中央公論新社刊 林道義著「父性の復権」
pp.154-159より抜粋
ISBN-10 : 412101300X
ISBN-13 : 978-4121013002
いじめ・不登校と父性
弱い者いじめの心理
現在の日本で問題になっているいじめは、残虐で執拗だという特徴を持っている。となるとその背後にはサディスト的な心理があるのではないかと疑ってみたくなる。サドマゾ的な性格は、両親が厳しすぎて、しかも愛情が不足して育った場合に出てきやすい性格である。フランクフルト学派の研究によれば、それは権威主義的な性格と近い関係にある。しかし現代の日本のいじめは、父親が厳しすぎるために出てきたサド的な心理である可能性は少ない。むしろそれは正反対の心理を示しているように思われる。
現在の日本社会のいじめは、いじめる子のフラストレーションの解消に使われているという性質を否定できない。つまりいじめっ子の心の中にはある種の不満が鬱積しており、その不満の解消として、いじめがなされているのである。
不満があると言っても、その不満を子どもたちが自覚しているわけでは決してない。むしろ逆に、その不満は無意識の中に深く抑圧されており、子どもたちはその不満を表現することを許されないのである。その抑圧が直接的でなく、巧妙で心理的であればあるほど、子どもたちはそれに対して反抗することができないで、鬱屈した形で表現せざるをえない。子どもたちは、自分の不満や欠陥といったマイナスのものを表現することを許されていないのである。
「不満のない」子どもたち
今の子どもたちを対象にしたある調査によると、両親に対する満足度を調べたところ、子どもたちの九割が親に満足していると答えた。それを額面どおりに受けると、今の子どもたちはほとんど親に不満を持っていないということになる。
しかし調査の結果を表面的に理解してはならない。子どもたちが両親に不満を持っていないとは、とうてい考えられないからである。私の心理療法の経験から言っても、問題を持つ子どもは誰でも、必ず親に対する不満を持っており、また面接していくと不満を意識化するようになる。子どもたちは決して不満を持っていないのではなく、自覚していないだけなのだ。
ということは、「親に満足している」と答えた子どもたちのかなりの部分が、自分の不満を抑圧しているということになる。あるいは、言い換えれば、巧妙なマインドコントロールのもとにあって、満足だと思いこまされているということになる。それだけ親の心理的な支配が強いのだとも言えるだろう。親と言ったが、じつは支配している親はこの場合母親である。日本の家庭では父が不在で。子どもの教育や面倒は母親が見ている場合が多いからである。つまり子どもたちは母親の強いマインドコントロールのもとにあると言うことができる。「親に満足」だとの答えは、じつは母親に管理されてしまっている子どもの姿を浮かびあがらせているとも見ることができよう。
少し古いが、一九八七年に武蔵野市が行った「子どもの生活実態調査」によると、「お父さんとの間はうまくいっていますか」との質問に、中学生の場合「とてもうまくいっている」が二六・七パーセント、「かなりうまくいっている」が二四・九パーセント、「ややうまくいっている」が二九・一パーセントであった。なんと八割がともかくも「うまくいっている」と感じており、三分の一が「とてもうまくいっている」と思っているのである。これは父親がよほど子どもに「理解のある態度」を示していないと出てこない結果である。父親がきちんとしたしつけをしようとか、なんらかの価値観を教えようとするならば、こういう結果は絶対に出てこない。親子の間の衝突や子どもの反抗という現象がもっと多く起きるはずである。父と子が見かけ上「うまくいっている」というのはどこか薄気味悪い。よほど現代の父親が「もの分かりがよい」「優しい」「甘い」ということの現れだからである。つまりこの調査結果は、この子どもたちの父親がしつけに参加していないことを表しているのである。
「親に満足している」とか「親とうまくいっている」と思わせているもう一つの理由は、親に対する評価が物質的な面に偏っていることにある。いまの日本では、たいていの家庭は、子どもに世間並みの物質的必要を満たしてやることができる。生活面で子どもに不自由させている親はそう多くない。物質的な条件に関するかぎり、不満がないのは当然である。問題なのは、満足かどうかと質問されたときに、心理面や愛情面について聞かれているとは思わないで、ましてや親の生き方や信念について聞かれているとは思いもしないで、物質的なことを考えて答える者が多いかもしれないことである。もしそうだとしたら、そのこと自体が、母親主導の価値観を示しており、抽象的な理念からの発想がないという意味で父性の欠如を示していると言うことができる。
母性一辺倒のしつけ
父性が関わらないで、母性だけによってしつけがなされると、子どもは細かい日常的な事柄に関しては関心が強くなるが、原理的なことについては関心をなくしていく傾向にある。母性によるしつけは、往々にして自主性や判断力を養わないで、大人の基準から見て得だと思われる目標(受験勉強)に向けて細かく管理して邁進させるという性質を持っている。すでにかなり以前になるが、祖母を刺し殺してしまった高校生の場合にも、祖母が一挙手一投足について干渉することに耐えられなくなって、殺すという極端な反応を示したと考えられる。太母の支配と管理が強すぎると、それから逃れるためには殺人という極端な手段を取るしかないと思い込んでしまうのである。
母親によるしつけは往々にして、原理原則によるよりは、目の前の具体的なことについて細かく管理するという形を取りがちである。我が子の得や安全ばかり考えて、勉強や技術の習得を第一として、正義や勇気や誠実といった抽象的な徳への関心は排除されてしまう。ましてや衝動をコントロールするなどということは、しつけの中に入ってこない。コンプレックスやフラストレーションをコントロールするどころか、それらに左右されやすい人格になっていく傾向にある。
母性支配による正義感の欠如
不満も表せないし、反抗もできないという「満足しているいい子」たちは、じつは自我の弱い、発達の未熟な、フラストレーションを持った子どもたちなのである。だからその子どもたちが、いったんそのフラストレーションを発散させようとすると、自我による抑制もなければ、超自我(父の道徳的規範)による歯止めもない、まったくの無制限で無秩序ないじめ方をすることになる。それはまさに父性不在の母性一辺倒による発達の歪みを示しているのである。
いじめっ子たちがとくにこだわるのが、チクるという行動である。チクるとは、大人に言いつけることである。子どもたちの間では、チクるという行為は最大の罪悪と考えられている。この罪悪感にほとんどの子どもたちが囚われているのは、いじめる子どもたちの支配のイデオロギーにすべての子どもたちが絡め取られていることを意味している。それは逆に言えば、いじめる子どもたちがいかに大人の介入を恐れているかを示している。いや、大人というより、父の論理の介入を恐れているのである。社会規範の基準が持ち込まれ、それによって裁かれることは、彼らにとっては致命的である。彼らの無法を正当化する幼稚な理由づけ(「汚いから」「臭いから」「のろまだから」「ブスだから」等々)が通用しなくなり、まったく別の基準によって裁かれて、悪として断罪されるからである。ということは、彼らは自分たちが父親的な大人の観点からは断罪されるということを承知しているということになる。知ってはいるがやめられない、というところに、無意識の動機の強さと恐ろしさが示されているのである。
直接いじめに加わる子ども以外の子どもたちが、まわりにいて傍観したり、無関心を装ったりするという傾向もまた、父性の不足を示している。そこには我が身の安全のみを願い、正義や勇気という徳目にはまったく無関心な、母性のマイナス面が支配している。
鶴木次郎のブログ
主に面白いと思った記述、考えたことを記します。 自身の備忘録的な目的もあります。
2026年6月21日日曜日
2026年6月20日土曜日
20260620 株式会社講談社 講談社学術文庫 竹山道雄著「主役としての近代」 pp.151‐156より抜粋
株式会社講談社 講談社学術文庫 竹山道雄著「主役としての近代」
pp.151‐156より抜粋
ISBN-10 : 4061586629
ISBN-13 : 978-4061586628
万葉集とゲーテは似ている?
ドイツ文学を読んでいる者が万葉集について何か書けといわれると、その感想は、万葉集とゲーテの詩にはどこか共通点があるような気がする、ということである。
たしかに、あるような気はする。ことにゲーテの若いころの作品を読んでいると、ときどきそんな感じがする。若いゲーテには素朴な上古人みたいなところがあって、技巧のない直截な表現をした。そして、万葉集は日本文学の中ではもっとも「感傷的」でなく「素朴」なもので、新鮮で健康なものである。われわれは、万葉集はほかの日本文学とちがって自然児の感情をあからさまに流露したもののような気がしている。それで、たとえば
燈のかげにかがよふうつせみの妹がゑまひし面影に見ゆ
といったような歌を読むと、これは、ゲーテだと思う。
うるはしと思ふ吾妹を夢に見て起きて探るに無きがさぶしさ
を読むと、『若きウェルテルの悩み』の中には、これをそのまま散文にしたような章がある、と思う。
上代の日本と十八世紀末のライン地方とでは、舞台も道具立てもまるでちがうが、もし大伴家持がロココ風の服装をして葡萄酒を飲んでバタをなめていたら、あるいはつぎのような詩を作ったかもしれないような気がする。
やがてわたしは葡萄園の
秋の房を分けて入ろう。 めぐりに生命は充ちあふれ
新らしい酒は噴き溢れていよう。
なれど荒れた「亭」で
おもう心はーああおまえがここにいたら、
この房の実をおくろうに…
ひびきがおおらかで、線が太くて、コスミッシュな感じがただよっているような自然の詩は、ゲーテにも万葉にもある。それでー「ゲーテは万葉集である、万葉集はゲーテである」という説を立てたくなる。
あしひきの山川の瀬の鳴るな並に弓月が岳に雲たちわたる
これこそは、自然を直観してその中にとけ入ろうとした、ゲーテのあこがれた境地ではなかったか!
