2026年7月9日木曜日

20260709 11年の継続、2500記事の到達から思ったこと

 おかげさまで、先月6月22日に、当ブログ開始から丸11年となりました。また、去る7月6日の記事投稿により、総投稿記事数が当面の目標としていた2500に到達しました。とはいえ、これまでと同様、目標到達の達成感や感激、感慨は全くなく、そのため今回も、ごく当り前のように、こうしてブログ記事の作成をしています……(苦笑)。
 振返ってみますと、ここ最近は、自らの文章による記事よりも、主に引用記事を作成・投稿してきました。これは、自らの文章での記事作成と比べ、緊張や逡巡などの心理的負担が少なく、そのため、2500記事に到達しても、先述しましたように感慨が乏しかったのではないかと思われます。
 2500記事到達後の現在、こうして自らの文章によるブログ記事を作成していても、不思議なことに、目標到達前のような緊張感はありません。その意味で、引用記事の作成は、私にとって、ある局面においては有効な手段ではあったと云えます。
 もっとも、これまで、引用記事ではなく、自らの文章での記事作成が主であった頃、ある程度の目標へ到達した時も、やはり感慨などは乏しいものでした。そこから考えますと、引用記事であるか、自らの文章であるかの相違は、実のところ、さほど大きなものではないのかもしれません…。おそらく11年間程度継続していますと、自らの文章であれ、引用による文章であれ「ブログ記事を作成する」という行為そのものが日常化され、達成感や感慨などをあまり意識出来なくなるのではないかと思われます…。
 それでも、ブログを継続していますと、時折は面白いことも起きます。去る6月29日投稿分の『インプットとアウトプットとブログ開始に至る契機について』を投稿した後、ほどなくして、文系師匠と鹿児島在住時にお世話になった研究室の先輩から相次いでご連絡を頂き、近況などを知らせてくださいました。しかし、お二人とも私のブログについては、特に触れられませんでした。そのため、これらのご連絡とブログの投稿とは関係がないのかもしれませんが、タイミングを考えてみますと、何らかの関連があったのではないかとも思われます。実際のところは分かりませんが……。
 また、こうしたことは今回だけではありません。たとえば、ある記事を投稿した直後に、それと内容的に関連がある既投稿記事が読まれていたり、あるいは記事で述べた出来事に実際に立ち会っていなければ結び付かないような別の既投稿記事が閲覧されていたりするのを見ますと、何とも不思議な感じを受けます。そして、こうした出来事は決して少なくありません。
 こうしたことを考えますと、たとえ、このような小さなブログであっても、そこで述べた内容が、誰かの記憶を呼び起こしていることもあるのではないかと思われます。そして、もしもそうであるのならば、当ブログのような発信にも、何らかの意味があり、また、私自身としても、それは興味深いものがあると云えます。
 そのため、2500記事は、引用記事の投稿を中心として、どうにか達成しましたが、今後も、あまり変わらないペースで、出来るだけ自らの文章での記事作成を継続したいと考えています。それでも、引用記事がある程度続きますと、自らの文章による記事も比較的スムーズに書けるようで、今回の記事もまた、その流れで作成出来ているのではないかと思われます…。以前のように、自らの文章による記事を連日投稿できるようになりたいものですが、願っていれば、いずれまた、出来るようになると思われます。これまで、何とか当ブログを継続することが出来ていますので…。
 くわえて、ともかく目標としていた2500記事には到達しましたので、今後しばらくは、アウトプットたる当ブログよりも、インプットである読書の方に、もう少し注力したいとも考えています。そして、その背景には、ここ数年の世界情勢の大きな変化があります。
 2020年からの新型コロナ禍、2022年2月からのロシアによるウクライナ侵攻、翌2023年10月のイスラム原理主義武装組織ハマースによるイスラエルへの奇襲攻撃を契機として再燃したパレスチナ・イスラエル戦争など、現在に至るまで世界情勢は混迷を続けています。そのなかで、我が国も必ずしも賢明に処しているようには思われず、他方、国内においても元首相の暗殺をはじめ、さまざまな不祥事やスキャンダルが続き、それ以前の社会とは様相が大きく異なるように思われます。それは、何と云いますか、社会全体で価値観が揺らいでいることを示しているのではないかと思われます。
 そして、そうした中で、新しい情報が次々と現れては消費されていく現在であるからこそ、ある程度長く読み継がれてきた著作を読む、あるいは改めて読み直すことに意味があるのではないかと思われるのです。
 具体的な著作を挙げますと、まずは夏目漱石による『現代日本の開化』です。人工知能が比較的広汎に実装されつつある現在に当著作を読みますと、改めて考えさせられるものがあるのではないかと思われます。こちらは100年以上前に和歌山で行われた講演を基にしたものであり、明治維新以降、急速に西洋文明を受容し、近代化を推し進め、日清・日露の戦役を終えて一段落した頃の我が国において、不可避であったであろう精神的葛藤について述べています。その内容は、人工知能がさらに高度化し、広汎に社会実装されるであろう今後の我が国社会を考える上でも、少なからず参考になるのではないかと考えます。
 漱石は当著作で、西洋の開化が概ね内発的であったのに対し、我が国の開化は外発的であったと指摘しています。換言しますと、我が国は西洋化の波に抗う術はなく、急激に表面だけでも取り繕う必要があったことから、内実が伴わない「表層のみの開化」となり、それが後々、我が国に神経衰弱を齎したと述べています。そして、それが避け難い状況であったとしても、西洋文化崇拝一辺倒になることなく、主体性(自己本位)を保つことが重要であるとも述べています。こうした指摘は、人工知能が急速に進化し、社会へ普及しつつある現在だからこそ、新たな技術をどのように受容し、そして活用していくべきかを検討する上で参考になるのではないかと考えます。その意味で、『現代日本の開化』は、AI時代を考える上でも多くの示唆を与えてくれる著作であると云えます。
 そして、次に挙げたいのは竹山道雄による諸著作です。竹山道雄は、戦間期から戦中・戦後の我が国をはじめ欧州の社会の様相を、さまざまな著作で述べていますが、戦争へ向かう1920・1930年代の社会の空気、時代精神の変化、イデオロギーの対立、そして自由や教養などの意味についての考察は、単に当時の歴史を知るためだけではなく、ふたたび分断や不安が広がる現代の国際社会や我が国の状況を考える上においても多くの示唆があるのではないかと考えます。歴史は全く同じ形で繰り返されるものではありません。しかし、人間社会の構造や、人々の心理には、時代や国境を超えて共通する部分が少なからずあります。であるからこそ、こうした時代変化の様相を冷静に述べた著作は、現代においても参照され、そして来たるべき新たな時代においても意味を持ち続けるのではないかと考えます。しかしまた、竹山道雄による、この時代(戦間・戦中・戦後)を描いた文章は、総じて比較的冷静な筆致ながらも、いや、それだからこそであるのか、読んでいて、現在の我が国社会とあまり変わらない要素が看取されて、徐々に気が滅入ってくると云った特徴があります。そして、それは司馬遼太郎が「昭和には精神衛生に悪いものがある。」と述べていたことと、おそらく通底するのではないかと思われますが、しかし、そうであるからこそ、やはり読んで知っておいた方が良いのではないかと思われるのです…。たとえ、読んでいるさ中に気が滅入って来ても、この場合は、それこそが歴史の持つ他に代替出来ない、大きな価値や意味ではないかと思われるのですが、さて、実際のところはどうなのでしょうか?
 ともあれ、今回もまた、ここまでお読み頂きどうもありがとうございます。そして、今後も引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。


