2026年6月8日月曜日

20260608 朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp22‐26より抜粋

朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp22‐26より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4022605170
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4022605177

歴史の中の紀州人たち
 このあいだ、ひさしぶりで司馬遼太郎氏にお目にかかった。和歌山城の見えるレストランで一時間ほどお話を伺う機会があった。そのとき、ヘミングウェイの話が出た。
「かれは、紀州へ来たかったのですよ」
 逞しい漁夫サンチャゴと、鮫の群れのあいだでくりひろげられる海のたたかいを、名作『老人と海』に描きあげたヘミングウェイは、黒潮の紀州の海に、生涯、あこがれに似た思いを抱きつづけていたという。
「勇敢な紀州の漁夫と、すばらしい紀州漁法に魅かれていたのでしょうな」
 その、ヘミングウェイの心を掻きたてた紀州漁法が発達したのは、戦国末期から近世初頭にかけての時代であった。おりから、城下町など諸国都市の拡大と農業生産の発展を誘因した漁獲物(食糧魚や魚肥)の社会的需要が急激に増大する。
 この時期、諸国の漁民に先がけて、すでに高度な各種の漁業技術を掴んでいた紀州漁夫たちは、東は相模、房総、常陸から東北へ。西は四国、瀬戸内、中国、九州、五島列島にいたるまで魚をもとめて旅漁に出かけていった。この先進的な漁夫たちの足跡は、いまも諸国の浦々に色濃く残されている。
 慶長11年(1606)、従来の銛突捕鯨から網取漁法を考案し、その捕鯨法を秘法とせず吝ます、われから出向いていって土佐津呂組の漁民に伝え、長門、九州五島の人びとに授けひろげ、熊野太地鯨方の名を天下に鳴りひびかせた和田一族の人びと・・・また、戦国末期の弘治年間(1555~1558)、のちに近世最大の干鰯生産地帯になる九十九里浜に鰯地引網漁法を伝えた紀州の西宮久助。寛永のころ(1624~1644)、銚子(千葉県)に近い外川を開発し八つ手網鰯漁法を伝えた有田、広村の崎山次郎右衛門。元和年間(1615~1624)、土佐国に赴き鰹釣漁法の祖となった印南浦の漁夫甚太郎。そしてその子の、土佐に鰹節の燻乾、製法技術を伝えた”土佐節の始祖”二代目甚太郎。天明年間(1781~1789)安房国に移住し、改良した鰹節技術で、”安房節”を完成させた同じ印南浦の与市。これらの人びとのほかにも、加太の大甫七重郎、栖原の角兵衛、下津の七兵衛・市郎兵衛など、東国の海べりの各地で網漁を興した男たちは多い。そして、かれらのその進出ぶりは、
⦅房総の間に在りて漁業の旧家と称するものは、おおむね紀州より来りてその業を拓きたるにあらざるはなく・・・(『房総捕鯨志』)⦆
⦅紀州の漁人来りて業をなすもの陸続として絶へざる(『房総水産図誌』)⦆
 と、特記されるほどであった。
 関東への産業開発の進出といえば、日本が年間一人あたり5升(9リットル)消費するという「醤油」もその一つであろう。鎌倉の頃、三代将軍源実朝の菩提をとむらうために建てられた紀伊国由良、興国寺の開山、法燈国師覚心は、さまざまなものを日本人にもたらした。径山寺味噌と醤油と尺八(洞簫)と普化宗である。かれが宋(中国)の浙江省、径山興聖禅寺の典座寮(台所)でまなんだ味噌醸造の過程で発見した醤油が、文暦元年(1234)、となり村の湯浅に伝えられ醸造され、以来、この湯浅醤油が日本の味を代表する”醤油”の起源となり、その製法は全国に撒き拡げられ伝播していく。有田、広村から大消費地の江戸にちかい銚子で醤油をつくりはじめた浜口儀兵衛 (ヤマサ醤油の祖・現在十一代目)、浜口吉右衛門(ヒゲタ醤油の祖)、それにおなじ村の岩崎重二郎、古田荘右衛門らも銚子で醤油醸造をはじめ、やがて銚子は湯浅醤油をしのいで日本の醤油醸造のメッカとなる。
 紀州人の東進は、漁法や醤油だけではなかった。海の国道一号線ともいうべき熊野灘、遠州灘を越えて、紀伊国屋文左衛門の蜜柑船よりも早く、寛永11年(1634)、有田蜜柑を積んだ滝河原村の藤兵衛(通称蜜柑藤兵衛)の船が、江戸に向かっているし、当時の江戸ー大坂間の定期輸送船となった菱垣船(元和5年・1619)も、紀伊富田浦の250石船が、そのはじまりである。
 ーこうして、歴史のなかに紀州発祥の数かずを眺めてみると、その数は意外に多い。紀州漁法、鰹節、醤油、尺八、虚無僧。南海の孤島の種子島から根来寺にもたらされた鉄砲。幕末維新すでにミルクを飲み、靴を履き、日本徴兵制の前身となった国民皆兵の大日本共和軍隊。西洋靴伝習所(製靴工場)。そして”明治維新の新政府の原型”になったと西郷隆盛を驚嘆させた官(藩)制の改革、郡県制度の確立・・・と、紀州人が日本史に与えた影響は大きい。鰹節にしても醤油にしても、紀州人がなかったら日本の味は・・・食文化は・・・もっとちがったかたちのものになっていたかもしれない。
 が、世に先がけて発見し、苦難の果てに開発したそれらの殆どは、紀州で花ひらいてはいない。その卓越した技術を紀州人は秘しておくことをしなかった。頼まれれば諸国各地に伝え拡げに出向いている。そのため、かれらが辛苦して咲かせた大輪の花も、実も、すべて他国の土に根付き、そのお株をうばわれてしまっているのである。鉄砲にしてもそうだ。その出現によって戦国の潮流を変え、大きな戦術革命をもたらしたこの最新火器でさえ紀州人は、
〈杉ノ坊、仁王房ナドト云フ者、関東二下リテ鉄砲ヲ教ヘシガ・・・〉
 という有様であった。そして皮肉なことに根来寺は、この自分たちが気前よく教え拡めた鉄砲のために、歴史の塵のなかに滅び去っていくのである。こういう、一種、陽気な紀州人気質というのは、進取とか磊落とだけでは片付けられない、なにかがある。それはおそらく、当時の秘伝、口伝などと技術を隠蔽することを好んだ諸国の人びとの理解を超えた奇妙な気風であったにちがいない。

