2026年6月14日日曜日

20260613 株式会社講談社 講談社学術文庫 竹山道雄著「歴史的意識について」 pp.14‐26より抜粋

株式会社講談社 講談社学術文庫 竹山道雄著「歴史的意識について」
pp.14‐26より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 406158622X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061586222

 月日がすぎてゆくにつれて、「昭和の動乱」はあの前後十余年間の個々の現象だけをとりあげていたのでは、真相は分らない、と思うようになった。
 あれが何であったかを説明するために、ひろく読まれた『昭和史』は「天皇制ファシズム」という仮説を設けた。また東京裁判は「全面的共同謀議」という仮説を設けた。そして、この枠に合致させるべく材料が取捨按配された。
 しかし、「天皇制ファシズム」にせよ「全面的共同謀議」にせよ、そんなものはどちらもなかったのである。
 争闘とか戦争とかいうものは、そのいちばん根本をたずねてゆけば、結局は生物としての人間の本然に由来するので、歴史上どこでもつねに絶えることなく、まことに人の世は修羅道であるという感に堪えない。が、今はそこまでは遡らず、「昭和の動乱」に限っても、もっと全体の位置と形勢を考えなくてはならないと思う。ここではもとよりそのごく輪郭だけを。ー
 日本は無資源で、貧しく、人口過剰だった。あの動乱がはじまる前に、オーストラリアの新聞に「日本は増加する人口の圧力で蒸気機関が内から破裂しはしないか」と論ぜられているとて、問題になったことがあった。教育程度は高かったけれども、資本と近代技術がなかった。すでに大植民地をもって世界中を支配して富強だった先進国とちがって、後発国で、土台が弱くて余裕がなく、選択肢がせまかった。しかも、五大国の一であると自己過信をしていた。
 あのころ世界はずっと弱肉強食の帝国主義だった。それはまだ不道徳と感じられてはいなかった。イギリスがその先達で、あれが文明の絶頂であると信ぜられ、他国はイギリスとどのくらい距離があるかをもって文明度の順位がはかられた。
 日本はせっせとそのあとを追って真似をした。イギリスはビクトリア女王の治世だけで六十度も戦争したそうで、すでにアフリカからインドから南太平洋を領有していながら、さらにシナを蚕食しはじめた。フランスはおなじくアフリカから仏領インドシナからもっと東を、オランダはインドネシアを、領有していた。かれらの植民地化の領土拡張は、生きるためのやむをえぬ進出ではなくて、むしろ一種の使命感の満足であり、ほとんど道楽のようなものだった。自分たちが世界を支配するのが天然自然の理であると疑わなかった。その偉大と栄光をかがやかしめることがむしろ道徳だった。戦前にシナ各地の各国の租界を見た者は、日本がその間にわりこもうとしたことが、あの当時の規準にてらしてとくに貪欲だったとは考えまい。日本は人並み外れだったのではなく、むしろ人並みになろうとしていたのだった。近代化するとは富国強兵の帝国主義化することだった。それに対する、ナショナリズムに目醒めたシナ人の怨恨は十分に分ることだが。
 やがて世界規模の経済危機がはじまった。英連邦は、持てる領域をブロック化した。他国もこれをはじめた。あの富んだアメリカにさえ失業者が溢れたのだから、貧しい日本ははなはだ苦しんだ。満州事変は満州駐屯の関東軍の陰謀だったのではあったが、国民は「軍に感謝をして」、ここに日本も自分のための経済ブロックをうちたてようとした。内外からの圧力が加わって弱いところに破れでたのだった。
 世界経済危機は一九二九年からはじまったが、共産主義の脅威はそれよりもっと前からだった。これも世界各国に大インパクトをあたえた。それには内憂と外患とあった。内憂は内から掘り崩されることだったし、外患は五ヵ年計画による全体主義の圧迫だった。これに対抗するために、ソ連に隣接するほとんどすべての国、接していなくてもスペインや南米諸国などが反動化し、イギリスにもモズレー、フランスにもラ・ロック、アメリカにもカフリンなどのファシストが輩出した。
 日本もこの問題に直面した。国内は思想問題で大動揺をした。関東軍はあの勢力に隣接して睨みあって、互いに権謀をたたかわしていた。軍は全体主義に対抗するためには、こちらも乏しい力を結集して総力戦時代にそなえなくてはならぬと痛感した。失業者はあふれ、農村は疲弊し、工場の争議も小作争議もあいついだ。思想界はほとんどマルキシズムによって占められた。
 後発国がむりにむりを重ねた。もしそれをしなければ、アジア諸国のように他国の支配に従属しなければなかった。ーこれらのことは「昭和の動乱」のはなはだ重大な背景であり、これを抜きにして考えることはできない。
 日本は真空の中にいたのではなかった。このような状況の中をあがいて、歴史は右往し左往してすすんでいった。
 国の内外の錯綜した危機にあたってそれに対処すべき日本の主体は、たまたま議会民主主義だった。これが未熟だった。議会民主主義とは豊かな余裕のある国で平時にのみ機能しうる一種の贅沢品なのかもしれない。西園寺公の近代化設計は時期がすこし早すぎたのかもしれない。公自身も晩年に「やはり国は、その国民以上のものにはなれぬものか」と嘆息している。(スイスのような特別な国は別として、危機にあたって議会民主主義がうまくいっていたところがあっただろうか?ワイマール憲法下のドイツはもとより、チェンバレンのイギリスもダラジエのフランスもみな失敗した)。日本では、政争苛烈で汚職があいつぎ、ジャーナリズムが放肆で暗殺が頻発した。
 経験に富み思慮のふかい人々が、外には戦争を防ぎ内には革命を防ぐべく努力をしていた。もしこの人々が奉ずるイデオロギーが権威をもちつづけることができたら、国はあるいはスペインとはちがった形で中立を保って、大戦の惨禍から免れる可能性もあったと思われるが、その人々は当時の世界に伝染した傾向的集合表象(別出)に憑かれた若い将校たちによって殺されてしまった。
 歴史の中では、同じ状況が二度くりかえすということはない。「昭和の動乱」はあの状況の中でおこったことであり、種々さまざまな原因が絡みあってついにあの破局に達したのであって、歴史上にただ一回の事実だった。

