2026年7月6日月曜日

20260706 株式会社blueprint刊 宮台真司著「崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する」 pp.183-186より抜粋

株式会社blueprint刊 宮台真司著「崩壊を加速させよ 「社会」が沈んで「世界」が浮上する」
pp.183-186より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4909852093
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4909852090

『冷たい熱帯魚』:〈システム〉からの自立自体が孕む依存の喝破

『冷たい熱帯魚』には園子温定番の「ダメな父親」(ゆえのダメな家族)が描かれる。ダメぶりが引き起こす悲劇の激烈さにおいては『紀子の食卓』(2006年)に連なる。ダメな父親への否定の身振りの激しさは『冷たい〜』ではもはや尋常の域を遥かに超えている。
 園監督はかつて私的に語った。『紀子の食卓』に描かれた父親は彼自身の父親だ。大学教授である父親は、構造的貧困がもたらす飢餓の激烈さを語った直後なのに激昂すると食卓をひっくり返すような偽善者だったという。父親への反発から家出して、カルトやセクトにも入った。『紀子〜』では父親のダメぶりが、あるべき家族についての勘違いのパターナリズムとして描かれる。ところで、「またお父さんったら」的な赦し合いのコミュニケーションを可能にする感情的共通前提の、空洞化に対処するには、近親姦による秘密の共有か、究極の演技しかない。
 近親姦による秘密の共有を描いたのが『Strange Circus 奇妙なサーカス』(2005年)で、究極の演技を描いたのが『紀子〜』だ。どちらの場合も子供たちを犠牲にした自己満足に帰結する。だから園作品は、親たちの自己満足に資するAC的振る舞いからの解放を謳って終わる。
 『冷たい〜』では更に先に進んだ。子供が親のパターナリズムに偽善を見出すのは何故かを問う。答えはシステムへの過剰依存だ。親が親みたいな顔をしていられるのはシステムに依存するからに過ぎない。システムの外出してしまえば親らしさなど一挙に吹き飛ぶという訳だ。
 映画のラストにやっと判明するが主人公は娘の美津子だ。映画は、美津子から見た父・社本信行のダメさの話だ。小さな熱帯魚店を経営する社本は、大規模な熱帯魚店を経営する村田に感染して仕事に協力するが、実は村田は、システムの外を生きる「モンスター」だった。
 人を毒殺しては妻と一緒に解体処分する村田だが、常軌を逸した振る舞いを示すにも拘わらず、のべつ幕なしの多弁さで社本のダメさを際立たせ、説教し続ける。「ふん、どっちみちバレたら死刑だ。だがな、俺はシロウト紛いのオロオロ小僧とは違う」云々。
 村田の辣腕経営者ぶりに感染した社本が、やがて二度目の感染をする。システムの外出を生きるモンスターぶりに感染するのだ。オロオロ小僧・社本が「屹立する父」へと翻身する。その翻身を「眼鏡をかけた男」から「眼鏡を外した男」への変貌ぶりが示す。
 少女漫画に定番の「眼鏡を外したら、あら美人」ならざる、「眼鏡をとったら、あら父親(真の男)」。それだけであれば所謂「成長もの」ー離陸して混沌を経験した後に離陸面とは異なる着地面に着地するーの、よく出来た作品ということで終わろう。
 だが、少なくとも二点で意外な印象を与える。第一に、村田は「脱社会的存在」ではない。真のモンスターではない。村田が魚を捌くかのように「人を捌く」のは、村田自身が「父に裁かれ」、その身勝手な自意識によって激烈な罰を受けてきたからだと示されるのだ。
 浦沢直樹の連載漫画『MONSTER』(1994年~2001年)に登場する悪魔の如き少年ヨハン如く、元々は誰よりも感情的な存在だったがゆえに大人たちによる虐待に苦しみ、やがて感情的存在としては理解不能な「モンスター」に変貌する、という「摂理」が暗示される。虫の息となった村田の、少年時代に繰り返したのだろう父の許しを請う呟きが、それまでと一転して観客の同情を誘う。観客は、父(村田の父)から父(村田)へ、その父(村田)から父(社本)へという連鎖に、「世界は確かにそうなっている」という寓意を見出す。
 父による抑圧からの解放が、父が登録されたシステムから離脱して生きる「脱社会的」な振舞いでしかあり得なかった、という負の連鎖。だが、この摂理に深く打たれる間もなく第二の意外な展開が待っている。社本が自らの首を切り、娘に哄笑されながら死ぬのだ。抑圧からの解放という成長物語を生きる者が、成長物語の完遂のために新たな抑圧をもたらすという負の連鎖。それを突きつけられた観客は我に返るだろう。『紀子〜』のラストの娘が「家族からの卒業」を暗示等したとすれば、『冷たい〜』も実は卒業を暗示している。
 この卒業は、「父親による抑圧(によるシステム依存)から(システムの外に出ることで)解放される」というシステム依存をめぐる実存の物語ー解放の物語ーが、それ自体システムに(ゆえにシステムに登録された父親に)依存する、という逆説からの、解放である。