20260608 株式会社角川書店刊 横溝正史著「獄門島」 pp.36‐39より抜粋

株式会社角川書店刊 横溝正史著「獄門島」
pp.36‐39より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4041304032
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4041304037 

 話題がやっと鬼頭家へめぐってきたので、耕助はいくらか緊張したが、しかし、口先だけは相変わらず軽かった。 
 「その嘉右衛門さんというのは、千万太君のお父さんかね」 
 「なに、祖父さんでさ。去年78で死にましたが、元気なものでしたね。体は小さかったが、肝ったまの大きな人で、いい旦那でしたよ。島では太閤さんといっていて、なかなか死にそうにはなかったが、やっぱり戦に負けたンがこたえたんですかね。ポックリ往生しましたよ」 
 「それじゃ終戦後亡くなったんだね。それで千万太君の両親というのはどうしたんだね」  耕助のもっとも疑問とするところはそこだった。このあいだ、千万太の死を知らせにいったとき、座敷へ現われたのは月代、雪枝、花子という三姉妹と、早苗という娘、ほかに50前後の、みっともない顔をした老婆が御飯のときちょっと顔を出したが、広い屋敷にはそれ以外、男気の感じられなかったのが不思議であった。千光寺の和尚も、 
 「ここに逗留してもろうてもよいのだが、女ばかりの世帯だから・・・・・・」 と、そういって耕助を、自分の寺へつれてかえったのである。
 「千万さんのおふくろさんは、千万さんが生まれると間もなく亡くなったそうですよ。それで後添いをもらったんですが、このひともだいぶまえに亡くなりました」 
 「ああ、それじゃあの三人のお嬢さんは、千万太君とは腹ちがいなんだね」 
 「へえ、そうですよ」
 「それで、千万太君のお父さんは・・・?」
   「与三松の旦那ですかい。ええ、その人はまだ生きていますよ。生きていますが御病気でね。だれのまえへも出ねえんです」 
   「病気?どこが悪いんだね」 
   「どこってその・・・あまり大きな声じゃいえねえが、つまり、その・・・気が狂ってるんですね」 
 耕助は思わず大きく眼をみはった。 
 「気が狂ってる・・・それでどこかへ入院してるのかい」 
 「いえ、入院しちゃいません。あの家にいるんですよ。なんでも座敷牢がこさえてあってその中に入れてあるそうですが、ええ、もう久しいもんです。かれこれ十年にもなりますねえ。あっしなんざ、もう顔も忘れっちまったくらいですからねえ」 
 それを聞いて耕助は、はじめて思い当たるところがあった。このあいだ、鬼頭家の座敷に座っているとき、かれは一度、ただならぬ叫び声を聞いたのである。それはまるで、野獣の咆哮にも似た、あらあらしく、物狂おしい叫び声で、耕助もそれには少なからずどぎもを抜かれたものである。 
 「ふうむ、それでその気ちがいというのは暴れるのかい」 
 「いえ。ふだんはしごくおとなしいンですがね、どうかすると手に負えねえことがあるそうです。ところで妙なもンで、あそこに早苗さんという娘さんがいるでしょう。ありゃ気ちがいさんの姪に当たるんですがね、これが一言二言声をかけると、ケロリと、おさまっちまうんです。それにひきかえ現在のわが子の娘たちが行くと、これがいよいよ手に負えなくなるンだそうですから、困ったもんでさあ」
 「そりゃ・・・しかし、妙だね」 
 「なに、別に妙でもなんでもありませんや。あの三人の娘というのが・・・このほうがかえって妙でさあね。自分のおやじを、まるで動物園の虎かライオンみたいに、おもちゃにしては喜んでるってしろものですからね。気ちがいさんの寝てるところを、格子の外から物差でつついたり、紙礫を投げつけたり、それで三人、きゃっきゃっと喜んでるってえンですから、話を聞いただけでも気味が悪くなりまさあ。どうもあの娘たちは変ですぜ」 
 あの三人の変なことには、耕助もすでに気がついている。兄の死でさえがかれらにとっては、自分たちの髪の格好、帯の結びかたほども気にならないらしかった。和尚がまじめな話をしていても、うつむいてくすくす笑ったり、袖をひっ張ったり、ひじで突っついたり、それで三人が三人ともきれいな娘であるだけに、いっそう不健全で病的で、見ているほうでも気持ちが悪くなるのだった。 
 これはたいへんな娘たちである。と、耕助は思った。ゴーゴンの三姉妹であると耕助は考えた。ゴーゴンとはギリシャ神話に出てくる怪物である。もとは美しい処女であったが、ミネルバと美をきそったがために、姉妹三人頭髪ことごとく蛇となり、鷲の羽と真鍮の爪をもった怪物に化せられた。鬼頭家の三姉妹には、どこかそういう気味の悪い妖怪味が感じられるのだった。