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ISBN978-4-263-46420-5

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2026年7月8日水曜日

20260707 株式会社講談社刊 東浩紀著「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」 pp.16-20より抜粋

株式会社講談社刊 東浩紀著「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」
pp.16-20より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4061498835
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061498839

 前著の『動物化するポストモダン』は、タイトルに示されているように、ポストモダンとオタクの関係を中心とした社会分析の書物である。「ポストモダン」あるいは「ポストモダン化」は、一九七〇年代以降の先進諸国で生じた社会的変化を意味し、「オタク」とは、同時期の日本で成長した、マンガやアニメ、ゲームなどを中核とした趣味の共同体を意味している。
 ポストモダンもオタクも、日本では流行語になってしまったため、いまでは多様な意味を抱えている。そのためにかえって見えにくくなっているが、ポストモダン化の進展とオタクの出現は、時期的にも特徴的にも関係している。したがって、オタクについてポストモダンの概念を使って、また逆にポストモダンについてオタクの経験を参照して考えることには意味がある。そして、その視点からは、いままでの日本社会論ではなかなか語られなかった、戦後日本のある側面が見えてくる。筆者は前著で、このような立場のもとでオタクの歩みに注目し、一九九五年以降、若いオタクが急速に物語に関心を失っているように見えること(「萌え」「データベース消費」の台頭)、そしてその変化が、短期的な流行ではなく、むしろポストモダンの徹底化、すなわち「大きな物語の衰退」の反映として分析できることを指摘した。本書の議論は、まずはそのような状況認識を前提としている。
 私たちはポストモダンと呼ばれる時代に生きている。ポストモダンでは物語の力が社会的にも文化的にも衰える。そして、現在の日本では、オタクたちの作品や市場が、そのようなポストモダンの性格をもっとも克明に反映し、表現や消費のかたちをもっとも根底的に変えている。したがって筆者は、二〇〇〇年代の物語的想像力の行方について考えるために、まずは、その物語の衰退にもっとも近くで接しているはずの、オタクたちの表現に注目するべきだと考える。これが本書の出発点である。