20260705 株式会社PHP研究所刊 池内恵 編著『「世界を動かす宗教」講義』 pp.50-55より抜粋

株式会社PHP研究所刊 池内恵 編著『「世界を動かす宗教」講義』
pp.50-55より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4569860788
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4569860787

日本の宗教・根源感情は何か
森本:これからの世界は、外交も軍事も経済も多極化ないしブロック化に向かっているようです。さて、日本ははたしてどこに入るのでしょうか。これまでは西側世界の一員として数えられてきましたが、従来のリベラル・デモクラシーという価値だけでは上手く回らないことは、現在の世界の混迷を見れば明白です。

佐伯:まさにそれが大問題で、冷戦後はグローバル化が進んで、諸文明が収斂する世界が訪れると考えられましたが、実際には、むしろそれぞれの国や地域の文明が露わになりぶつかりあう時代が到来しています。これからは各国ともに、まずは自分たちの領域を守ることを優先するはずで、そのためには国民的な団結が求められます。そこで必要になるのが国民のあいだで共有される価値なのですが、冒頭の議論に戻るなら、日本人はそれが何なのか自覚できていない。自分たちの根源感情を言語化できていないのです。

森本:佐伯先生は『正論』2025年3月号に寄せられた論考で(「戦後80年 神なき時代に」)、1969年の三島由紀夫と石原慎太郎の対談に触れながら、折口信夫と柳田國男の思想を紹介しておられましたが、日本の根源感情を考えるうえで重要な内容だと感じました。

佐伯:どうやら日本の思想史の流れのなかでは特異らしいのですが、私には柳田の考えが馴染みますね。家があって先祖がいて、われわれが死んだら先祖と同じ一つの魂になる。そして、日本の宗教的な情熱の原点であり源泉が何かと言えば、自然でしょう。四季があり、山や川などのなかで人間が暮らしていて、自然には恵みを与えてくれる面もあれば害をもたらすものもある。昔の日本人はそれを「カミ信仰」と表現しました。
 柳田もまた、明治時代からの国家神道は本来の日本人の信仰心とは馴染まないと考えたのでしょう。私もやはり、自然のなかに見出せる神を土台とした宗教観や氏神信仰こそが日本の根源感情ではないかと思います。
 折口はそんな柳田の祖先崇拝を批判しましたが、彼の思想は結局のところ、異郷からやってくる神あるいは神的な存在である「まれびと」という考え方に集約されます。それはおそらく、先の大戦で非常に大切に思っていた養子が戦死したという悲劇もあり、彷徨える彼らの魂が一体どこへゆくのかという関心を排除できなかったからでしょう。そして、具体的には何者かはわからないけれども、異界からくる神のような存在があると考えたのだと思います。
 日本とヨーロッパの根源感情の決定的な違いは、ヨーロッパが一神教の神というものを生み出した一方で、日本はそれをつくらなかった点に求められるでしょう。日本人は、われわれの隣にはいつも神がいると考えましたが、それは決して目には見えないけれども、感じることができる。言うなれば、いつもそこにいる霊的な存在であると表現できるでしょう。

森本:日本の神は内在的ですが、ユダヤ・キリスト教の神は「世界の外」に存在する神で、その意味では折口の「まれびと」に近い。この世界の秩序に属さないところに存在しているので、この世の枠組みで考えてはいけない、という基本的な感覚があります。
 ただ日常の宗教性表現は、じつは日本のように神を身近に感じるのとさほど変わりません。街角にお地蔵さんのようなマリア様が祀られているのを見ると、先に触れた「文化」化した宗教は似通っているな、と思います。

自然への畏怖を抱く日本人
佐伯:もう一つ言えば、自然に対する考え方も大きく違うでしょう。日本人は、人間もまた自然のなかに存在していると考え、同時にその自然が、一方では人間に恵みを与え、他方では台風や津波、地震など、自然のなかには人間には理解しがたい「奇しき力」が存在しているとも考える。この両方の力によってわれわれが動かされているとしたのでしょう。だからそれを神と呼んで雷神や風神なども考え出したし、その神を畏怖して祀ることで生活の秩序をつくり出してきた。一方、ヨーロッパは自然現象については、少なくとも近代になれば、人間が理性の力でそれを解明できると考えている。
 さらに言うと、日本人は、われわれには理解できない奇しき力が存在するのであれば、それによってつねに世界は移り変わるし、その移り変わりにとくに意味はない、と考えます。だからこそ、この世に永続的なものはないという「無常」の観念に接近するように思います。

森本:自然に対する態度の違いは誠におっしゃるとおりです。日本的な感覚には、自然の力への畏怖があって、身近だけれど理解することも手なずけることもできない相手として、恭しくともに暮らしてゆく、というところがあります。
 それに対して近代西洋の自然理解は、神秘を理性の力で無理やりこじ開けて解明し、自分の用に奉仕させる、という感覚でしょうか。本来の聖書的な理解では、自然も人間も神の被造物であることに変わりはないのに、いつの間にか神を消し去って、自分が自然世界の王者であるかのように振る舞っているのです。これも神が世界の外に存在するからですね。だから、無神論ってじつは聖書的な世界観からしか生まれないんです。
 それと、その超越的であるはずの神が内在化すると、「自国の神」になってとても危険です。これが現代のアメリカやイスラエルに起こっていることで、それは日本の国家神道が辿った道でもあります。終戦直後の折口はそのことを批判した数少ない一人でもあります。 いずれにしても、すべての文化は宗教的だというのが私の考えです。現世的な組織立てを超越する何かの深みがなければ、その文化を一つの塊としてまとめることはできないからです。文化の核が必要なのです。それを言語化することは難しいですが、世界が多極化していく時代、日本に住むわれわれがどのような自己理解をもつかは、世界から向けられた問いでもあると思います。