2026年6月7日日曜日

20260607 法政大学出版局刊 高谷重夫著『雨乞習俗の研究』 pp.400‐405より抜粋

法政大学出版局刊 高谷重夫著『雨乞習俗の研究』
pp.400‐405より抜粋
ISBN-10:4588920022
ISBN-13:978-4588920028.

第六章 雨乞儀礼の諸相第一節 雨乞と動物供犠

(一)箕面の滝の祈雨
 大阪府立図書館に『名杖探葦』(曉隣蟻士著、安永七年序)と題する一部の写本がある。著者については知るところがないが、大坂内外に杖を索いて名勝を探った紀行文集である。その中に北摂箕面の滝(大阪府箕面市)について次のような記事がある。
 滝の肩に竜穴あり。その深きこと人是を計るに知れず、土民雨を祈るに白馬の首を切て竜穴を穢すに忽大雨すといへり。
 今から十数年前、箕面市粟生の古老から、昔雨乞に白馬の首を切って箕面の滝に入れたという話を聞いたことがある。しかし、実際にこのような雨乞行事があったものかどうか。これについてなお疑問なきを得なかったが、先年世に出た『箕面全史』の「史料篇六」に載せられた「嘉永六年旱魃記録」を見るに及んで、この雨乞法が実際に行われていたことが明らかになった。その記事を次に紹介してみよう。
 嘉永六年(一八五三)の大旱にこの地方は水不足に苦しみ、六月に十七日には箕面川の瀬掘りをして、わずかに川に残る水を田に入れたが、七月一日には終いに雨乞の相談となった。氏神で神籤を引き妙見山(大阪府豊能郡能勢町)か都の東寺の弘法さまか、どちらに効があるかを伺ったところ、大師と出たので東寺へお火を受けに行き、七月三日より七日の間祈祷に務めたが効がなかった。結願の九日の会合に萱野郷から内々、この節幸いに近辺に葦毛の馬が見つかったという話があり、急ぎ相談の上、牧之庄と萱野郷より入用銀を二つ割で出すこととし、十日には早速この馬を買いに行った。その晩に双方より人足を一人ずつ出し、初夜頃この馬を箕面山上に曳いて上り、高い丘の上で馬を刎ね、胴体ばかり萱野郷の山谷に蹴落として隠しておき、首を雄滝に漬けた。この費用には馬代六両、人足代二両のほか雑費三貫七百文を要した。これほどまでにしたのに何の感応もなく、翌日少し曇っただけであったとある。
 箕面の滝は今でこそ市民の遊楽地であるが、貝原益軒の『有馬温泉之記』に、滝道が危険なので見物を見合せたとあるように、以前は容易に近づきがたい山中の神秘な滝であった。その下にある竜安寺は役行者開基と伝える修験の霊場であったが、『元亨釈書』(卷一五)には行者が夢中にこの滝口より入って竜樹大師に渇したという話を伝え、また『古今著聞集』(巻二)には平等院の僧正行尊が箕面山に三箇月籠っていた時、夢に竜宮に到り如意宝珠を得たという話のあるのも、やはりこの滝に竜宮の入口があると信ぜられていたからであろうか。『摂陽群談』に、箕面の滝に竜穴ありと記し、近世の「竜安寺秘密縁起」(『箕面市史』史料篇六所収)にも「滝頂上有御窟則竜穴也、其竜錦斑長三丈余、動吐黒雲俄隱於白日」とあり、またこの竜穴に雨乞すれば甘雨忽ちに降るともある。すなわちこの滝は竜神の棲む霊地であり、請雨の地であるとされていたのである。このことは『元亭釈書』(巻四)に応和二年(九六二)の旱りに、当時箕面に庵を結んでいた金竜寺の僧千観が、庵の北方の滝において、手に香炉を捧げて祈禱したら、その煙が上って雨となって降ったとあるところからみて、少なくとも中世以来の信仰であったことが明らかである。


