルによる著作は、当著作を含め、これまで邦訳版しか読んだことはありませんが、おそらくは、そこからも知覚出来る、物事の変遷の推移などを説明する際などによくあらわれる、ある種の「トクヴィル節」のようなものがあり、これがまた、先述の「21lessons 21世紀の人類のための21の思考」の著者であるユヴァル・ノア・ハラリの文体とも何やら近しいように思われるのです。これは先日、ハラリの著作を読み進めることを止めたことによる、何らかの効果により、そのように感じられるのか分かりませんが、他方で、双方著者ともに、それぞれの記述で事物の歴史的な変遷の推移を述べることが多く、そしてこれが、双方を近しいと考える主因であると考えます。

さて、ではほかに、こうした歴史的推移の説明が文中に多くあると思われる著者をと、考えてみますと、宮崎市定がそれに近いのではないかと思われました。また、そこから宮崎市定のような歴史家が戦前から戦後期も通じて活躍することが出来た社会とは、そこまで悪くなかったのではないかと考え、その背景を知るために「宮崎市定」とネット検索をしたところ、その経歴に「(旧制)大学を卒業後、1年志願兵として入営、そして除隊後の1932(昭和7)年、(旧制)高等学校教授職にある時に第一次上海事変に応召されて出征し…」と書かれていました。そこから、戦地の補給所所長などを務める応召の予備役下級士官の本職が高等教育機関の教授職であるといった社会に、ある種、西欧社会に近しいものを感じましたが、あるいはまた、こうした設定は小説や映画やマンガの設定としても大変面白そうであり、話の展開としては、大学生時代に予備役士官の訓練課程を経て、その後、東洋史を専門とする研究者となり、(旧制)高等学校で教鞭を執っている主人公が、中国大陸での戦線の拡大により応召され、やがて戦火は収まり、最前線からは少し離れた補給所の所長として主人公が落ち着いていた頃から、度々、派遣軍総司令部などの上級司令部の幕僚達が末端の補給所まで訪れるようになり、そこで、東洋史からの観点による中国諸組織との外交交渉や文化に関連することなどについての助言などを求められ、やがて今度は、逆に末端の補給所所長が上級司令部にまで出向いて、幕僚を相手に講義形式にて情報提供などを行い、さらには変装をして敵奥地にまで進入して、敵軍の規模、装備状況などを把握して司令部に報告するなどといった特殊任務をもするようになり・・・といったシリーズものの背景として、なかなか面白いのではないかと思われます・・。

と、このようなことを書いていますと、不図、実はこうしたことが思いついたのは、先日読了したトルストイの「セワ゛ストーポリ」からの影響であることに気が付かされました。この「セワ゛ストーポリ」の和訳文は、おそらく、視覚に重点を置いたものであり、あるいはHBOなどの海外の優れた映画・ドキュメンタリー作成会社が再現を試みると良いと考えます。

ともあれトクヴィル、ハラリ、宮崎市定そしてトルストイと色々と話は飛びましたが、このようにあまり締りはないものであれ、文章を著していくうちにまた、新たな文章作成の感覚を見出していくのではないかと思われます。そのため、今しばらくは地の文章で書いてみます。

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2024年4月27日土曜日

20240426 鹿児島訪問による記憶の励起と、それに対応する言語との関係について

昨日は、直近の鹿児島訪問による在住期間の記憶の励起そして想起について述べました。また、これら想起された記憶は、これまで(どうにか)9年近く当ブログを継続してきた私の基層にあるものであり、また同時に、以前にも当ブログで述べたことではありますが、これまでのいくつかの異郷在住経験の中でも特に印象深いと云えます。

もちろん、それ以前の和歌山もまた、和歌山市と南紀白浜とで、それぞれ記憶がありますが、それらは総じて鹿児島のほど強烈なものではありません。とはいえ、おそらく、記憶とは、強烈であればあるほど良いというわけでもなく、また私の場合、和歌山、南紀白浜での在住経験や記憶があったため、さらに西南方面の鹿児島での新たな生活も、そこまで大きな心身への負担を伴わずに、どうにか馴染むことができたのではないかとも思われます。