というわけで、私はゲーテ万葉説がなりたつかと思って、万葉集をすこしばかり読んでみた。ところが、読むにしたがって、これまで漠然といだいていた先入見が壊れていった。万葉集とゲーテは大ちがいである。似ているところ、近づいているところも、ないではない。ゲーテの中のすぐれた作品と万葉集の中のすぐれた作品とは、どこか通じている。これはおそらく、すべての立派な芸術に共通の香気とか格調とかいうものらしい。しかし、両者の多数の凡作はたいへん違っている。そして、稟資の基調は、かえって凡作の方に感じられることが多い。
ゲーテを頭におきながら万葉集を読みかえしたときの感想は、矢代幸雄先生がヨーロッパから帰って法隆寺の壁画を見られたときの感想に、そっくりである。(ここでその原文を引用しようと思ったところが、生憎『世界に於ける日本美術の位置』も『日本美術の特質』も、手もとに見つからない。矢代先生におゆるしねがって、私が記憶しているところを記すと、おおよそ次のような趣旨だった)
ー法隆寺の壁画は日本の絵画の中の最大作で、われわれはこれをスケールの大きな、荘重森厳なものだと思っている。ところがイタリアの壁画を見なれた眼には、それは意外な印象をあたえた。それは清楚で淡泊で流麗で、味のこまかいものである。日本人好みの仕上げの丁寧な、品のいい、やさしくしみじみとしたものである。日本美術の中ではもっとも雄渾と思われるものも、世界の標準から見るとむしろ甘美な感性のこまやかさによって人の胸をうつものである。
あの法隆寺の異国風の壁画をえがいたものと同じ感性が、万葉集の中にもはたらいているような気がする。くらべればくらべるほど、ゲーテの方は強烈で逞ましくマッシヴではげしく迸っているし、万葉集の方は、「繊細」で、野性といったようなものはすっかりふりすてて洗練されている。短かい形の中に、はや技巧をつくしているにはおどろかれる。大陸伝来の正倉院の御物もそうだが、まったく日本で成立した詩歌にも、大まかな荒削りのところはすこしもない。
ゲーテの傑作の「五月の歌」の、冒頭は直訳するとつぎのようである。
何とすばらしく
自然はてらしていることだろう!
何と太陽はかがやいていることだろう!
何と野は笑っていることだろう!
これにくらべると、万葉人の発想や言葉づかいは、その庶民の歌でも彫琢をきわめている。
ゲーテは明るくてしばしば歓喜にあふれているが、日本人はおおらかないにしえにもしきりに歎いた。万葉集には、意外に悲哀の歌が多い。死の歌、別離の歌が、非常に多い。恋の歌にも、ほとんどつねにやさしい人情のなげきが基調になっている。なげくということは日本文学の大きな主題で、今でも日本人は映画の中でも涙をしぼるものが好きだが、こういう気持は歴史のはじめからあったのだろうか? ゲーテはドイツでこそ「素朴な」「古典的」な詩人とされているが、外国ではむしろ感傷的なロマンチックな作家としてうけたられた。それろ同じように、われわれにとってはおおどかな万葉人も、じつはやはりしめやかな情緒の人だったたしい。
そのほか対比はかぎりないが、もっとも根本的と思われるのは自然に対する態度である。
ドイツ人のおい自然とわれわれの考える自然とでは、たいへんちがっている。ドイツ人にとっては、自然・生命・神は三位一体なので、かれらは自然の中に自己の生命力を投影し、神の創造したもうた、宇宙の神的秩序を賛美した。所詮は一神教の展開である。ところが、日本人の自然観はあべこべに汎神論的といえるだろうか、ありのままの具体的な事物に端的に没入して、自然の中に呼吸する。
pp.151‐156より抜粋
ISBN-10 : 4061586629
ISBN-13 : 978-4061586628
万葉集とゲーテは似ている?
ドイツ文学を読んでいる者が万葉集について何か書けといわれると、その感想は、万葉集とゲーテの詩にはどこか共通点があるような気がする、ということである。
たしかに、あるような気はする。ことにゲーテの若いころの作品を読んでいると、ときどきそんな感じがする。若いゲーテには素朴な上古人みたいなところがあって、技巧のない直截な表現をした。そして、万葉集は日本文学の中ではもっとも「感傷的」でなく「素朴」なもので、新鮮で健康なものである。われわれは、万葉集はほかの日本文学とちがって自然児の感情をあからさまに流露したもののような気がしている。それで、たとえば
燈のかげにかがよふうつせみの妹がゑまひし面影に見ゆ
といったような歌を読むと、これは、ゲーテだと思う。
うるはしと思ふ吾妹を夢に見て起きて探るに無きがさぶしさ
を読むと、『若きウェルテルの悩み』の中には、これをそのまま散文にしたような章がある、と思う。
上代の日本と十八世紀末のライン地方とでは、舞台も道具立てもまるでちがうが、もし大伴家持がロココ風の服装をして葡萄酒を飲んでバタをなめていたら、あるいはつぎのような詩を作ったかもしれないような気がする。
やがてわたしは葡萄園の
秋の房を分けて入ろう。 めぐりに生命は充ちあふれ
新らしい酒は噴き溢れていよう。
なれど荒れた「亭」で
おもう心はーああおまえがここにいたら、
この房の実をおくろうに…
ひびきがおおらかで、線が太くて、コスミッシュな感じがただよっているような自然の詩は、ゲーテにも万葉にもある。それでー「ゲーテは万葉集である、万葉集はゲーテである」という説を立てたくなる。
あしひきの山川の瀬の鳴るな並に弓月が岳に雲たちわたる
これこそは、自然を直観してその中にとけ入ろうとした、ゲーテのあこがれた境地ではなかったか!
というわけで、私はゲーテ万葉説がなりたつかと思って、万葉集をすこしばかり読んでみた。ところが、読むにしたがって、これまで漠然といだいていた先入見が壊れていった。万葉集とゲーテは大ちがいである。似ているところ、近づいているところも、ないではない。ゲーテの中のすぐれた作品と万葉集の中のすぐれた作品とは、どこか通じている。これはおそらく、すべての立派な芸術に共通の香気とか格調とかいうものらしい。しかし、両者の多数の凡作はたいへん違っている。そして、稟資の基調は、かえって凡作の方に感じられることが多い。
ゲーテを頭におきながら万葉集を読みかえしたときの感想は、矢代幸雄先生がヨーロッパから帰って法隆寺の壁画を見られたときの感想に、そっくりである。(ここでその原文を引用しようと思ったところが、生憎『世界に於ける日本美術の位置』も『日本美術の特質』も、手もとに見つからない。矢代先生におゆるしねがって、私が記憶しているところを記すと、おおよそ次のような趣旨だった)
ー法隆寺の壁画は日本の絵画の中の最大作で、われわれはこれをスケールの大きな、荘重森厳なものだと思っている。ところがイタリアの壁画を見なれた眼には、それは意外な印象をあたえた。それは清楚で淡泊で流麗で、味のこまかいものである。日本人好みの仕上げの丁寧な、品のいい、やさしくしみじみとしたものである。日本美術の中ではもっとも雄渾と思われるものも、世界の標準から見るとむしろ甘美な感性のこまやかさによって人の胸をうつものである。
あの法隆寺の異国風の壁画をえがいたものと同じ感性が、万葉集の中にもはたらいているような気がする。くらべればくらべるほど、ゲーテの方は強烈で逞ましくマッシヴではげしく迸っているし、万葉集の方は、「繊細」で、野性といったようなものはすっかりふりすてて洗練されている。短かい形の中に、はや技巧をつくしているにはおどろかれる。大陸伝来の正倉院の御物もそうだが、まったく日本で成立した詩歌にも、大まかな荒削りのところはすこしもない。
ゲーテの傑作の「五月の歌」の、冒頭は直訳するとつぎのようである。
何とすばらしく
自然はてらしていることだろう!
何と太陽はかがやいていることだろう!
何と野は笑っていることだろう!
これにくらべると、万葉人の発想や言葉づかいは、その庶民の歌でも彫琢をきわめている。
ゲーテは明るくてしばしば歓喜にあふれているが、日本人はおおらかないにしえにもしきりに歎いた。万葉集には、意外に悲哀の歌が多い。死の歌、別離の歌が、非常に多い。恋の歌にも、ほとんどつねにやさしい人情のなげきが基調になっている。なげくということは日本文学の大きな主題で、今でも日本人は映画の中でも涙をしぼるものが好きだが、こういう気持は歴史のはじめからあったのだろうか? ゲーテはドイツでこそ「素朴な」「古典的」な詩人とされているが、外国ではむしろ感傷的なロマンチックな作家としてうけたられた。それろ同じように、われわれにとってはおおどかな万葉人も、じつはやはりしめやかな情緒の人だったたしい。
そのほか対比はかぎりないが、もっとも根本的と思われるのは自然に対する態度である。
ドイツ人のおい自然とわれわれの考える自然とでは、たいへんちがっている。ドイツ人にとっては、自然・生命・神は三位一体なので、かれらは自然の中に自己の生命力を投影し、神の創造したもうた、宇宙の神的秩序を賛美した。所詮は一神教の展開である。ところが、日本人の自然観はあべこべに汎神論的といえるだろうか、ありのままの具体的な事物に端的に没入して、自然の中に呼吸する。
2026年6月17日水曜日
20260616 株式会社講談社 講談社学術文庫 竹山道雄著「主役としての近代」 pp.55‐59より抜粋
株式会社講談社 講談社学術文庫 竹山道雄著「主役としての近代」
pp.55‐59より抜粋
ISBN-10 : 4061586629
ISBN-13 : 978-4061586628
主役としての近代
われらが遭遇した大災厄はすべて中世的なるものの残滓のなせるわざである。というのが今の定説になっている。いわゆる封建性が一切の罪を問われていて、近代はこれに対してまったく責任がないかのようである。
人々はいっている。ー支配する者の頭が封建的だったし、支配される者の心が封建的だった。どちらも近代にめざめてはいなかった。明治以来の日本はまだ近代国家ではなかった。レジームが変っても、実は封建性が、いな中世以前のものが、西アフリカ的ですらあるものが残っていた。それが動きだして今日の災いを生んだのだ。ー
私は怪訝にたえないのである。ーいったい封建性にあのような事ができたであろうか? 中世的なものの力が、ナポレオンも及ばないような大規模の戦争を東条といったような人に遂行させたのであろうか? かりに昔にもあのような超国家主義というものがあって、それが今まで温存されていたところで、それが強大な外国とのひさしい近代戦を行ったのであろうか?