(二)武庫川流域の雨乞
 箕面の滝がこのように祈雨の霊地とされていたことから、上述のような異常な雨乞法が伝承されていたものと考えられるが、北摂ではこの他にも同種の雨乞法の行われていた土地が少なくとも二箇所あった。
 そのうちの一つは、箕面の西、兵庫県宝塚市(旧川辺郡小浜村) 川面で最近まで行われていた雨乞である。昭和十四年八月三十一日の『大阪朝日新聞』に「牛の首で雨乞」と題して、次のような記事が掲げられている。この村では雨乞に武庫川の支流惣川の上流に牛の首を投げ入れる風があり、大正十二年にこれをやって雨を得たというが、八月三十日、豊中市の屠殺場より取り寄せた牛の生首と生血をブリキ缶に入れ「雨請 川面村」と書いた幟を立て、半鐘・太鼓を鳴らし、貝を吹く山伏も加わって約二百人が馬淵に行って雨乞をしたとあってその写真も出ている。川面の古老の話によれば、この雨乞は長尾山字檜王山の奥の谷の山の神を怒らせて雨を降らせるのだそうである。村人が檜王山麓の御坊に集り、寺の鐘、村の半鐘で出発、幟を押し立て、鐘・太鼓で武庫川上流の馬滝の谷(上記馬淵と同所か)に行き、そこの机岩の上に牛の首を祭ると牛の生血を一斗ばかり岩の上に流す。それがすむと一行はさらに谷を遡り馬滝に到り、滝壺の前の石に牛の首を据えて帰った。明治の初年頃までは牛三頭を現場まで連れて行ってそこで首を切ったという。またこの雨乞で降り出した雨が七日間も続く大雨となり、流れて来た牛の首を山中に埋めたらやっと止んだという話もある(昭和四八年調査)。
 同じ武庫川の上流の高座岩でも同種の雨乞の行われたことは『有馬郡誌』(上巻、五七三頁)にみえている。その場所は木ノ元村(現西宮市)の少し上で、巨岩が河中に突出し、上が平たくて座敷のような高座岩で「其儀式は動物の血を塗るにあり、然らばその汚れを厭ひ洗ひ去らんがために雨を降らすといふ。その血は名塩ならば純黒色の犬の血を塗り、武庫川辺両郡は純白色の馬の血を塗るを例とす」とある。名塩は旧有馬郡塩瀬村、現在は宝塚市に属するが、『西宮市』(巻二)には『塩渓風土略記』なる書を引いて、安永の頃名塩では生瀬川(武庫川上流)の高座岩で黒犬を殺し、その腹を割いて岩の上に血を流したとしている。
 旧川辺郡稲野村、現在の兵庫県伊丹市の昆陽・池尻・山田・野間・南部・堀池ではユゴウという水利組合を結成していたが、このユゴウが一体となって前記の高座岩で同種の雨乞を行っていたことについては『伊丹市史』(巻六、三二六頁以下)に詳細な記事がある。それによると、この雨乞の行われた最終は明治十六年である。この年の大旱に各村の庄屋が集って相談の結果、この雨乞をすることに決し、村の博労が伊勢から白馬を買って来た。はじめは殺すのがかわいそうだと血を少し採って使ったが、効がないので旧例通りにすることになった。すなわち白馬を殺し、血を一滴残さず桶に取り、首を挟箱に入れ、昆陽寺に詣って読経を頼み、読経の続く中で行列を組む。先頭は白裃姿で雨乞の巻物を持って馬で進む。若者仲間が槍を持ってこれを警固する。しかしこの巻物は本物ではなく、本物は商人姿の二人が一足先に持って出る。次いで若者仲間が馬の首の入った挾箱を担いで行く。この後には各村の代表が続く。
 途中で昆陽池を左廻りに廻ってから武庫川を遡る。生類(西宮市)のコーライ岩(前記の高座岩と同じか)に着くと、まず馬の首を取り出して岩の上に置き、白衣の者が経を読む。終ると首をミソ滝の淵に入れる。担いで来た桶の血は岩一面に塗りつける。本来はここまで白馬を曳いて来て白装束の者が首を切り落す式があったという。この行事がすむと、来た時と同じ行列を作って帰るが、途中昆陽池に寄って右廻りに廻った。この時待望の雨が降り出し、大雨となったそうである。この雨乞は今は絶えているが雨乞の巻物二巻は今も伝わっている。また村では毎年盆の十七日に殺された馬の施餓鬼を昆陽寺でしている。なおコーライ岩の下は竜宮に通じていると伝え、そのためこの岩を血で汚すと乙姫さんが怒って雨を降らせ襷がけで岩を洗うという。池田市の『伊居太神社日記』(『池田市史』史料篇三)の文政三年(一八二〇)七月二十三日の条に、この夜昆陽池の池掛り十二箇村の者十五歳以上が皆池の堤に出て雨乞し、その鐘・太鼓の音が夜明けまで聞えた。その上、馬の首を生瀬の奥の滝に漬けに行ったそうで、その験か大雨が降ったという。噂では馬の首代は七匁二分かかったそうだ、と記している。この記事から、この雨乞が少なくとも十九世紀の初頭以来行われて来たことが明らかである。
 武庫川流域では、さらにこの上流地域でも同種の雨乞が行われていたらしい。すなわち三田市(兵庫県) 下田中では大正十二年の雨乞に牛の首を屠殺場でもらって来て、これをヒトモシ山の上で柴とともに昼から夕方までかけて焼いた。灰は臭いがそのままにしておく。神を怒らせるためという(兵庫県立有馬高等学校歴史クラブ『ほくせつ』六号)。同市青野でも、牛を殺し、その首を山上の堂に持って行き、その血を堂に塗ると、神が汚いのを怒って雨を降らせるという(同上書)。
 兵庫県ではもう一箇所、 飾磨郡夢前町でも昔この雨乞が行われた。すなわち夢前川上流のカメガツボと称する甌穴に牛の生首を投げこむと水神の怒りを買って大雨になるという(『夢前町史』九三八頁)。


