2026年6月30日火曜日

20260629 インプットとアウトプットとブログ開始に至る契機について

 当記事の投稿により、当面の目標としている総投稿記事数2500まで、あと5記事の投稿となります。後日、首尾良く到達することが出来ましたら、一旦、当ブログおよびSNSから離れようと考えています。そうしますと、到達までは、あまり余計なことを考えない方が良いのかもしれませんが、どうしたわけか、ここ最近は、2500記事に近づくにつれ、これまでにない、ある種のプレッシャーのようなものが感じられます…。そのためであるのか、あまり自らの文章による記事を書きたいとは思いません。むしろ、作成時にあまり逡巡することのない引用記事を量産し、まずは目標である2500記事に速やかに到達して、改めて自らの文章を書けば良いのではないかとも考えています…。しかしながら、その一方で、時には、こうして自らによる文章を作成しないと落ち着かない自分もいます…。こうした最近の状況から、かつてほぼ毎日、自らの文章でブログ記事を作成していた時期を振り返ってみますと、我が事ながら、よく継続することができたものだと思われ、誠にまた、それがなければ、現在の状況もなかったことから、やはり、総投稿記事数や周囲を意識せずに没頭する時期は必要であるとも思われます。そこから、当ブログでの記事作成と並行しているエックス(旧ツイッター)を始める以前の、概ね当ブログの作成のみであった5年弱の期間(2015年6月~2020年1月)は、現在と比べ、自分の文章(ブログ記事)が読まれているという緊張感は乏しく、その分、ブログ記事の作成に没頭することができていたのだといえます。とはいえ、本来、ブログとは、不特定多数の方々に向けて文章を公表するものであることから、やはり、一定の緊張を伴うのですが、その緊張の程度は、エックス(旧ツイッター)などのSNSほど強くはなく、むしろ、そうした文章の公表に伴う緊張感を忘れないために、当ブログを始めたのだともいえます。そして、2015年に私にブログを勧めてくださった方々も、おそらくは、そのことを伝えたかったのではないかとも思われます。また、文章を作成して公表することを、ある程度の期間、継続することは、そこまで簡単なことではなく、その継続のためには、私見とはなりますが、ある種のパラノイア的ともいえる、常軌を逸したこだわり、思い込みのようなものが必要ではないかと考えます…(苦笑)。しかし、私自身、元来、おそらく、そうした傾向が特に強かったわけではありません…。それが変化したのは、これまでにも何度か当ブログで述べてきましたが、鹿児島在住での期間でした。この期間に、さまざまな実験を通じて自らの見解を組み立て、それを公表・発表する機会が度々あり、そして、そうした経験を通じて、当ブログの継続に繋がるような傾向が育まれていったのだと思われます。また逆に、実験や研究などの、ある種、インプットのみを行っていても、こうした傾向は生じなかったと思われます。つまり、インプットとアウトプットの双方がある状況が継続することにより、そうした傾向が育まれ、それらが何らかの契機で動き出し、内発的な行動として、はじめて駆動するのではないかと思われるのです。では、その「何らかの契機」とは何であるのかと考えてみますと、それは多分に人により異なるのでしょうが、私の場合、実験や試料作成や論文の読み込みや作成といったインプットと、学会発表や実習補助、指導といったアウトプット以外の、それまでの人生では無かった偶発的ないくつかの出来事であったといえます。また、それらの出来事は、比較的短い期間に集中したといえますが、こうした経験は、書籍などの記述で見つけることは出来ませんが、しかし、それらを抽象化してみますと、ある程度普遍化されて、いわゆる「ミューズ」や「ムーサ」といった創造や創作にインスピレーションを与えるような存在があったのではないかと思われるのです。とはいえ、私が在住していたのはギリシャ神話の文化が連綿とある地域ではなく、極東の島国の南部であったことから、それは、谷川健一がその複数著作で述べたような「セジ」「セヂ」のようなものではないかと思われるのです。そして、おそらく、そういったものが作用しなければ、私は人から助言を受けても、当ブログを始めようとは思わなかったであろうし、また始めたとしても、10年以上継続して、そして、2000記事以上作成することはできなかっただろうと思われるのです…。そういえば、去る6月22日で、当ブログ開始から丸11年となりました。そして、目標とする2500記事までは、あと5記事の更新となります。今回もまた、ここまでお読み頂きどうもありがとうございます。そして、今後も引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。

一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

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2026年6月29日月曜日

20260629 筑摩書房刊 ちくま新書 宮台真司・奥野克己 著「宮台式人類学ー前提を遡る思考ー」 pp.28-33より抜粋

筑摩書房刊 ちくま新書 宮台真司・奥野克己 著「宮台式人類学ー前提を遡る思考ー」
pp.28-33より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4480077359
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480077356

奥野 言語を持つことで、我々意識につながる「集合表象」が生まれたという人類史を踏まえて、社会学の初源的な考え方についてご説明いただきました。社会学は近代社会だけを扱うことに特化していったのですが、そのことに対して注釈がつけられたというのは、とても重要なことです。オリジネータたちが社会と呼ぶものは、近代社会のそれだけに限定されるべきものではなく地球上の多くの似たようなものにも適用すべき概念だと考えていたということがよくわかりました。
 もうひとつ、これから進められる「宮台式人類学」の講義についても重要な見通しが語られましたね。「煉瓦積み上げ方式」ではなく「螺旋方式」で、各論点に何度も戻って上書きしていくことで理解を深めるという手法でこれからお話をしていただくという点を、ここで読者のみなさんのためにも特記しておきたいと思います。
 さて戻りますと、社会学によって提示された「社会的事実」を含む社会の概念、つまり社会学の社会という概念は、人類学の中にも共有されている考え方だと思います。1990年代初めの川田順造さんのレヴィ=ストロースへのインタビュー動画の中で、レヴィ=ストロースが川田さんの質問に少し苛立って、「社会の話をしてるんだよ」と言うシーンがありますが、デュルケムが生み出した諸概念は、その後の社会学だけでなく、人類学にも継承され、共有されていたと考えられるでしょう。他方で、ヴェーバーに関しては、いかがでしょうか?