ポストモダンと物語

 つぎに確認しておきたいのは、いままでの文章でもすでに問題となっていた、「ポストモダン」と「物語」の関係である。筆者は本書では、前著との重複を避けるために、ポストモダンの概念についてあらためて説明を行わない。本書の議論では、この言葉については、「大きな物語の衰退」ていどの理解でも文意を追えるようになっている。しかし、誤解を避けるため、あることだけ補足しておきたい。
 ポストモダン化は、社会の構成員が共有する価値観やイデオロギー、すなわち「大きな物語」の衰退で特徴づけられる。一八世紀の末から一九七〇年代まで続く「近代」においては、社会の秩序は、大きな物語の共有、具体的には規範意識や伝統の共有で確保されていた。ひとことで言えば、きちんとした大人、きちんとした家庭、きちんとした人生設計のモデルが有効に機能し、社会はそれを中心に回っていた。しかし、一九七〇年代以降の「ポストモダン」においては、個人の自己決定や生活様式の多様性が肯定され、大きな物語の共有をむしろ抑圧と感じる、別の感性が支配的となる。そして日本でも、一九九〇年代の後半からその流れが明確となった。これが、前著と本書の前提にある時代認識である。
 ところが、このような時代認識を提示すると反論が寄せられることが多い。それは、ポストモダンでは大きな物語は衰退すると言うが、現実には大きな物語はさまざまな局面で復活し、増殖しているのではないか、という反論である。
 二一世紀はポストモダンだという。しかし、実際には世界的には、大きな物語の衰退どころか、文明の衝突や原理主義の復活こそが問題となっている。国内を見ても、ナショナリズムや伝統の復活を願う声はますます高まっている。映画や小説を見ても、緻密な設定と重厚な世界観をもつ長大な物語は、以前と変わらず求められ続けている。話題を『動物化するポストモダン』が対象としたオタクの市場に限定したとしても、そこでも萌えの流行は一段落し、逆に物語が復活しつつあるように見える。そもそも、いまやインターネットは、政治分析からカルトや陰謀論、内部告発まで、世界中の人々が投稿した無数の大きな物語で満ちている。つまりは、マクロな水準でもミクロな水準でも、現在の状況は、大きな物語の衰退というよりも、むしろ物語の過剰や氾濫と捉えたほうが適切なのではないか。
 「大きな物語の衰退」という表現を常識的に理解するならば、このような疑問が生じるのはもっともかもしれない。しかし、その反論は実は誤解に基づいている。というのも、ポストモダン論が提起する「大きな物語の衰退」は、物語そのものの消滅を論じる議論ではなく、社会全体に対する特定の物語の共有化圧力の低下、すなわち、「その内容がなにであれ、とにかく特定の物語をみなで共有するべきである」というメタ物語的な合意の消滅を指摘する議論だったからである。
 ポストモダンにおいても、近代においてと同じく、無数の「大きな」物語が作られ、流通し、消費されている。そして、それを信じるのは個人の自由である。しかし、ポストモダンの相対主義的で多文化主義的な倫理のもとでは、かりにある「大きな」物語を信じたとしても、それをほかのひとも信じるべきだと考えることができない。たとえば、もしかりにあなたが特定の宗教の熱心な信者だったとして、現代社会はその信仰は認めるが、あなたがすべてのひとがあなたの神に帰依するべきだと考え、ほかの神への寛容を侵害することは、たとえそれこそが信仰の表れだったとしても決して許さない。言いかえれば、ポストモダンにおいては、すべての「大きな」物語は、ほかの多様な物語のひとつとして、すなわち「小さな物語」としてのみ流通することが許されている(それを許せないのがいわゆる原理主義である)。ポストモダン論は、このような状況を「大きな物語の衰退」と呼んでいる。
 したがって、現代社会が物語に満たされていることは、「大きな物語の衰退」論への反証にはならない。オタクたちの物語が、たとえ内容的には気宇壮大な奇想に満たされていたとしても、多様な消費者の好みに合わせて調整され、「カスタマイズ」され、それゆえにほかの物語を想像させる寛容さを抱えて作られているかぎりにおいて、それは「データベース消費」のもとにある「小さな物語」として捉えるべきだと筆者は考える。この「ほかの物語を想像させる寛容さ」は、本論でのち論じていくように、現代の文学を考えるうえで鍵となる概念である。

2026年7月7日火曜日

20260707 中央公論新社刊 宮崎市定著「科挙: 中国の試験地獄」pp.2-7より抜粋

中央公論新社刊 宮崎市定著「科挙: 中国の試験地獄」
pp.2-7より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4121000153
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121000156