佐伯:おっしゃるとおりです。日本は戦後、アメリカからもちこんだリベラル・デモクラシーや近代主義の実現をめざしてきましたが、それによってどのような国にしようかとは考えてこなかったし、また現に手本としてきたアメリカ自身が大きく変質し始めています。歴史の大きな転換点にいると同時に、われわれが歴史のなか置き去りに非てきた価値観や宗教意識を思い起こすことがきわめて大事になってきました。
 世界の向かう方向がどうであれ、ずっと先送りしてきた「日本とは何か」という宿題をあらためて突き付けられているように感じますし、そのためにはわれわれの根源感情は何かをあらためて議論しなければなりませんね。

2026年7月5日日曜日

20260705 株式会社日刊現代・講談社刊 若林秀隆著「幸福寿命」 pp.92-95より抜粋

株式会社日刊現代・講談社刊 若林秀隆著「幸福寿命」
pp.92-95より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4065436508
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4065436509

幸福寿命を短くする社会側の要因とは
 社会生活が幸福寿命と大きく関連しているのは皆さん納得していると思います。ある程度の年齢になると、大きく人生を転換するのはなかなか難しいです。となるとこれからを 考えるうえで大事なのは社会生活の中でいかにプチシフトしていくかではないでしょうか。
 現在の日本社会には、個人の幸福寿命を短くする社会側の要因が数多くあります。社会の現状を知ったうえで、個人が能動的にプチシフトすることを心がけないと、今の日本では幸福寿命をのばすことは難しいです。
 社会側の要因をまとめると、人間関係とコミュニティの希薄化、個人の多様性を否定する価値観、完璧を求める過剰なプレッシャー、経済的・社会的な不安定性の4つに分類できます。
 人間関係とコミュニティの希薄化には、つながりの貧困化や、無機質な都市開発があります。昔の日本社会では、良くも悪くも血縁 (家族や親族との関係)、地縁(地域コミュニティ との関係)、社縁(会社組織との関係)によるつながりが強かったです。個人が受動的に生き ていても、さまざまなしがらみが存在していました。
 現在でも地方では一部、血縁や地縁が色濃く残っていますが、都市ではかなり消失しました。そのため、都市では個人が能動的に生きないと、人とのつながりが少なく孤立しやすい無縁社会の影響を受けます。
 都市開発による環境破壊で自然や公園が減り、無機質なビルが多くなり、マンションのオートロック、スーパーなどでの買い物がすべてオンラインで行えるようになったりするなど、コミュニティが育まれにくい都市構造が増えています。そのため、環境面でも受動的な生き方では、人との深い関係を築くことが難しくなりました。
 個人の多様性を否定する価値観には、非寛容性と同調圧力、男尊女卑と性別規範、外国人・ 障害者などへの排他主義があります。ただしこれらは、現在の日本社会に限らず以前から 存在するものです。みんなと同じであることを求め、少しでも違う生き方や考え方をする 人を受け入れず、出る杭は打たれるという非寛容性と同調圧力が、日本では強めです。
 世界経済フォーラムが、経済、教育、健康、政治参画の分野毎にデータを重み付けしたジェンダー・ギャップ指数を毎年発表しています。2025年の日本の順位は、148ヵ国 中118位であり、2024年と同じでした。昔の日本社会よりはまだましかもしれま せんが、今でも男尊女卑と性別規範が強く、都市よりも地方でより目立ちます。日本で都市より地方の人口減少のほうがより多い要因の一つは、地方での男尊女卑と性別規範の強 さだと私は思います。
 完璧を求める過剰なプレッシャーには、行き過ぎた新自由主義による自己責任論と個人主義、高すぎる要求水準、労働能力と生産性の至上主義、効率性至上主義、知識社会化、グローバル化があります。
 新自由主義とは、規制を緩和して市場で自由な活動をさせることが最も効率的であり、個人の成功も失敗も自己責任で、弱者救済のための公的福祉には消極的な考え方です。現在の日本社会では、行き過ぎた新自由主義による自己責任論と個人主義の影響が強く、失敗は社会の責任ではなく個人の責任として厳しく追及されます。そのため、人に助けや援 助を求めることに心理的な抵抗を感じる方が増えている印象です。
 経済的・社会的な不安定性には、格差社会の進行、少子高齢化、政治的な不安定性があります。新自由主義、知識社会化、グローバル化などの影響で、日本でも格差社会が進行 しています。少子高齢化は、社会保障制度の財政を圧迫し、国民の将来への不安を増大さ せます。この不安を解消できない政治への不信感が、さらに社会の不安定性を高めています。
 高齢者へのエイジズム(年齢差別)もあります。年金や医療といった社会保障制度の今後への不安は、政治的な不安定性や政治家や役人に対する信頼の低さが一因です。政治家と役人が、すべての国民の幸福を最優先に取り組んでいれば、今とは異なる社会になって いたはずです。
 このように、現在の日本には幸福寿命を短くする社会側の要因が数多くあります。
 一方、スマートフォンやAIなどテクノロジー面の発展、個人の自由や多様性が以前よりは尊重されるようになったこと、人とのつきあいの選択肢の増加、障害者差別解消法な ど法律の整備、医療や公衆衛生の進歩、美味しい食品やお酒の増加、犯罪率の低下など、 幸福寿命をのばす社会側の要因もあります。
 そのため、昔の日本社会のほうが今より幸福なりやすかったわけではないと私は考え ています。昔の日本には受動的に得られるつながりがありましたが、それはしがらみでも ありました。一方、現在の日本には、能動的に自らの意思で、より多様で豊かな幸福を迫 求できる機会が増えました。ただし、幸福寿命を短くする社会側の要因が多いので、社会 が変わるのを待つのではなく、個人が社会生活を能動的にプチシフトすることが幸福寿命 をのばす道となります。