宮台 ヴェーバーにも同じような注釈があります。彼にとって一番重要な概念は「正統性(legitimacy)」です。支配と服従ってなんだろう、とりわけ自発的服従ってなんだろうということを徹底して考えます。相手の言うことが正しいから従う場合、日本語では「当たる」という字の「正当性(justifiability/rightness)」を使います。さて、複雑な分業編制からなる社会は、支配と服従だらけですが、正当性と損得勘定だけでは分業編制を支える服従の調達に不足が生じます。その服従を可能にするのは、正当性や損得勘定を超えた、なにかであるはずです。
 元来は王位継承線を指す「正統性」の言葉を、彼は「自発的な服従契機」という意味で使います。それを彼は実に巧妙に「伝統的正統性」と「カリスマ的正統性」と「合法的正統性」を例示して説明します。まず「伝統的正統性」。昔から皆がやっていたと信じられるだけで、それをやれと言われなくても、内容の正しさに関係なく人はそれをやりたがるという事実を指します。今日の進化生物学は孤独 (loneliness) を恐れるゲノムに、その基盤を見出します。
 次に「カリスマ的正統性」。圧倒的に凄い人を前にすると、他の人が言っても聞かないのに、その人が言うと喜んで従おうと思うという事実を指します。お金の力(損得勘定)にも暴力の力(威嚇)にも還元できない非日常的な性質(凄さ)を、ヴェーバーは「カリスマ」と呼びます。カリスマがある人に従うのも、内容の正しさとは無関係です。その人が言うから内容が正しく聞こえるのを「権威」と言いますが、それと似ているものの、少し違います。内容の正しさには関係ないからです。
 彼は、カリスマを持つ人が「カリスマ的正統性」による一回的立法を行って社会を樹立した後、カリスマを持つ人の死亡や変質などでカリスマの劣化(カリスマの日常化)が起こりますが、それを埋め合わせるのが、昔から皆がという「伝統的正統性」だとします。でも自然的・社会的な環境変化で従来の法生活が立ち行かなくなると、また「カリスマ的正統性」による一回的立法が行われ、やがて「伝統的正統性」に置き換えられる…と循環します。
 カリスマを持つ人の登場は偶発的だから、カリスマを持つ人が登場せずに伝統にへばり付くことで滅ぶか征服された社会も多かったはずです。加えてそれだと計算可能性による予測可能性を欠くので、複雑な分業編制は無理です。ところが近代になるとそれを克服する「合法的正統性」が生まれ、[手続きに合致した命令]であれば内容はともかく従うようになります。正確にはそれを近代と呼ぶのです。
 ここには、法が手続きを定め、その手続きで法を定め、その法が手続きを定め…という合法性の循環があります。それゆえ、カリスマを持つ人の出現という偶発性に頼らずに数多の立法が可能になり、伝統の変わりにくさゆえに自然的・社会的な環境変化に適応できない、という問題を回避でき、複雑な分業編制(典型が官僚制)と、分業編制の柔軟性とを、併せ持つ近代社会になります。ヴェーバーは、そういうふうにして、事実上、近代を定義したのです。恐るべき業績ですが、後で話すように、法による階層的統治が、カリスマによる英雄的統治と無関連に成り立つとした点に、大きな欠陥があります。

奥野 なるほど。ヴェーバーもまた、近代社会だけでなく、近代以前における支配と服従のあり方を検討した上で、複雑な分業体制を発展させて、法的な服従を余儀なくされる近代以降の仕組みを見るように、注釈を施しているということですね。
 では今度は、少し私の観点から、本書のテーマである社会学と人類学という学問が生まれた時代を少し遡ったところから考えてみたいと思います。序論では拙著『はじめての人類学』に言及しつつ、戦争を取り上げたのですが、それと表裏の関係にあった、ヨーロッパにおける科学や思想の流れを手短に振り返ってみたいと思います。
 16世紀に天動説を否定した天文学、19世紀に人間がサルの子孫であると唱えた進化論などの自然科学の進展により、ヨーロッパではキリスト教の唯一神への信仰が次第に絶対的なものではなくなってきていました。無神論とともにニヒリズムが広がる中、梅毒に侵されて正気を失って悩み続けたニーチェは「神は死んだ」と唱え、ニヒリズムを乗り越えて、いかにすれば生きることに価値を見出せるのかという問いを考え続けました。その上で彼は、何者にも支配されずに自由な心で生きる「超人」を目指すべきだと主張したのです。
 19世紀の科学技術の著しい発展は、人間を脅かしていた迷信や信仰を突き崩し、近代的な自我の確立も促しました。その時代にフロイトは自我の意識の奥底に抑えられた無意識を発見しています。1900年に詳細な夢分析の記録である『夢判断』を出版し、20世紀初頭に人々の抱える神経の病を治療する精神分析学を創始しています。
 産業革命以降の機械制大工業の発達は、労働を単純労働に変え、人間を機械に支配される存在に作り変えました。マルクスは19世紀後半に「資本論」の中で、人間が労働によって「疎外」される資本主義の問題を論じています。
 20世紀に入って1920年代になると、第一次世界大戦の特需に沸くアメリカは、大量生産・大量消費により経済的な繁栄を遂げますが、その直後の1929年には世界恐慌が起きます。このときに多くの人々が感じた「疎外」は芸術の分野でも表現され、1936年には、製鉄工場で監視されながら単純作業に従事する男が精神に失調をきたし、トラブルを起こして精神病院送りとなる顛末を描いた映画『モダン・タイムス』が公開されています。
 さて、さきほど宮台先生がお話しされた、フランス革命を達成して専制君主を倒して民主的な社会に移行したにもかかわらず、社会をうまく構築することができないというジレンマを抱えていた中で始められた社会学は、こうした19世紀から20世紀初頭の歴史のうねりの中で生まれたということだと思います。