また、昨日の投稿のブログで「鹿児島での記憶は人に関するものが多い」と述べましたが、これはについては、鹿児島市の中心市街地・繁華街である天文館を歩いていますと、何故か、当時の記憶が思い起こされることが多く、また、それは必ずしも自分が歩いている天文館にまつわるものだけではなく「・・ああ、そういえば、そうだったなあ・・。」といった、いわば、隠れて見えなくなっていた在住当時の記憶が、突如現れるといったことが多いです。

さらに、対話から「ああ、そういえば、あの時はそうだったなあ・・」といった具合に想起されることもあり、また、その記憶をその場で話して当時の様子がさらに鮮明に思い出されることもありますが、割合としては、さきに述べた、市街を歩いている時などが多いと云えます。

先日の鹿児島訪問でも、そのようにして、記憶が度々想起され、そうした記憶をもとに、本日ではありませんが、いずれ、当ブログ記事で述べたいと考えていますが、しかし、ここまで書いていて、不思議あるいは面白いと思われたことは、想起された記憶の内容が、いずれも実際に自らの経験であることを疑わないことです。

つまり、それらの記憶はいまだ反省や考察を経ておらず、いわば即自的な記憶と云え、また他方で、それが、自らの、具体像を持つ記憶の素材になるということです。そして、この想起されたての記憶とは、その後に為されるさまざまな検討、考察において極めて重要なものとなり、そこから、この段階における、ある種の「愚直さ」ともとられかねないほどの「率直さ」すなわち、過去の現実での事物と、それに対応する言語の精確さのみに注意を集中した態度が重要になるのではないかと思われます。

そしてまた、こうした「率直さ」とは、おそらく、社会において、さまざまな文化現象が洗練、発展すると、それに伴い、社会におけるスノッブ的な傾向が強化され、徐々にさきの「率直さ」のような態度が無粋であり、ダサく、カッコ悪いものと見なされる傾向があると思われます。

とはいえ、そのようにして、現実の事物と、それに対応する言語の関係が、あまり考慮されなくなりますと、やがて、誰もが自信をもって自らの言葉で言語表現をすることが困難になっていくのではないかと思われます。

そして、このこと、つまり事物と言語の対応関係については、鹿児島を主とする九州での在住期間で悩んでいた記憶がありますので、私にとって九州、鹿児島への訪問は、さきの対応関係における率直さをあらためて考えさせる契機となる一面があるとも言えます。

現象と言語の対応関係の精確さについて、私はそこまで意識しているわけではありませんが、しかし、それがあるからこそ、事物と言語との調和(レジストレーション)が可能になり、そしてまた、そこから、歴史や、その蓄積から析出される思想などへと至るのではないかと考えます。

その意味において、今世紀に入ってから昨今に至るまでの我が国の各種文化は、さきの「事物と言語の対応関係の精確さ」の衰亡を望んでいるようにも見え、また、それは思いのほかに成功しており、それ故に、現今の我が国社会全般では「Y本のお笑い」などでよく聞かれる語彙や言い回しが盛んに流通しているのではないかと察せられます・・。

ともあれ、私の場合、鹿児島を訪れますと、自らの言語の用法や、その言語の現象への対応関係などについて考えさせられますが、その意味で、あるいは九州全般の言霊・気風の方が、日本語本来の性質(Genius)を現在までより精確に伝えているのではないかと考えさせられ、また、そこから谷川健一が述べていた、琉球や鹿児島の島嶼部などの謡が、我が国の詩や文学などの起源となったという説もまた、そこまで荒唐無稽なものではないと私は考えるのです。