このように封建性の役割を過大視するのは、あまりにすべてをただ人間の心がまえといったような道徳問題で解決しているのではないだろうか?
勿論日本人の心がまえには非常に多くの近代的ならざるものがあった。これに大きな責があることは争うことができない(いわゆる近代的自覚なるものがどの程度に有力なものであるかは、別の問題としてー)。そして今は、ことに国民が易々として屈伏をしたという点がはげしく罵しられ、あざけられている。
しかし、それにしても、支配者があれほどの力を具えて国中を蟻の這いでる隙もないほどに強制しえた、そしてそれが外から倒されるまでは内からはどうしようもなかったということは、これは現代に独特の事態である。近代的な武器と組織を握った政府に対してはいかにしても反抗することができない。ということは近代の一般的な特徴である。ヨーロッパでも、一八四八年以後は、民衆が自力で圧政を倒して自由を獲得した例はない。近代になればなるほど、両者の力が隔絶して、そういうことができなくなったのである。現代にあって被支配者が支配者に反抗できるのは、かえって西アフリカの蛮族ぐらいなものであろう。ドイツ人を目して西アフリカ的であるという議論はないようであるが、ナチスを倒すためにはナチス以上に近代的な力をもった連合軍をまってはじめて可能だったので、ドイツ人自身には最後の日まで手も足もでなかった。日本でも、日露戦争の頃は公然と非戦論を唱えた人がいた。それが今度はなかった。これは、封建性が増大したのではない。むしろ、近代の強制力がましたからである。人間の道徳的心がまえ以外の、現実の世界の近代の性格がすすんだからである。
つまり、近代性には二つの面がある。一つは人間を解放した近代であり、他は人間を拘束する近代である。日本では、ここに特殊の条件から、前者がその片鱗を示しはじめたころには、もう後者が決定的な力をもつほどになっていたのであった。
かつては、わが国も近代への過程にあった。天皇は意識的にロボット化されていた(これがあまりにロボットになってしまったことが、結果的にはかえって悪いこととなった)。官僚出身者はぞくぞくと政党に入った。軍部大臣は「自分は一介の武弁にすぎない」とへりくだった。さらに、言論はすくなくとも一時は放恣といっていいほどに自由であり、日本人は世界でもっとも国家意識が稀薄な国民であるとさえいわれた。そうして、十幾年前のわれらの社会ははなはだしい病的症状を呈していた。一方にはエログロ、他方には赤というあの時代は、まさに末期の様相を示していた。あの一時期は短い中間劇ではあったが、しかし意味のふかい一幕であった。わが国では、近代化がはじまってそれがまだ完成に遠いうちに、もう近代の破綻がはじまった。制約のある後進国では、近代は円満な発達をとげることができなかったのである。
そこに反動が起った。これが力をえはじめたのは、それがただに回顧的なものとしてではなく、頽廃に対する対症療法と思われたからであった。これは封建性の否定の否定として確立した。あのころ、まだ自由な立場にあった新聞がどれほど政党を攻撃したか、一般人がどれほど「軍に感謝」したか、忘れることはできない。この風潮によって、反動はその根をかためた。しかるに、この反動は次第に治療以上のものとなり、ついにあらゆる抵抗を挫いて、絶対のものとなった。抵抗はあった。斎藤隆夫演説や宇垣内閣流産のころの国民の動きは、もし相手が対等の力をもったものであったら、十分に有効なものであった。しかるに、軍はその機能においては日本中でもっとも近代的な存在であって、強大な組織と武器をもっていたから、その意志を遮る力はほかにはなかった。軍人はその主観的感情においてはもとより極端に封建的であったが、その感情をあやつってその近代的な性能をおどらせたものが他にあった。
それは近代の行きづまりであった。悲劇の主役はむしろ近代であった。中世の残滓はわき役にすぎなかった。人口過剰や生活難、しかもとどまるところを知らぬ要望、植民地獲得欲、それ自体の力学をもって動く巨大な機構、その主体となるべき人間精神の喪失、ありとあらゆる文明の利器を手中に収めた政治支配力の強大化ー、そのほかの近代の症状があの破局を演じた主な役者であった。わき役はそれに引きずられてはなはだ巧みな助演をしたのであった。
ファシズムと封建性とはちがうであろう。今回の悲劇はファシズムが演じたものである。それは一見中世への復帰あるいは封建性の復活という外見をとり、前から残っていたものと結びつき、利用し、それを傀儡とした。根づよく残っていた封建性は絶好の受け入れ体制だった。これは程度の差こそあれ、独伊でもそうだった。かつてこれらの国は大個人を輩出させて近代のさきがけをしたが、さまざまな制約から後進国となって、その近代化が十分に行われないうちに近代の頽廃に覆われた。
pp.55‐59より抜粋
ISBN-10 : 4061586629
ISBN-13 : 978-4061586628
主役としての近代
われらが遭遇した大災厄はすべて中世的なるものの残滓のなせるわざである。というのが今の定説になっている。いわゆる封建性が一切の罪を問われていて、近代はこれに対してまったく責任がないかのようである。
人々はいっている。ー支配する者の頭が封建的だったし、支配される者の心が封建的だった。どちらも近代にめざめてはいなかった。明治以来の日本はまだ近代国家ではなかった。レジームが変っても、実は封建性が、いな中世以前のものが、西アフリカ的ですらあるものが残っていた。それが動きだして今日の災いを生んだのだ。ー
私は怪訝にたえないのである。ーいったい封建性にあのような事ができたであろうか? 中世的なものの力が、ナポレオンも及ばないような大規模の戦争を東条といったような人に遂行させたのであろうか? かりに昔にもあのような超国家主義というものがあって、それが今まで温存されていたところで、それが強大な外国とのひさしい近代戦を行ったのであろうか?
このように封建性の役割を過大視するのは、あまりにすべてをただ人間の心がまえといったような道徳問題で解決しているのではないだろうか?
勿論日本人の心がまえには非常に多くの近代的ならざるものがあった。これに大きな責があることは争うことができない(いわゆる近代的自覚なるものがどの程度に有力なものであるかは、別の問題としてー)。そして今は、ことに国民が易々として屈伏をしたという点がはげしく罵しられ、あざけられている。
しかし、それにしても、支配者があれほどの力を具えて国中を蟻の這いでる隙もないほどに強制しえた、そしてそれが外から倒されるまでは内からはどうしようもなかったということは、これは現代に独特の事態である。近代的な武器と組織を握った政府に対してはいかにしても反抗することができない。ということは近代の一般的な特徴である。ヨーロッパでも、一八四八年以後は、民衆が自力で圧政を倒して自由を獲得した例はない。近代になればなるほど、両者の力が隔絶して、そういうことができなくなったのである。現代にあって被支配者が支配者に反抗できるのは、かえって西アフリカの蛮族ぐらいなものであろう。ドイツ人を目して西アフリカ的であるという議論はないようであるが、ナチスを倒すためにはナチス以上に近代的な力をもった連合軍をまってはじめて可能だったので、ドイツ人自身には最後の日まで手も足もでなかった。日本でも、日露戦争の頃は公然と非戦論を唱えた人がいた。それが今度はなかった。これは、封建性が増大したのではない。むしろ、近代の強制力がましたからである。人間の道徳的心がまえ以外の、現実の世界の近代の性格がすすんだからである。
つまり、近代性には二つの面がある。一つは人間を解放した近代であり、他は人間を拘束する近代である。日本では、ここに特殊の条件から、前者がその片鱗を示しはじめたころには、もう後者が決定的な力をもつほどになっていたのであった。
かつては、わが国も近代への過程にあった。天皇は意識的にロボット化されていた(これがあまりにロボットになってしまったことが、結果的にはかえって悪いこととなった)。官僚出身者はぞくぞくと政党に入った。軍部大臣は「自分は一介の武弁にすぎない」とへりくだった。さらに、言論はすくなくとも一時は放恣といっていいほどに自由であり、日本人は世界でもっとも国家意識が稀薄な国民であるとさえいわれた。そうして、十幾年前のわれらの社会ははなはだしい病的症状を呈していた。一方にはエログロ、他方には赤というあの時代は、まさに末期の様相を示していた。あの一時期は短い中間劇ではあったが、しかし意味のふかい一幕であった。わが国では、近代化がはじまってそれがまだ完成に遠いうちに、もう近代の破綻がはじまった。制約のある後進国では、近代は円満な発達をとげることができなかったのである。
そこに反動が起った。これが力をえはじめたのは、それがただに回顧的なものとしてではなく、頽廃に対する対症療法と思われたからであった。これは封建性の否定の否定として確立した。あのころ、まだ自由な立場にあった新聞がどれほど政党を攻撃したか、一般人がどれほど「軍に感謝」したか、忘れることはできない。この風潮によって、反動はその根をかためた。しかるに、この反動は次第に治療以上のものとなり、ついにあらゆる抵抗を挫いて、絶対のものとなった。抵抗はあった。斎藤隆夫演説や宇垣内閣流産のころの国民の動きは、もし相手が対等の力をもったものであったら、十分に有効なものであった。しかるに、軍はその機能においては日本中でもっとも近代的な存在であって、強大な組織と武器をもっていたから、その意志を遮る力はほかにはなかった。軍人はその主観的感情においてはもとより極端に封建的であったが、その感情をあやつってその近代的な性能をおどらせたものが他にあった。
それは近代の行きづまりであった。悲劇の主役はむしろ近代であった。中世の残滓はわき役にすぎなかった。人口過剰や生活難、しかもとどまるところを知らぬ要望、植民地獲得欲、それ自体の力学をもって動く巨大な機構、その主体となるべき人間精神の喪失、ありとあらゆる文明の利器を手中に収めた政治支配力の強大化ー、そのほかの近代の症状があの破局を演じた主な役者であった。わき役はそれに引きずられてはなはだ巧みな助演をしたのであった。
ファシズムと封建性とはちがうであろう。今回の悲劇はファシズムが演じたものである。それは一見中世への復帰あるいは封建性の復活という外見をとり、前から残っていたものと結びつき、利用し、それを傀儡とした。根づよく残っていた封建性は絶好の受け入れ体制だった。これは程度の差こそあれ、独伊でもそうだった。かつてこれらの国は大個人を輩出させて近代のさきがけをしたが、さまざまな制約から後進国となって、その近代化が十分に行われないうちに近代の頽廃に覆われた。
2026年6月16日火曜日
20260615 2485記事の到達から歴史意識の記号接地について
