2026年2月27日金曜日

20260227 文章作成の根源にあるものについて:読書の習慣と記号接地③

 これまでにも述べましたが、当初私は、北海道から南紀白浜への転勤は大変嫌でしたが、そこでの生活を通じて、地域の自然風土や歴史文化に興味を持つようになり、それが、かねてよりの大学院進学への希望と歯車が噛み合い、動き出し、そして県北部の和歌山市に住むことになりました。つまり、当初は、都市からは遠く、南方的な自然が横溢とした南紀に住み、次いで、大都市である大阪府にほど近い、県庁所在地の和歌山市に在住したことになります。この在住の順序は、現在考えてみますと、前出、コンラッド著「闇の奥」の文体に惹かれたことにも関連があるように思われるのです。と云いますのも、直近の投稿記事にて「歴史が同一地域の上で、類似・継続した価値観、感覚を遺しつつ積層していることを実感として得ることが出来た…」と述べましたが、これは、紀伊半島南西部を流れる、北から紀ノ川、有田川、日高川、南部川、会津川、富田川、それぞれの河川流域において、歴史の積層の様相が認められ、また、各流域毎の歴史の推移についても、類似している点もあれば、異なる点もある様相が認められたからであると云えます。そして、現代では各河川最下流域の様相は異なり、たとえば紀ノ川であれば、地域で最も栄えている和歌山市を流れています。次いで、有田川であれば、紀ノ川最下流域ほどに栄えてはおらず、川を南北から挟む紀伊山地から延びた山並み一面には、蜜柑の樹が植えられており、その花が咲く5月頃の有田市や少し上流の有田川町では、以前述べた2月下旬頃のみなべ町の梅の花の薫りのように、そして、さらに規模も大きく、蜜柑の花特有の、あの爽やかで甘い薫りが地域一帯に包み込むのです。つまり、有田川下流域一帯は、紀ノ川のそれと比べ、より自然が多く、他方、建造物の数が少なくなり、また、それら建造物も紀ノ川下流域と比べ、時代が遡るものが目立ちます。つまり、端的に、紀伊半島西南部を流れる各河川流域の景観をも含む様相とは、紀ノ川から有田川そして日高川と南下に伴い、その様相が示す時代も遡り、最南端と云える富田川最下流域まで行き、その河口部に立ちますと「たしかに紀ノ川よりも河川の規模は小さいけれども、こうした景観は、往古、神武東征の頃の紀ノ川河口にも似ているのではないだろうか?」と考えさせられます。また、そうした考えは、有田川や日高川を渡る際にも想起せられるのです。そして、そうしますと、紀伊半島を和歌山市から南下して、途中、各河川を渡るに伴い、段々と時代が遡っていくような感覚を覚えるのではないかと思われるのです。実際、当時、私はそのように感じられ、そして、その感覚は南紀白浜在住時では得ることはなく、その後、和歌山市在住時に自転車で紀ノ川大橋を渡っている際に、周囲の景色を見て、不図、そのように感じられたのです。そして、そうした感覚を保持しつつ、以下の引用記事として投稿したコンラッド著「闇の奥」導入部の記述、そして、その記述に触発され、私が作成した当ブログ投稿記事を読んで頂きますと、さきに「歴史が同一地域の上で、類似・継続した価値観、感覚を遺しつつ積層していることを実感として得ることが出来た…」と述べた、その背景にある感覚をもう少しご理解あるいは共感して頂けるのではないかと思われますが、さて如何でしょうか?

*三交社刊 ジョセフ・コンラッド著 藤永茂訳「闇の奥」
pp.19-21より抜粋
ISBN-10: 4879191620
ISBN-13: 978-4879191625

「僕は大昔のこと、1900年前、ローマ人が初めてここにやってきた頃のことを考えていたんだ―ついこの間のことのようにね。
 そのあと、この河から光明が流れ出て行くようになったんだ―騎士たちが出立して行ったと言うのかい?それでもいいさ。
 だが、それはね、平原を妬いて突っ走る野火、雲間にひらめく稲妻のようなものだ。われわれ人間の生なんてはかないものだ―せいせいこの古ぼけた地球が回り続ける限り、それが続くことを祈ろうじゃないか。
 しかし、暗黒はついこの間までこのあたりを覆っていたんだ。まあ想像してごらんよ。地中海に浮かぶ―ああ、なんて言ったっけな―そうそう、トライトリームという立派なガレー船の副長だった男が、突然、北辺に行けと命令された時の気持をね。
 急いでゴール人の地の陸路横切って北海に出て、古代ローマの軍団の船の一艘の司令を任されるわけだ。
 物の本にあるところを信用すれば、彼らはそうした船を、一月か二月のうちに、何百と造ったものだそうだ―ずいぶんと器用な連中だったに違いないね。
 さて、世界の最果て、鉛色の海、煙色の空、六角アコーディオンと同じくらいの堅牢さしかない船―その船に兵糧、兵士、その他あれこれを積んで、その船長がこのテムズを遡ってくるところを想像して見たまえ。砂州、沼沢、森林、蛮民、―文明人の口に合うものなどほとんどなく、陸に上がっての楽しみもない。あちらで、またこちらで、まるで干し草の大束のなかの針みたいに、荒野のなかで消息を絶つ野営隊もあった。
 ―寒さ、霧、嵐、疫病、流浪、そして死、―空気のなかにも、水のなかにも、薮のなかにも、死がそっと潜んでいるのだ。
 兵士たちは蠅のように死んでいったに違いない。だが、もちろん、船長は任務完遂、それも、あれこれ思い惑うこともなく見事にやってのけたのかもしれない。
 彼らこそが暗黒に立ち向かうに十分な強さを備えた男たちだった。
もし、ローマにいくらかのよいコネがあり、このひどい気候風土を生き抜いたあかつきには、やがてラベンナの艦隊への昇進もあろうという思いに元気づけられることもあっただろうよ。
 あるいはだな、トーガを身にまとった人品いやしからぬ少壮のローマ市民が―さいころ遊びでもやり過ぎた挙句ににさ―一旗揚げ直してみるともりで、知事とか、収税吏とか、はたまた商人などに混じる一行に加わって、この土地にやって来たところを想像してみよう。
まず沼地に上陸し、森や林を抜けて、やがてどこか内陸の駐屯地にたどり着く。そこで、彼は未開地の荒涼さ、全くの荒涼さがすっぽりと彼を包み込んでしまったと感じるのだ、森のなか、ジャングルのなか、そして野蛮人の胸の奥にうごめいている荒野の神秘な生命のようなもの全体が、ひしひしと身に迫ってくる。
 そうした神秘に参入する儀式や手ほどきなどありはしない。彼はその理解を絶したもののただ中で生きてゆかねばならず、それはまた、嫌悪すべきことでもある。
ところが、その神秘はある魅惑も備えていて、それが彼の心にじわりじわりと作用を及ぼしてくる。
 嫌悪感の蠱惑とでも言えようか。思っても見たまえ。日々につのる後悔、逃げ出したいとあせる気持、それができない腹立たしさ、結局は屈服し、ただ憎悪が残るのだ」