2026年6月28日日曜日

20260627 三交社刊 ジョセフ・コンラッド著 藤永茂訳「闇の奥」 pp.21-25より抜粋

三交社刊 ジョセフ・コンラッド著 藤永茂訳「闇の奥」
pp.21-25より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4879191620
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4879191625

彼はちょっと息を入れた。
「いいかね」と彼はまた話を始めた。一方の腕を肘のところで折り、掌を外に向けて挙げ、両足を前で組み合わせた恰好を取ったから、洋服姿で蓮の花こそないとはいえ、教えを説く仏陀そっくりの姿勢に彼はなった。「僕たちなら誰も、そっくりこんな風には感じないだろうよ。僕らを救ってくれるのは能率ー能率よく仕事を果たすことへの献身だ。しかし、大昔、ここに乗り込んできた連中はあまり大した奴ではなかった。植民地開拓者ではなかったのだ。思うに、彼らのやり方はただ搾取するばかりで、それ以上の何ものでもなかった。彼らは征服者だったのであり、そのためには、ただ、がむしゃらな力があればよかったのだ。ーそれがあったからといって、別に自慢になるものじゃないさ。要するにその強さは相手が弱かったということで生じた偶然に過ぎないのだからね。とにかく獲物をせしめれば、というわけで、手に入る獲物は何かわまわず、強奪したのだ。それは力まかせの強盗であり、大規模の凶悪な殺戮だ。しかも彼らは盲滅法にそれをやった。ーそれこそが暗黒と格闘する連中にふさわしい行動だからな。この地上の征服とは、たいていの場合、肌の色が違うか、僕らより少し鼻のひしゃげた人間たちから、その土地を奪ってしまうことを意味するのであって、よくよく見れば、あまりきれいなことじゃない。それを償えるのは観念しかない。征服の背後にある一つの観念、それはセンチメンタルなお為ごかしなんかじゃない一つの観念なのだ。そしてその観念に対する無私の信仰。ー僕らが高く掲げ、その前で頭を垂れ、進んで身を捧げる何ものかなのだ…」 彼は言葉を切った。船の灯と水に映った灯影が川面を滑るように動いていた。小さな緑の灯、赤い灯、白い灯、ー追いかけあったり、追い越したり、もつれ合い、行き交うかと思えば、あるいはゆっくりと、あるいはあたかもふたと離れ去って行くのだった。この偉大な都市の交通は、眠りを知らぬ河を覆って深まっていく夜の帳のなかで、止まることなく続いていた。われわれはあたりを眺めながら辛抱強く待っていた。ー潮が引き始めるまでは、ほかに何もすることがなかったのだ。だが、長い沈黙のあと、彼がためらい勝ちの声で「君たちも憶えているだろうが、僕も昔しばらく河の船乗りになっていたことがある」と口を切った時、われわれは、引き潮が始まるまでは、マーロウの締め括りのない体験談の一つを拝聴させられることになるな、と覚悟をきめたのだった。
  「なにも個人的な経験談で君たちをうんざりさせるつもりはないのだが」と彼は話し始めたが、身の上話の語り手の多くがかかえる弱点、つまり、聞き手がどんなことを一番聞きたがっているかが分かっていないという弱点が、彼のこの語り口に表われていた。「今度の体験が僕にどんな影響を与えたかを分かってもらうためには、やはり、僕がどうやってあそこまで行ったのか、そこで何を見たのか、どんな工合にしてあの河を遡り、あの哀れな男に初めて会った所までたどり着いたかを、君たちに知ってもらう必要があるんだ。それは船で行けるどん詰まりの地点だったし、僕のした経験の絶頂点でもあった。それは、この僕についてのすべてーさらには僕の物の考え方そのものに、何というか、一種の光を投げかけてきたように思うのだ。その経験はけっこう陰気なものだったし、悲惨なものでもあったーどう見ても素晴らしいなどと言えたものではないしーあまりはっきりしていない。そう、どうもはっきりしない。それだのに一種の光を投げかけてくるように思えたのだな。 
 「憶えてくれているだろうが、あれは、僕がインド洋、太平洋、東シナ海、南シナ海とーおきまりの東洋コースを、たっぷり六年ほどかけて、ひととおり味わってからロンドンに戻ってきたばかりの頃だった。毎日ぶらぶらうろつき回って、まるで君たちを啓蒙するという素敵なお役目でも授かったみたいに、君たちの仕事の邪魔をしたり、お宅に押し掛けしていったりしたものだった。しばらくの間はいい気持だった。だが、そのうちに何もしていないのにも飽いてきた。そこでまた乗る船を探し始めたのだがーこれが最高に骨の折れる仕事でね。とにかく船のほうが僕に見向きもしないのだ。そのうちに船探しのゲームにも嫌気がさしてきた。 
 「ところで、子供の頃、僕は大変な地図好きだった。何時間も飽きずに南米とかアフリカとかオーストラリアとかの地図に見入りながら、数々の探検隊の栄光にわれを忘れ、夢中になったものだった。あの頃はまだこの地球上に空白の場所がいくらもあった。そのなかでも特に気をそそられる所が地図にあると(いや、一つとしてそうでいない所はなかったのだが)、僕はその上に指先を置いては、大人になったらきっとそこに行ってやるぞ、と呟いたものだった。北極もその一つだったと思う。いや、まだそこには行ったことはないし、今となっては行く気もないがね。魅力が消えてしまったのさ。ほかに行ってみたいと思った場所は赤道付近のあちこちにあり、両半球のあらゆる緯度のところにもあった。そのなかには実際に行ってみた所もいくつかあるがーまあその話はやめておこう。だが、一つだけー言ってみれば、一番でっかい、そして飛び切り真っ白な地帯があってー僕はそこに疼くような憧憬を感じていた。 
 「たしかに、今度の時にはもう空白ではなくなっていた。僕が子供だった頃から見れば、河や湖やさまざまな地名で満たされてしまっていた。楽しい神秘にみちた空白、少年が輝かしい夢を追った真っ白い土地ではなくなってしまっていた。一つの暗黒の場所になってしまっていたのだ。だが、そのなかに格別に際立った一つの河、地図でもよく目を引く大きな河があった。とぐろを巻いたでっかい大蛇のような恰好をしていて、その頭は深く海にのめり込み、胴体はだだっ広い地域にまたがるカーブを描いて横たわり、その尻尾は、深い奥地のなかに姿を消していた。ある店の飾り窓でその河の地図を見たとたんに、小鳥がーおろかな一羽の小鳥が蛇に魅入られてしまったように、僕はすっかりその河のとりこになってしまったのだ。その時、僕はこの河で貿易をやっている大きな商社があったことをひょいと思い出した。しめたぞ! 僕ひとり合点をした。これだけの河ともなれば、なにがしかの船舶ーせめて蒸気船ぐらいは使わなければ、商売ができるはずがない! そうした船の船長になろうとしない手はないじゃないか!フリート街の通りを歩きながら、どうしてもこの考えを振り切ることができなかった。蛇にすっかり魅入られてしまったわけだ。