2026年7月2日木曜日

20260702 株式会社KADOKAWA刊 松木武彦著「古墳とはなにか 認知考古学からみる古代」 pp.72-76より抜粋

株式会社KADOKAWA刊 松木武彦著「古墳とはなにか 認知考古学からみる古代」
pp.72-76より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4044007632
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4044007638

九州から畿内へ、そして関東へ
 古墳の出現、すなわち弥生時代から古墳時代への移行にかならずつきまとうもうひとつの問題は、日本列島社会の空間構造の激変が、そこで生じているということである。すなわち、弥生時代の、少なくともある段階までは、九州北部に文化的な先進性と政治的な中心性があったのに対し、古墳時代は畿内を核とする時代へと変わったということだ。九州から畿内へという中心の移動がいつ、どのように生じたのかという問題は、邪馬台国の所在論や、神話の歴史学的評価と、きわめて密接に関連している。
 この、社会の中心が西から東へ移っていくという動きは、農耕社会成立以降三〇〇〇年の日本列島史の底流をなすメカニズムだった。弥生時代には九州北部にあった中心が、古墳時代に移り変わるころに畿内へと移動し、畿内を政治と文化の中心とする社会のかたちは、少なくとも平安時代までは続いた。その後の鎌倉時代と室町時代とは、いずれに比重を置くかは見方しだいのところはあるが、畿内と関東という、社会的役割を異にする二つの中心をもった時代だったといえる。これが、戦国から安土桃山にいたる動乱期をへて近世の江戸時代になると、中心としての関東の比重がかなり明確になる。ただし、経済や文化の限られた局面で畿内の中心性がまったくなくなったわけではない。さらに明治以降の近代から現代にかけては、関東に公式の首都が置かれ、その中心性はさらに増した。
 このように、弥生時代から現代にかけて、列島社会の中心は、九州北部(博多湾沿岸)から畿内(大和・河内・山城=京)、そして関東(鎌倉・江戸)へと、大きくみれば三遷している。空間構造の変化という視点から日本列島史のメカニズムを分析する目的で、それぞれが中心となった時代を、一般的な時代区分とは別に、かりに、「ツクシ時代」「ヤマト時代」「アズマ時代」とよんでみよう。
 ただ、各時代の境界はかならずしも画然としたものではなく、文字記録のうえではっきりと歩みがたどれるヤマト時代とアズマ時代のあいだには、新旧両中心が並び立つ鎌倉・室町という長い移行期がはさまっている。また、アズマ時代になってからも、旧中心の畿内が、京あるいは大坂(大阪)というかたちで、新中心の江戸(東京)に対して、文化あるいは経済のうえで独自の比重を保ちつづけた。
 これと同じように、ツクシ時代からヤマト時代への移行のときにも、新旧両中心の博多湾沿岸と奈良盆地とが役割を異にして並び立ったり、政治的中心が奈良盆地に移ってからも博多湾沿岸が文化や経済のうえで独自の地歩を占めつづけるような複雑な状況が生じていたにちがいない。したがって、いつ、どのような局面での中心の移動が、いかなる段階を踏んでおこなわれたのかを正しくつかむことが、弥生時代から古墳時代への移行の歴史的意義を明らかにし、ひいては、古墳とは何かという問題の答えを導くだろう。文字記録が貧しいこの時代にあっては、考古学が、そのための随一の手段となる。