序論
 中国の政治思想によると天子なるものは天から委任をうけて、天下の人民を統治する義務を負わされたものである。
 しかし天下は広く人民は多いから、とうてい一人で統治することはできない。いきおい人民のなかから助手を求めて、その仕事の一部を分担させざるをえない。それがすなわち官吏であり、官吏の良し悪しは政治上に影響すること重大であるから、人民のなかの最も賢明なものを登用しなければならない。それがためには万人のなかから公平に人物を採用する試験制度こそ最良の手段だ。こうして科挙が始まったのである。
 これは実にすぐれたアイディアである。そしてこの科挙制度の成立したのが、いまから一四〇〇年ほど前の五八七年だということは、驚くべき事実である。
 なぜなら第六世紀はヨーロッパでいえばゲルマン民族移動の大混乱がようやくおさまりかけた頃で、中世的な封建諸侯の割拠、その花形である騎士道の黄金時代はこのあと長い時代をかけて展開されるからである。ところが中国では、封建諸侯にも比すべき特権貴族の黄金時代はこの頃すでに終わりを告げて、それに代わる新しい社会の胎動がきざしていた。科挙の制度も、単なる儒教の理念から形成されたものでなく、実際政治の必要に促されて、歴史の動きのなかから生まれ出たものなのである。
 それまでの中国は貴族主義全盛の時代といわれ、地方に有力な貴族群が根をはってはびこり、帝王権力もこれには一目おかないわけにはいかった。彼らは地方の州を単位として、そこにいわば貴族連合政権ともいうべき地方政府を形成した。その要職はすべて土着の貴族によって独占され、ただ長官だけが中央政府から任命されるので、かろうじて全体的に統一国家らしい体面を保っているだけである。
 この貴族群は地方政府を足場として、もし風向きがよければ中央政府へ進出して重く用いられるが、具合が悪くなれば地方へ引きこもって蟄伏しながら、おもむろに再起を計ろうとする。中央政府はこうした貴族たちの鼻息をうかがわなければ、円滑にその政治を行なうことができない。そこで貴族はますます図にのって、自分たちの家柄は天子のそれよりも古いと自慢しあい、天子の権利をないがしろにすることさえもしばしばであった。
 このような貴族のわがままにがまんしきれなくなったのが隋の文帝である。彼は地方政府に対する世襲的な貴族の優先権をいっさい認めず、地方官衙の高等官はすべて中央政府から任命派遣することに改めた。このためには中央政府が常に多量の官吏予備軍を握っていなければならないが、この官吏有資格者を製造するために科挙制を樹立したのである。すなわち年々中央政府が全国から希望者を集めて試験を行ない、種々の科目に及第した者に、秀才・明経・進士などの肩書をあたえて有資格者と定め、必要に応じて各地の官吏に任用するのである。
 中国では官吏登用のことを選挙というが、試験には種々の科目があるので、科目による選挙、それを略して科挙という言葉が唐代になって成立した。その後、宋代に入ってから科目は進士の一科だけに絞られたが、依然として科挙という言葉を使って清朝の末年に及んでいる。
 このように科挙なるものは、がんらいは天子が貴族と戦うための武器として突出されたものであったが、その任務はおおよそ次の唐代三百年ほどの間にほぼ果たされたと見てよい。次の宋代になるともはや世上には天子に刃向かうほど強力な貴族はいなくなり、科挙の全盛時代に入る。天子は自分が思うまま自由にこき使える官吏を、科挙によって十分に補給することができたのである。宋一代、科挙出身の政治家が自由に手腕を揮うことができ、中国史上はじめて見られる文治派の政治が完成されたのであった。
 しかし同時にこの頃から、官吏登用ははたして科挙のような試験制度にばかり頼っていてよいかという反省が生じた。北宋中期に出た有名な政治家王安石は科挙出身であったが、もっと進んだ考えを出して学校制度をはじめ、官吏は試験で採用するばかりでなく、あらかじめこれを学校で教育しておかなければならぬと考えたのである。いまから考えてみると、科挙制度はこの時代に、学校制度にその地位を譲っておくべきだったのである。
 宋を亡ぼしたモンゴル人の元王朝は、はじめは武力一点ばりで、学校にも科挙にも少しも興味をもたなかった。しかし征服された中国人の間には、科挙への郷愁のやみがたいものがあった。そのうち元王朝も少しずつ中国化してくると、中国人の切なる希望もあって、四十年ほど中絶していた科挙が小規模ながら再興されて、元の滅亡する直前まで続いた。
 モンゴル人を北へ追い払って中国人の中国を回復した明の太祖は、学校と科挙とを併用する政策をたてた。全国に学校をたて教官を任命し、そこで十分に教育した上で、生徒のなかから優秀な者を科挙の試験によって抜擢しようというのである。ところが不幸にしてこの政策は時間がたつ間に骨抜きにされてしまった。金のかかる学校教育が有名無実になってしまい、学校における試験が、しだいに科挙の試験の踏み台にされるようになると、それは始めから終わりまで試験だけの連続という、きわめて好ましからざる制度に変形してしまったのである。
 清朝は明代の科挙制度をそのまま踏襲した。ただし科挙も過去に長い歴史をもつようになると、しだいに弊害が積み重なってきたので、清朝はなるべくその弊害を矯正しようと努力した。しかし、単に試験に不正をなくして公平を図ることのみを目指したので、その結果は試験の上にさらに試験を重ねることになり、ますます試験の負担を増すだけであまり効果をあげることができなかった。そして清朝も末年になると、弊害の方がいよいよ募るばかりで、ついには世間からも愛想をつかされるようになった。
 そこへ押しよせたのがヨーロッパの新文明の波である。ヨーロッパの文明は学校でなければとうてい教育できない自然科学、実験、工作の要素を含んでいる。そこで清朝政府もついに兜をぬいで、一九〇四年を最後の年として、以後は科挙を行なわぬことに定めた。
 ただし科挙通過者の称号たる進士の名は、なお引き続いてこれを用い、大学卒業者、あるいは海外留学からの帰朝者に対し、その学歴に応じてあたえることにした。奇抜なのは、日本の服部宇之吉博士が清朝に招かれて京師大学堂の師範教習に任じられ、一九〇九年帰国の際に、進士の称号を贈られたことである。朝鮮には、中国へ入って実際に科挙を受けて進士となった者があるが、日本では唐代に阿倍仲麻呂がはたして進士になったか疑わしいのを除き、ただ服部博士だけが科挙制崩壊直後に進士となったのである。ただしこれは余談。
 以上は主として天子の側から科挙制を眺めたのであるが、これを人民の側から、受ける人の立場として見ると、また異なったニュアンスが出てくる。科挙は天子がせっかくこのように広く一般人民に門戸を開いて人才を求めるのだから、これに応じて存分の才能を伸ばしてみるのは男子生涯の壮挙といってよい。ただしこれも立派に言おうとすればそうなるのであるが、実際は何よりも就職の便利のためである。旧中国において何がもうかるといって、官吏となるほど得な職業は外にない。しかもそれが名誉とあわせて実益をつかむのだからたまらない。
 科挙の始まった六、七世紀の頃からのち数百年間は、官吏となる以外に利殖の道が少なく、下って明代頃から商売に身をいれれば、らくに暮らせるような世のなかになったが、しかし商人では肩身がせまい。その上、大商売をしようとすればどうしても身を卑下しつつ官辺と連絡をとらねば不便なので、そんな屈辱をしのんで金をもうけるよりも、官吏そのものになって堂々と好運をつかむのが一番賢いやり方なのである。
 そこで世人が争って科挙の門をめがけて殺到するから、広い門もだんだん狭くなる。競争が激しくなればなるほど、それに打ちかつには単なる個人の才能よりも、個人をとりまく環境が大いに物をいうことになる。もし同程度の才能に生まれついていれば、貧乏人よりは金持が有利、無学な親をもつよりは知識階級の家に生まれた方が有利、片田舎よりも文化の進んだ大都会に育った方が有利だということになる。その結果として文化が地域的にいよいよ偏在し、富もまたいよいよ不公平に分配されるようになる。
 中国は土地が広く人口も多い。そのなかから、最も環境に恵まれ、才能に富んだ人たちが集まって必死の競争を展開するのだから、科挙はますますむつかしい試験になる。試験地獄がもし起こらなかったら、その方が不思議であろう。

2026年7月6日月曜日

20260706 株式会社blueprint刊 宮台真司著「崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する」 pp.183-186より抜粋

株式会社blueprint刊 宮台真司著「崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する」
pp.183-186より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4909852093
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4909852090