2026年6月25日木曜日

20260625 中央公論新社刊 三島由紀夫著『文章読本』 pp.42-46より抜粋

中央公論新社刊 三島由紀夫著『文章読本』
pp.42-46より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4122068606
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122068605

文章を味わう習慣
 歌舞伎に行きますと、ときどき侍が悠々たる恰好で出てきて、見台に本を置いて「どりゃ書見をいたそうか」と言って本を読み出します。 
 われわれはこんなふうに本を読むことはほとんどありません。昔はわれわれが字引を枕にしたり、お尻に敷いたりすると親に叱られたものですが、いまではそんなことを叱る親はありますまい。泉鏡花氏は、ほんのちょっとした字の書いてある新聞の切れはしでも、およそ字の書いてあるものは粗末に扱うことをしなかったと言いますが、いまのマス・コミ時代に、そんなに文字を大切にしていたら身がもたなくなるでしょう。週刊誌は読み捨てられるのが運命であり、三つ四つの駅を通過する通勤の電車のなかで、それは隅から隅まで目を通されて網棚に残されます。この情勢がますます激しくなることは必然的であって、私は外国の飛行場の待合室で、大きい「ライフ」が椅子の上に置かれているのを忘れものと思って人に呼びかけたことがあります。すると立って行った人は、それは捨てたのだと言ってすましていました。「ライフ」のようなアート紙の大判の立派な雑誌は、日本ではまだ大切にするでしょうが、アメリカでは週刊誌と同じように扱って、ペラペラッとめくられてたちまち捨てられてしまう運命にあります。
 このような時代に次第に文章を味わう習慣が少くなるのは当りまえと言えましょう。しかし昔の人は小説を味わうと言えば、まず文章を味わったのであります。今日、小説の読者は、ちょうど自動車で郊外を散歩するようなもので、目的地が大切なのであって、まわりの景色や道端の草花やちょっとした小川の橋の上で釣をしている子どもの姿も、そういうものは目にとめずに、目をとめたにしても一瞬のうちに見過してしまいます。しかし昔の人は本のなかをじっくり自分の足で歩いたのです。交通機関のない時代としては無理もありません。歩けば歩くなりにいろいろなものが目を惹きます。歩くこと自体は退屈ですから、目に映るもの一つ一つを楽しみ味わうことが、歩くことの喜びを豊富にします。私はこの「文章読本」でまず声を大にして、皆さんに、文学作品のなかをゆっくり歩いてほしいと申します。もちろん駆ければ十冊の本が読めるところが、歩けば一冊の本しか読めないかもしれません。しかし歩くことによって、十冊の本では得られないものが、一冊の本から得られるのであります。小説はそのなかで自動車でドライヴをするとき、テーマの展開と筋の展開の軌跡にすぎません。しかし歩いていくときに、これらは言葉の織物であることをはっきり露呈します。つまり、生垣と見えたもの、遠くの山と見えたもの、花の咲いた崖と見えたものは、ただの景色ではなくて、実は全部一つ一つ言葉で織られているものだったのがわかるのであります。昔の人はその織模様を楽しみました。小説家は織物の美しさで人を喜ばすことを、自分の職人的喜びといたしました。
 しかし現代では文章を味わう習慣よりも、小説を味わうと人は言います。彼の文章がいいという言葉はほとんど聞かれず、彼の小説はおもしろいと言われます。ところが文章とは小説の唯一の実質であり、言葉はあくまでも小説の唯一の材料なのであります。あなた方は絵を見るときに色彩を見ないでしょうか。ところが言葉は小説における色彩であります。あなた方は音楽を聴くときに音を聴かないでしょうか。ところが言葉は小説における音譜なのであります。さっきからたびたび繰り返したように、文章を味わう習慣は、民衆のあいだでは長いこと耳から味わう習慣となっておりました。それからまた貴族のあいだでは目で味わう習慣になっておりました。目にしろ耳にしろ、日本の古典には味わわれるような文章がたいへんに多い。いわゆる美文と称されるものはその代表的なものであって、内容などはどうでもよく、ただ味わうために作られた、ちょうど見るための美しい日本料理のようなものであります。われわれはなんでも栄養があるものしか取ろうとしない時代に生れていますから、目で見た美しさというものをほとんど考えませんが、文章というものは、味わっておいしく、しかも、栄養があるというものが、いちばんいい文章だということができましょう。文章の味には水からウィスキーまで、さまざまなものがあります。また油揚げからビーフステーキまで、さまざまなものがあります。そのどの味が最上のものだということを私は言おうとするのではありません。しかし文章の味には、味わってわかりやすい味もあれば、十分に舌の訓練がないことには味わうことができない味もあります。これから私はたくさんの例文をあげて、それぞれの文章の味を解説して行こうとするのですが、日本語のいかに堪能な西洋人でも、森鷗外や志賀直哉の文章がわかりにくいのは、それがきわめて微妙な味、水に似た味わいをもっているからにほかなりません。もちろん水に似た味わいは、食通が最後に玩味するものでありますが、濃い葡萄酒やウィスキーに似た味わい、一例が谷崎潤一郎氏の文章の味わいも捨てられないものであります。
 われわれはいまや空想的な飾りだけの文章を美しいとは言いません。しかしそうかといってお役所の通達のような文章をも美しいとは言いません。飾りがなくって、しかもお役所の通達のようではないもの、そのような文章の味は、一面それを味わう側も進化していると言えるかもしれません。しかしそのような文章の味が、微妙なものを求められれば求められるほど、一般の民衆の文章の好みと、さきほど言ったリズールの味わい好む文章とが、ますます離れてくることはいたしかたないことで、ここに例はあげませんが、私は大衆に愛好されている、むしろ熱狂されている作家たちの文章のなかに、実に下卑た悪文の数々を見出すことができるのであります。それに較べると近松や西鶴を喝采した時代の民衆は、はるかに精妙な舌をもっていたと言わなければなりません。文章の美の平均水準からいうと、近松のような装飾的な文章が、いまや古くなり、無意味になったと言いながら、そういう文章を好んだ時代の方が、少くとも文章を味わう習慣を、その喜びを深く知っていたということは言えるのであります。