前方後円墳の成立年代
 宗教、政治、経済、文化、そして人口。一口に中心といっても、さまざまな種類や局面での中心があり、それらはかならずしも一か所に合致するわけではない。弥生時代から古墳時代にかけて、すなわちツクシ時代からヤマト時代への移行期に、どのような中心がどこに生じ、それらがどう推移したのだろうか。考古資料をもとに復元してみよう。
 まず、本書のテーマである前方後円墳。さきに述べたように、これは、長を葬って神格化する装置であり、その背後には長どうしによる政治的な連合組織が想定できる。したがって、前方後円墳の規模や分布の焦点は、そういった祭政組織の総本山の所在、すなわち、古代においては分かちがたく結びついた宗教と政治という局面での、中心のありかをしめす可能性が高い。
 最初期の前方後円墳の中心が、まず、奈良盆地東南部の纏向遺跡付近に形成されたことも先述した。これは、いつの出来事なのだろうか。纏向付近の前方後円墳群のなかで、築造年代を絞りこむための情報がもっともよくわかっているのはホケノ山である。ホケノ山の埋葬施設の上に安置されていたとみられる壺は、「庄内式」とよばれる型式で、ともに出土する木材資料の年輪年代や、同じ庄内式の土器にこびりついた炭化物の放射性炭素年代などの複数のデータから、三世紀前半の所産とする説が有力だ。ただし、ホケノ山の土器は、庄内式のうちでも新しい特徴をもっている。また、埋葬施設から出た鏡のうちもっとも新しいのは画文帯神獣鏡といわれる型式で、それ自体には年代幅があるが、上野祥史氏によると、文様の種類や配置から、ホケノ山の例は三世紀中ごろにつくられたものらしい。これらの検討から、ホケノ山の年代は三世紀中ごろにほぼ絞られるだろう。
 いっぽう、纏向の盟主であり、列島最初の巨大前方後円墳とみられる箸墓の壺は、庄内式よりも一段階新しい「布留式」だが、そのなかではもっとも古い特徴をもつ。したがって、ホケノ山の直後のものだとみてよい。さらに箸墓には、特殊器台という、埴輪の元祖となった大形の土器も立てられていた。特殊器台はもともと吉備地域で発達したもので、箸墓の例はそのうちもっとも新しい「宮山型」である。宮山型の特殊器台は、吉備の土器でいえば、畿内の庄内式から布留式への過渡期に併行する「下田所式」段階の所産とみられる。こういった考古学特有の年代決定手続きの話は、ともすれば微に入り細をうがって複雑になってしまうが、ようするに、さまざまな材料から、箸墓は、ホケノ山の直後にあたる三世紀中ごろから後半にかかろうとする時期には完成していた可能性が高いということだ。
 そのほかの纏向の前方後円墳群のうち、墳丘長約一一五メートルの勝山古墳では、古墳の完成後に掘られた穴に、古墳の構築に使ったと考えられるヒノキ材が投げこまれていて、これは二〇〇年前後という年輪年代の測定結果が出ている。今後、同じようなデータが積み重なれば、三世紀に入るころには纏向の前方後円墳群の造営がはじまっていたことが明らかになるだろう。
 このように、鏡や土器の型式の検討、年輪年代、放射性炭素といった複数の手続きから、纏向の前方後円墳群は三世紀の前半には出現し、半ばごろには箸墓が完成して、前方後円墳の総本山たる威容を整えるにいたったことが明らかだ。箸墓以前の造営と考えられるホケノ山や勝山も、すでに長さ八〇〜一〇〇メートルという、ほかの地域にはない大形の墳丘や入念な埋葬施設をもっている。前方後円墳を主要な装置として、その後三〇〇年ほども続いた宗教と政治の中心は、三世紀前半には畿内の奈良盆地にあらわれていた。

2026年7月1日水曜日

20260630 株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」 pp.40-42より抜粋

株式会社 草思社刊 ポール・ケネディ著 鈴木主税訳「大国の興亡―1500年から2000年までの経済の変遷と軍事闘争〈上巻〉」
pp.40-42より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4794204914
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4794204912