(三)近畿各地の例
 上記以外の近畿の例としては、まず大阪府で二箇所、箕面市の牧落・西小路・半町等では平尾(箕面市)の前池に牛の首を入れて雨に祈った話と、豊中市長興寺でも牛の首を切って、その血を神社の境内の岩に塗りつけたという話がある。ともに筆者の古老からの伝聞であるが、詳細は明らかではない。
 和歌山県西牟婁郡北富田村(現白浜町)の庄川に牛尾谷(一名牛鬼谷)という滝がある。滝壺は深く、奥に洞穴があり、主がすむという。昔この主の怒りを買って一万石の材木をこの洞穴に吸いとられた話もある。旱魃には「牛の首漬け」といって、牛の首を切って滝壺の棚の上に置き、藤葛で固く結んで背後を見ずに逃げ帰る。すると滝の主が汚れを流すために雨を降らすという。ただしこれはあらゆる手段を試みた後の最後の雨乞法であった(『郷土研究』一卷七号、吉田美穂『熊野雨乞行事』)。雑賀貞次郎『牟婁口碑集』(九四頁)にも同じ話があるが、牛の首は滝壺に投げ込むとある。
 奈良県では『大和志』の添上郡の条に「投牛山、在田村東、昔屠牛祈雨有応、因名」とある。これは単なる伝説とも考えられるが、以上に述べた事実を背景として考えると、やはり牛を殺して雨を祈る習俗が存したものと思われる。
 滋賀県伊香郡余吾町中之郷の池ノ谷に、雨乞に山伏を頼んで七夜の行をする洞穴がある。昔、下余吾の五平という者の母が牛とともにこの穴に入って人身御供となったら雨が降ったという伝えがある(渡辺守順ほか『近江の伝説』五四頁)。この話をも牛供儀の例証とするのは思い過しであろうか。

2026年6月5日金曜日

20260604 株式会社白水社刊 トム・リース著 高里 ひろ訳「ナポレオンに背いた「黒い将軍」:忘れられた英雄アレックス・デュマ」 pp286-2288より抜粋

株式会社白水社刊 トム・リース著 高里 ひろ訳「ナポレオンに背いた「黒い将軍」:忘れられた英雄アレックス・デュマ」
pp286-2288より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4560084262
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4560084267

 どんよりと肌寒い十一月十日日曜日の明け方、ナポレオンは五〇〇〇人の軍隊に、五百人会の議員が集まるサン・クルー宮殿のオランジュリーを包囲するように命じた。最初はうまく事が運ばなかった。ナポレオンがオランジュリーに顔を出そうとすると、だまされた議員たちー全員が普段の服の上にゆったりとした赤い礼服をまとい、三色のスカーフを巻いていた―が「独裁者を倒せ!」と叫びだしたのだ。文民政治の経験に乏しいナポレオンは冷静さを失い、「おまえたちは今、一触即発の場にいるのだ!」と叫び返した。彼を非難する声が上がり、ののしりやつばまで浴びせられた。「独裁者を倒せ! 暴君を倒せ!」誰かがナポレオンの襟をつかみ、彼の体を揺すった。ボナパルト将軍を「追放」するための動議を議員が求めた。それは死刑宣告も同じだった。
 ナポレオンを救ったのは、五百人会議の年齢詐称議長リュシアンだった。仲間の代議士が兄に暴力をふるうのを見たリュシアンは、民主主義を侵害しているのはむしろおまえたちだ、と非難した。「ここには自由などない」と彼は叫び、スーツの上に着ていた赤い礼服を脱いで、演台の上に置いた。「諸君の議長は、公の喪のしるしに、民衆の行政官のシンボルを手放す」そう言うと、リュシアンは兄とともに即席の議場を出て中庭へと向かい、二人とも馬に跨った。リュシアンは馬上で軍隊に向かって演説し、「イギリス政府のあの破滅的な天才に触発されたに違いない、恐れを知らぬ盗賊が、五百人会に反旗を翻そうとしている」と告げた。彼は兄の名において、五百人会をこのような盗賊の手から解放し、彼らを議場から追い払うように、と兵士に求めた―「銃剣によって彼らを短剣から守り、われわれが共和国の運命を慎重に審議できるように」。
 ナポレオンは弟の演説の趣旨が兵士たちにうまく伝わらなかった場合に備えて、事を明確にしようとした。「抵抗する者がいたら、殺せ、殺せ、殺せ! わたしについてこい。わたしは戦争の神だ!」このときリュシアンは小声で、ここはエジプトではなくパリなのだから、黙っていたほうがよいと兄にささやいたと言われている。「相手はマムルークではないのですよ」そのあと、彼はこのクーデターで最も派手で効果的な身振りをしてみせた。ナポレオンの剣をつかんで鞘から抜くと、それを兄の胸に突きつけた。「もし兄が、フランス人の自由をおびやかそうとしたら、わたしが兄の心臓をひと突きにすると誓う!」このとき、エジプトで戦友のデュマ将軍とともにナポレオンの独断ぶりに文句を言っていたミュラ将軍は、騎兵たちに民主主義の秩序を破壊させる号令をかけた。馬を後ろ足で立たせ、軍刀を振りかざして「将軍万歳! 議長万歳!」と叫び、オランジェリーのドアを差して「突撃」と叫んだのだ。武装した騎兵隊が議場に侵入するのを見たフランスの議員たちは仰天し、窓に駆け寄ると、飛びおりて逃げだした。
 その夜、クーデターの協力者に回った何人かの代議士が、首謀者らとともに夜を徹して、ろうそくの明かりで作業を続け、採決をとり、文書を作成し、すべてを法に適合させた。午前三時には作業が終わった。フランスに新政府が生まれ、ナポレオンが第一統領に任命されて、三人の統領からなる上部組織のトップに収まった。必然的に、ほかの二名は彼の命令に従うことになった。”統領”という言葉は古代ローマを思い出させ、ローマでそうだったように、専制君主が最高位についたことを誰もが理解した。
 ヨーロッパのすべての物事、すべての人びとの運命は、まもなく三色の懸章を肩に掛けたこの独裁者の一存によって決められることになる。フランスの共和主義と民主主義の十年ー途方もない恐怖と希望に彩られた、いつまでも続くかに思えた奴隷解放の時代ーは終わった。