2026年6月23日火曜日

20260623 株式会社文藝春秋刊 山本七平著『現人神の創作者たち』pp.191-195より抜粋引用

株式会社文藝春秋刊 山本七平著『現人神の創作者たち』
pp.191-195より抜粋引用

ISBN-10 ‏ : ‎ 4163382402
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4163382401

売国奴と愛国者のあいだ
 ここで少々横道にそれ、補助線として、岸田秀氏との対談、「日本人と『日本病』について」(文藝春秋刊)の岸田秀氏の「プロローグ」を取りあげてみたい。
 この中で岸田氏は、日本軍の行動と神経症にかかったネズミとを対比して、「わたしには、このネズミと日本軍がダブって見える」と結論されている。一体なぜ、そう見えるのであろう。以下に少し、要約して、岸田氏の「プロローグ」を引用させていただこう。

『ネズミをT字路のスタートラインに置き、突きあたって一方に曲がれば餌があり、他方に曲がれば電気ショックを受けるようにしておく。この場合、右側へ曲がれば必ず餌があり、左側へ曲がれば必ず電気ショックがあるようにしておけば、ときには右側が明るく左側が暗く、ときには左側が明るく右側が暗いという不規則性を加えても、そのうちネズミは、とにかく右側へ曲がればいいということを学び、必ず右側に曲がるようになる。これは明るい側(または暗い側)に必ず餌があり、暗い側(または明るい側)に必ず電気ショックがあるようにしておいても同じで、そのうちネズミは、それが右側であるか左側であるかにかかわらず、とにかく明るい側(または暗い側)へ行くようになる。このようにして形成されたネズミの条件反応には臨機応変性、柔軟性があって、必ず右側(または明るい側)へ曲がるように条件づけられたネズミを、今度は、左側(または暗い側)に餌があるT字路においてやれば、そのうち左側(または暗い側)へ曲がるようになる。反応形式は状況に応じて変更できるわけである。
 ところが、餌と電気ショックが、ときには右側、ときには明るい側、ときには暗い側という具合に、いっさいの規則性を欠いたT字路にネズミをおくと、そのうちネズミは、状況を無視した固定的、強迫的反応を示しはじめる。たとえば、餌があろうがなかろうが、右側なら右側へ曲がる反応が固定する。いったん、たとえば右側へ曲がる反応が固定すると、今度そのネズミを、右側へ曲がれば必ず電気ショックがあるT字路においても、依然としてネズミは、何度電気ショックを受けて痛い目に会っても、右側へ曲がりつづけるのである(消去抵抗)。このネズミの行動を擬人的に解釈すれば、ネズミは、何ら規則性が発見できない状況に放り込まれてどうしていいかわからず不安になり、しかし、腹が減ってくるから何らかの行動を起こさざるを得ないので、不安から逃れるため、とにかく根拠はないが、右側なら右側に曲がるという方針を決定し、いったん決定すると、何度失敗しても断乎として方針を変えないわけである。わたしには、このネズミと日本軍がダブッてみえる』

