ISBN-10 : 4480084878
ISBN-13 : 978-4480084873
日本人の世界観の歴史的な変遷は、多くの外来思想の浸透によってよりも、むしろ土着の世界観の執拗な持続と、そのために繰返された外来の体系の「日本化」によって特徴づけられる。
外来の世界観の代表的なものは、第一に大乗仏教とその哲学、第二に儒学、殊に朱子学、第三にキリスト教、第四にマルクス主義であった。この順序は、必ずしも厳密に、年代の順序ではない。仏教徒儒教は、おそらく同時に、6世紀の中頃に輸入された。しかしそれぞれの世界観が日本文化に圧倒的な影響を及ぼした時期は、仏教の方が儒教の場合よりも早い。仏教は、7世紀から16世紀までの文化の背景として、重きをなした。儒教のの影響は早くから現れて、14、5世紀以降いよいよ強まったが、体系的な世界観としての宋学の影響が決定的になったのは、17世紀以後である。キリスト教は、16世紀後半と19世紀末・20世紀前半の、マルクス主義は両大戦間の知識層に、大きな影響をあたえた。
以上の他にも注意すべき外来思想として、先には老荘があり、後には西欧19世紀の科学思想があって、いずれも文学との関連において見すごすことができない。しかしそのいずれも、自然・人間・社会・歴史の全体を説明しようとする包括的な体系ではなかった。
外来の四つの世界観は、すべて包括的な体系である。抽象的な理論を備え、ある場合には彼岸的であり(仏教・キリスト教)、他の場合には此岸的である(儒教・マルクス主義)が、いずれも超越的な存在または原理との関連において普遍的な価値を定義しようとする。すなわち大乗仏教における仏性、キリスト教における神、儒教における天または理、マルクス主義における歴史である。そこでたとえば、仏性が超越的であるから、菩薩の慈悲が善悪の慣習的な基準を超えて、万人に及ぶということにもなる。神が絶対者であるから、万人はその前で平等であり、神に保証された正義は、特殊な歴史的文化を超えて妥当する。天が君主に超越するから、革命(の古典的な意味)が成りたち、理が普遍的であるから、理とされる規範は社会的状況にに左右されない。歴史の法則が主観に超越するから、上部構造としての思想を進歩と反動の観点から説明することもできるのである。超越者が世界的な存在であれば、体系は彼岸的であり、世界内在的な原理であれば、体系は此岸的である。中国の伝統的な世界観は、印度・西欧の場合と異り、此岸的であった(老荘もその例に洩れず)。日本に印度の影響が及んだのは、中国文明を介してであり、西洋の影響が及んだのは、後の時代になってからの事である。したがって中国的世界観の此岸性は、日本の土着の文化の此岸性を保存するのに役立ったはずだろう。おそらく東アジアの文明の全体について、その思想的特徴は、中国の場合にも、日本の場合にも、共通の此岸的正確であるといえるのかもしれない。しかし今しばらくその面を措いて、外来の世界観の、中国思想の場合も含め、抽象的・理論的・包括的な性格、超越的な原理と普遍的な価値への志向についていえば、それこそはまさに土着の世界観と対照的であるが故に、決定的な影響を日本文化にあたえたのである。
本来日本的な世界観の構造を叙述することは、明示的な理論体系の特徴を列挙するほど容易ではない。神道の理論的な体系は、卜部兼俱から平田篤胤に到るまで、儒・仏・道、またキリスト教のの概念を借用している。外来思想の影響をうけない神道には理論がない。そこで儒・仏の影響が少いとされる記・紀・風土記から土着的と想像されるものの考え方を抽象するほかはないだろう。一方でそれは民俗学的資料と照合し、他方では後代の文献と対比する。そうして想像することができるのは、おそらく下っても4、5世紀の頃には成立していたであろう非超越的な世界観である。その背景には、祖先崇拝・シャーマニズム・アニミズム・多神教の複雑な信仰体系があり、地方によって内容を異にする。その世界観の特徴えおさしあたり要約すれば、およそ次のようにいえるだろう。抽象的・理論的ではなく、具体的・実際的な思考への傾向、包括的な体系にではなく、個別的なものの特殊性に注目する習慣。そこには超越的な原理がない。カミは全く世界内存在であり、歴史的には神代がそのまま人代に連続する。しかもそのカミは無数にあって(八百よろずのカミ)、互いに他を排除しない。当然、唯一の絶対者はありえない。いかなる原理も具体的で特殊な状況に超越しないから、超越的な原理との関連においてのみ定義されるところの普遍的な価値も成りたたない。しかしもちろん、そういうことは、特定の個人にとっての絶対的な価値がありえないという意味ではない。それどころか特定集団の首長が、その集団の成員にとっては、しばしば絶対的な権威となり、忠誠が絶対的な価値となった(天皇制国家からヤクザまで)。しかし他の集団の成員にとっては、その権威は通用しないし、その首長への忠誠は価値ではない。たとえばヤマトタケルがクマソを征伐したのは、自己の集団を拡大するためで、当事者の双方に妥当する価値を実現するためではなかった。その伝統は、少なくともたてまえとして、聖地を解放するために戦った十字軍の話と、根本的に異なる。十字軍の目的は、彼ら自身もトルコ人にも妥当するはずの神の正義を実現することであった。
このような土着の世界観が、外来の、はるかに高度に組織され、知的に洗練された超越的世界観と出会ったときに、どういうことがおこったか。第一に、外来の世界観がそのまま受け入れられた場合があり、第二に、土着の世界観を足場としての拒絶反応があった。しかし第三に、多くの場合におこったことは、外来の思想の「日本化」である。外来の思想が高度に体系的な観念形態であった場合には(儒・仏・キリスト教・マルクス主義)、その「日本化」の方向は常に一定していた。抽象的・理論的な面の切り捨て、包括的な体系の解体とその実際的な特殊な領域への還元、超越的な原理の排除、したがってまた彼岸的な体系の此岸的な再解釈、体系の排他性の緩和。たしかに少数の例外もあった。また以上の方向のどの面がめだつかも、場合により異なっていた。しかし外来の世界観の体系が日本の歴史過程のなかで変化したとき、変化には必ず一定の方向があり、逆の方向へ変った例はない。ということは、当然、変化を引きおこした力が、歴史のあらゆる時代を一貫し、遂に今日に到るまで失われなかったことを示唆するだろう。その力の主体を土着の世界観と称ぶこともできる。それは「土着の世界観」の一つの定義である。かくして日本文化の背景には、常に、外来の世界観、土着の世界観、日本化された外来種の世界観があったということができる。