*ラッセルにはじまりコンラッドに至るまで…M2病の妄想?

「この当時は当然の如く、主に民俗学、考古学関連の書籍を読んでおりましたが、それだけではどうも自身の述べる事柄の論拠が乏しいと思われたのか、こうした思想、哲学関連の著作をも読む習慣が身に着いたのではないかと思われます・・。

ちなみにこうした議論を通して知り、自分なりにある程度精読した記憶があるのはオルテガフレイザーバタイユコンラッドなどであり、中でもコンラッドに関しては、その著作『闇の奥』(Heart of Darkness)になみなみならぬ関心を抱き、当時その和訳が岩波文庫版と市場に出回っていないものの二種があり、前者に関しては既に入手、既読であったのですが、後者を手に入れるために、自分なりに苦心した記憶があります・・。
加えて、当ブログにおいて一記事として抜粋引用している著作(闇の奥)冒頭部分をそれまでの研究にて知り得た古代史、紀伊半島の歴史に当て嵌めて、さきの議論あるいは雑談などの際に述べていたことが思い起こされます・・(苦笑)。
それは以下のように・・

『僕は大昔のこと、我が国の初代天皇(大王)に率いられた一団がここにやってきた頃のことを考えていたんだ・・ついこの間のことのようにね・・。
そしてあとの時代、この紀の川の河口から髪を角髪(みずら)に結い、胡服に身を包み、直刀を杖立てた連中にはじまり、鎧兜姿に太刀を履いた連中がそれぞれ船団を組んでこの港、当時は雄ノ湊とか徳勒津とか云ったらしいけれども、そこからさまざまな事情を背負いつつ出立して行ったわけだが、それはね、青々とした水田、畑を走る一陣の風あるいは一瞬の稲妻のようなものなんだ・・。
われわれ人間の生なんてはかないものだーせいぜいこの古ぼけた地球が回り続けるかぎり、それが続くことを祈ろうじゃないか。
しかし、我々が今でも知り得ない世界はついこの間までこのあたりを覆っていたんだ・・。
まあ想像してもごらんよ、九州の東海岸にいた航海術に長けた連中が・・そうそう、そういえば当時の我が国には、外洋航海を目的とするような構造船はなくて、大型の丸木舟に舷側板を立てたような船だけであったらしいけれども、そうした船で瀬戸内海を東に抜けて今の大阪か奈良あたりに向かうと決まった時の気持ちをね・・。
それはいわば、自分達とは全く違う不可解な形をした青銅祭器を祀っているような連中の間を抜けて・・いや、そうした連中の真っ只中に行くわけなんだが、それでもこの当時九州東海岸にいた連中はとても勇ましかったようで、ものの本などによると、古代有数の軍事部族であった大伴氏や佐伯氏などは、ここに出自を持っているらしいのだがね・・。
ともあれ、彼等がこのあまり堅牢とはいえない、まあ準構造船とでも云えるような船に兵糧・武器その他あれこれを積んで、どうにか瀬戸内海を抜け、そうだな当時の大阪、河内平野一帯に広がっていた潟湖である河内湖に入り、その流れ込みの淀川のデルタ地帯に上陸したところあたりを想像してみたまえ・・。
砂州、沼沢、故地とは違った植生の森林、自分達とは異なるイントネーションの言語、衣服・・それまで自分達が慣れ親しんだ文化が見当たらなく、陸に上がっても狡猾な罠があったり、毒矢で射られたりして、この航海で見知った仲間達が日を追って減っていったに違いない・・。
こうした環境では、水、森林、草原、藪のなかにも、死がそっと潜んでいるのだ。
だが、もちろんそれでも彼等は特に思い惑うこともなく上陸地点を慎重に選定しながら、時には敵対部族とも戦いながら、更なる航海を続け、また上陸後は上陸後で険しい山道を通り抜け、どうにか目的地に達することが出来たのであろう・・。
彼等こそがこうしたまったく見知らぬ土地に立ち向かうに十分な強さを備えた連中だったのだ。
そして、もし、この一連の長く続く航海、在来部族との諍い、そして、この慣れない気候風土を生き抜いたあかつきには、この航海の目的地でもあり、そして、いずれは此処が己が居地ともなることもあろうという思いに元気づけられることもあっただろうよ・・。』」