 大分長く引用させていただいたが、確かに日本軍はそうであった。「情況は全くわからなくなった。わからないならわからないで致し方がない。断乎、自分の行き方を貫くまでだ。それで全滅するなら、全滅して本望だ」とばかりに、何度失敗しても、同じことを全滅するまでやるのである。その点では確かにネズミ的である。だが日本軍とは日本人であり、日本人とはその歴史の産物である。そこでこれをさらに大きく歴史的に見ていったらどうであろうか。ある状況に於て右に曲がったら非常に痛い目にあった。そこで左に曲がったらうまくいった。そのため以後は専ら左に曲がりつづける。情況が変化しないなら、これはうまくいくであろう。だがひとたび情況が変化すれば、左に曲がることによって右に曲がったと同じ結果を生ずる。だが同じ結果を生じても左に曲がれば大丈夫と信じ、痛い目に会いつづけても左に曲がっていれば、ネズミは餓死するに至るであろう。もしそういう行動をとったら、それはネズミ以下ということになる。というのは、岸田氏の記されたネズミはもうちょっと柔軟性があるからである。一体、近代史を通じてみればこの間の日本人の行き方はどうなっているのであろう。
 そう考えてみて以上のことを幕末・戦前・戦後の日本にあてはめてみると面白い。戦前の日本人は、ある行為をすれば亡国になり、その逆をすれば必ず勝者となって安全であると信じ込んでいた。もちろん、何によってそう信じ込まされたかは忘れたか、消したかしてしまった。従ってそれは一種の呪縛のようになり、だれもこの行き方をどうすることもできない。これは全日本性的態度で、軍隊はただそれが鮮明に出ているにすぎないのである。では何が日本人をそうしたのか。簡単にいえば浅見絅斎が「謝枋得」編で長々と記した宋滅亡の経過とそれへの朱子の批評である。ここでは北方の金と講和を策する和平派は全部売国奴でその象徴が秦檜であり、李綱や尽忠報国の岳飛に象徴される軍人はみな愛国者なのである。従って、軍人の言う通りにしていれば、謝太皇太后が国を元に献じて亡びるような事態にはならなかったであろうという結論が一応出てくる。こういう図式を頭の中に叩き込まれていれば、李鴻章は狙撃され、小村寿太郎は売国奴とされ、東大に「バイカル七博士」が出現し、講和反対の焼打ち事件が起って不思議ではない。何しろ「謝枋得」編を読んでいくと「譲歩は敗北への道だ」になるから、軟弱外交否定、決裂も辞せず一歩もひくなと、断固主張するのが勝利と国家保全の道であり、これをつきつめれば、譲歩妥協して他国と条約を結ぶことさえ悪になってしまう。
 日本は大体そのようにし、そうしていれば国は保持できるという呪縛にかかっており、軍人だけでなくマスコミも世論も、三十余年前の八月十五日までそれを主張しつづけた。ところがこの考え方・行き方により、大変に「痛い目」に会った。そこで戦後の日本人はほぼその瞬間に、戦前の逆をやれば安全と信じ込んだ。いわばT字路に置かれたネズミは、明治には「謝枋得」編の宋滅亡の逆の方向(これを右としよう) へ曲がることによって一応成功した。いわば「痛い目」より「餌の方」へと曲がって、近代化という成功を克ちとった。ところがこれが固定し、客観情勢が変っても同じように右に曲がりつづけ、大変に「痛い目」に会った。そこで左に曲がって意外な戦後的成功を克ち得た。すると今度も客観情勢が変化しても左に曲がりつづけよと主張される。ところが今になってまことに規則性のない国際情勢の中に放り出された。もっとも過去にも国際的環境は戦場と同様元来は規則性がないのだが、自らのうちに呪縛化した規則性に基づき、その通りやったり、その逆をやったりして、その成功と失敗を規則性として来たわけである。それが少々あやしくなって来たわけだが、そうなると変化する情況に対応できなくなり、この辺で岸田氏が指摘する消去抵抗が出て来て、どちらか一方へ、客観情勢の変化に関係なくまた曲がりつづけるかも知れない。というのは、それと大変似た状態を過去にも現出しているからである。
 一つ一つあげて行けば際限がないが、実際は別として少なくとも発想で「戦後」とは「戦前」の「反世界」であり、それを主張しさえすれば、その人間が「義」であることは事実であった。これはちょうど戦前に於て「謝枋得」編の宋滅亡の経過の逆を主張していればそれが「義」であったのと似ている。たとえば戦前は強大な陸海軍をもち、すべての国を敵としたから戦後はその逆に非武装中立ですべての国と仲よくしようとなり、そうすればあのようなことはないという発想になる。この種の「戦前=悪、その逆をすれば義」的な考え方は、戦前は「親共」が悪、戦後は「反共」が悪といった裏返し状態を例にあげるまでもなく、新聞の投書その他の到る所にある。それを要約すれば「逆コース」という批判の内容になるであろう。この言葉を、岸田氏のネズミと対比すれば、戦後の「コース」は戦前を基準とすれば「逆コース」ということになり、戦後を基準とすれば戦前が「逆コース」ということにもなる。従ってこの言葉の背後にあるものは、通常使われるのは後の意味だが、この「逆コース」を悪とするなら、戦前の逆をやればよろしいということなのである。と同時に戦前は、絅斎の指摘したように、宋が滅亡へと進むコースの逆を行けばよく、宋の道を歩めば逆コースだったわけである。そしてこの考え方は右に出ようと左に出ようと、最終的には、非常に把握しにくい客観情勢の変化が入る余地がなくなってしまうのである。