2026年6月3日水曜日

20260603 株式会社新潮社 新潮選書 片山杜秀著「未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命」 pp.213‐216より抜粋

株式会社新潮社 新潮選書 片山杜秀著「未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命」
pp.213‐216より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 410603705X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4106037054

 雑誌『日本評論』の一九四二年七月号は「支那事変五周年」の記念特集号にあてられました。そこに「新文化の創造」という座談会が掲載されています。出席者は次の六人。「大正デモクラシー」の旗手、長谷川如是閑。「大正教養主義」の生み出した一種の人文主義者、和辻哲郎。かつての唯物論研究会のメンバーで、この頃は日本に目を向けた科学技術史家・思想史家として新境地を開いていた三枝博音。日本主義的哲学者の佐藤信衛。流行を追う俊敏さでは並ぶ者のない評論家、室伏高信。日本史家の肥後和男。
 一九四二年は英米との戦争が始まって二年目。一九四〇年の齋藤隆夫の演説のときの戦争目的は「東亜新秩序」の確立でしたが、それは「大東亜共栄圏」の建設へと、少なくとも言葉の構えはより大げさなものになっていました。
 座談会は長谷川如是閑と和辻哲郎の対論がかなりの部分を占めます。他の四人はいささか影が薄い。大物の二人に気圧されてけっことう黙っています。
 この日、和辻はかなり苛立っていたようです。もっとも、真珠湾攻撃やマレー沖海戦といった緒戦の空からの勝利に気をよくしている箇所もある。益子焼の陶工の技が西洋皿を作るときにも無意識のうちに生きるように、日本のパイロットは剣道の呼吸を飛行機の操縦に自ずと活かせるから優秀なのではないかと、とくとくと語ってもいます。
 しかし、座談会に臨む和辻の基調はやはり怒りです。何に怒っているのか。戦時下の日本の実情にです。対英米戦という世界史的大戦争が始まって、国内では「挙国一致」の類いのスローガンだけは盛んに叫ばれている。けれども、実のところは政治も社会も経済も文化も細かく割れているばかりだ。国家社会のあらゆる局面で縄張り争いが甚だしくなっているのではないか。団結し、強いリーダーシップにしたがい、一丸となり、総力を挙げて事に当たろうという姿勢がちっとも見えてこない。明確な展望もない。そのへんに我慢がならないようなのです。
 その種の発言をいくつか拾ってみましょう。「日本の伝統は皇室を中心にして固まって居る。それは意識されないでもその力が動いて居つた。これはさうに違ひないが、誠に有難い伝統だがそのほかに内輪喧嘩の伝統もあるのではないか。国外の敵を見ないで国内の敵だけを見て居る。さういふ伝統が、生きなくてもい、時に生きて居るといふことはいへないですか」。「新文化を創造する場合には、凡ゆる力が一つに固つて外に向つて戦ふといふ必要がある。国内の敵だけやつけるといふ態度ではなく、一緒になつてやらうといふ態度でなければならん」。「プライベート・ライフの一面だけが非常に細かく見られて、日本の国家全体を見渡すとか、広く世界全体を見渡すとか、東亜の運命を見るといふことがない。小さいところは細かく見ているが、大局が見えない」。
 こんな和辻を長谷川如是閑が次のように諫めます。
 さういふ傾向は日本人の複雑性の一つで、これは外国人にもあるでせうが、つまり非常な多様多角的な国民性の現はれだ。私が伝統といふのはさういふものに拘はれないで、無意識的に強い力を以て一貫して行く性格、どんなものが出ようと、歴史はそれらを克服して一貫した性格を作って行くといふことです。維新になつても攘夷説でやつて居た人もあるし、討幕ではなくて朝廷と幕府の並立を考へて居つた人もある。しかし伝統といふものは、日本の歴史を一貫性を以て貫いて行く。
 如是閑は、本気で意見が一致してひとまとまりになり誰かの指導や何かの思想に熱烈に従うことは、いついかなるときでも、たとえ世界的大戦争に直面して総力を挙げなくてはならないときでも、日本の伝統にはないのだと主張します。
 幕末維新は尊皇派も佐幕派も攘夷派も開国派も居たからこそ、かえってうまく運んだ。いろいろな意見を持つ人々が互いに議論したり様子を見合ったりして妥協点を探る。一枚岩になれない。常にぎくしゃくしながら進む。その結果、自ずとなるようになる。複雑で一致しない多くの力の総和や相乗や相殺として、常に日本の歴史は現前する。それをいけないとはあまり思わず、むしろよしとして放任するのが日本の伝統だ。無理に力ずくでまとめようとすればするほど、ひとつの主義主張で固めようとすればするほど、この国はうまく行かなくなる。てんでばらばらになりそうなところをみんなが我慢し、表向きは妥協しながら、けっこう勝手なことをしている。そのくらいで丁度いいのだ。和辻は間違っている。如是閑の意見はそんなところでしょう。