そして、今回もここまで読んでいただき、どうもありがとうございます。

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ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

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2026年2月25日水曜日

20260226 株式会社文藝春秋刊 池田俊彦著「生きている二・二六」 pp.31-33より抜粋

株式会社文藝春秋刊 池田俊彦著「生きている二・二六」
pp.31-33より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4163413502
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4163413501

 全員集結が終ったところで、栗原中尉は、かねてから話しておいた通り今日は愈々昭和維新を決行すると述べ、次いで蹶起の趣意書を読み上げた。

 謹ンデ惟ルニ我神洲タル所以ハ、万世一系タル、天皇陛下ノ下ニ、挙国一体生成化育ヲ遂ゲ、終ニ八紘一宇ヲ完フスルノ国体ニ存ス。此ノ国体ノ尊厳秀絶ハ天祖肇国、神武建国ヨリ明治維新ヲ経テ益々体制ヲ整ヘ、今ヤ方ニ万邦ニ向ツテ開顕進展ヲ遂グベキノ秋ナリ
 然ルニ頃来遂ニ不逞凶悪ノ徒簇出シテ、私心我慾ヲ恣ニシ、至尊絶対ノ尊厳ヲ藐視シ僭上之レ働キ、万民ノ生成化育ヲ阻碍シテ塗炭ノ痛苦ニ呻吟セシメ、従ツテ外侮外患日ヲ逐フテ激化ス
 所謂元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等ハコノ国体破壊ノ元兇ナリ、倫敦海軍軍縮条約、並ニ教育総監更迭ニ於ケル統帥権干犯、至尊兵馬大権ノ僭窃ヲ図リタル三月事件或ハ学匪共匪大逆教団等ノ利害相結ンデ陰謀至ラザルナキ等ハ最モ著シキ事例ニシテ其ノ滔天ノ罪悪ハ流血憤怒真ニ譬ヘ難キ所ナリ。中岡、佐郷屋、血盟団ノ先駆捨身、五・一五事件ノ噴騰、相沢中佐ノ閃発トナル、寔ニ故ナキニ非ズ
 而モ幾度カ頸血ヲ濺ギ来ツテ今尚些カモ懺悔反省ナク、然モ依然トシテ私権自慾ニ居ツテ苟且偸安ヲ事トセリ。露支英米トノ間一触即発シテ祖宗遺垂ノ此ノ神洲ヲ一擲破滅ニ堕ラシムルハ火ヲ睹ルヨリモ明カナリ
 内外真ニ重大危急、今ニシテ国体破壊ノ不義不臣ヲ誅戮シテ、稜威ヲ遮リ御維新ヲ阻止シ来レル奸賊ヲ芟除スルニ非ズンバ、皇謨ヲ一空セン。恰モ第一師団出動ノ大命渙発セラレ、年来御維新翼賛ヲ誓ヒ殉死捨身ノ奉公ヲ期シ来リシ帝都衛戍ノ我等同志ハ、将ニ万里征途ニ上ラントシテ而モ省ミテ内ノ亡状ニ憂心転々禁ズル能ハズ。君側ノ奸臣軍賊ヲ斬除シテ、彼ノ中枢ヲ粉砕スルハ我等ノ任トシテ能ク為スベシ。臣子タリ股肱タルノ絶対道ヲ今ニシテ尽サズンバ破滅沈淪ヲ飜スニ由ナシ
 茲ニ同憂同志機ヲ一ニシテ蹶起シ、奸賊ヲ誅滅シテ大義ヲ正シ、国体ノ擁護開顕ニ肝脳ヲ竭シ、以テ神洲赤子ノ微衷ヲ献ゼントス
 皇神皇宗ノ神霊冀クバ照覧冥助ヲ垂レ給ハンコトヲ

昭和十一年二月二十六日
陸軍歩兵大尉 野中四郎
外同志一同

 次いで部隊の編制を下達し、進行順序は第一小隊、第三小隊、第二小隊、機関銃隊とした。なお合言葉として「尊王、斬奸」の四字を決めた。「尊王討奸」という合言葉を使用した部隊もあったが、我が機関銃隊は「尊王斬奸」であった。また栗原中尉は三銭切手を出して「これは我々同志の印である」と軍帽の裏側に貼ってある個所を示した。
 