おかげさまで、直近の記事投稿により、総投稿記事数が2485に到達しました。今後、当記事を含め、さらに15記事投稿することで、当面の目標である2500記事に到達することが出来ます。また、ここしばらく引用記事を作成してきましたが、同時に当ブログとは別に並行して、自らの文章も作成していたため、2週間ほどのブランクはあるものの、新たなオリジナル記事の作成も、特に支障はないと思われます。むしろ、当ブログでの記事作成の方が自由度が高いためであるのか、作成を始めますと、あたかも、ペンを用いて紙に文章を書いているかのような錯覚を覚えるほどに、自然に文章が出てきます。そして、それがあまりにも滑らかであったことから「本当にこれで文章として大丈夫なのだろうか…?」と少し心配にもなりましたが、なおも進めていますと「元来、私のブログでは、このようにして文章を作成していたのだ…。」ということが思い出され、安心して作成に戻るのです。そして、そうであるのならば「早々とブログ記事の作成を始めておけば良かったのに…。」とも思われるのですが、この記事作成に取り掛かるまでの停滞したような感じも、決して無意味なものではなく、速やかに集中(フロー)状態に入るための、ある種の段階のようなものであるとも考えられます。そして、そのように考えてみますと、今回のオリジナル記事作成に至るまで、2週間ほど継続した引用記事の作成もまた、そうした段階であったのではないかとも考えられます。つまり、引用記事をしばらく作成することにより、続くオリジナル記事の作成が容易になり、さらに、感覚的ではありますが、そのようにして作成したオリジナル記事の方が、相対的に面白く感じられ、そして閲覧者数も伸びると思われるのです。
直近にて、そうした傾向があったのは、2週間ほど前、去る5月30日に投稿した「腸内細菌叢に関する資料をあたり思ったこと」でした。当記事は、その後もありがたいことに比較的閲覧者数が伸びており、また、そこで述べました「腸内細菌叢(マイクロバイオーム)」と「我が国の八百万の神々」とを比較した見解は、これまでに見聞きした記憶はないため、あるいは、初めて言語化された見解ではないかとも思われます。
元来、私は八百万の神々や神社そして神道に対して、能動的な関心を持っていたわけではありませんでした。その意識が変化したのは、これまでにも度々言及してきました2001年から3年間の南紀白浜在住期の頃でした。当時の勤務先は、白良浜にほど近い白良荘グランドホテルであり、その従業員駐車場は、白良浜の北に位置する半島状の権現崎に祀られている熊野三所神社の社叢裏手にあたり、駐車場のすぐ近くには神社の裏参道入口として鳥居が立っていました。そうした環境であると、休憩や勤務後などに境内に入ることが多くなり、それが続きますと、何時の日か「ああ、これが多分、より本来の神社に近いのだろう…。」と何かが繋がるのです。しかし、それは未だ言語化されるものではなく、感覚として気が付くといった感じです。そして、その感覚は、境内の開口して玄室内の箱型石棺が見られる火雨塚古墳や、社殿などの施設を囲む、南方的で横溢とした社叢を一つのものとして認識されるようになると、自然と生じるのではないかと思われます。そしてまた、それも一つの歴史意識の記号接地であったのだと云えます。つまり、新しくとも千数百年前の古墳時代から、人びとは既にこの場所を畏れ敬い、祀ってきて、そして、それが現代においても神社として続いているという事実を身体感覚で理解したと云うことです。このようにして時間をかけて徐々に身体化された見解とは、他の場面においても速やかにそれを運用・応用することが出来、そしてまた、ある程度専門的な関連する著作も自分なりに理解しつつ読むことが出来るのではないかと考えます。その意味において、たしかに南紀白浜在住時の、こうした環境は、たいへんに幸運であったと云えます。これにつきましては、まだ続きがありますが、それにつきましては、2500記事到達までに、また新たに記事を作成します。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

直近にて、そうした傾向があったのは、2週間ほど前、去る5月30日に投稿した「腸内細菌叢に関する資料をあたり思ったこと」でした。当記事は、その後もありがたいことに比較的閲覧者数が伸びており、また、そこで述べました「腸内細菌叢(マイクロバイオーム)」と「我が国の八百万の神々」とを比較した見解は、これまでに見聞きした記憶はないため、あるいは、初めて言語化された見解ではないかとも思われます。
元来、私は八百万の神々や神社そして神道に対して、能動的な関心を持っていたわけではありませんでした。その意識が変化したのは、これまでにも度々言及してきました2001年から3年間の南紀白浜在住期の頃でした。当時の勤務先は、白良浜にほど近い白良荘グランドホテルであり、その従業員駐車場は、白良浜の北に位置する半島状の権現崎に祀られている熊野三所神社の社叢裏手にあたり、駐車場のすぐ近くには神社の裏参道入口として鳥居が立っていました。そうした環境であると、休憩や勤務後などに境内に入ることが多くなり、それが続きますと、何時の日か「ああ、これが多分、より本来の神社に近いのだろう…。」と何かが繋がるのです。しかし、それは未だ言語化されるものではなく、感覚として気が付くといった感じです。そして、その感覚は、境内の開口して玄室内の箱型石棺が見られる火雨塚古墳や、社殿などの施設を囲む、南方的で横溢とした社叢を一つのものとして認識されるようになると、自然と生じるのではないかと思われます。そしてまた、それも一つの歴史意識の記号接地であったのだと云えます。つまり、新しくとも千数百年前の古墳時代から、人びとは既にこの場所を畏れ敬い、祀ってきて、そして、それが現代においても神社として続いているという事実を身体感覚で理解したと云うことです。このようにして時間をかけて徐々に身体化された見解とは、他の場面においても速やかにそれを運用・応用することが出来、そしてまた、ある程度専門的な関連する著作も自分なりに理解しつつ読むことが出来るのではないかと考えます。その意味において、たしかに南紀白浜在住時の、こうした環境は、たいへんに幸運であったと云えます。これにつきましては、まだ続きがありますが、それにつきましては、2500記事到達までに、また新たに記事を作成します。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
ISBN978-4-263-46420-5
*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
連絡先につきましては以下の通りとなっています。
メールアドレス: clinic@tsuruki.org
電話番号:047-334-0030
どうぞよろしくお願い申し上げます。
2026年6月15日月曜日
20260614 株式会社藤原書店刊 平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」 pp.427‐430より抜粋
株式会社藤原書店刊 平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」
pp.427‐430より抜粋
ISBN-10 : 489434906X
ISBN-13 : 978-4894349063
神道の美学
学術上の真の記述と芸術上の美の記述とは異種であり別である。美術史家の論文は事物の真を正確に記述せねばならない。しかし正確なだけでは足りない。情報を提供するだけの美術史教授では第一級とはいえない。事物の美を描き、さらにその精神文化史的意味をも伝えることが望ましい。竹山の論が貴重なのは美術にあらわれた宗教文明の論としても示唆に富むからである。美術が育つためには背後に精神共同体が存在する以上、その宗教的精神共同体が共有する感受性にも言及しなければならないのは当然ではないだろうか。
ー昭和五十八年秋に私たちは京都へ最後の旅をしたが、その帰る日の午後、鷹峰の芸術村を通り、円通寺の近くから比叡山を眺め、その借景の向こうの山をかぎりなく美しいと思った。美しいがこれが竹山にとり最後だという予感があった。そして糺の森を抜け下鴨神社へ寄り参拝をすませて「やはり神社の境内はいいですね。気持ちがやすらぎますね」とほっとして私がいったら、竹山も「あなたもそう感じますか」といった。多くの仏閣を見、そこで足掛け三日の旅程をおえ、安らぎを覚えたからかもしれない。しかしそれだけでなかった気がする。第三章でも述べたように、竹山は母が天竜鹿島の椎脇神社宮司の田代家の出で、それだけ神道に理解もあり親近感も覚えていたからこそ神道の審美学も語ったのであろう。「あちこち歩くうちに、神社にあるものが日本人の造形感の根本のものをあらわしているように思われてならなくなった。つぎつぎと外国からの影響があって新しい形態が入ってきても、結局ついには神道的な形に同化されてしまう。日本独特な感触のヴェールにつつまれてしまう」。
昭和三十八年、竹山は毎月一回、新幹線開通以前の東海道線で鎌倉から京都へ通い、東山を遍歴し『藝術新潮』に十九回にわたり『京都の一級品』を連載した。私は前年からイタリアで留学していたが、竹山から「毎月の京都泊の仕事が楽しくて結構だと思っています」という趣旨の手紙をもらった。そんな二十年も前からすでに神道にふれてこんな見方を述べていた。
神道は言挙げせず、教理としては貧弱だけれども、宗教感情の対世界態度をあらわすものはただ言葉には限らない。(神社という)形もそれに劣らず雄弁である。
そして敗戦後、非難されることのなにかと多かった神道について、こうも述べた。
ところが、われわれは神道についてはほとんど何も知らない。教わったこともない。神道が国体を顕揚し戦意を強化したなどというけれども、われわれは神道からなんの強制をうけたおぼえはなく、その教義すらはっきり聞いたことはない。ただ森の中の空屋のような祠に、さまざまの名の神が祭ってあり、しかもその神はそこにはいず、代わりにその神を偲ばせる御霊代が御神体になっている。ぼんやりと曇った鏡などが懸っていて、正体は不明である。ふしぎな謎のようなものだが、それについても別に気にしないで無関心でいる。
神魂神社
竹山は神道についてはその造形表現である神社を語り、その形によって触発された自分の意識のうごきを分析した。著作集に一点だけ入れた神道関係の文章は出雲の神魂神社である。その建築は大きくないが、純粋性という点から「比類のないもの」と竹山はいった。
神魂神社の入口への階段は、左右に迫った杉の森のあいだに、大きな石塊を重ねて、それが三十二段ある。石は赤味をおびて豪快だが、段は高いし、凸凹しているし、小雨にぬれているから、昇り降りは楽ではない。立派な自然石の手洗鉢があって、苔むして、清水が迸りでては流れ落ちている。その音がうつくしい。この石段のあたりには、太古の巨石崇拝のあとが残っているように思われた。
入口の最後の段を、太い杉が左右から挟んでいる。ここから内は聖なる地域であることを示していて、まことに象徴的な入口である。深い自然感がただよっている。鳥居と同じ役目をしている。...