2026年6月22日月曜日

20260622 株式会社 未來社刊 丸山眞男著「現代政治の思想と行動」 pp.126-128より抜粋

株式会社 未來社刊 丸山眞男著「現代政治の思想と行動」
pp.126-128より抜粋

ISBN-10 : 462430103X
ISBN-13 : 978-4624301033


 一般に君主制の下で政治的統合を確立し、上述したような君主に直属する官僚の責任なき支配とそこから生れる統治の原子的分裂を防遏する可能性は二つ、或はせいぜい三つの場合しかない。一つは君主が真にいわゆるカリスマ的資質をもった巨大な人格である場合(或は、君主に直属する官僚がそうである場合、つまり彼がもはや単なる官僚でない場合)であり、もう一つの場合は民主主義国におけるのと変らないような実質的に強力な議会が存在していること、このいずれかである。ところが前の場合はいうまでもなくきわめて稀であるし、後の場合も、よほど特殊の歴史的条件(例えばイギリス)がない限り、君主の周囲に結集した貴族層がそうした民主的立法府の勃興を本能的な権力利害からして抑制するために、近代の君主制は表面の荘厳な統一の裏に無責任な匿名の力の乱舞を許すいわば内在的な傾向をもっているのである。帝政ロシアの場合は既に右に見た如くである。ドイツ帝国においても、ヴィルヘルム一世とビスマルクのコンビが失われた後はやはり相似た経過を辿った。「外交の巨匠としてのビスマルクが内治の遺産として残したものは、いかなる政治的教養もいかなる政治的意思もなく、ひたすら、偉大な政治家が己のために万事配慮してくれる期待によりかかっているような国民であった。彼は強力な諸政党を打壊した。彼は自主的な政治的性格の持主を許容しなかった。彼の強大な威容の消極的な産物は恐しく水準の低い卑屈で無力な議会だった。そうしてその結果はどうなったかー官僚制の無制限な支配すなわちこれである。」
 絶対主義国家としての日本帝国の行程も畢竟こうした法則に規定されていたのである。明治藩閥政府が自由民権運動をあらゆる手段によって抑圧し、絶対主義のいちじくの葉としての明治憲法をプロシアに倣って作り上げた時に既に今日の破綻の素因は築かれてはいた。「官員様」の支配と、その内部的腐敗、文武官僚の暗闘、軍部の策動による内閣の倒壊等々は決して昭和時代に忽然と現われた現象ではなかった(例えば明治二五年、第一次松方内閣改造に際しての大山・仁礼・川上ら軍首脳部のボイコット、或は大正元年の二個師団増設問題における上原陸相の単独帷幄上奏などは、後年の軍部の政治的常套手段の見事なモデルを示している)。他方、帝国議会は周知の通り一貫して政治的統合が最終的に行われる場ではありえなかった。それどころか議会開設後の政党はそもそも「打壊す」のにビスマルク的鉄腕を必要とするほどの闘志と実力を持たなかったのである。政治力の多元的併存はかくて近代日本の「原罪」として運命づけられていた。にも拘らずそこで破綻が危機的な状況を現出せず、むしろ最近の時代とは比較にならぬほどの政治的指導と統合が行われていたのは、明治天皇の持つカリスマとこれを輔佐する藩閥官僚の特殊な人的結合と比較的豊かな「政治家」的資質に負うところが少くない。伊藤博文がビスマルクを気取ったのは滑稽ではあるが、しかし彼にしても其他の藩閥権力者にしても、一応は革命のしぶきを浴びつつ己れ自らの力で権力を確立した経験を持っていた。彼らは官僚である以前に「政治家」であった。彼らは凡そ民主主義的というカテゴリーから遠かったが、それなりに寡頭権力としての自信と責任意識を持っていた。樺山資紀の第二議会での「我が国の今日あるは薩長の力ではないか」云々という有名な放言はこの内心の自負の爆発にほかならない。そうした矜持が失われるや、権力は一路矮小化の道をたどる。政治家上りの官僚はやがて官僚上りの政治家となり、ついに官僚のままの政治家(実は政治家ではない)が氾濫する。独裁的責任意識が後退するのに、民主主義的責任意識は興らない。尾崎咢堂は「三代目」という表現で戦時中不敬罪に問われたが、三代目なのは天皇だけではなかった。そうして絶対君主と立憲君主とのヤヌスの頭をもった天皇は矮小化と併行して神格化されて行ったので、ますますもってその下には小心翼々たる「臣下」意識が蔓延した。イソップ物語のなかにこういう話がある。-ごましお頭の男が二人の愛人を持っていたが、一人の愛人は男より若く一人は年寄りだった。若い女は年寄りの恋人を持つことを嫌って、通うごとに男の白髪をだんだん抜いて行き、年増の方は年下の男を持っていることを匿そうとして逆に男の黒い毛を抜きとって行った。それでとうとう男は禿頭になってしまったーというのである。日本の「重臣」其他上層部の「自由主義者」たちは天皇及び彼ら自身に政治的責任が帰するのを恐れて、つとめて天皇の絶対主義的側面を抜きとり、反対に軍部や右翼勢力は天皇の権威を「擁し」て自己の恣意を貫こうとして、盛に神権説をふりまわした。こうして天皇は一方で絶対君主としてのカリスマを喪失するとともに、他方立憲君主としての国民的親近性をも稀薄にして行った。天皇制を禿頭にしたのはほかならぬその忠臣たちであった。

2026年6月21日日曜日

20260621 中央公論新社刊 林道義著「父性の復権」 pp.154-159より抜粋

中央公論新社刊 林道義著「父性の復権」
pp.154-159より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 412101300X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121013002