2026年2月24日火曜日

20260223 文章作成の根源にあるものについて:読書の習慣と記号接地②

 本日の関東南部は、気温が上がり、春を思わせるような陽気でした。この時季は三寒四温と云いますが、たしかに寒い日と暖かい日が数日間毎に交互に来て、全体としては暖かい方に向っている感じがあります。丁度、この時季の和歌山県日高郡みなべ町一帯は、梅の花が満開から散り始める頃であり、国道42号線の、この辺りを自動車で走っていて、窓を開けますと、本当に梅の花の薫りが漂ってくるのです。このようにして土地の薫りを強く感じることは、それまでになく、さらに、その後、何度か当地で、こうした経験を経ることにより、この地域での四季の巡りの様相が理想的なものであると感じられるようになりました。あるいは、紀伊半島の西南部の地域性や自然風土に魅力を感じるようになったのだとも云えます。そして、その一方で読書もありました。当時は既に、ポール・ケネディの「大国の興亡」上下巻やウンベルト・エーコの「薔薇の名前」上下巻などの著作は読み、文系師匠が送付してくださった新刊著書の紹介が掲載された冊子で見つけたロバート・グレーヴスによる「この私、クラウディウス」を当時普及していたアマゾンを通じて購入し、読んでみたところ大変面白く感じられたことから、何度か読み返し、また殿山(合川)ダムへの釣行の際にも持参して、ボートの上で釣りをしつつ読んでいましたが、現在考えてみますと、これは贅沢な時間であったのかもしれません。ともあれ、そのようにして、転勤当初は嫌々であった南紀と云う地域に、何と云いますか、ホンモノらしさを徐々に感じるようになりました。それは、地域に、現代にまで伝わる史実や伝説を示す、さまざまな遺構・遺跡が変に手を加えられず、自然なままで残されていることに感心したためであると云えます。その典型的なものは、古くからの寺社などであり、また、そうした寺社の境内に古墳があることも多く、さらに、もっと古い銅鐸が出土した事例などもあることから、歴史が同一地域の上で、類似・継続した価値観、感覚を遺しつつ積層していることを実感として得ることが出来たことは、私にとって価値のあることでした。しかし、こうしたことを文章として述べることが出来ているのは、まさに、そうした様相を認識して言語化するために学んだ背景があり、具体的には、大学院修士課程での研究があるために、そうした様相を言語化することが出来ているのだと云えます。ともあれ、私は大学院修士課程に進学することを当初から望んでおり、当時、何人かの先生に大学院進学希望の旨を伝えたところ「それは良いかもしれないけれど、とりあえず、数年間は働いてから考えても良いのではないか?」とのことであり、実際に社会人を5年経て、その後、同地域の大学院に進学することになりました。しかし、ここで大変に重要であることは、当初、大学院での専攻として希望していた欧州文化は選択せず、この地域のことを学ぶ地域学を専攻としたことです。これは、以前の南紀在住経験を言語化、再構成しようとする試みであったのだと云い得ます。また、ここでは、それまでの人生で最も多くの書籍を読みました。その意味で、この頃に、何かが外れて、壊れてしまったようにも思われます。しかし他方で、未だに自分が関心を持つ分野の著作であれば、何とか読むことが出来ているのは、この頃の経験があるからとも云えますので、その良し悪しは何とも云えません…。ともあれ、私はこの期間がとても重要であったと考えています。また、この期間で、さきの実感が生じるための、また他の経験がありましたが、それは、当時の自宅の比較的近くにあり、深夜も営業しているメッサオークワ・ガーデンパーク和歌山店内のTSUTAYA WAY書店にて偶然、岩波文庫の棚にあったコンラッド著「闇の奥」を手に取り、何気なく読んでみたところ、その文章にある感性に強く惹き付けられたことです。立ち読みを行う際には、この感覚を頼ると良いと思われます。そして、そうしたことを何度か経験しますと、次第に、自分が興味を持ちつつ読むことが出来る書籍の種類といったものが分かってくるのではないかと思われます。ともあれ、この経験には続きがあるのですが、ここで一旦、区切らせて頂きます。そして、今回も、ここまでお読み頂き、どうもありがとうございます。

*人工知能による編集を経た文章☟
 本日の関東南部は気温が上がり、春を思わせるような陽気でした。この時季は三寒四温と云いますが、たしかに寒い日と暖かい日が数日ごとに交互に訪れ、全体としては暖かい方へと向かっている実感があります。

丁度この時季、和歌山県日高郡みなべ町の一帯は、梅の花が満開から散り始める頃です。国道42号線のこの辺りを自動車で走り、窓を開けますと、本当に梅の薫りが漂ってくるのです。このように自然に魅力を感じることはそれまでになく、その後、当地でこうした経験を重ねることにより、この地域での四季の巡りの様相が理想的なものであると感じられるようになりました。あるいは、紀伊半島西南部の地域性や自然風土そのものに魅力を感じるようになったのだとも云えます。

その一方で、読書がありました。当時は既に、ポール・ケネディの『大国の興亡』やウンベルト・エーコの『薔薇の名前』などは読み終えていましたが、文系師匠が送付してくださった冊子で見つけたロバート・グレーヴスの『この私、クラウディウス』を、当時普及していたアマゾンで購入してみました。読んでみると大変面白く、何度か読み返し、殿山(合川)ダムへの釣行の際にも持参して、ボートの上で釣りをしつつ読んでいたものです。現在考えてみますと、それは贅沢な時間であったと云えるのかもしれません。

ともあれ、そのようにして、転勤当初は嫌々であった「南紀」という地域に、いわば「ホンモノらしさ」を徐々に感じるようになりました。それは、地域に伝わる史実や伝説を示すさまざまな遺構・遺跡が、変に手を加えられず、自然なままで残されていることに感心したためであると云えます。典型的なものは古くからの寺社などであり、その境内に古墳があることも多く、さらにはもっと古い銅鐸が出土した事例もあります。歴史が同一地域の上で、類似・継続した価値観や感覚を遺しつつ積層している。それを実感として得られたことは、私にとって非常に価値のあることでした。