2026年6月2日火曜日

20260601 株式会社講談社 講談社学術文庫 徳富蘇峰著「読書法:読書九十年」pp.20‐23より抜粋

株式会社講談社 講談社学術文庫 徳富蘇峰著「読書法:読書九十年」
pp.20‐23より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061585347
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061585348
 
 予は必ずしも書物の中に成長したものではない。わが家は横井小楠のいわゆる実学連の仲間であり、父は小楠門下ではいささか名の知れたる一人であった。実学連では読書は第二義であって、横井その人は学者であったが、門人には書物を読むことをむしろ奨励ぜずして、 なるべく実際についてその知見を磨くことを奨励した。そのために書物を読む者は詞章記誦の徒としてむしろこれを退けるの風があった。そのために、横井門人中には「大学」一巻を繰返し講義して、それで大先生として立った者もいた。ところが予の父はその仲間ではむしろ読書人であった。その読書人であった理由は、わが家が読書に縁のある家であり、わが父が横井の門人となる以前に熊本時習館教授近藤淡泉先生の門人としてその青年の若干期間を過ごしたためである。
 予の家は細川の殿様よりもむしろ先に肥後に落ちついたものである。細川家は寛永年間に 加藤氏の後を承けて肥後の殿様となったが、予が家は殿様入国以前から、肥後の南端、薩摩 に境する葦北郡の水俣に住したる郷士であった。もとより郷士であり、殿様から禄を貰うでもなければ、武士としての特権を持っているでもなく、ただ山を拓き海を干拓して自給自足で過ごしていたのであって、きわめて呑気な生活をして代々過ごしてきた。そのうちに予の父の曾祖父、予より五代の先祖に徳富久貞というという者があり、これが自分は学者ではなかったが、学者との交通をなし、そのうちに自然に文教の必要を感じて、自らわが郷里の水俣に学校を建て、先生を熊本時習館より聘して、ここに初めてわが郷の学問はその曙光を発したのである。久貞の友人には辛島塩井・高本紫冥・富田日岳などがその主なるものであって、辛島は山陽の父春水の友人であり、春水とともに徳川将軍に召出され昌平黌の講筵に臨んだものである。高本は本来の儒者ではあったが、本居宣長などと交わり、国学に力を致したるものである。富田は高山彦九郎の親友で、九州においては討幕の率先者といっても差支えない。かかる交際であって、彼が死んだときには、彼の墓には辛島塩井がその墓碑銘を書いている。
 德翁有志。興起斯中。家則教子。邑則勧農。既老益壮。惟学惟崇。延師興庠。民始発朦。 
(徳翁志有って、この中より興起し、家にはすなわち子を教え、邑にはすなわち農を勧む。既に老ゆるもますます壮なり。これ学びこれ崇び、師を延いて、庠を興す。民始めて朦を発けり。)
 この意味は訳すれば、熊本は大藩であるが、その領地の水俣は薩摩に隣し文化には遅れている。海や山に被い包まれ、人民は生活が豊かで風俗も醇朴である。徳富翁はこの郷に興って家ごとにその子弟を教え、村ごとにその農業を勧め、老年に至るまでいよいよ壮んで、学問を尊び教師を招きて学校を興し、そこでその人民も初めて文化の光を見るに至った。
 これは少しは掛値があるかもしれぬが、実際その通りであって、その学校には相当の蔵書 があった。その目録だけは予の家になお保存しているが、不幸にして書物は散乱してそのうちのきわめて小部分しかない。しかし、散乱したとはいうものの、田舎郷士の家としては相当の蔵書家といっても差支えない。それは熊本から郡奉行などが出張している際、常に予の家から書物を借用しそれを運んでいったことなど、予は今なお目のあたり見たことを記憶している。
 予の母は矢島家の出であって、その同胞は一男七女、母は第四女であって竹崎順子の妹で 横井常世子・矢島楫子の姉である。横井津世子は小楠の妻であり、竹崎順子・矢島楫子などは、大がい現代の婦人についての知識ある者はその名を知っているであろう。しかして、予の外祖母は当時の女性としては相当の教養があって、その筆跡などを見てもまことにりっぱなものである。彼女についてはさすがの横井小楠もよほど感心したとみえて、自ら筆をとってその墓碑を書いている。
 右のごとく、予が家には書物があり、父母ともに読書に縁のある者であって、自然予もそ の雰囲気のうちに成長してきたから、いやでも応でも書物の虫とならざるを得ぬような環境 に置かれていた。ことに予は上に五人の姉を控えて晩年に生れたものであるから、父母が予 を教育することは、実を言えばいささか有難迷惑であって、いわゆる教育に食傷したほどである。「大学朱熹章句」などは母の乳を吸いつつ教えられたものである。「唐詩選」とか「雪中の松柏愈々青々たり」などという詩などは、すべて母の膝の上にあって覚えたものである。したがって予は寺子屋に行くころには相当に読書の方には趣味もあったが、予にとって最も苦手であったのは習字である。寺子屋では読書が三分であとの七分は習字である。われらが寺子屋生活は歌舞伎座の「菅原伝授手習鑑」で見た通りのことをやってきたのである。予はそのうちの涎くりではなかったが、字を書くことについては本来嫌いである。それで習字の時間には非常に困った。清書などは無茶苦茶にやってのけたから、今でも覚えているが、予が清書のときに「ね」の字を書いたら、先生が朱筆をもって、その傍らに「猫のようである」と評をつけてくれたことがある。実際予は徳の字はともかく書いたが、富という字を書くことは、『四書」の素読をなしつつある時代においても、ようやく片仮名で書いたくらいである。初めからこの人間がいかに均斉のとれざる、智能の円満に発達せざる一種の身障者であったかがわかる。