いくつかの疑問
 私は日本無罪論を唱えるつもりはないけれども、裁判には異様な無理があったことを感ぜずにはいられない。それについてのいくつかの疑問を記す。大部分は、東京裁判判決書の冒頭の管轄権の部分に関することである。
 といっても、私は国際法といったようなことについてはまったく無知なので、さだめし誤りもあるだろうけれども、いまは一普通人の疑念を記して、蒙をひらいてほしいと願うのである。
 『月曜評論』誌に、富士信夫氏が東京裁判傍聴記を連載していられる。すでに四十一回に及んでいる。裁判の過程をくわしく報じて論評したもので、これが完結したらこの問題についての認識が大いに深まるものと思う。

疑問その一、事後法
 法の不遡及ということについては、日本側の主張に対して、「その問題は後回しにする」と留保したまま、ついに答えはなかった。これでは裁判の成立自体の根拠があやしい。もしこの点についての結着がつかないままでいるならば、たとえ日本が東京裁判を全面的に否定しても、論理的にはその否定がなりたつことであろう。
 キーナン検事の冒頭陳述は、感情的な道徳論といったような傾向がつよい。これに対して、 清瀬弁護人の管轄権論争は法理論としてははるかに理が通っているように思われるが、どういうものであろうか。裁判全体が戦後心理に支配されて感情にかられている。
 私が知ったオランダのローリング判事はこういう主張だった。ー法の不遡及ということは法廷の恣意をふせぐための市民的慧知であり、未来の戦争をなくするという現在の大課題の前には二次的なものである。ふたたび戦争が起こらないようにするためには、あらゆる方法をとらなくてはならない。ー
 ローリング氏の言うことだけれども、この説には首を傾げた。この「今後の戦争をふせぐため」の教育手段としての懲罰ということは、キーナンもしきりに唱えている。
 しかし、もし勝利者が新しい法をつくって敗者を裁くということになれば、それは勝者の正義ー勝てば官軍ということになるだろう。戦犯であるかどうかは勝った者がきめるという恣意になる。もしヒットラーが勝ったら、チャーチルやルーズベルトが犯罪人ということになっただろう。
 現に、チャーチルの回想録には、イギリス戦時内閣が成立したときのことを記して、 ーこれで、万一敗戦の場合にはロンドン塔で斬首される者の顔触れがそろった、とある。
 ローリングさんは尊敬すべき人格者で私は大好きな人柄だが、話していてときどき、ふしぎに空想的な言葉を洩らすことがあった。(たとえば、もし上官の命令が平和に反するものであると考えたときには、文武を問わず、下僚はそれに不服従の義務がある、という法を制定すべきだ、というごとき)。この人は、国連の何とか平和委員会の長だったので、今はその後任を坂本義和氏がついでいる。
 戦後十年たって、オランダのフローニンゲンに同氏を訪ねたら、感慨をこめて言っていた。「東京裁判はあやまりだった。今だったらインド人のパルのように考えるだろう。通常戦犯は罰せられるが、政策樹立者たちを犯罪に問うべきではなかった。あの頃には、ルーズベルトのような思想がゆきわたっていて、ソ連と協力しようという空気だった」。
 右のソ連との協力ということを根拠づけるものに、一九四三年十月に発表された米英ソ三国のモスクワ会談の共同コミュニケがある。ーそれは「三国政府は、それぞれ自国の国家的利益とすべての平和愛好国の利益のために戦争遂行に対して設定された、今日の密接な協力を、軍事行動の終った後にも継続することを重要であるとし、かような方法によってのみ、平和を維持し、各国の政治・経済・社会的福利の完全な発達を成就しうるということに一致した」というのである。
 このソ連との協力を果して新しい世界秩序をうちたてるべく、事後法によって日本を罰した。
 このことはそれまでの歴史の経験から生れていた。第一次大戦後には、少数民族の自決によって世界平和を樹立しようとしたが失敗した。この経験から、第二次大戦の末期に南阿のスマッツ将軍が「世界の平和を保つためには力をもった大国が抑える他にはない」と演説したことは、当時の日本の新聞でも読んだ記憶がある。東京裁判は大国の共同制覇によって世界平和を維持しようという気運から生れたものだったが、結局はこれはフィクションだった。現実には、もうすでにこの頃に米ソの確執がはじまっていた。モロトフの「永遠のニエット」がすべてをだめにしてしまっていた。
 事後法の問題は裁判の成立を疑わせるが、さらにまた裁判は、全面的共同謀議があったという前提の上になりたっている。しかし実際にはそんなものはなかった。これもやはり裁判の成立を疑わせるものではないかと思うが、これについては後に考えたい。