神魂神社はすぐ後ろに清浄な山を負っている。そこの小さな平地に、明るい錆につつまれた木造建築が、一分の隙もない比例をなして組み合って、格調きわめて高く聳えている。「自分の美しさを世間に知ってもらおうとは思いません」といいたげである。幸いにも、ここはまだ観光地ではないから、周囲の調和を乱すものは何もない。昔のままである。この土地の人々すら、通称大庭大宮といっていて、神魂神社といっては通じにくい。大庭とは昔の政庁の意味で、かつてここはこの地方の政治の中心地だった。
この神社の美しさは、直接に目で見て感じる他はないだろう。...いまこの神社からは、潜勢する精気のようなものが発散しているのだが、写真はそれを捉えることはできないだろう。...文章もこの直接の感じを再現することはできない。
この比例のうつくしい建物は、さらに一面に銀鼠の錆につつまれている。はじめは何か塗料がぬってあるのかと思ったほどだった。本殿の屋根はきれいに掃いたようだが、拝殿の屋根の上には杉の葉がたくさん落ちている。錆ーパチナとは、物と空間を結びつける媒介物だが、屋根には青を主とし、木材には白を主としたむらむらが、えもいわれない。「神錆び」という言葉があったような気がするが、もしなければ、そういう新語をつくって、ここにあてはめたい。
静かで、清らかで、素朴で、自然で、しかもいかなる無駄もなく一分の隙もなくひきしまって鋭く、霊気をこめて、神魂神社は日本人の美しさの最高のものの一つだと思う。言葉の醇乎たる意味において古典的である。...カモスというのは神イマスあるいは神ムスビがなまったものだろう。...現存の大社造の神社では神魂がいちばん古い。そしていちばん美しい。...神魂はおそらくもっとも始原のものに近いだろう。
竹山の文章に誘われて出雲へ行った人もいるだろう。行ってはぐらかされたような気持ちになった人もまたいるだろう。だが神魂神社から八重垣神社のあたりは連れ立って歩くといかにも気持ちがいい。伊邪那岐・伊邪那美命が男女の道を学ばれたのは鶺鴒からだという伝説があるが、大庭で鶺鴒の番(つがい)が私たちの目の前の小道をよぎるのを見たときは、神話世界にはいりこむような気がして私たちは思わず顔を見あわせた。
pp.427‐430より抜粋
ISBN-10 : 489434906X
ISBN-13 : 978-4894349063
神道の美学
学術上の真の記述と芸術上の美の記述とは異種であり別である。美術史家の論文は事物の真を正確に記述せねばならない。しかし正確なだけでは足りない。情報を提供するだけの美術史教授では第一級とはいえない。事物の美を描き、さらにその精神文化史的意味をも伝えることが望ましい。竹山の論が貴重なのは美術にあらわれた宗教文明の論としても示唆に富むからである。美術が育つためには背後に精神共同体が存在する以上、その宗教的精神共同体が共有する感受性にも言及しなければならないのは当然ではないだろうか。
ー昭和五十八年秋に私たちは京都へ最後の旅をしたが、その帰る日の午後、鷹峰の芸術村を通り、円通寺の近くから比叡山を眺め、その借景の向こうの山をかぎりなく美しいと思った。美しいがこれが竹山にとり最後だという予感があった。そして糺の森を抜け下鴨神社へ寄り参拝をすませて「やはり神社の境内はいいですね。気持ちがやすらぎますね」とほっとして私がいったら、竹山も「あなたもそう感じますか」といった。多くの仏閣を見、そこで足掛け三日の旅程をおえ、安らぎを覚えたからかもしれない。しかしそれだけでなかった気がする。第三章でも述べたように、竹山は母が天竜鹿島の椎脇神社宮司の田代家の出で、それだけ神道に理解もあり親近感も覚えていたからこそ神道の審美学も語ったのであろう。「あちこち歩くうちに、神社にあるものが日本人の造形感の根本のものをあらわしているように思われてならなくなった。つぎつぎと外国からの影響があって新しい形態が入ってきても、結局ついには神道的な形に同化されてしまう。日本独特な感触のヴェールにつつまれてしまう」。
昭和三十八年、竹山は毎月一回、新幹線開通以前の東海道線で鎌倉から京都へ通い、東山を遍歴し『藝術新潮』に十九回にわたり『京都の一級品』を連載した。私は前年からイタリアで留学していたが、竹山から「毎月の京都泊の仕事が楽しくて結構だと思っています」という趣旨の手紙をもらった。そんな二十年も前からすでに神道にふれてこんな見方を述べていた。
神道は言挙げせず、教理としては貧弱だけれども、宗教感情の対世界態度をあらわすものはただ言葉には限らない。(神社という)形もそれに劣らず雄弁である。
そして敗戦後、非難されることのなにかと多かった神道について、こうも述べた。
ところが、われわれは神道についてはほとんど何も知らない。教わったこともない。神道が国体を顕揚し戦意を強化したなどというけれども、われわれは神道からなんの強制をうけたおぼえはなく、その教義すらはっきり聞いたことはない。ただ森の中の空屋のような祠に、さまざまの名の神が祭ってあり、しかもその神はそこにはいず、代わりにその神を偲ばせる御霊代が御神体になっている。ぼんやりと曇った鏡などが懸っていて、正体は不明である。ふしぎな謎のようなものだが、それについても別に気にしないで無関心でいる。
神魂神社
竹山は神道についてはその造形表現である神社を語り、その形によって触発された自分の意識のうごきを分析した。著作集に一点だけ入れた神道関係の文章は出雲の神魂神社である。その建築は大きくないが、純粋性という点から「比類のないもの」と竹山はいった。
神魂神社の入口への階段は、左右に迫った杉の森のあいだに、大きな石塊を重ねて、それが三十二段ある。石は赤味をおびて豪快だが、段は高いし、凸凹しているし、小雨にぬれているから、昇り降りは楽ではない。立派な自然石の手洗鉢があって、苔むして、清水が迸りでては流れ落ちている。その音がうつくしい。この石段のあたりには、太古の巨石崇拝のあとが残っているように思われた。
入口の最後の段を、太い杉が左右から挟んでいる。ここから内は聖なる地域であることを示していて、まことに象徴的な入口である。深い自然感がただよっている。鳥居と同じ役目をしている。...