しかし、こうしたことを文章として述べることができているのは、まさに、その様相を認識し言語化するために学んだ背景――具体的には、大学院修士課程での研究があるからに他なりません。 もともと私は、大学院進学を当初から望んでいました。当時の先生方に相談したところ「数年間は働いてから考えても良いのではないか」との助言をいただき、実際に社会人を5年経て、同地域の大学院に進学することになりました。ここで大変に重要であるのは、当初希望していた「欧州文化」ではなく、この地域のことを学ぶ「地域学」を専攻としたことです。これは、以前の南紀在住経験を言語化し、再構成しようとする試みであったのだと云い得ます。

ここでは、それまでの人生で最も多くの書籍を読みました。その意味で、この頃に「何かが外れて、壊れてしまった」ようにも思われます。しかし他方で、未だに自ら関心を持つ分野の著作であれば読み通せているのは、この頃の経験があるからとも云えますので、その良し悪しは何とも云えません。ともあれ、私はこの期間がとても重要であったと考えています。

また、この期間には、さきほどの実感が生じるための別の経験もありました。それは、当時の自宅近くにあり、深夜も営業していたメッサオークワ ガーデンパーク和歌山店内の「TSUTAYA WAY」にて、偶然、岩波文庫の棚にあったコンラッド著『闇の奥』を手に取り、何気なく読んでみたところ、その文章にある感性に強く惹き付けられたことです。 立ち読みを行う際には、こうした感覚を頼ると良いと思われます。そして、こうした経験を何度か重ねることで、次第に自分が興味を持ち、読むことのできる書籍の種類というものが分かってくるのではないでしょうか。

ともあれ、この経験には続きがあるのですが、ここで一旦、区切らせて頂きます。

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2026年2月23日月曜日

20260222 文章作成の根源にあるものについて:読書の習慣と記号接地

 ここ最近の関東南部では、以前より少し暖かいと感じる日が増えてきたように感じられます。丁度、立春を過ぎたばかりですので、立春の基にある「二十四節気」と云う古い暦にも、それなりに深い意味があるのではないかと思われました。さて、この「二十四節気」の大寒から立春(1月末~2月初め)まで、大変寒い時期が続きましたが、どうにかそれを耐え忍びますと、少し暖かくなり、徐々にまた、生命力が甦ってくるように感じられます。そして、そのことを当ブログの記事作成に関連させてみますと、合点が行くのではないかとも思われますが、ともあれ、ここ最近は、さきに述べた生命力の減衰によるものであるのか、あまり、文章作成をしたいと思うことが少なく、また読書についても、同様に、好調とは云えませんでした。そして、そうした時期に、行うと良いと思われることは、自分にとって文章作成の基本となったものを読み返すことであると考えます。文章作成とは云っても、さまざまな段階があり、私の場合、文章作成の基本となったのは、おそらく、司馬遼太郎の著作であり、それは小学校高学年の頃に知り、中学生の頃は、小遣いを文庫本に換えては読んでいた記憶があります…。そして、そこから高校、大学、社会人の期間、長らく司馬遼太郎の作品を読み続けてきました。社会人になってからは、ホテルマンであったことから、世間の休日は稼ぎ時であり、そのため、休日は平日に一人であることが多く、そのような休日で外出をしない日は、一人で一日中読書をしていることも度々ありました。そうしたなか、南紀白浜在住時に、司馬遼太郎が、この土地について書いた著作があった事を思い出し、検算のつもりで、その著作を読んでみたところ、大きく感動出来るような私の在住経験との合致点はなかったものの、同時に、空疎なことを述べているわけでもないことは理解出来ました。それは、おそらく視座の違いによるものだと思われますが、おそらく、そのようにして、ある程度、書籍を読み続けるなかで、自らの文体も立現れてくるのだと思われますが、しかし、我が国でも2022年以来、人工知能が徐々に社会に浸透し、そして2026年現在においては、かなり普及したのではないかと思われます。具体的に、この汎用化された人工知能を用いますと、大抵の用途のドラフト的な文章などは即座に生成することが出来ます。また同時に、そのおかげで、文量の多い英論文なども普通に読むことが出来るようになり、さらに、何と云いますか、直線的な文章の作成においては、かなり有用であると云えます。しかしながら、こうした即興に近い散文のようなものの作成(生成)は、今なお難しいのではないかと思われます。その意味において、私が当ブログを2015年から継続していることの大きな意味は、人工知能が登場、普及した後の現在においては、それ以前から、自らの文章作成をしてきた証拠になると云うことです。ともあれ、そのように述べる私の、この文体の根本にあるものは、少なからず、小学校高学年の頃から読み続けてきた司馬遼太郎の諸著作があり、それが南紀在住の折、その著作「街道をゆく8 熊野・古座街道・種子島みちほか」をあらためて読みかえし、記号接地の感覚らしきものを得てから、また地域の歴史文化などにも、新たな興味を向けることが出来るようになりました。とはいえ、以前にも述べましたが、こうした変化とは、若い時分であっても、極めて緩慢なものであると云えます。そうして、こうした自らの感覚を歴史や文化に記号接地するためには、やはり、ある程度の読書経験が不可欠であるのではないかと私は考えます。つまり、私は司馬遼太郎の著作を読む習慣があったからこそ、そこ(南紀)で、記号接地の感覚を得て、そこから当地域の歴史文化について述べた他の著作についても「読める」と云う感覚を得ることが出来たのだと云えます。そしてまた、おそらく、司馬遼太郎が同志社大学の著名な考古学者である森浩一先生(故人)と親交があったことから、森浩一先生の著作も同様に読むことが出来る様になり、そして、そこから和歌山市の岩橋千塚古墳群や御坊市の岩内一号墳や紀州・和歌山での銅鐸の出土様相などについても興味を持ち、知り得ることが出来る様になり、それが元になり、修士論文のテーマとなったことから、小学生以来、断続的ではあれ継続していた読書の習慣が、思いのほか役に立ったのではないかとも思われます。ともあれ、冒頭に戻りますと、私の場合、現在の当ブログでの文章作成の基本となったものとは、これまでに述べた司馬遼太郎に加え、加藤周一による「日本文学史序説」(上下巻)もそうであったと云えます。現在でも、この著作をあらためて読み始めてみますと、抜粋引用したくなるような記述に出くわします。実際、当ブログでは少なからず、当著作からの引用記事があります。そして、当著作は2013年、学位取得後に初めて読んだ分野外の著作であり、その後、数年読み続けましたので、それが当ブログの開始時期である2015年とも被るのです。ともあれ、このような現在作成している自らの文章の基本となった著作、文章を読み返すことは、当ブログの作成以外でも、今後のブログ記事作成においても、活かすことが出来ると思われることが少なからずありましたので、やはり、それはそれで良いことであると思われました。