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2024年4月26日金曜日

20240425 今回の鹿児島訪問と個性について

さきほど気が付きましたが、昨日分の記事投稿により、当ブログの総投稿記事数が2180に達していました。そして、今後さらに当記事を含めて20記事の更新により、当面の目標である2200記事に到達することが出来ます。これを現実に落とし込みますと、20記事の更新は毎日1記事投稿のペースで20日間となり、来月中旬頃での到達が見込まれますが、これに、もう少し余裕を持たせて、どうにか来月中での到達が出来れば良いと現時点では考えています。とはいえ、先日の久々(半年ぶり)の鹿児島訪問により、懐かしい先生方にお目に掛かることが出来、また、そうした中で、知ってか知らずか、何度か、以前に当ブログにて述べたことを話題にされていたことが、異なる方々との会話であったことから、思いのほかに当ブログを読んで頂いているのではないかと、推察されましたが、こうしたことは、以前にも述べましたように、気にしても仕方がありませんので、とりあえずは放置安定にて以降も進めて行きたいと考えています・・。

さて、昨日投稿の記事にて述べましたが、私の場合、鹿児島滞在期間の記憶は、その自然環境よりも、人々の雑踏の中のような、日常の生活の場のなかで、より想起される傾向があると思われます。また、以前、お世話になった先生方と会話をしていますと、自然と、こちらも以前に先生方と対応していた時分のテンションになるのですが、それが現在の通常の私のそれと比べますと有意にハイテンションであり、そして先生方との会話も盛り上がるのです・・。

現在の社会風潮からしますと、こうしたことを現在のこととして述べることは困難であるのかもしれませんが、10年以上前の鹿児島では飲み会(飲ん方)の話題で所謂「下ネタ」になることは少なからずありました。そして、その「下ネタ」で爆笑することも度々あり、こちらの鹿児島では、そうした飲み会(飲ん方)での「下ネタ」が職人的に巧みな先生(当時大学院生で病院助教)がおられ、現在思い返してみますと、こちらの先生のあの才能には驚異の念すら抱かせます。あるいは、ああした才能が別様に進化したものが、同郷と云える綾小路*みまろ氏の当意即妙な話芸にも通底するのではないかとも考えさせられます。

ともあれ、以前に在住していた場所に訪問して、彼の地の方々と会話をしていますと、またそこで、いつもよりテンションが上がり、そして、それが作用して、記憶の想起へと至るのではないかと思われますが、その意味で、今回の鹿児島訪問は当ブログの記事作成のための貴重な糧になったとも云えます。どうもありがとうございます。

また、40代にもなりますと、さすがに相対する方が発する精神的な特徴(波長のようなもの?)は、おそらく半ば無意識で類型化するものであり、その中で分類が困難であると思われた方々は、やはり、それぞれに多少変わったところがあるのだと云えます。そしてそれは、さきに述べたテンションの上下によって、類型化、認識の仕方も変化するのかと考えてみますと、それにはあまり影響はしないと考えます。

あくまでも私見ではありますが、相対する人の精神的な特徴を感知するのは、そのテンションからではなく、それよりも、その話す内容によるところが大きいのではないかと、当然と云えば当然のような考えに至るわけですが、では、その話す内容にどのような特徴があると、類型化が困難になるのかと考えてみますと、これは多種多様であり、汎用性のあるマニュアルに基づく審査のようにはならないと考えます。

とはいえ、それでもやはり、それを推し量る指標があると考えてみますと、それは「類型化に反する変わったもの」として考えてみますと、当然と云えば当然であるのかもしれませんが、「突出した何かを持っている」ことが共通して挙げられると考えます。それは自らの努力によって獲得したことであることから、それが、その人の性格の他の部分にまで影響を及ぼして類型化が困難と云えるある種特徴的な性格を形成するのではないかとも思われます。

そうしますと、では「突出した何かを持っている」とは、どのようなことであるのかと考えてみますと、これもまた「突出した」自体が多くの場合、抽象的且つ相対的なものであり、あるいは私がそのように考えるだけであるのかもしれませんが、何らかの卓越した学識や技術を持たれているとされる方々は総じて、将棋や囲碁などの名人や名板前、シェフなどにも通じるものがあるのか、ある種の個性(の強さ)を感じさせます。とはいえ、「突出した何かを持っている」は「個性の強さ」と、あくまでも同意ではなく、また、必ずしも繋がるものでもなく、これを言い換えますと、比較的表層的とも云える「個性の強さ」がある中に「突出した何かを持っている」が見つかることがあると云うほどのことです。しかしながら、表層的とした「個性の強さ」を、これまた表層的とされるテンションでなく、その「話す内容」で判断することは、なかなか難しく、そこで聞き手が理解出来る程度に、自らの卓越性を示すことが出来れば、それはそれでスゴイことであるのでしょうが、おそらく精度の維持のためには、ここで、それなりに長い審査期間を要するのではないかと思われます。