疑問その二、一般的な正義の原則とは
 判決文には、東京裁判はニュルンベルク裁判の原則をそのまま踏襲した、とある。ここにさまざまな無理が生れた一因があったと思われる。
 判決文が引用しているところによると、そのニュルンベルク裁判の意見は次のようである。ー「法なければ正義なし」という法律格言は・・・一般的な正義の原則である。条約や誓約を無視して、警告なしに、隣国を攻撃した者を処罰するのは不当であると主張することは、明らかに間違っている。なぜなら、このような事情のもとでは、攻撃者は自分が不法なことをしていることを知っているはずであり、従って、かれらを処罰することは、不当であるどころではなく、もしかれの不法行為が罰されないですまされるならば、それこそ不当である。
 そして、本(東京)裁判所は、ニュルンベルク裁判所の意見であって本件に関連のあるものには、無条件の賛意を表するものであるー。
 このように判決文は、東京裁判は一般的な正義の原則によって裁いた、と言っている。これは重大である。
 もし一般的な正義の原則を基準として謝るならば、古今 に無罪の国は一つもあるまい。
 普遍道徳は、ある特定の時期や特定の事情によって別なものになることはない。一九二八年のケロッグ・ブリアン協商の不戦条約以前に行われた侵略とそれ以後に行われた同性質のそれとが、一方は是認されるが他方は否認されるということはない。かつて英仏蘭などの先進国が、力と権略によって侵略して大植民地を獲得して搾恥したことと日本が行った侵略とが、差別されるはずはない。神の目からみれば、一般的正義の原則はどちらにも等しかるべきものである。アヘン戦争その他無数のことをやったイギリス(アヘン戦争は自由貿易の原則の名において行われ、当時は自国の商品を買わない国があると砲艦をおくっておどかした)が、いかなる一般的な正義の原則によって日本を裁くのか?
 一九二八年当時には先進国は大特権を擁していた。この現状を変更するをゆるさぬということは、たしかに平和の維持ではあったが、また現状を固定するのが正義であるということはたいへん好都合なことでもあった。近代戦争の惨害がはなはだしいから、平和が唯一の正義となったのだったが、この正義は同時に不正義でもあった。それは先発国の利益を固定して、後発国を窒息させる大義名分ともなった。戦時中の西田、和辻の諸賢哲の肯定論は、みなこの観点に立っている。
 またカイロ宣言にも、「三国の目的は、日本国より一九一四年の第一次大戦の開始以後に於て、日本国が奪恥しまた占領したる太平洋に於ける一切の島嶼を剝奪すること・・・」とあるが、どういうわけで一九一四年以後という区切りがつけられたのだろう。奪取占領は、それまでにご自分がさかんにやっていたのだが。
 遺憾きわまることであるが、平和かならずしも正しくはなく、戦争かならずしも不正ではない。不利な国はいかに働いても窒息するばかりという平和は正しくはないし、日清や日露は不正ではなかった。スターリンの大祖国戦争も。
 一般的な正義の原則が事後法をつくるということは、筋が通らないだろう。
 ヒットラーが行ったような天人共に許さざるような所業も、じつは国際法で裁くことはできないものではないかと疑う。ナチスを裁いたのは結局は勝者の力であった。勝者の力が「一般的正義の原則」を適用したのだった。勝たなければ裁けなかった。勝敗にかかわらず罰しうる国際法なるものは存在しない。ヒットラーの所業は、われわれの正義感からいえば、極秘に処してもなおあきたらないものであるが、しかしそれを裁く者は結局は力しかない。ーこれはこの創造世界の中の解きえざる謎の一つである。