そして、今回もここまで読んでいただき、どうもありがとうございます。


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2026年2月18日水曜日

20260217 2425記事に到達して:近況から

 ここ最近での当ブログを振り返ってみますと、書籍からの引用記事が多く、また、新規投稿そのものの決して頻回とは云えない状態が続いています。これを客観的に見れば、ある程度継続してきた当ブログが、いささか「おざなり」になっていたことは否定出来ません。しかしながら、当ブログでの投稿が滞っていたここ最近の時期においても、文章作成と云う行為自体は途切れてはいませんでした。

 当ブログ以外での文章作成は、以前と変わらずに継続しており、また近年においては、人工知能を援用した文章の作成も少なからず行っていることから、文章の作成自体は、ほぼ毎日、行ってきたと云えます。そのため、本日、久しぶりに自らの言葉でのブログ記事の作成を始めた際も、文章が出てこないと云うことはありませんでした。あるいは、様式が何であれ、文章の作成とは、継続していれば、たとえ、他の様式に移行したとしても、その主題での文章作成が出来ると感じるのであれば、何とか作成出来てしまうものであるのかもしれません…。

 また、文章の作成とは異なりますが、先日、多少、普段よりも身体を動かす機会がありました。所用のため、朝から自転車でJR本八幡駅の近辺を出発し、市川市北部、鎌ヶ谷市にほど近い行政機関へと向かいました。そこで必要な書類の発行を受け、他の書類とまとめて封入し、それを携えて再び自転車で戻り、一度荷物を仕事場に置いてから、今度は本八幡駅から総武線に乗り、都内での別の所用のために出向きました。

 出先での用事を終えて戻り、そのまま室内での仕事に入り、その後、いつものように犬の散歩をして帰宅した時、ふくらはぎを中心として、普段とは明らかに異なる疲労感があることに気が付きました。そこで、Google Mapと人工知能を用いて、その日の移動距離を算出してみたところ、自転車で15km以上、徒歩で3~4kmとのことでした。これは普段の私の生活からすれば、過剰とも云える距離と云えます。

 しかしながら、不思議なことに、その晩の疲労感は部活動の後のそれにも似て、比較的心地良いものであり、そのためか、かえって、その晩の読書は身が入り、充実したものとなりました。もっとも翌朝は、案の定と云うべきか寝坊をしてしまいました。

 さらに、その日を境として数日間、身体の重さやダルさが抜けず、体調が優れない日々が続くこととなりました。それでも、こうした体調のブレがあるなかで、私の状態をどうにか支え、「ピン留め」してくれていたのは、文章の作成であったと云えます。また、当ブログ以外での文章作成は、いくらかの緊張を伴うものであるため、その適度な緊張が、体調のブレを押し留めたのか、そこでは、概ね普段通りでの分量を作成することが出来ました。

 さらにその後は、作成途中の引用記事や、人工知能を援用した記事の加筆修正を進めるうちに、ようやく、少しずつ調子が戻ってきたように感じられます。ともあれ、この一週間での一連の出来事から、私は、もはや若くはないことから、無理は禁物であると同時に、少しは奮いつつ文章を作成することが、当ブログ継続のために重要であることを実感しました…。

 これを換言しますと、放置しておけば次第に萎えてしまう感性や感覚を、自分にとって適度な負荷と緊張により、活性化を試み続けることが重要であると云うことになります。

 そういえば、当ブログは、直近の投稿により、総投稿記事数が2425に到達しました。これは当面の目標としている2500記事まで、前回の2400記事から四分の一ほど進捗したことになります。2400記事に到達してからの進捗は、確かに以前と比較すれば緩慢ではありましたが、それでも、現在も(何とか)進捗はしています。

 これまで当ブログをどうにか10年以上継続し、投稿記事も前述の程度まで達し、さらに、近年では(大変ありがたいことに)他での文章作成の機会もありますが、やはり、当ブログが、私の公表する文章作成の基盤であると云えます。そのため、今後は、もう少し、そして出来る限り、当ブログの方も充実させていきたいです。

そして、今回もここまで読んでいただき、どうもありがとうございます。

一般社団法人大学支援機構

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ISBN978-4-263-46420-5

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連絡先につきましては以下の通りとなっています。

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どうぞよろしくお願い申し上げます。


2026年2月13日金曜日

20260212 株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻 pp.34-39より抜粋

株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻
pp.34-39より抜粋
ISBN-10 : 4480084878
ISBN-13 : 978-4480084873