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2024年4月24日水曜日

20240424 かつての在住地での感覚や記憶の想起に至る契機から

エックスをご覧になっておられる方でしたらお分かり頂けますが、先週末から去る4/22(月)まで所用のため鹿児島に滞在していました。今回の鹿児島への訪問は、ほぼ半年ぶりでした。

 着陸した飛行機から降りて飛行場内の待合室に繋ぐ可動式の連絡通路(ボーディング・ブリッジ)に入りますと、そこではじめて地域の大気に触れることになりますが、そこで何らかの反応であるのか、かつての鹿児島在住時の感覚や記憶が想起され、甦ってきます。

 空港から鹿児島市内に行く高速バスに乗りますと、そこでまた地域の大気や景色に触れて感覚や記憶が強化されて、やがて目的の市内停留所に到着してバスを降りて市街地を歩いていますと、ここでも、在住当時の感覚や記憶が想起されます。

 こうした一連の経緯は、自らの経験によりますと、和歌山においても同様であったと思われますが、和歌山の場合は、地域の大気から感じられる濃厚な自然の薫りこそが、そこでの記憶の励起や強化に寄与していると思われます。そしておそらく、そうした自然の薫りは和歌山市からさらに海南、有田、湯浅、御坊、印南、みなべ、紀伊田辺、南紀白浜までと南下して行きますと、さらに強くなり、当時の記憶や、それに付随する記憶なども想起されるのではないかと思われます。その意味で、私の和歌山での記憶は、同地の自然環境に強く依拠しているのだと云えます。また、以下については全あくまでも自らの偏見になりますが、そうした豊かで濃厚な自然環境があるからこそ、その地紀伊半島西岸一帯で、世界に知られる我が国の和食文化での重要な調味料である醤油や鰹節が生れたのではないかと思われるのです。

 このことは、別の機会でさらに詳細に検討して述べたいところですが、ともあれ、私の場合、在住経験を持つ地域に行きますと、在住当時の記憶が想起されることが多く、そうした中、和歌山でのそれは、彼の地の濃厚な自然環境に依拠するところが大きいと云えますが、その理由については不明です。そして他方、先日訪問した鹿児島については、さきの和歌山と同様、自然環境の薫りに因るとも云えますが、それ以外にも市街地の雑踏や市電での移動時の車両内の様子などといった、その中に人間が含まれている景色から、当時の感覚や記憶が想起されるといったことが多いように思われます。

 そして、その理由について考えてみたところ、和歌山の場合は、当初、自然が多い南紀白浜に在住していたことから、雑踏や市電といった都市的な要素が入り込むことがなく、また、南紀白浜への移動は、3、4月とは云えなお寒い雪景色の北海道からでしたが、この転勤に伴う環境の変化が大きかったのではないかと思われます。そして、おそらくはそのために南紀白浜転居後からしばらくの期間は、食べる食べ物が何でも美味しく感じられました。その中でも特に強く印象に残っているのが、転勤後しばらくして行った田辺市宝来町の国道424号線沿いにあるうどん そばのお店で頂いた、うどんと丼ものの定食でしたが、そこで私は初めて関西風のだしの美味しさを実感を通じて理解した記憶があります。ともあれ、このように初めての関西圏での生活は、特に当初から色々と驚くことがありましたが、そうした経験を得たのが、関西圏で辺縁と云える和歌山県の、さらに辺縁である南紀白浜であったことが案外、私にとっては良かったのではないかと思われるのです。

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2024年4月19日金曜日

20240418 株式会社ミネルヴァ書房 岩間陽子・君塚直隆・細谷雄一 編著「ハンドブック ヨーロッパ外交史 ウェストファリアからブレグジットまで」 pp.58‐60より抜粋