『冷たい熱帯魚』:〈システム〉からの自立自体が孕む依存の喝破

『冷たい熱帯魚』には園子温定番の「ダメな父親」(ゆえのダメな家族)が描かれる。ダメぶりが引き起こす悲劇の激烈さにおいては『紀子の食卓』(2006年)に連なる。ダメな父親への否定の身振りの激しさは『冷たい〜』ではもはや尋常の域を遥かに超えている。
 園監督はかつて私的に語った。『紀子の食卓』に描かれた父親は彼自身の父親だ。大学教授である父親は、構造的貧困がもたらす飢餓の激烈さを語った直後なのに激昂すると食卓をひっくり返すような偽善者だったという。父親への反発から家出して、カルトやセクトにも入った。『紀子〜』では父親のダメぶりが、あるべき家族についての勘違いのパターナリズムとして描かれる。ところで、「またお父さんったら」的な赦し合いのコミュニケーションを可能にする感情的共通前提の、空洞化に対処するには、近親姦による秘密の共有か、究極の演技しかない。
 近親姦による秘密の共有を描いたのが『Strange Circus 奇妙なサーカス』(2005年)で、究極の演技を描いたのが『紀子〜』だ。どちらの場合も子供たちを犠牲にした自己満足に帰結する。だから園作品は、親たちの自己満足に資するAC的振る舞いからの解放を謳って終わる。
 『冷たい〜』では更に先に進んだ。子供が親のパターナリズムに偽善を見出すのは何故かを問う。答えはシステムへの過剰依存だ。親が親みたいな顔をしていられるのはシステムに依存するからに過ぎない。システムの外に出てしまえば親らしさなど一挙に吹き飛ぶという訳だ。
 映画のラストにやっと判明するが主人公は娘の美津子だ。映画は、美津子から見た父・社本信行のダメさの話だ。小さな熱帯魚店を経営する社本は、大規模な熱帯魚店を経営する村田に感染して仕事に協力するが、実は村田は、システムの外を生きる「モンスター」だった。
 人を毒殺しては妻と一緒に解体処分する村田だが、常軌を逸した振る舞いを示すにも拘わらず、のべつ幕なしの多弁さで社本のダメさを際立たせ、説教し続ける。「ふん、どっちみちバレたら死刑だ。だがな、俺はシロウト紛いのオロオロ小僧とは違う」云々。
 村田の辣腕経営者ぶりに感染した社本が、やがて二度目の感染をする。システムの外を出を生きるモンスターぶりに感染するのだ。オロオロ小僧・社本が「屹立する父」へと翻身する。その翻身を「眼鏡をかけた男」から「眼鏡を外した男」への変貌ぶりが示す。
 少女漫画に定番の「眼鏡を外したら、あら美人」ならざる、「眼鏡をとったら、あら父親(真の男)」。それだけであれば所謂「成長もの」ー離陸して混沌を経験した後に離陸面とは異なる着地面に着地するーの、よく出来た作品ということで終わろう。
 だが、少なくとも二点で意外な印象を与える。第一に、村田は「脱社会的存在」ではない。真のモンスターではない。村田が魚を捌くかのように「人を捌く」のは、村田自身が「父に裁かれ」、その身勝手な自意識によって激烈な罰を受けてきたからだと示されるのだ。
 浦沢直樹の連載漫画『MONSTER』(1994年~2001年)に登場する悪魔の如き少年ヨハン如く、元々は誰よりも感情的な存在だったがゆえに大人たちによる虐待に苦しみ、やがて感情的存在としては理解不能な「モンスター」に変貌する、という「摂理」が暗示される。虫の息となった村田の、少年時代に繰り返したのだろう父の許しを請う呟きが、それまでと一転して観客の同情を誘う。観客は、父(村田の父)から父(村田)へ、その父(村田)から父(社本)へという連鎖に、「世界は確かにそうなっている」という寓意を見出す。
 父による抑圧からの解放が、父が登録されたシステムから離脱して生きる「脱社会的」な振舞いでしかあり得なかった、という負の連鎖。だが、この摂理に深く打たれる間もなく第二の意外な展開が待っている。社本が自らの首を切り、娘に哄笑されながら死ぬのだ。
 抑圧からの解放という成長物語を生きる者が、成長物語の完遂のために新たな抑圧をもたらすという負の連鎖。それを突きつけられた観客は我に返るだろう。『紀子〜』のラストの娘が「家族からの卒業」を暗示したとすれば、『冷たい〜』も実は卒業を暗示している。
 この卒業は、″「父親による抑圧(によるシステム依存)から(システムの外に出ることで)解放される」というシステム依存をめぐる実存の物語ー解放の物語ーが、それ自体システムに(ゆえにシステムに登録された父親に)依存する″、という逆説からの、解放である。

20260705 株式会社PHP研究所刊 池内恵 編著『「世界を動かす宗教」講義』 pp.50-55より抜粋

株式会社PHP研究所刊 池内恵 編著『「世界を動かす宗教」講義』
pp.50-55より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4569860788
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4569860787

日本の宗教・根源感情は何か
森本:これからの世界は、外交も軍事も経済も多極化ないしブロック化に向かっているようです。さて、日本ははたしてどこに入るのでしょうか。これまでは西側世界の一員として数えられてきましたが、従来のリベラル・デモクラシーという価値だけでは上手く回らないことは、現在の世界の混迷を見れば明白です。

佐伯:まさにそれが大問題で、冷戦後はグローバル化が進んで、諸文明が収斂する世界が訪れると考えられましたが、実際には、むしろそれぞれの国や地域の文明が露わになりぶつかりあう時代が到来しています。これからは各国ともに、まずは自分たちの領域を守ることを優先するはずで、そのためには国民的な団結が求められます。そこで必要になるのが国民のあいだで共有される価値なのですが、冒頭の議論に戻るなら、日本人はそれが何なのか自覚できていない。自分たちの根源感情を言語化できていないのです。