二つのアウトサイダー ー日本とロシア
 十六世紀には、ほかに二つの国家がー国力の点で明やオスマン・トルコやムガル帝国とはくらべるべくもなかったがー政治的統一と経済成長を実現しかけていた。極東では日本が、隣の巨大な中国が衰えかけていたまさにそのとき、大きく一歩を踏み出していた。地理的な位置が(イギリスと同じよう に)、日本にとっては第一の戦略的資産だった。孤立した島国であるおかげで、日本は陸路による侵略を 免れることができたが、中国のほうはそうはいかなかったからだ。だが、島国日本とアジア大陸とのあいだに広がる海は両者をまったく隔てているわけではなく、日本の文化や宗教の大部分は、古い歴史をもつ大陸の文明から取り入れられたものだった。しかし、中国が統一的な官僚機構によって動かされていたのにたいし、日本の権力は氏族に基盤をおく多くの封建領主の手に分散されていて、天皇の権威はほんのかたちばかりでしかなかった。十四世紀には中央集権的な支配体制が存在したが、その後は領主がおたがいに争う時代がつづいた。このころの日本の状況は、同時代のスコットランドに似ている。これは貿易や商業にとって理想的な環境とはいえないが、そのために経済活動が大幅に阻害されることもなかった。海でも陸でも、企業家は戦国領主や成り上がりの権力者たちと競いあっていた。いずれも東アジアの海上貿易からあがる利益に目をつけていたからである。日本の海賊は中国や朝鮮の沿岸を荒らしまわり、同時に日本人は機会をとらえて、西欧のポルトガルやオランダから訪れた商人たちと喜んで商品を交換した。キリスト教の布教者や西欧の物資は、外国にたいして冷ややかで自己満足的な姿勢を崩さなかった明帝国を相手にした場合よりもずっと容易に日本の社会に浸透していった。
 この活気に満ちた動乱の時代のすぐあとにつづくのが、西欧から輸入された武器が活用される時代である。世界のどこでも同じだが、大量のマスケット銃やさらに決め手となる大砲を手に入れることのできた個人や集団が、当然権力を握ることになる。日本では、この結果、偉大な戦国領主である豊臣秀吉が全国統一をはたし、さらに野望を燃やして二度にわたって朝鮮征服を試みた。だが、朝鮮出兵は失敗に終わり、一五九八年に秀吉が死ぬと、内戦の危機が再び日本を襲う。しかし、数年もしないうちに、家康とその後継者である歴代の徳川将軍が政権を掌握し、その後はこの中央軍事支配がゆるぎようもなくなった。
 多くの点で、日本の徳川幕府は、その前の世紀に西欧で起こった「新しい絶対君主」と同じ性格をもっていた。だが、いちばん大きなちがいは、将軍に率いられた幕府が海外での領土拡張を避けていたことだった。それどころか、文字どおり外部の世界との接触をすべて絶ってしまったのである。一六三六年に遠洋航海用の船の建造が中止され、日本人は外洋への航海を禁じられた。ヨーロッパ人との貿易は、許可を受けて長崎の出島を訪れるオランダ船相手のものだけに限られ、それ以外との交易は行なわれなくなった。それより以前に、(外国人であろうと日本人であろうと)すべてのキリスト教徒が、将軍の命令で無残に殺害されている。徳川幕府がこうした極端な政策をとった動機が、絶対的な支配権を確立することにあっ たのは明らかだ。外国人やキリスト教徒は、支配者に背く可能性があると見なされたのである。もちろん、他の封建領主もまた幕府に反抗する可能性がある。だからこそ、領主たちは一年のうち半分を首都で過ごすことを義務づけられ、あとの半年は領地で暮らすことを許されたものの、そのあいだ家族は江戸(東京)に事実上の人質としてとどまっていなければならなかった。
 だが、上から強制されたこの統一支配も、それ自体は経済発展を阻害するものではなく、またさかんな芸術活動を阻むものでもなかった。全国が平和であれば商売に都合がよく、都市をはじめとして全国の人口は増加し、現金の使用が増えるにつれて商人や銀行家の重要性が高まった。しかし、銀行家はイタリアやオランダやイギリスの同業者が享受していたような社会的・政治的地位を獲得することはできなかった。また、日本人が世界の他の地域で発展していた技術や産業の成果を学んだり、取り入れたりすることができなかったのも確かである。明王朝と同じく、徳川幕府は、多少の例外はあれ、意図的に他の世界から隔絶することを選んだ。このために日本国内の経済活動が停滞することはなかったかもしれないが、他と比較しての日本の国力が損なわれることにはなった。貿易を嫌い、旅行を禁じられ、また儀式以外には武器を誇示することも禁じられて、領主に仕える武士は堅苦しい退屈な生活をおくっていた。軍事組織は二世紀のあいだに硬直化してしまい、一八五三年にベリー提督の有名な「黒船」がやってきたとき、仰天した幕府はなすすべもなくアメリカの要求に従って、石炭などの補給品を提供するしかなかったのである。