 日本人の世界観の歴史的な変遷は、多くの外来思想の浸透によってよりも、むしろ土着の世界観の執拗な持続と、そのために繰返された外来の体系の「日本化」によって特徴づけられる。         

 外来の世界観の代表的なものは、第一に大乗仏教とその哲学、第二に儒学、殊に朱子学、第三にキリスト教、第四にマルクス主義であった。この順序は、必ずしも厳密に、年代の順序ではない。仏教徒儒教は、おそらく同時に、6世紀の中頃に輸入された。しかしそれぞれの世界観が日本文化に圧倒的な影響を及ぼした時期は、仏教の方が儒教の場合よりも早い。仏教は、7世紀から16世紀までの文化の背景として、重きをなした。儒教のの影響は早くから現れて、14、5世紀以降いよいよ強まったが、体系的な世界観としての宋学の影響が決定的になったのは、17世紀以後である。キリスト教は、16世紀後半と19世紀末・20世紀前半の、マルクス主義は両大戦間の知識層に、大きな影響をあたえた。

 以上の他にも注意すべき外来思想として、先には老荘があり、後には西欧19世紀の科学思想があって、いずれも文学との関連において見すごすことができない。しかしそのいずれも、自然・人間・社会・歴史の全体を説明しようとする包括的な体系ではなかった。

 外来の四つの世界観は、すべて包括的な体系である。抽象的な理論を備え、ある場合には彼岸的であり(仏教・キリスト教)、他の場合には此岸的である(儒教・マルクス主義)が、いずれも超越的な存在または原理との関連において普遍的な価値を定義しようとする。すなわち大乗仏教における仏性、キリスト教における神、儒教における天または理、マルクス主義における歴史である。そこでたとえば、仏性が超越的であるから、菩薩の慈悲が善悪の慣習的な基準を超えて、万人に及ぶということにもなる。神が絶対者であるから、万人はその前で平等であり、神に保証された正義は、特殊な歴史的文化を超えて妥当する。天が君主に超越するから、革命(の古典的な意味)が成りたち、理が普遍的であるから、理とされる規範は社会的状況にに左右されない。歴史の法則が主観に超越するから、上部構造としての思想を進歩と反動の観点から説明することもできるのである。超越者が世界的な存在であれば、体系は彼岸的であり、世界内在的な原理であれば、体系は此岸的である。中国の伝統的な世界観は、印度・西欧の場合と異り、此岸的であった(老荘もその例に洩れず)。日本に印度の影響が及んだのは、中国文明を介してであり、西洋の影響が及んだのは、後の時代になってからの事である。したがって中国的世界観の此岸性は、日本の土着の文化の此岸性を保存するのに役立ったはずだろう。おそらく東アジアの文明の全体について、その思想的特徴は、中国の場合にも、日本の場合にも、共通の此岸的正確であるといえるのかもしれない。しかし今しばらくその面を措いて、外来の世界観の、中国思想の場合も含め、抽象的・理論的・包括的な性格、超越的な原理と普遍的な価値への志向についていえば、それこそはまさに土着の世界観と対照的であるが故に、決定的な影響を日本文化にあたえたのである。

 本来日本的な世界観の構造を叙述することは、明示的な理論体系の特徴を列挙するほど容易ではない。神道の理論的な体系は、卜部兼俱から平田篤胤に到るまで、儒・仏・道、またキリスト教のの概念を借用している。外来思想の影響をうけない神道には理論がない。そこで儒・仏の影響が少いとされる記・紀・風土記から土着的と想像されるものの考え方を抽象するほかはないだろう。一方でそれは民俗学的資料と照合し、他方では後代の文献と対比する。そうして想像することができるのは、おそらく下っても4、5世紀の頃には成立していたであろう非超越的な世界観である。その背景には、祖先崇拝・シャーマニズム・アニミズム・多神教の複雑な信仰体系があり、地方によって内容を異にする。その世界観の特徴えおさしあたり要約すれば、およそ次のようにいえるだろう。抽象的・理論的ではなく、具体的・実際的な思考への傾向、包括的な体系にではなく、個別的なものの特殊性に注目する習慣。そこには超越的な原理がない。カミは全く世界内存在であり、歴史的には神代がそのまま人代に連続する。しかもそのカミは無数にあって(八百よろずのカミ)、互いに他を排除しない。当然、唯一の絶対者はありえない。いかなる原理も具体的で特殊な状況に超越しないから、超越的な原理との関連においてのみ定義されるところの普遍的な価値も成りたたない。しかしもちろん、そういうことは、特定の個人にとっての絶対的な価値がありえないという意味ではない。それどころか特定集団の首長が、その集団の成員にとっては、しばしば絶対的な権威となり、忠誠が絶対的な価値となった(天皇制国家からヤクザまで)。しかし他の集団の成員にとっては、その権威は通用しないし、その首長への忠誠は価値ではない。たとえばヤマトタケルがクマソを征伐したのは、自己の集団を拡大するためで、当事者の双方に妥当する価値を実現するためではなかった。その伝統は、少なくともたてまえとして、聖地を解放するために戦った十字軍の話と、根本的に異なる。十字軍の目的は、彼ら自身もトルコ人にも妥当するはずの神の正義を実現することであった。