神魂神社はすぐ後ろに清浄な山を負っている。そこの小さな平地に、明るい錆につつまれた木造建築が、一分の隙もない比例をなして組み合って、格調きわめて高く聳えている。「自分の美しさを世間に知ってもらおうとは思いません」といいたげである。幸いにも、ここはまだ観光地ではないから、周囲の調和を乱すものは何もない。昔のままである。この土地の人々すら、通称大庭大宮といっていて、神魂神社といっては通じにくい。大庭とは昔の政庁の意味で、かつてここはこの地方の政治の中心地だった。
この神社の美しさは、直接に目で見て感じる他はないだろう。...いまこの神社からは、潜勢する精気のようなものが発散しているのだが、写真はそれを捉えることはできないだろう。...文章もこの直接の感じを再現することはできない。
この比例のうつくしい建物は、さらに一面に銀鼠の錆につつまれている。はじめは何か塗料がぬってあるのかと思ったほどだった。本殿の屋根はきれいに掃いたようだが、拝殿の屋根の上には杉の葉がたくさん落ちている。錆ーパチナとは、物と空間を結びつける媒介物だが、屋根には青を主とし、木材には白を主としたむらむらが、えもいわれない。「神錆び」という言葉があったような気がするが、もしなければ、そういう新語をつくって、ここにあてはめたい。
静かで、清らかで、素朴で、自然で、しかもいかなる無駄もなく一分の隙もなくひきしまって鋭く、霊気をこめて、神魂神社は日本人の美しさの最高のものの一つだと思う。言葉の醇乎たる意味において古典的である。...カモスというのは神イマスあるいは神ムスビがなまったものだろう。...現存の大社造の神社では神魂がいちばん古い。そしていちばん美しい。...神魂はおそらくもっとも始原のものに近いだろう。
竹山の文章に誘われて出雲へ行った人もいるだろう。行ってはぐらかされたような気持ちになった人もまたいるだろう。だが神魂神社から八重垣神社のあたりは連れ立って歩くといかにも気持ちがいい。伊邪那岐・伊邪那美命が男女の道を学ばれたのは鶺鴒からだという伝説があるが、大庭で鶺鴒の番(つがい)が私たちの目の前の小道をよぎるのを見たときは、神話世界にはいりこむような気がして私たちは思わず顔を見あわせた。
2026年6月14日日曜日
20260614 株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻 pp.16-19より抜粋
株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻
pp.16-19より抜粋
ISBN-10 : 4480084878
ISBN-13 : 978-4480084873
言語とその表記
日本語と中国語とは、系統を異にする言語で、その音体系も、語彙も、文法(語順、助辞、用語の語尾変化など)も、全くちがう。それにも拘らず、大陸文化との接触がおこったとき、日本語には表記の手段がなかったから、すでに高度に発達していた中国の文字が日本語の表記に用いられるようになった(中国の文字による日本語表記の現存する最古の例は、五世紀にさかのぼる)。中国の文字(漢字)は、表意文字で、一字が単音綴の一語を代表するから、その文字によって日本語を表記するためには、特別の工夫が必要である。すなわち一字の意を採って音を捨てる(相当する日本語の音をあてる)方法と、一字の音を採って意を捨てる(本来の表意文字を表音文字として使う)方法とがあって、その双方が併用された。後者の場合に、採用された中国音は、『古事記』および『万葉集』の例では、五、六世紀の中国南方の発音であり、『日本書紀』の例では、七世紀の北方音である。表音文字としての漢字=真名が簡略化されて、仮名がつくられ、頻に用いられるようになったのは、九世紀であった。その意味で平安朝前期は、日本語の表記法に関し、全く画期的な時代である。
日本語の表記に漢字を用いた日本人は、また中国語の詩文を、日本風に読む方法も工夫した。返点によって語順を変え、送仮名によって日本語に固有な助辞や語尾変化をつけ加えたのである(訓読の漢詩、漢文)。この独特の中国文翻訳法に慣れた日本人は、みずから中国語の詩文を作るようになった。
pp.16-19より抜粋
ISBN-10 : 4480084878
ISBN-13 : 978-4480084873
言語とその表記
日本語と中国語とは、系統を異にする言語で、その音体系も、語彙も、文法(語順、助辞、用語の語尾変化など)も、全くちがう。それにも拘らず、大陸文化との接触がおこったとき、日本語には表記の手段がなかったから、すでに高度に発達していた中国の文字が日本語の表記に用いられるようになった(中国の文字による日本語表記の現存する最古の例は、五世紀にさかのぼる)。中国の文字(漢字)は、表意文字で、一字が単音綴の一語を代表するから、その文字によって日本語を表記するためには、特別の工夫が必要である。すなわち一字の意を採って音を捨てる(相当する日本語の音をあてる)方法と、一字の音を採って意を捨てる(本来の表意文字を表音文字として使う)方法とがあって、その双方が併用された。後者の場合に、採用された中国音は、『古事記』および『万葉集』の例では、五、六世紀の中国南方の発音であり、『日本書紀』の例では、七世紀の北方音である。表音文字としての漢字=真名が簡略化されて、仮名がつくられ、頻に用いられるようになったのは、九世紀であった。その意味で平安朝前期は、日本語の表記法に関し、全く画期的な時代である。
日本語の表記に漢字を用いた日本人は、また中国語の詩文を、日本風に読む方法も工夫した。返点によって語順を変え、送仮名によって日本語に固有な助辞や語尾変化をつけ加えたのである(訓読の漢詩、漢文)。この独特の中国文翻訳法に慣れた日本人は、みずから中国語の詩文を作るようになった。
少なくとも七世紀以後一九世紀まで、日本文学の言語には二つがあった。日本語の文学と中国語の詩文である。たとえば『万葉集』と『懐風藻』、『古今集』と『文華秀麗集』。ここで日本人の感情生活が、外国語の詩作ではなく、母国語の歌に、はるかに豊かに、はるかに微妙にあらわれていたことは、いうまでもない。しかし散文では、そのときすでに、事情がちがっていた。たとえば『歌経標式』は、詩歌の理論を語って、『文鏡秘府論』の理路整然たるのに及ばない。また時代が下れば、詩歌においてさえも、中国語による表現の意味は重きを加えた。たとえば室町時代の抒情的世界は、連歌のみによって代表されるのではなく、また同時に五山の詩僧の作品によっても代表される。『菟玖波集』と『狂雲集』と、いずれに一時代の詩的精神がみなぎっていたのか、にわかにこれを決し難い。いわんや徳川時代についてはなおさらである。このような事情は、中世の欧州文学におけるラテン語の併用を思わせるだろう。しかし彼我の大きなちがいは、ラテン語と欧州諸語(若干の例外を除いて)とが、中国語と日本語の場合ほど言語学的に隔っていなかったということである。またおそらくそのことに関連して、文芸復興期以後、ラテン語の文学は次第に近代欧州語の文学のなかに吸収されていったが、日本では文学の二カ国語併用が明治時代までつづいたということである。
二カ国語併用の歴史は、当然、漢文脈とその語彙の日本語文への影響を生み、また逆に日本語の影響をうけた日本人独特の漢文を生んだ。前者の例は、すでに『今昔物語』にみられるし、後者の例は『明月記』にもみられる。殊に日本文のなかに、漢文の影響の強い文体と、口語にちかく漢文の影響の少ない文体とを生じたことは、日本語文学の表現力の拡大に測り知ることのできない貢献をしたといえる。明治以後の日本社会が西洋の概念を輸入する必要に迫られたときに、長い間に日本語のなかに吸収消化されていた漢語が、どれほど大きな役割を果たしたかは、今さらいうまでもないだろう。近代の日本は、漢字の組合せによる新造語で、ほとんどすべての西洋語を訳し了せたという点で、西洋語をそのまま採り入れることを余儀なくされた他の多くの非西洋文化と、著しい対照をなしている。そのことは、おそらく決定的に、この国のいわゆる「近代化」に役立った。しかし他方では、新造語の氾濫によって、日本語の伝統的な味わいを損い、そのために文学、殊に詩作に、複雑で困難な問題を提出することになったのである。
二カ国語併用の歴史は、当然、漢文脈とその語彙の日本語文への影響を生み、また逆に日本語の影響をうけた日本人独特の漢文を生んだ。前者の例は、すでに『今昔物語』にみられるし、後者の例は『明月記』にもみられる。殊に日本文のなかに、漢文の影響の強い文体と、口語にちかく漢文の影響の少ない文体とを生じたことは、日本語文学の表現力の拡大に測り知ることのできない貢献をしたといえる。明治以後の日本社会が西洋の概念を輸入する必要に迫られたときに、長い間に日本語のなかに吸収消化されていた漢語が、どれほど大きな役割を果たしたかは、今さらいうまでもないだろう。近代の日本は、漢字の組合せによる新造語で、ほとんどすべての西洋語を訳し了せたという点で、西洋語をそのまま採り入れることを余儀なくされた他の多くの非西洋文化と、著しい対照をなしている。そのことは、おそらく決定的に、この国のいわゆる「近代化」に役立った。しかし他方では、新造語の氾濫によって、日本語の伝統的な味わいを損い、そのために文学、殊に詩作に、複雑で困難な問題を提出することになったのである。
20260613 株式会社講談社 講談社学術文庫 竹山道雄著「歴史的意識について」 pp.14‐26より抜粋
株式会社講談社 講談社学術文庫 竹山道雄著「歴史的意識について」
pp.14‐26より抜粋
ISBN-10 : 406158622X
ISBN-13 : 978-4061586222
月日がすぎてゆくにつれて、「昭和の動乱」はあの前後十余年間の個々の現象だけをとりあげていたのでは、真相は分らない、と思うようになった。
あれが何であったかを説明するために、ひろく読まれた『昭和史』は「天皇制ファシズム」という仮説を設けた。また東京裁判は「全面的共同謀議」という仮説を設けた。そして、この枠に合致させるべく材料が取捨按配された。
しかし、「天皇制ファシズム」にせよ「全面的共同謀議」にせよ、そんなものはどちらもなかったのである。
争闘とか戦争とかいうものは、そのいちばん根本をたずねてゆけば、結局は生物としての人間の本然に由来するので、歴史上どこでもつねに絶えることなく、まことに人の世は修羅道であるという感に堪えない。が、今はそこまでは遡らず、「昭和の動乱」に限っても、もっと全体の位置と形勢を考えなくてはならないと思う。ここではもとよりそのごく輪郭だけを。ー
日本は無資源で、貧しく、人口過剰だった。あの動乱がはじまる前に、オーストラリアの新聞に「日本は増加する人口の圧力で蒸気機関が内から破裂しはしないか」と論ぜられているとて、問題になったことがあった。教育程度は高かったけれども、資本と近代技術がなかった。すでに大植民地をもって世界中を支配して富強だった先進国とちがって、後発国で、土台が弱くて余裕がなく、選択肢がせまかった。しかも、五大国の一であると自己過信をしていた。
あのころ世界はずっと弱肉強食の帝国主義だった。それはまだ不道徳と感じられてはいなかった。イギリスがその先達で、あれが文明の絶頂であると信ぜられ、他国はイギリスとどのくらい距離があるかをもって文明度の順位がはかられた。
疑問その一、事後法
法の不遡及ということについては、日本側の主張に対して、「その問題は後回しにする」と留保したまま、ついに答えはなかった。これでは裁判の成立自体の根拠があやしい。もしこの点についての結着がつかないままでいるならば、たとえ日本が東京裁判を全面的に否定しても、論理的にはその否定がなりたつことであろう。
疑問その二、一般的な正義の原則とは
判決文には、東京裁判はニュルンベルク裁判の原則をそのまま踏襲した、とある。ここにさまざまな無理が生れた一因があったと思われる。
判決文が引用しているところによると、そのニュルンベルク裁判の意見は次のようである。ー「法なければ正義なし」という法律格言は・・・一般的な正義の原則である。条約や誓約を無視して、警告なしに、隣国を攻撃した者を処罰するのは不当であると主張することは、明らかに間違っている。なぜなら、このような事情のもとでは、攻撃者は自分が不法なことをしていることを知っているはずであり、従って、かれらを処罰することは、不当であるどころではなく、もしかれの不法行為が罰されないですまされるならば、それこそ不当である。
そして、本(東京)裁判所は、ニュルンベルク裁判所の意見であって本件に関連のあるものには、無条件の賛意を表するものであるー。
このように判決文は、東京裁判は一般的な正義の原則によって裁いた、と言っている。これは重大である。
もし一般的な正義の原則を基準として謝るならば、古今 に無罪の国は一つもあるまい。
普遍道徳は、ある特定の時期や特定の事情によって別なものになることはない。一九二八年のケロッグ・ブリアン協商の不戦条約以前に行われた侵略とそれ以後に行われた同性質のそれとが、一方は是認されるが他方は否認されるということはない。かつて英仏蘭などの先進国が、力と権略によって侵略して大植民地を獲得して搾恥したことと日本が行った侵略とが、差別されるはずはない。神の目からみれば、一般的正義の原則はどちらにも等しかるべきものである。アヘン戦争その他無数のことをやったイギリス(アヘン戦争は自由貿易の原則の名において行われ、当時は自国の商品を買わない国があると砲艦をおくっておどかした)が、いかなる一般的な正義の原則によって日本を裁くのか?