株式会社ミネルヴァ書房 岩間陽子・君塚直隆・細谷雄一 編著「ハンドブック ヨーロッパ外交史 ウェストファリアからブレグジットまで」
pp.58‐60より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4623092267
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4623092260

十四世紀以降バルカン半島を支配していたイスラム王朝のオスマン帝国は、宗教共同体(ミッレト)を基盤とした統治制度を敷いていた。しかし、フランス革命後バルカン半島にも西欧から「ナショナリズム」概念が入ってくると、バルカンの非ムスリムは各地で自治権獲得の運動や、独立運動を展開した。その結果、ギリシャ、セルビア、ルーマニア、モンテネグロは十九世紀中にオスマン帝国から独立し、ブルガリアは自治権を獲得した。各国は、「同胞民族」と見なす人々が国境の外に依然として存在すると主張し、「同胞民族」の居住する地域の獲得を目指した。獲得すべき土地があったのはオスマン帝国であった。また、多民族国家であるオーストリアの南部地域もバルカンの民族国家は狙うことになる。

 オスマン帝国領ボスニアは一八七八年のベルリン条約によりオーストリアの施政権下になっていた。一九〇八年にオスマン帝国で青年トルコ革命が起こり、ブルガリアが独立を宣言すると、オーストリアはボスニア併合を宣言した。ボスニアの獲得を目指していたセルビア国内では、政府やメディアが反墺的主張を展開し、多くの民族主義団体が組織された。その中には、青年ボスニアとも関係を持つことになる「統一か死か」(通称か死か」(通称「黒手組」もあった。

 バルカンのオスマン帝国の獲得を目指しバルカン同盟を締結したセルビア、ブルガリア、ギリシャ、モンテネグロは、一九一二年一〇月、オスマン帝国を攻撃した(第六次バルカン戦争)。その戦争の局地化を目指して外向的介入を行ったヨーロッパ諸大国は、国際会議を開催し、オスマン帝国領マケドニアを同盟諸国に譲渡する一方、オスマン帝国領アルバニアを独立させることで一致した。後者を強く主張したのが、オーストリアとイタリアであった。アドリア海に面するアルバニアの獲得を目指していたセルビアは、強く反発した。第一次バルカン戦争終結後に、今度は、バルカン同盟が獲得したマケドニアの分割をめぐって同盟内で対立が発生した。一九一三年六月、ブルガリアがセルビアとギリシャを攻撃し、第二次バルカン戦争が勃発した。しかし、ブルガリアは反撃されただけでなく、第一次バルカン戦争で戦ったオスマン帝国、さらには中立を保っていたルーマニアからも攻撃された。そのためブルガリアは敗北し、第一次バルカン戦争で獲得した領土の重要な地域を喪失した。他方、二つのバルカン戦争によって、セルビアの領土は二倍となった。セルビア内外でのセルビア国家の威信は否応なしに高まった。これは、オーストリアにとって致命的な問題であった。

 また、オスマン帝国の勢力がバルカンから駆逐されたことによって、セルビアとルーマニアの次の領土獲得の対象がオーストリアであることは明らかであった。ボスニアを含むオーストリア南部のセルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人の一部には隣国セルビアとともに、南スラヴ国家(=ユーゴスラヴィア)建設を目指す動きもあった。セルビア国内にも同様の考えを持つ者がいた。オーストリアの政策決定者にとって、この南スラヴ運動は、国家の解体を意味したので、セルビアは不倶戴天の敵であった。ウィーンには、外交的手段ではもはやこの問題を解決することはできないとの考えが充満していった。そのような時に、サライェヴォで暗殺事件が起きたのであった。

2024年4月17日水曜日

20240417 和歌山大学経済学会 経済理論 別刷 第415号 2023年12月 阿部秀二郎 著「ケアンズの価値論の背景-ジェヴォンズの価値論の背景に注目して-」pp.7‐9より抜粋