2026年6月30日火曜日

20260629 インプットとアウトプットとブログ開始に至る契機について

 当記事の投稿により、当面の目標としている総投稿記事数2500まで、あと5記事の投稿となります。後日、首尾良く到達することが出来ましたら、一旦、当ブログおよびSNSから離れようと考えています。そうしますと、到達までは、あまり余計なことを考えない方が良いのかもしれませんが、どうしたわけか、ここ最近は、2500記事に近づくにつれ、これまでにない、ある種のプレッシャーのようなものが感じられます…。そのためであるのか、あまり自らの文章による記事を書きたいとは思いません。むしろ、作成時にあまり逡巡することのない引用記事を量産し、まずは目標である2500記事に速やかに到達して、改めて自らの文章を書けば良いのではないかとも考えています…。しかしながら、その一方で、時には、こうして自らによる文章を作成しないと落ち着かない自分もいます…。こうした最近の状況から、かつてほぼ毎日、自らの文章でブログ記事を作成していた時期を振り返ってみますと、我が事ながら、よく継続することができたものだと思われ、また、それがなければ、現在の状況もなかったことから、やはり、総投稿記事数や周囲を意識せずに没頭する時期は必要であるとも思われます。そこから、当ブログでの記事作成と並行しているエックス(旧ツイッター)を始める以前の、概ね当ブログの作成のみであった5年弱の期間(2015年6月~2020年1月)は、現在と比べ、自分の文章(ブログ記事)が読まれているという緊張感は乏しく、その分、ブログ記事の作成に没頭することができていたのだといえます。とはいえ、本来、ブログとは、不特定多数の方々に向けて文章を公表するものであることから、やはり、一定の緊張を伴うのですが、その緊張の程度は、エックス(旧ツイッター)などのSNSほど強くはなく、むしろ、以前に行っていた文章の公表に伴う緊張感を忘れないために、当ブログを2015年に始めたのだともいえます。そして、当時、私にブログを勧めてくださった方々も、おそらくは、そのことを伝えたかったのではないかとも思われます。また、文章を作成して公表することを、ある程度の期間、継続することは、そこまで簡単なことではなく、その継続のためには、私見とはなりますが、ある種のパラノイア的ともいえる、常軌を逸したこだわり、思い込みのようなものが必要ではないかと考えます…(苦笑)。しかし、私自身、元来、おそらく、そうした傾向が特に強かったわけではありません…。それが変化したのは、これまでにも何度か当ブログで述べてきましたが、鹿児島在住での期間でした。この期間に、さまざまな実験を通じて自らの見解を組み立て、それを公表・発表する機会が度々あり、そして、そうした経験を通じて、当ブログの継続に繋がるような傾向が育まれていったのだと思われます。また逆に、実験や研究などの、ある種、インプットのみを行っていても、こうした傾向は生じなかったと思われます。つまり、インプットとアウトプットの双方がある状況が継続することにより、そうした傾向が育まれ、それらが何らかの契機で動き出し、内発的な行動として、はじめて駆動するのではないかと思われるのです。では、その「何らかの契機」とは何であるのかと考えてみますと、それは多分に人により異なるのでしょうが、私の場合、実験や試料作成や論文の読み込みや作成といったインプットと、学会発表や実習補助、指導といったアウトプット以外の、それまでの人生では無かった偶発的ないくつかの出来事であったといえます。また、それらの出来事は、比較的短い期間に集中したといえますが、こうした経験は、書籍などの記述で見つけることは出来ませんが、しかし、それらを抽象化してみますと、ある程度普遍化されて、いわゆる「ミューズ」や「ムーサ」といった創造や創作にインスピレーションを与えるような存在があったのではないかと思われるのです。とはいえ、私が在住していたのはギリシャ神話の文化が連綿と続く地域ではなく、極東の島国の南部であったことから、それは、谷川健一が複数の著作で述べたような「セジ」「セヂ」のようなものではないかと思われるのです。そして、おそらく、そういったものが作用しなければ、私は人から助言を受けても、当ブログを始めようとは思わなかったであろうし、また始めたとしても、10年以上継続して、そして、2000記事以上作成することは出来なかっただろうと思われるのです…。そういえば、去る6月22日で、当ブログ開始から丸11年となりました。そして、目標とする2500記事までは、あと5記事の更新となります。今回もまた、ここまでお読み頂きどうもありがとうございます。そして、今後も引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。

一般社団法人大学支援機構

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ISBN978-4-263-46420-5

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2026年6月29日月曜日

20260629 筑摩書房刊 ちくま新書 宮台真司・奥野克己 著「宮台式人類学ー前提を遡る思考ー」 pp.28-33より抜粋

筑摩書房刊 ちくま新書 宮台真司・奥野克己 著「宮台式人類学ー前提を遡る思考ー」
pp.28-33より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4480077359
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480077356

奥野 言語を持つことで、我々意識につながる「集合表象」が生まれたという人類史を踏まえて、社会学の初源的な考え方についてご説明いただきました。社会学は近代社会だけを扱うことに特化していったのですが、そのことに対して注釈がつけられたというのは、とても重要なことです。オリジネータたちが社会と呼ぶものは、近代社会のそれだけに限定されるべきものではなく地球上の多くの似たようなものにも適用すべき概念だと考えていたということがよくわかりました。
 もうひとつ、これから進められる「宮台式人類学」の講義についても重要な見通しが語られましたね。「煉瓦積み上げ方式」ではなく「螺旋方式」で、各論点に何度も戻って上書きしていくことで理解を深めるという手法でこれからお話をしていただくという点を、ここで読者のみなさんのためにも特記しておきたいと思います。
 さて戻りますと、社会学によって提示された「社会的事実」を含む社会の概念、つまり社会学の社会という概念は、人類学の中にも共有されている考え方だと思います。1990年代初めの川田順造さんのレヴィ=ストロースへのインタビュー動画の中で、レヴィ=ストロースが川田さんの質問に少し苛立って、「社会の話をしてるんだよ」と言うシーンがありますが、デュルケムが生み出した諸概念は、その後の社会学だけでなく、人類学にも継承され、共有されていたと考えられるでしょう。他方で、ヴェーバーに関しては、いかがでしょうか?