2026年5月31日日曜日

20260530 2471 記事に到達して思ったこと:引用記事の起源?

 直近の記事投稿により、総投稿記事数が2471に到達しました。そして残り30記事未満の投稿により、当面の目標としている2500記事まで到達することが出来ます。当ブログ開始当初の3年間は、ほぼ毎日1記事のペースで作成・投稿していましたが、そのためか当時は、毎日が眠かったことを記憶しています。これは、夜半に作成していたから眠かったのであるか、あるいは、たとえ眠くとも、作成していたのかは、現在となっては判然としませんが、いずれにしましても、当時の行為があったことから、現在も、どうにか、当ブログを継続することが出来ているのだとは云えます。それでも、投稿記事数が2400を超え、継続期間が11年近くになっても、未だ実感はなく、また同時に、文章作成に対する自信も乏しく、未だに毎回、綱渡りで作成しているような感覚があります。また、そうした感覚であっても継続出来ていること自体が実は驚くべきことであるのかもしれません…(苦笑)。また、去る5/25投稿『身体感覚と文献資料との記号接地の感覚について:南紀での記憶から』にて「ブログ記事の題材に困ることがあれば、南紀でのことを思い出して書けば良い」と述べましたが、たしかに、記事作成の際、地理関係の確認のため、グーグル・マップにて場所を確認していますと、その作業に付随して、また他の記憶も想起して、その要点をいくつかの単語や短い文章を下書きとして保存して、後日、それを見て、再度、その記憶を想起して、新たなブログ記事作成に繋がれば良いのですが、こうしたことは、毎度上手く行くわけではないようです…。それでも、以前に保存していた下書きを、久しぶりに開き、その続きを作成して、新たな記事作成が比較的スマートに出来ることも度々あります。それ故、こうした下書きは、出来るだけ作成しておいた方が良いと考えます。また、私見となりますが、このことは読書での犬耳(dog-ear)とも通じるものがあると考えます。以前より引用記事の投稿がしばらく続くことが度々あり、また、今後もあると思われますが、それらの引用記事は、まさに、さきの犬耳(dog-ear)のおかげで毎回比較的スムーズに選定して、作成することが出来ていると云えます。おそらく、引用記事のみの作成であれば、今後1~2年程度は、さらに継続することが出来るものと考えます。書籍からの引用記事は、元来、収入を企図しない当ブログにおいても考慮して、周囲の人文系の研究者の方々にご意見を伺い、現在のようなスタイルにしましたが、後に2020年からのエックス(当時はツイッター)との連携以降は、それまでに作成した引用記事を連繋して用いることが多くなり、また、その効果によって、より多くの引用書籍の購入に繋がれば良いと考えます。しかし、そのように考えてみますと、私の場合、社会人になっても読書する習慣を維持したからこそ、その後、大学院に進むことが出来、学位取得、そして、その後のいくつかの就職にも繋がったのだとも云えますので、あるいは、当ブログの本質・エッセンスとは、これまでの読書で興味深いと感じた著作・記述を開陳する目的で作成した引用記事であったのではないかとも思われるところです…。そして、この興味深い書籍・記述の開陳を実際に行っていた時期のはじめを想起しますと、それは、和歌山市在住の文系大学院生時代の頃であり、そのことも、以前にブログ記事題材にしていたことが思い出されました。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

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ISBN978-4-263-46420-5

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