和歌山大学経済学会 経済理論 別刷 第415号 2023年12月 阿部秀二郎 著「ケアンズの価値論の背景-ジェヴォンズの価値論の背景に注目して-」pp.7‐9より抜粋

第2章 ケアンズの価値論

第1節「中間原理」

 ケアンズの価値論が明確に指示されているのが1874年に出版された、「経済学の主導的な原理」であろう。

 本章では、第1章で指示したケアンズの原理(理論)と事実(データ)との関係について見ていこう。

 この原理(理論)と事実(データ)の融合こそが、「経済学の主導的な原理」の目的であった。導入部分でケアンズは、当時、多くの経済学の新たな動向が存在していることを認識しながら、自身の研究が「スミス、マルサス、リカードウそしてミルの労働によってつくられた科学の態度」の延長線であるとする。具体的にケアンズが同一であるとする内容は、人間の性格や経済科学の究極的な前提を構成する自然の物理的条件に関する仮説である。そしてそれらの前提と事実から導入された結論もスミス以降の経済学者のものと異ならないとする。

 一方でケアンズは究極的な原理と結果としての事実との結びつき自体は間違っていないと信じ、その結びつきを説明する原理に問題があるとしており、その説明原理の適切性の必要を説く。

「彼ら(スミス、マルサス、リカードウ、ミル:訳者)と意見が異なる点は、ベイコンの言葉で「〈中間原理(axiomata media)〉」と呼ばれるものである、この中間原理によって、詳細な結果が生み出される高度な原因が説明される。…現時点で一般的に受け入れられている経済学のこの部分における間違った素材はない。そして現在のすべきことは、現在の批判に耐えることができるように、弱い要素をより良い要素にできるだけ替えていくことである。」                       (Cairnes [1874]1)

「中間原理」は、方法論に関するケアンズの書「経済学の性質と論理的方法」で指摘されている。その指摘を利用して、ケアンズが原理をより良いものにしようとしていたことについて説明する。

 書の第3講「経済学の論理的方法」で、ケアンズは社会科学と自然科学の方法を比較する中で、社会科学が自然科学に対して、相対的な利益を有する部分もあると指摘している。(Cairnes[1888]81)それは自然科学は法則を成立するのにとても長い時間を要するのに対して、「〈経済学者は知識や究極的な原因からスタートできる〉」(Cairnes[1888]87)からである。

 経済学では次のような他の科学から得た具体的な事実を利用できるのである。心理的な感情、動物的な性向、生産を支える物理的条件、政治制度、産業上の状態、などであり、これらは他の科学の分野が生み出した結論なのである。

 ケアンズはベイコンの「諸科学の成長(De Augmentis Scientiarum)」やヒューウェルの「帰納科学史」などを利用して、自然科学の歴史的展開について説明する。人間は問題をそのまま未解決にすることを好むのではなく、固定的な概念を、長時間の考究の上で獲得したがるものであり、複雑な現象に対する究極的な原理を古代から想定してきたと説明する。

 タレス、アナクシメネス、ピタゴラスなどの哲学者により、観察に基づき究極的な原理が考えられてきた。その際に用いられた方法は帰納法であり、その方法こそが自然科学の考察の土台であった。そして帰納法に基づき推測された結果と事実との整合性に関する長い調整の結果として確実な前提が得られるようになるとともに、演繹法が確実に影響力を発揮するようになってきたとケアンズは指摘する。

「演繹的推論での発見の成果として・・・高度な原理と経験との結びつきを媒介する多くの原理(中間原理:筆者)が存在した。物理科学の進歩は、アルキメデスや古代の思想家がなしたことにも関わらず、ガリレオと同時代人が主要な動的原理を確立するまでは、歩みが遅かった。しかし一度確立されると、・・・力学、流体学、気学などより土台となる原理に含まれるものが、急速に続いた。」               (Cairnes[1888]85)

ケアンズの指摘する修正すべき「中間原理」は、したがって他の学問より帰納的そして演繹的に獲得された究極的な原理から、ミルまでの古典派経済学者が演繹を行い説明しようとする、まだ事実によって検証され確定されてはいない原理(説)を指す。