宮台 ヴェーバーにも同じような注釈があります。彼にとって一番重要な概念は「正統性(legitimacy)」です。支配と服従ってなんだろう、とりわけ自発的服従ってなんだろうということを徹底して考えます。相手の言うことが正しいから従う場合、日本語では「当たる」という字の「正当性(justifiability/rightness)」を使います。さて、複雑な分業編制からなる社会は、支配と服従だらけですが、正当性と損得勘定だけでは分業編制を支える服従の調達に不足が生じます。その服従を可能にするのは、正当性や損得勘定を超えた、なにかであるはずです。
 元来は王位継承線を指す「正統性」の言葉を、彼は「自発的な服従契機」という意味で使います。それを彼は実に巧妙に「伝統的正統性」と「カリスマ的正統性」と「合法的正統性」を例示して説明します。まず「伝統的正統性」。昔から皆がやっていたと信じられるだけで、それをやれと言われなくても、内容の正しさに関係なく人はそれをやりたがるという事実を指します。今日の進化生物学は孤独 (loneliness) を恐れるゲノムに、その基盤を見出します。
 次に「カリスマ的正統性」。圧倒的に凄い人を前にすると、他の人が言っても聞かないのに、その人が言うと喜んで従おうと思うという事実を指します。お金の力(損得勘定)にも暴力の力(威嚇)にも還元できない非日常的な性質(凄さ)を、ヴェーバーは「カリスマ」と呼びます。カリスマがある人に従うのも、内容の正しさとは無関係です。その人が言うから内容が正しく聞こえるのを「権威」と言いますが、それと似ているものの、少し違います。内容の正しさには関係ないからです。
 彼は、カリスマを持つ人が「カリスマ的正統性」による一回的立法を行って社会を樹立した後、カリスマを持つ人の死亡や変質などでカリスマの劣化(カリスマの日常化)が起こりますが、それを埋め合わせるのが、昔から皆がという「伝統的正統性」だとします。でも自然的・社会的な環境変化で従来の法生活が立ち行かなくなると、また「カリスマ的正統性」による一回的立法が行われ、やがて「伝統的正統性」に置き換えられる…と循環します。
 カリスマを持つ人の登場は偶発的だから、カリスマを持つ人が登場せずに伝統にへばり付くことで滅ぶか征服された社会も多かったはずです。加えてそれだと計算可能性による予測可能性を欠くので、複雑な分業編制は無理です。ところが近代になるとそれを克服する「合法的正統性」が生まれ、[手続きに合致した命令]であれば内容はともかく従うようになります。正確にはそれを近代と呼ぶのです。
 ここには、法が手続きを定め、その手続きで法を定め、その法が手続きを定め…という合法性の循環があります。それゆえ、カリスマを持つ人の出現という偶発性に頼らずに数多の立法が可能になり、伝統の変わりにくさゆえに自然的・社会的な環境変化に適応できない、という問題を回避でき、複雑な分業編制(典型が官僚制)と、分業編制の柔軟性とを、併せ持つ近代社会になります。ヴェーバーは、そういうふうにして、事実上、近代を定義したのです。恐るべき業績ですが、後で話すように、法による階層的統治が、カリスマによる英雄的統治と無関連に成り立つとした点に、大きな欠陥があります。

奥野 なるほど。ヴェーバーもまた、近代社会だけでなく、近代以前における支配と服従のあり方を検討した上で、複雑な分業体制を発展させて、法的な服従を余儀なくされる近代以降の仕組みを見るように、注釈を施しているということですね。
 では今度は、少し私の観点から、本書のテーマである社会学と人類学という学問が生まれた時代を少し遡ったところから考えてみたいと思います。序論では拙著『はじめての人類学』に言及しつつ、戦争を取り上げたのですが、それと表裏の関係にあった、ヨーロッパにおける科学や思想の流れを手短に振り返ってみたいと思います。
 16世紀に天動説を否定した天文学、19世紀に人間がサルの子孫であると唱えた進化論などの自然科学の進展により、ヨーロッパではキリスト教の唯一神への信仰が次第に絶対的なものではなくなってきていました。無神論とともにニヒリズムが広がる中、梅毒に侵されて正気を失って悩み続けたニーチェは「神は死んだ」と唱え、ニヒリズムを乗り越えて、いかにすれば生きることに価値を見出せるのかという問いを考え続けました。その上で彼は、何者にも支配されずに自由な心で生きる「超人」を目指すべきだと主張したのです。
 19世紀の科学技術の著しい発展は、人間を脅かしていた迷信や信仰を突き崩し、近代的な自我の確立も促しました。その時代にフロイトは自我の意識の奥底に抑えられた無意識を発見しています。1900年に詳細な夢分析の記録である『夢判断』を出版し、20世紀初頭に人々の抱える神経の病を治療する精神分析学を創始しています。
 産業革命以降の機械制大工業の発達は、労働を単純労働に変え、人間を機械に支配される存在に作り変えました。マルクスは19世紀後半に「資本論」の中で、人間が労働によって「疎外」される資本主義の問題を論じています。
 20世紀に入って1920年代になると、第一次世界大戦の特需に沸くアメリカは、大量生産・大量消費により経済的な繁栄を遂げますが、その直後の1929年には世界恐慌が起きます。このときに多くの人々が感じた「疎外」は芸術の分野でも表現され、1936年には、製鉄工場で監視されながら単純作業に従事する男が精神に失調をきたし、トラブルを起こして精神病院送りとなる顛末を描いた映画『モダン・タイムス』が公開されています。
 さて、さきほど宮台先生がお話しされた、フランス革命を達成して専制君主を倒して民主的な社会に移行したにもかかわらず、社会をうまく構築することができないというジレンマを抱えていた中で始められた社会学は、こうした19世紀から20世紀初頭の歴史のうねりの中で生まれたということだと思います。