森本:佐伯先生は『正論』2025年3月号に寄せられた論考で(「戦後80年 神なき時代に」)、1969年の三島由紀夫と石原慎太郎の対談に触れながら、折口信夫と柳田國男の思想を紹介しておられましたが、日本の根源感情を考えるうえで重要な内容だと感じました。

佐伯:どうやら日本の思想史の流れのなかでは特異らしいのですが、私には柳田の考えが馴染みますね。家があって先祖がいて、われわれが死んだら先祖と同じ一つの魂になる。そして、日本の宗教的な情熱の原点であり源泉が何かと言えば、自然でしょう。四季があり、山や川などのなかで人間が暮らしていて、自然には恵みを与えてくれる面もあれば害をもたらすものもある。昔の日本人はそれを「カミ信仰」と表現しました。
 柳田もまた、明治時代からの国家神道は本来の日本人の信仰心とは馴染まないと考えたのでしょう。私もやはり、自然のなかに見出せる神を土台とした宗教観や氏神信仰こそが日本の根源感情ではないかと思います。
 折口はそんな柳田の祖先崇拝を批判しましたが、彼の思想は結局のところ、異郷からやってくる神あるいは神的な存在である「まれびと」という考え方に集約されます。それはおそらく、先の大戦で非常に大切に思っていた養子が戦死したという悲劇もあり、彷徨える彼らの魂が一体どこへゆくのかという関心を排除できなかったからでしょう。そして、具体的には何者かはわからないけれども、異界からくる神のような存在があると考えたのだと思います。
 日本とヨーロッパの根源感情の決定的な違いは、ヨーロッパが一神教の神というものを生み出した一方で、日本はそれをつくらなかった点に求められるでしょう。日本人は、われわれの隣にはいつも神がいると考えましたが、それは決して目には見えないけれども、感じることができる。言うなれば、いつもそこにいる霊的な存在であると表現できるでしょう。

森本:日本の神は内在的ですが、ユダヤ・キリスト教の神は「世界の外」に存在する神で、その意味では折口の「まれびと」に近い。この世界の秩序に属さないところに存在しているので、この世の枠組みで考えてはいけない、という基本的な感覚があります。
 ただ日常の宗教性表現は、じつは日本のように神を身近に感じるのとさほど変わりません。街角にお地蔵さんのようなマリア様が祀られているのを見ると、先に触れた「文化」化した宗教は似通っているな、と思います。

自然への畏怖を抱く日本人
佐伯:もう一つ言えば、自然に対する考え方も大きく違うでしょう。日本人は、人間もまた自然のなかに存在していると考え、同時にその自然が、一方では人間に恵みを与え、他方では台風や津波、地震など、自然のなかには人間には理解しがたい「奇しき力」が存在しているとも考える。この両方の力によってわれわれが動かされているとしたのでしょう。だからそれを神と呼んで雷神や風神なども考え出したし、その神を畏怖して祀ることで生活の秩序をつくり出してきた。一方、ヨーロッパは自然現象については、少なくとも近代になれば、人間が理性の力でそれを解明できると考えている。
 さらに言うと、日本人は、われわれには理解できない奇しき力が存在するのであれば、それによってつねに世界は移り変わるし、その移り変わりにとくに意味はない、と考えます。だからこそ、この世に永続的なものはないという「無常」の観念に接近するように思います。

森本:自然に対する態度の違いは誠におっしゃるとおりです。日本的な感覚には、自然の力への畏怖があって、身近だけれど理解することも手なずけることもできない相手として、恭しくともに暮らしてゆく、というところがあります。
 それに対して近代西洋の自然理解は、神秘を理性の力で無理やりこじ開けて解明し、自分の用に奉仕させる、という感覚でしょうか。本来の聖書的な理解では、自然も人間も神の被造物であることに変わりはないのに、いつの間にか神を消し去って、自分が自然世界の王者であるかのように振る舞っているのです。これも神が世界の外に存在するからですね。だから、無神論ってじつは聖書的な世界観からしか生まれないんです。
 それと、その超越的であるはずの神が内在化すると、「自国の神」になってとても危険です。これが現代のアメリカやイスラエルに起こっていることで、それは日本の国家神道が辿った道でもあります。終戦直後の折口はそのことを批判した数少ない一人でもあります。 いずれにしても、すべての文化は宗教的だというのが私の考えです。現世的な組織立てを超越する何かの深みがなければ、その文化を一つの塊としてまとめることはできないからです。文化の核が必要なのです。それを言語化することは難しいですが、世界が多極化していく時代、日本に住むわれわれがどのような自己理解をもつかは、世界から向けられた問いでもあると思います。

佐伯:おっしゃるとおりです。日本は戦後、アメリカからもちこんだリベラル・デモクラシーや近代主義の実現をめざしてきましたが、それによってどのような国にしようかとは考えてこなかったし、また現に手本としてきたアメリカ自身が大きく変質し始めています。歴史の大きな転換点にいると同時に、われわれが歴史のなか置き去りにしてきた価値観や宗教意識を思い起こすことがきわめて大事になってきました。
 世界の向かう方向がどうであれ、ずっと先送りしてきた「日本とは何か」という宿題をあらためて突き付けられているように感じますし、そのためにはわれわれの根源感情は何かをあらためて議論しなければなりませんね。

2026年7月5日日曜日

20260705 株式会社日刊現代・講談社刊 若林秀隆著「幸福寿命」 pp.92-95より抜粋

株式会社日刊現代・講談社刊 若林秀隆著「幸福寿命」
pp.92-95より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4065436508
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065436509