pp.14‐26より抜粋
ISBN-10 : 406158622X
ISBN-13 : 978-4061586222
月日がすぎてゆくにつれて、「昭和の動乱」はあの前後十余年間の個々の現象だけをとりあげていたのでは、真相は分らない、と思うようになった。
あれが何であったかを説明するために、ひろく読まれた『昭和史』は「天皇制ファシズム」という仮説を設けた。また東京裁判は「全面的共同謀議」という仮説を設けた。そして、この枠に合致させるべく材料が取捨按配された。
しかし、「天皇制ファシズム」にせよ「全面的共同謀議」にせよ、そんなものはどちらもなかったのである。
争闘とか戦争とかいうものは、そのいちばん根本をたずねてゆけば、結局は生物としての人間の本然に由来するので、歴史上どこでもつねに絶えることなく、まことに人の世は修羅道であるという感に堪えない。が、今はそこまでは遡らず、「昭和の動乱」に限っても、もっと全体の位置と形勢を考えなくてはならないと思う。ここではもとよりそのごく輪郭だけを。ー
日本は無資源で、貧しく、人口過剰だった。あの動乱がはじまる前に、オーストラリアの新聞に「日本は増加する人口の圧力で蒸気機関が内から破裂しはしないか」と論ぜられているとて、問題になったことがあった。教育程度は高かったけれども、資本と近代技術がなかった。すでに大植民地をもって世界中を支配して富強だった先進国とちがって、後発国で、土台が弱くて余裕がなく、選択肢がせまかった。しかも、五大国の一であると自己過信をしていた。
あのころ世界はずっと弱肉強食の帝国主義だった。それはまだ不道徳と感じられてはいなかった。イギリスがその先達で、あれが文明の絶頂であると信ぜられ、他国はイギリスとどのくらい距離があるかをもって文明度の順位がはかられた。
日本はせっせとそのあとを追って真似をした。イギリスはビクトリア女王の治世だけで六十度も戦争したそうで、すでにアフリカからインドから南太平洋を領有していながら、さらにシナを蚕食しはじめた。フランスはおなじくアフリカから仏領インドシナからもっと東を、オランダはインドネシアを、領有していた。かれらの植民地化の領土拡張は、生きるためのやむをえぬ進出ではなくて、むしろ一種の使命感の満足であり、ほとんど道楽のようなものだった。自分たちが世界を支配するのが天然自然の理であると疑わなかった。その偉大と栄光をかがやかしめることがむしろ道徳だった。戦前にシナ各地の各国の租界を見た者は、日本がその間にわりこもうとしたことが、あの当時の規準にてらしてとくに貪欲だったとは考えまい。日本は人並み外れだったのではなく、むしろ人並みになろうとしていたのだった。近代化するとは富国強兵の帝国主義化することだった。それに対する、ナショナリズムに目醒めたシナ人の怨恨は十分に分ることだが。
やがて世界規模の経済危機がはじまった。英連邦は、持てる領域をブロック化した。他国もこれをはじめた。あの富んだアメリカにさえ失業者が溢れたのだから、貧しい日本ははなはだ苦しんだ。満州事変は満州駐屯の関東軍の陰謀だったのではあったが、国民は「軍に感謝をして」、ここに日本も自分のための経済ブロックをうちたてようとした。内外からの圧力が加わって弱いところに破れでたのだった。
世界経済危機は一九二九年からはじまったが、共産主義の脅威はそれよりもっと前からだった。これも世界各国に大インパクトをあたえた。それには内憂と外患とあった。内憂は内から掘り崩されることだったし、外患は五ヵ年計画による全体主義の圧迫だった。これに対抗するために、ソ連に隣接するほとんどすべての国、接していなくてもスペインや南米諸国などが反動化し、イギリスにもモズレー、フランスにもラ・ロック、アメリカにもカフリンなどのファシストが輩出した。
日本もこの問題に直面した。国内は思想問題で大動揺をした。関東軍はあの勢力に隣接して睨みあって、互いに権謀をたたかわしていた。軍は全体主義に対抗するためには、こちらも乏しい力を結集して総力戦時代にそなえなくてはならぬと痛感した。失業者はあふれ、農村は疲弊し、工場の争議も小作争議もあいついだ。思想界はほとんどマルキシズムによって占められた。
日本もこの問題に直面した。国内は思想問題で大動揺をした。関東軍はあの勢力に隣接して睨みあって、互いに権謀をたたかわしていた。軍は全体主義に対抗するためには、こちらも乏しい力を結集して総力戦時代にそなえなくてはならぬと痛感した。失業者はあふれ、農村は疲弊し、工場の争議も小作争議もあいついだ。思想界はほとんどマルキシズムによって占められた。
後発国がむりにむりを重ねた。もしそれをしなければ、アジア諸国のように他国の支配に従属しなければなかった。ーこれらのことは「昭和の動乱」のはなはだ重大な背景であり、これを抜きにして考えることはできない。
日本は真空の中にいたのではなかった。このような状況の中をあがいて、歴史は右往し左往してすすんでいった。
国の内外の錯綜した危機にあたってそれに対処すべき日本の主体は、たまたま議会民主主義だった。これが未熟だった。議会民主主義とは豊かな余裕のある国で平時にのみ機能しうる一種の贅沢品なのかもしれない。西園寺公の近代化設計は時期がすこし早すぎたのかもしれない。公自身も晩年に「やはり国は、その国民以上のものにはなれぬものか」と嘆息している。(スイスのような特別な国は別として、危機にあたって議会民主主義がうまくいっていたところがあっただろうか?ワイマール憲法下のドイツはもとより、チェンバレンのイギリスもダラジエのフランスもみな失敗した)。日本では、政争苛烈で汚職があいつぎ、ジャーナリズムが放肆で暗殺が頻発した。
経験に富み思慮のふかい人々が、外には戦争を防ぎ内には革命を防ぐべく努力をしていた。もしこの人々が奉ずるイデオロギーが権威をもちつづけることができたら、国はあるいはスペインとはちがった形で中立を保って、大戦の惨禍から免れる可能性もあったと思われるが、その人々は当時の世界に伝染した傾向的集合表象(別出)に憑かれた若い将校たちによって殺されてしまった。
国の内外の錯綜した危機にあたってそれに対処すべき日本の主体は、たまたま議会民主主義だった。これが未熟だった。議会民主主義とは豊かな余裕のある国で平時にのみ機能しうる一種の贅沢品なのかもしれない。西園寺公の近代化設計は時期がすこし早すぎたのかもしれない。公自身も晩年に「やはり国は、その国民以上のものにはなれぬものか」と嘆息している。(スイスのような特別な国は別として、危機にあたって議会民主主義がうまくいっていたところがあっただろうか?ワイマール憲法下のドイツはもとより、チェンバレンのイギリスもダラジエのフランスもみな失敗した)。日本では、政争苛烈で汚職があいつぎ、ジャーナリズムが放肆で暗殺が頻発した。
経験に富み思慮のふかい人々が、外には戦争を防ぎ内には革命を防ぐべく努力をしていた。もしこの人々が奉ずるイデオロギーが権威をもちつづけることができたら、国はあるいはスペインとはちがった形で中立を保って、大戦の惨禍から免れる可能性もあったと思われるが、その人々は当時の世界に伝染した傾向的集合表象(別出)に憑かれた若い将校たちによって殺されてしまった。
歴史の中では、同じ状況が二度くりかえすということはない。「昭和の動乱」はあの状況の中でおこったことであり、種々さまざまな原因が絡みあってついにあの破局に達したのであって、歴史上にただ一回の事実だった。
いくつかの疑問
私は日本無罪論を唱えるつもりはないけれども、裁判には異様な無理があったことを感ぜずにはいられない。それについてのいくつかの疑問を記す。大部分は、東京裁判判決書の冒頭の管轄権の部分に関することである。
といっても、私は国際法といったようなことについてはまったく無知なので、さだめし誤りもあるだろうけれども、いまは一普通人の疑念を記して、蒙をひらいてほしいと願うのである。
『月曜評論』誌に、富士信夫氏が東京裁判傍聴記を連載していられる。すでに四十一回に及んでいる。裁判の過程をくわしく報じて論評したもので、これが完結したらこの問題についての認識が大いに深まるものと思う。
『月曜評論』誌に、富士信夫氏が東京裁判傍聴記を連載していられる。すでに四十一回に及んでいる。裁判の過程をくわしく報じて論評したもので、これが完結したらこの問題についての認識が大いに深まるものと思う。
疑問その一、事後法
法の不遡及ということについては、日本側の主張に対して、「その問題は後回しにする」と留保したまま、ついに答えはなかった。これでは裁判の成立自体の根拠があやしい。もしこの点についての結着がつかないままでいるならば、たとえ日本が東京裁判を全面的に否定しても、論理的にはその否定がなりたつことであろう。
キーナン検事の冒頭陳述は、感情的な道徳論といったような傾向がつよい。これに対して、 清瀬弁護人の管轄権論争は法理論としてははるかに理が通っているように思われるが、どういうものであろうか。裁判全体が戦後心理に支配されて感情にかられている。
私が知ったオランダのローリング判事はこういう主張だった。ー法の不遡及ということは法廷の恣意をふせぐための市民的慧知であり、未来の戦争をなくするという現在の大課題の前には二次的なものである。ふたたび戦争が起こらないようにするためには、あらゆる方法をとらなくてはならない。ー
ローリング氏の言うことだけれども、この説には首を傾げた。この「今後の戦争をふせぐため」の教育手段としての懲罰ということは、キーナンもしきりに唱えている。