いじめ・不登校と父性
弱い者いじめの心理
 現在の日本で問題になっているいじめは、残虐で執拗だという特徴を持っている。となるとその背後にはサディスト的な心理があるのではないかと疑ってみたくなる。サドマゾ的な性格は、両親が厳しすぎて、しかも愛情が不足して育った場合に出てきやすい性格である。フランクフルト学派の研究によれば、それは権威主義的な性格と近い関係にある。しかし現代の日本のいじめは、父親が厳しすぎるために出てきたサド的な心理である可能性は少ない。むしろそれは正反対の心理を示しているように思われる。
 現在の日本社会のいじめは、いじめる子のフラストレーションの解消に使われているという性質を否定できない。つまりいじめっ子の心の中にはある種の不満が鬱積しており、その不満の解消として、いじめがなされているのである。
 不満があると言っても、その不満を子どもたちが自覚しているわけでは決してない。むしろ逆に、その不満は無意識の中に深く抑圧されており、子どもたちはその不満を表現することを許されないのである。その抑圧が直接的でなく、巧妙で心理的であればあるほど、子どもたちはそれに対して反抗することができないで、鬱屈した形で表現せざるをえない。子どもたちは、自分の不満や欠陥といったマイナスのものを表現することを許されていないのである。
「不満のない」子どもたち
 今の子どもたちを対象にしたある調査によると、両親に対する満足度を調べたところ、子どもたちの九割が親に満足していると答えた。それを額面どおりに受けると、今の子どもたちはほとんど親に不満を持っていないということになる。
 しかし調査の結果を表面的に理解してはならない。子どもたちが両親に不満を持っていないとは、とうてい考えられないからである。私の心理療法の経験から言っても、問題を持つ子どもは誰でも、必ず親に対する不満を持っており、また面接していくと不満を意識化するようになる。子どもたちは決して不満を持っていないのではなく、自覚していないだけなのだ。
 ということは、「親に満足している」と答えた子どもたちのかなりの部分が、自分の不満を抑圧しているということになる。あるいは、言い換えれば、巧妙なマインドコントロールのもとにあって、満足だと思いこまされているということになる。それだけ親の心理的な支配が強いのだとも言えるだろう。親と言ったが、じつは支配している親はこの場合母親である。日本の家庭では父が不在で。子どもの教育や面倒は母親が見ている場合が多いからである。つまり子どもたちは母親の強いマインドコントロールのもとにあると言うことができる。「親に満足」だとの答えは、じつは母親に管理されてしまっている子どもの姿を浮かびあがらせているとも見ることができよう。
 少し古いが、一九八七年に武蔵野市が行った「子どもの生活実態調査」によると、「お父さんとの間はうまくいっていますか」との質問に、中学生の場合「とてもうまくいっている」が二六・七パーセント、「かなりうまくいっている」が二四・九パーセント、「ややうまくいっている」が二九・一パーセントであった。なんと八割がともかくも「うまくいっている」と感じており、三分の一が「とてもうまくいっている」と思っているのである。これは父親がよほど子どもに「理解のある態度」を示していないと出てこない結果である。父親がきちんとしたしつけをしようとか、なんらかの価値観を教えようとするならば、こういう結果は絶対に出てこない。親子の間の衝突や子どもの反抗という現象がもっと多く起きるはずである。父と子が見かけ上「うまくいっている」というのはどこか薄気味悪い。よほど現代の父親が「もの分かりがよい」「優しい」「甘い」ということの現れだからである。つまりこの調査結果は、この子どもたちの父親がしつけに参加していないことを表しているのである。
 「親に満足している」とか「親とうまくいっている」と思わせているもう一つの理由は、親に対する評価が物質的な面に偏っていることにある。いまの日本では、たいていの家庭は、子どもに世間並みの物質的必要を満たしてやることができる。生活面で子どもに不自由させている親はそう多くない。物質的な条件に関するかぎり、不満がないのは当然である。問題なのは、満足かどうかと質問されたときに、心理面や愛情面について聞かれているとは思わないで、ましてや親の生き方や信念について聞かれているとは思いもしないで、物質的なことを考えて答える者が多いかもしれないことである。もしそうだとしたら、そのこと自体が、母親主導の価値観を示しており、抽象的な理念からの発想がないという意味で父性の欠如を示していると言うことができる。
母性一辺倒のしつけ
 父性が関わらないで、母性だけによってしつけがなされると、子どもは細かい日常的な事柄に関しては関心が強くなるが、原理的なことについては関心をなくしていく傾向にある。母性によるしつけは、往々にして自主性や判断力を養わないで、大人の基準から見て得だと思われる目標(受験勉強)に向けて細かく管理して邁進させるという性質を持っている。すでにかなり以前になるが、祖母を刺し殺してしまった高校生の場合にも、祖母が一挙手一投足について干渉することに耐えられなくなって、殺すという極端な反応を示したと考えられる。太母の支配と管理が強すぎると、それから逃れるためには殺人という極端な手段を取るしかないと思い込んでしまうのである。
 母親によるしつけは往々にして、原理原則によるよりは、目の前の具体的なことについて細かく管理するという形を取りがちである。我が子の得や安全ばかり考えて、勉強や技術の習得を第一として、正義や勇気や誠実といった抽象的な徳への関心は排除されてしまう。ましてや衝動をコントロールするなどということは、しつけの中に入ってこない。コンプレックスやフラストレーションをコントロールするどころか、それらに左右されやすい人格になっていく傾向にある。
 母性支配による正義感の欠如
不満も表せないし、反抗もできないという「満足しているいい子」たちは、じつは自我の弱い、発達の未熟な、フラストレーションを持った子どもたちなのである。だからその子どもたちが、いったんそのフラストレーションを発散させようとすると、自我による抑制もなければ、超自我(父の道徳的規範)による歯止めもない、まったくの無制限で無秩序ないじめ方をすることになる。それはまさに父性不在の母性一辺倒による発達の歪みを示しているのである。
 いじめっ子たちがとくにこだわるのが、チクるという行動である。チクるとは、大人に言いつけることである。子どもたちの間では、チクるという行為は最大の罪悪と考えられている。この罪悪感にほとんどの子どもたちが囚われているのは、いじめる子どもたちの支配のイデオロギーにすべての子どもたちが絡め取られていることを意味している。それは逆に言えば、いじめる子どもたちがいかに大人の介入を恐れているかを示している。いや、大人というより、父の論理の介入を恐れているのである。社会規範の基準が持ち込まれ、それによって裁かれることは、彼らにとっては致命的である。彼らの無法を正当化する幼稚な理由づけ(「汚いから」「臭いから」「のろまだから」「ブスだから」等々)が通用しなくなり、まったく別の基準によって裁かれて、悪として断罪されるからである。ということは、彼らは自分たちが父親的な大人の観点からは断罪されるということを承知しているということになる。知ってはいるがやめられない、というところに、無意識の動機の強さと恐ろしさが示されているのである。
 直接いじめに加わる子ども以外の子どもたちが、まわりにいて傍観したり、無関心を装ったりするという傾向もまた、父性の不足を示している。そこには我が身の安全のみを願い、正義や勇気という徳目にはまったく無関心な、母性のマイナス面が支配している。