幸福寿命を短くする社会側の要因とは
 社会生活が幸福寿命と大きく関連しているのは皆さん納得していると思います。ある程度の年齢になると、大きく人生を転換するのはなかなか難しいです。となるとこれからを考えるうえで大事なのは社会生活の中でいかにプチシフトしていくかではないでしょうか。
 現在の日本社会には、個人の幸福寿命を短くする社会側の要因が数多くあります。社会の現状を知ったうえで、個人が能動的にプチシフトすることを心がけないと、今の日本では幸福寿命をのばすことは難しいです。
 社会側の要因をまとめると、人間関係とコミュニティの希薄化、個人の多様性を否定する価値観、完璧を求める過剰なプレッシャー、経済的・社会的な不安定性の4つに分類できます。
 人間関係とコミュニティの希薄化には、つながりの貧困化や、無機質な都市開発があります。昔の日本社会では、良くも悪くも血縁 (家族や親族との関係)、地縁(地域コミュニティとの関係)、社縁(会社組織との関係)によるつながりが強かったです。個人が受動的に生きていても、さまざまなしがらみが存在していました。
 現在でも地方では一部、血縁や地縁が色濃く残っていますが、都市ではかなり消失しました。そのため、都市では個人が能動的に生きないと、人とのつながりが少なく孤立しやすい無縁社会の影響を受けます。
 都市開発による環境破壊で自然や公園が減り、無機質なビルが多くなり、マンションのオートロック、スーパーなどでの買い物がすべてオンラインで行えるようになったりするなど、コミュニティが育まれにくい都市構造が増えています。そのため、環境面でも受動的な生き方では、人との深い関係を築くことが難しくなりました。
 個人の多様性を否定する価値観には、非寛容性と同調圧力、男尊女卑と性別規範、外国人・ 障害者などへの排他主義があります。ただしこれらは、現在の日本社会に限らず以前から存在するものです。みんなと同じであることを求め、少しでも違う生き方や考え方をする人を受け入れず、出る杭は打たれるという非寛容性と同調圧力が、日本では強めです。
 世界経済フォーラムが、経済、教育、健康、政治参画の分野毎にデータを重み付けしたジェンダー・ギャップ指数を毎年発表しています。2025年の日本の順位は、148ヵ国 中118位であり、2024年と同じでした。昔の日本社会よりはまだましかもしれま せんが、今でも男尊女卑と性別規範が強く、都市よりも地方でより目立ちます。日本で都市より地方の人口減少のほうがより多い要因の一つは、地方での男尊女卑と性別規範の強さだと私は思います。
 完璧を求める過剰なプレッシャーには、行き過ぎた新自由主義による自己責任論と個人主義、高すぎる要求水準、労働能力と生産性の至上主義、効率性至上主義、知識社会化、グローバル化があります。
 新自由主義とは、規制を緩和して市場で自由な活動をさせることが最も効率的であり、個人の成功も失敗も自己責任で、弱者救済のための公的福祉には消極的な考え方です。現在の日本社会では、行き過ぎた新自由主義による自己責任論と個人主義の影響が強く、失敗は社会の責任ではなく個人の責任として厳しく追及されます。そのため、人に助けや援助を求めることに心理的な抵抗を感じる方が増えている印象です。
 経済的・社会的な不安定性には、格差社会の進行、少子高齢化、政治的な不安定性があります。新自由主義、知識社会化、グローバル化などの影響で、日本でも格差社会が進行しています。少子高齢化は、社会保障制度の財政を圧迫し、国民の将来への不安を増大させます。この不安を解消できない政治への不信感が、さらに社会の不安定性を高めています。
 高齢者へのエイジズム(年齢差別)もあります。年金や医療といった社会保障制度の今後への不安は、政治的な不安定性や政治家や役人に対する信頼の低さが一因です。政治家と役人が、すべての国民の幸福を最優先に取り組んでいれば、今とは異なる社会になっていたはずです。
 このように、現在の日本には幸福寿命を短くする社会側の要因が数多くあります。
 一方、スマートフォンやAIなどテクノロジー面の発展、個人の自由や多様性が以前よりは尊重されるようになったこと、人とのつきあいの選択肢の増加、障害者差別解消法など法律の整備、医療や公衆衛生の進歩、美味しい食品やお酒の増加、犯罪率の低下など、幸福寿命をのばす社会側の要因もあります。
 そのため、昔の日本社会のほうが今より幸福になりやすかったわけではないと私は考えています。昔の日本には受動的に得られるつながりがありましたが、それはしがらみでもありました。一方、現在の日本には、能動的に自らの意思で、より多様で豊かな幸福を迫 求できる機会が増えました。ただし、幸福寿命を短くする社会側の要因が多いので、社会が変わるのを待つのではなく、個人が社会生活を能動的にプチシフトすることが幸福寿命をのばす道となります。

2026年7月2日木曜日

20260702 株式会社KADOKAWA刊 松木武彦著「古墳とはなにか 認知考古学からみる古代」 pp.72-76より抜粋

株式会社KADOKAWA刊 松木武彦著「古墳とはなにか 認知考古学からみる古代」
pp.72-76より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4044007632
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4044007638