 このような土着の世界観が、外来の、はるかに高度に組織され、知的に洗練された超越的世界観と出会ったときに、どういうことがおこったか。第一に、外来の世界観がそのまま受け入れられた場合があり、第二に、土着の世界観を足場としての拒絶反応があった。しかし第三に、多くの場合におこったことは、外来の思想の「日本化」である。外来の思想が高度に体系的な観念形態であった場合には(儒・仏・キリスト教・マルクス主義)、その「日本化」の方向は常に一定していた。抽象的・理論的な面の切り捨て、包括的な体系の解体とその実際的な特殊な領域への還元、超越的な原理の排除、したがってまた彼岸的な体系の此岸的な再解釈、体系の排他性の緩和。たしかに少数の例外もあった。また以上の方向のどの面がめだつかも、場合により異なっていた。しかし外来の世界観の体系が日本の歴史過程のなかで変化したとき、変化には必ず一定の方向があり、逆の方向へ変った例はない。ということは、当然、変化を引きおこした力が、歴史のあらゆる時代を一貫し、遂に今日に到るまで失われなかったことを示唆するだろう。その力の主体を土着の世界観と称ぶこともできる。それは「土着の世界観」の一つの定義である。かくして日本文化の背景には、常に、外来の世界観、土着の世界観、日本化された外来種の世界観があったということができる。

2026年2月12日木曜日

20260211 中央公論新社刊 「自由の限界」世界の知性21人が問う国家と民主主義 中公新書ラクレ pp.39-42より抜粋

中央公論新社刊 「自由の限界」世界の知性21人が問う国家と民主主義 中公新書ラクレ
pp.39-42より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121507150
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121507150

日本が人口減少に転じてほぼ10年になる。出生率は20年間にわたって非常に低い。国民の年齢中央値は約46.9歳に至り、世界で最も老いた国民と言える。日本は人類にとって未知の領域を進んでいる。
 人口が減っても問題はないと主張する人々がいる。「ひとり当たりの生産性が向上するから」「世界一の日本のロボットが生産を担うから」というような理由を耳にする。ロボット待望論は日本人の秘めた夢ではなかろうか。人口減少で労働力不足が甚だしくなり、移民受け入れが不可避となる前に、完璧なロボットが登場するという夢だ。確かに日本のロボット技術は素晴らしい。加えて、日本の高齢者は定年後も働き続ける意欲を持つ。
 しかし、日本の課題はモノの生産ではない。日本は経済的豊かさを既に手にしている。真の課題は人口の再生産にある。国が繁栄し、居心地も良く、創造的であるためには、十分に若い人口を持つ必要がある。高齢者は既知の技術・知識を使う仕事はできるが、創造し、刷新する仕事は難しい。ロボットは人口を再生産できない。高齢者とロボットの働く社会はうまく機能した場合でも、停滞は免れまい。知的な刷新を可能にするには、人口構造が十分に若くなくてはならない。
 解決策は二つ。一つは子供を作ること、もう一つは移民を受け入れること。前者の方がより大事だが、二つを組み合わせて実施することが効果的だ。だが、日本に出生率回復の決め手はなく、移民受け入れは文化的に容易でない。人口問題は人々がその深刻さを理解する頃には、危機の度合いは加速度的に進んでいるものだ。私の見るところ、日本は決定的に重大な瞬間に近づいている。
 
「同質」の起源
 日本は今、なすべきことは人口問題の大議論だ。同様に重要なことは、明治維新からの近代化の歩みを再検討することだ。
 私見では、日本が人口減少に至ったのは、この150年の近代化のあり方に原因がある。日本は申し分のない社会を築いたと大帝の日本人は感じているため、新たに子供を加えること、移民を受け入れることは申し分のない社会に余分な混乱を与える、と案じているのではなかろうか。
「日本人は同質・均質で、調和を重んじる」という日本の自己イメージは、近代化を通じて作られた。
「家督を相続するのは長男ひとり」という「直系家族」は明治時代に天皇家を対象に法制化され、その後に制定された民法によって社会全体の規範になる。
 明治日本は科学技術・経済・憲法で大いなる近代化を遂げた。直系家族は上下関係に価値を置き、上意下達の社会をうむ。伝達は極めて効率的で、科学技術と経済の発展に寄与した。これは欧州の後発国ドイツにも当てはまる。日独ともに西洋の列強に追いつく。
 しかし、上下関係に基づく秩序は次第に絶対視されるようになり、父権が強化され、社会の制約が増して、社会が硬直化していく。
 今日の日本で直系家族は消滅し、女性の半数近くは大学に進んでいる。にもかかわらず、上下関係重視や女性差別は解消されていない。価値観が硬直しているように見える。
 江戸時代は、秩序は行き渡らず、雑然としていて、柔軟で奔放な側面もあった。庶民の過酷な貧困について承知しているが、女性は今日よりも社会的に自由だったのではなかろうか。こうしたことを速水融先生とその門下の研究から読み取った。
 西洋の意識に日本が立ち現れるのは、明治時代の1905年、ロシアに勝利した時だ。西洋は驚愕したが、日本は西洋の国際政治の独占を破ったことで歴史に貢献したと私は考える。日本はその後、植民地主義を採るが、私の解釈では、西洋列強の模倣に努めた結果だ。列強が植民地を強奪するのなら、日本も持つべきだ、と。
 日本の歴史を大局的に見れば、日本は拡張主義に走る懸念の少ない、平和国家だ。江戸時代は鎖国しながらも、知的・科学技術的情報は国外から取り入れ、国内商業を発達させて、長期の安定を築いた。ほとんど独りでも発展が可能なことを日本は世界に示した。
 日本に今、必要なことは江戸時代の精神を見いだし、江戸時代の柔軟さや奔放さや奔放さを少しは取り戻すことではなかろうか。