私が知ったオランダのローリング判事はこういう主張だった。ー法の不遡及ということは法廷の恣意をふせぐための市民的慧知であり、未来の戦争をなくするという現在の大課題の前には二次的なものである。ふたたび戦争が起こらないようにするためには、あらゆる方法をとらなくてはならない。ー
ローリング氏の言うことだけれども、この説には首を傾げた。この「今後の戦争をふせぐため」の教育手段としての懲罰ということは、キーナンもしきりに唱えている。
しかし、もし勝利者が新しい法をつくって敗者を裁くということになれば、それは勝者の正義ー勝てば官軍ということになるだろう。戦犯であるかどうかは勝った者がきめるという恣意になる。もしヒットラーが勝ったら、チャーチルやルーズベルトが犯罪人ということになっただろう。
現に、チャーチルの回想録には、イギリス戦時内閣が成立したときのことを記して、 ーこれで、万一敗戦の場合にはロンドン塔で斬首される者の顔触れがそろった、とある。
ローリングさんは尊敬すべき人格者で私は大好きな人柄だが、話していてときどき、ふしぎに空想的な言葉を洩らすことがあった。(たとえば、もし上官の命令が平和に反するものであると考えたときには、文武を問わず、下僚はそれに不服従の義務がある、という法を制定すべきだ、というごとき)。この人は、国連の何とか平和委員会の長だったので、今はその後任を坂本義和氏がついでいる。
戦後十年たって、オランダのフローニンゲンに同氏を訪ねたら、感慨をこめて言っていた。「東京裁判はあやまりだった。今だったらインド人のパルのように考えるだろう。通常戦犯は罰せられるが、政策樹立者たちを犯罪に問うべきではなかった。あの頃には、ルーズベルトのような思想がゆきわたっていて、ソ連と協力しようという空気だった」。
右のソ連との協力ということを根拠づけるものに、一九四三年十月に発表された米英ソ三国のモスクワ会談の共同コミュニケがある。ーそれは「三国政府は、それぞれ自国の国家的利益とすべての平和愛好国の利益のために戦争遂行に対して設定された、今日の密接な協力を、軍事行動の終った後にも継続することを重要であるとし、かような方法によってのみ、平和を維持し、各国の政治・経済・社会的福利の完全な発達を成就しうるということに一致した」というのである。
このソ連との協力を果して新しい世界秩序をうちたてるべく、事後法によって日本を罰した。
このことはそれまでの歴史の経験から生れていた。第一次大戦後には、少数民族の自決によって世界平和を樹立しようとしたが失敗した。この経験から、第二次大戦の末期に南阿のスマッツ将軍が「世界の平和を保つためには力をもった大国が抑える他にはない」と演説したことは、当時の日本の新聞でも読んだ記憶がある。東京裁判は大国の共同制覇によって世界平和を維持しようという気運から生れたものだったが、結局はこれはフィクションだった。現実には、もうすでにこの頃に米ソの確執がはじまっていた。モロトフの「永遠のニエット」がすべてをだめにしてしまっていた。
ローリングさんは尊敬すべき人格者で私は大好きな人柄だが、話していてときどき、ふしぎに空想的な言葉を洩らすことがあった。(たとえば、もし上官の命令が平和に反するものであると考えたときには、文武を問わず、下僚はそれに不服従の義務がある、という法を制定すべきだ、というごとき)。この人は、国連の何とか平和委員会の長だったので、今はその後任を坂本義和氏がついでいる。
戦後十年たって、オランダのフローニンゲンに同氏を訪ねたら、感慨をこめて言っていた。「東京裁判はあやまりだった。今だったらインド人のパルのように考えるだろう。通常戦犯は罰せられるが、政策樹立者たちを犯罪に問うべきではなかった。あの頃には、ルーズベルトのような思想がゆきわたっていて、ソ連と協力しようという空気だった」。
右のソ連との協力ということを根拠づけるものに、一九四三年十月に発表された米英ソ三国のモスクワ会談の共同コミュニケがある。ーそれは「三国政府は、それぞれ自国の国家的利益とすべての平和愛好国の利益のために戦争遂行に対して設定された、今日の密接な協力を、軍事行動の終った後にも継続することを重要であるとし、かような方法によってのみ、平和を維持し、各国の政治・経済・社会的福利の完全な発達を成就しうるということに一致した」というのである。
このソ連との協力を果して新しい世界秩序をうちたてるべく、事後法によって日本を罰した。
このことはそれまでの歴史の経験から生れていた。第一次大戦後には、少数民族の自決によって世界平和を樹立しようとしたが失敗した。この経験から、第二次大戦の末期に南阿のスマッツ将軍が「世界の平和を保つためには力をもった大国が抑える他にはない」と演説したことは、当時の日本の新聞でも読んだ記憶がある。東京裁判は大国の共同制覇によって世界平和を維持しようという気運から生れたものだったが、結局はこれはフィクションだった。現実には、もうすでにこの頃に米ソの確執がはじまっていた。モロトフの「永遠のニエット」がすべてをだめにしてしまっていた。
事後法の問題は裁判の成立を疑わせるが、さらにまた裁判は、全面的共同謀議があったという前提の上になりたっている。しかし実際にはそんなものはなかった。これもやはり裁判の成立を疑わせるものではないかと思うが、これについては後に考えたい。
疑問その二、一般的な正義の原則とは
判決文には、東京裁判はニュルンベルク裁判の原則をそのまま踏襲した、とある。ここにさまざまな無理が生れた一因があったと思われる。
判決文が引用しているところによると、そのニュルンベルク裁判の意見は次のようである。ー「法なければ正義なし」という法律格言は・・・一般的な正義の原則である。条約や誓約を無視して、警告なしに、隣国を攻撃した者を処罰するのは不当であると主張することは、明らかに間違っている。なぜなら、このような事情のもとでは、攻撃者は自分が不法なことをしていることを知っているはずであり、従って、かれらを処罰することは、不当であるどころではなく、もしかれの不法行為が罰されないですまされるならば、それこそ不当である。
そして、本(東京)裁判所は、ニュルンベルク裁判所の意見であって本件に関連のあるものには、無条件の賛意を表するものであるー。
このように判決文は、東京裁判は一般的な正義の原則によって裁いた、と言っている。これは重大である。
もし一般的な正義の原則を基準として謝るならば、古今 に無罪の国は一つもあるまい。
普遍道徳は、ある特定の時期や特定の事情によって別なものになることはない。一九二八年のケロッグ・ブリアン協商の不戦条約以前に行われた侵略とそれ以後に行われた同性質のそれとが、一方は是認されるが他方は否認されるということはない。かつて英仏蘭などの先進国が、力と権略によって侵略して大植民地を獲得して搾恥したことと日本が行った侵略とが、差別されるはずはない。神の目からみれば、一般的正義の原則はどちらにも等しかるべきものである。アヘン戦争その他無数のことをやったイギリス(アヘン戦争は自由貿易の原則の名において行われ、当時は自国の商品を買わない国があると砲艦をおくっておどかした)が、いかなる一般的な正義の原則によって日本を裁くのか?
一九二八年当時には先進国は大特権を擁していた。この現状を変更するをゆるさぬということは、たしかに平和の維持ではあったが、また現状を固定するのが正義であるということはたいへん好都合なことでもあった。近代戦争の惨害がはなはだしいから、平和が唯一の正義となったのだったが、この正義は同時に不正義でもあった。それは先発国の利益を固定して、後発国を窒息させる大義名分ともなった。戦時中の西田、和辻の諸賢哲の肯定論は、みなこの観点に立っている。
またカイロ宣言にも、「三国の目的は、日本国より一九一四年の第一次大戦の開始以後に於て、日本国が奪恥しまた占領したる太平洋に於ける一切の島嶼を剝奪すること・・・」とあるが、どういうわけで一九一四年以後という区切りがつけられたのだろう。奪取占領は、それまでにご自分がさかんにやっていたのだが。
遺憾きわまることであるが、平和かならずしも正しくはなく、戦争かならずしも不正ではない。不利な国はいかに働いても窒息するばかりという平和は正しくはないし、日清や日露は不正ではなかった。スターリンの大祖国戦争も。
一般的な正義の原則が事後法をつくるということは、筋が通らないだろう。
遺憾きわまることであるが、平和かならずしも正しくはなく、戦争かならずしも不正ではない。不利な国はいかに働いても窒息するばかりという平和は正しくはないし、日清や日露は不正ではなかった。スターリンの大祖国戦争も。
一般的な正義の原則が事後法をつくるということは、筋が通らないだろう。
ヒットラーが行ったような天人共に許さざるような所業も、じつは国際法で裁くことはできないものではないかと疑う。ナチスを裁いたのは結局は勝者の力であった。勝者の力が「一般的正義の原則」を適用したのだった。勝たなければ裁けなかった。勝敗にかかわらず罰しうる国際法なるものは存在しない。ヒットラーの所業は、われわれの正義感からいえば、極秘に処してもなおあきたらないものであるが、しかしそれを裁く者は結局は力しかない。ーこれはこの創造世界の中の解きえざる謎の一つである。
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