九州から畿内へ、そして関東へ
 古墳の出現、すなわち弥生時代から古墳時代への移行にかならずつきまとうもうひとつの問題は、日本列島社会の空間構造の激変が、そこで生じているということである。すなわち、弥生時代の、少なくともある段階までは、九州北部に文化的な先進性と政治的な中心性があったのに対し、古墳時代は畿内を核とする時代へと変わったということだ。九州から畿内へという中心の移動がいつ、どのように生じたのかという問題は、邪馬台国の所在論や、神話の歴史学的評価と、きわめて密接に関連している。
 この、社会の中心が西から東へ移っていくという動きは、農耕社会成立以降三〇〇〇年の日本列島史の底流をなすメカニズムだった。弥生時代には九州北部にあった中心が、古墳時代に移り変わるころに畿内へと移動し、畿内を政治と文化の中心とする社会のかたちは、少なくとも平安時代までは続いた。その後の鎌倉時代と室町時代とは、いずれに比重を置くかは見方しだいのところはあるが、畿内と関東という、社会的役割を異にする二つの中心をもった時代だったといえる。これが、戦国から安土桃山にいたる動乱期をへて近世の江戸時代になると、中心としての関東の比重がかなり明確になる。ただし、経済や文化の限られた局面で畿内の中心性がまったくなくなったわけではない。さらに明治以降の近代から現代にかけては、関東に公式の首都が置かれ、その中心性はさらに増した。
 このように、弥生時代から現代にかけて、列島社会の中心は、九州北部(博多湾沿岸)から畿内(大和・河内・山城=京)、そして関東(鎌倉・江戸)へと、大きくみれば三遷している。空間構造の変化という視点から日本列島史のメカニズムを分析する目的で、それぞれが中心となった時代を、一般的な時代区分とは別に、かりに、「ツクシ時代」「ヤマト時代」「アズマ時代」とよんでみよう。
 ただ、各時代の境界はかならずしも画然としたものではなく、文字記録のうえではっきりと歩みがたどれるヤマト時代とアズマ時代のあいだには、新旧両中心が並び立つ鎌倉・室町という長い移行期がはさまっている。また、アズマ時代になってからも、旧中心の畿内が、京あるいは大坂(大阪)というかたちで、新中心の江戸(東京)に対して、文化あるいは経済のうえで独自の比重を保ちつづけた。
 これと同じように、ツクシ時代からヤマト時代への移行のときにも、新旧両中心の博多湾沿岸と奈良盆地とが役割を異にして並び立ったり、政治的中心が奈良盆地に移ってからも博多湾沿岸が文化や経済のうえで独自の地歩を占めつづけるような複雑な状況が生じていたにちがいない。したがって、いつ、どのような局面での中心の移動が、いかなる段階を踏んでおこなわれたのかを正しくつかむことが、弥生時代から古墳時代への移行の歴史的意義を明らかにし、ひいては、古墳とは何かという問題の答えを導くだろう。文字記録が貧しいこの時代にあっては、考古学が、そのための随一の手段となる。

前方後円墳の成立年代
 宗教、政治、経済、文化、そして人口。一口に中心といっても、さまざまな種類や局面での中心があり、それらはかならずしも一か所に合致するわけではない。弥生時代から古墳時代にかけて、すなわちツクシ時代からヤマト時代への移行期に、どのような中心がどこに生じ、それらがどう推移したのだろうか。考古資料をもとに復元してみよう。
 まず、本書のテーマである前方後円墳。さきに述べたように、これは、長を葬って神格化する装置であり、その背後には長どうしによる政治的な連合組織が想定できる。したがって、前方後円墳の規模や分布の焦点は、そういった祭政組織の総本山の所在、すなわち、古代においては分かちがたく結びついた宗教と政治という局面での、中心のありかをしめす可能性が高い。
 最初期の前方後円墳の中心が、まず、奈良盆地東南部の纏向遺跡付近に形成されたことも先述した。これは、いつの出来事なのだろうか。纏向付近の前方後円墳群のなかで、築造年代を絞りこむための情報がもっともよくわかっているのはホケノ山である。ホケノ山の埋葬施設の上に安置されていたとみられる壺は、「庄内式」とよばれる型式で、ともに出土する木材資料の年輪年代や、同じ庄内式の土器にこびりついた炭化物の放射性炭素年代などの複数のデータから、三世紀前半の所産とする説が有力だ。ただし、ホケノ山の土器は、庄内式のうちでも新しい特徴をもっている。また、埋葬施設から出た鏡のうちもっとも新しいのは画文帯神獣鏡といわれる型式で、それ自体には年代幅があるが、上野祥史氏によると、文様の種類や配置から、ホケノ山の例は三世紀中ごろにつくられたものらしい。これらの検討から、ホケノ山の年代は三世紀中ごろにほぼ絞られるだろう。
 いっぽう、纏向の盟主であり、列島最初の巨大前方後円墳とみられる箸墓の壺は、庄内式よりも一段階新しい「布留式」だが、そのなかではもっとも古い特徴をもつ。したがって、ホケノ山の直後のものだとみてよい。さらに箸墓には、特殊器台という、埴輪の元祖となった大形の土器も立てられていた。特殊器台はもともと吉備地域で発達したもので、箸墓の例はそのうちもっとも新しい「宮山型」である。宮山型の特殊器台は、吉備の土器でいえば、畿内の庄内式から布留式への過渡期に併行する「下田所式」段階の所産とみられる。こういった考古学特有の年代決定手続きの話は、ともすれば微に入り細をうがって複雑になってしまうが、ようするに、さまざまな材料から、箸墓は、ホケノ山の直後にあたる三世紀中ごろから後半にかかろうとする時期には完成していた可能性が高いということだ。
 そのほかの纏向の前方後円墳群のうち、墳丘長約一一五メートルの勝山古墳では、古墳の完成後に掘られた穴に、古墳の構築に使ったと考えられるヒノキ材が投げこまれていて、これは二〇〇年前後という年輪年代の測定結果が出ている。今後、同じようなデータが積み重なれば、三世紀に入るころには纏向の前方後円墳群の造営がはじまっていたことが明らかになるだろう。
 このように、鏡や土器の型式の検討、年輪年代、放射性炭素といった複数の手続きから、纏向の前方後円墳群は三世紀の前半には出現し、半ばごろには箸墓が完成して、前方後円墳の総本山たる威容を整えるにいたったことが明らかだ。箸墓以前の造営と考えられるホケノ山や勝山も、すでに長さ八〇〜一〇〇メートルという、ほかの地域にはない大形の墳丘や入念な埋葬施設をもっている。前方後円墳を主要な装置として、その後三〇〇年ほども続いた宗教と政治の中心は、三世紀前半には畿内の奈良盆地にあらわれていた。