2026年6月10日水曜日

20260610 筑摩書房刊 ちくま新書 宮台真司・奥野克己 著「宮台式人類学ー前提を遡る思考ー」 pp.42‐44より抜粋

筑摩書房刊 ちくま新書 宮台真司・奥野克己 著「宮台式人類学ー前提を遡る思考ー」
pp.42‐44より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480077359
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480077356

宮台 ええ。ヴェーバーの系列から外れますが、戦間期にプラグマティズムというアメリカの思想潮流が復活します。初期ギリシアに関連するので触れます。ニーチェの40年前にアメリカ超越哲学の鼻祖とされるラルフ・ワルド・エマソンが「力の受け渡し」の思想を展開、ニーチェに大きな影響を与えます。エマソンは「内なる光」と表現しますが、知識ならぬ動機付けの伝達のことで、宮台語で言えば、意味より強度の伝達(感染)が大切だとしたのです。
 牧師エマソンは、宗教の説教も学校の教育も、知識より動機付けの、認識より関心の、 真実より力の、伝達が大切だとし、哲学的・神学的な物言いをやめて日記を書きます。それを受けた戦間期のデューイは『経験と教育』で、動機付けに役立つ体験の配列が教育だとします。1990年代のローティは、壇上から真実らしきことを語って人から力を奪うのが昨今のリベラルだとし、「エマソン日記」のごとく私的な体験に照準した語り口を重 視します。 どんな語り口かというと、アイロニーです。コメディ研究の定説に従えば、アイロニー は、全体を部分に、超越を内在に、聖を俗に対応付けで脱臼する(ここで笑いを誘う)営みです。
ローティはこれを自己脱臼の意味で使います。真実らしき語りをした後「知らんけど」「たまたま聴いた 」「たまたま聴いただけや」と偶然性を持ち出し、自己を脱主体化する営みです。 かくて、偶然を持ち出し、アイロニー化することで、マウンティングされたという体験を回避して連帯する。初期作『偶然性・アイロニー・連帯』(1989年)を一言でまとめた骨子です。 
 関連して、言語を方向づける言外の働きに注目したのが、アムネスティ・レクチャーズ のひとつ「人権について」(1993年)。学者は専ら「人権とは何か」を論じるがクダラナイ。人に適用されるのが人権だが、誰が人かを支える生活形式をスルーしている。1964年の公民権法まで女も黒人も一人前の人と見做されなかった。女も黒人も人だと見做 せるようになるには、幼少期から異カテゴリーに属する子らと混ざり合って仲間になる遊 びが必要だと。 
 だから多様性でも、法的権利重視のサラダボウル(ゾーニング)より、成育環境や生活形式重視のメルティングポッド(フュージョン)を賞揚します。かくして、育ち上がりの 過程でどんな言語ゲームが自明になったのかが重要だとし、自らの哲学的源泉としてプラグマティストら以外にニーチェとハイデガーとヴィトゲンシュタインを挙げたのです。そして育ち上がりの環境の劣化を補うのが、文芸作品を通じた感情教育 sentimental educationだとします。感情 sentimentという言葉は、哺乳類や鳥類にも見られる情動 emotionと区別したもの。後述しますが、感情は自己防衛に、情動は生体防衛に、関係します。
 メルティングポッドの生活体験も、そんな生活を描く文芸の享受体験も、言語の使用を支える言外の前提ー宮台語の「言語の言語以前的前提」ーを築く感情教育です。感情教育が不完全な人々ー宮台語の「育ちが悪い人々」ーがリベラルを担う時、製造業から知財業への産業構造改革を背景に、差別解消のアイデンティティ・ポリティクスに淫す る劣化左翼から、見放された製造業労働者が、「俺が見てやる」と言う独裁者を誕生させ ると予測します。
 プラグマティストのローティを挟むと思想史が見易くなります。プラグマティストを一言で言えば「言語の言語以前的前提」に敏感な人。「言語の言語以前的前提」に鈍感な「育ちの悪い人」は。民主政の民主政以前的前提(ルソー)にも、市場の市場以前的前提(スミス)にも鈍感化し、良さげな「名目」に釣られ、市場経済と行政官僚制を通した、富裕層の集金システムに巻き取られます。詳しくは後述しますが、それを見通すには、今まで話した思想史の教養が必要なのです。

20260609 株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻 pp.144-147より抜粋

株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻
pp.144-147より抜粋
ISBN-10 : 4480084878
ISBN-13 : 978-4480084873

 日本仏教は、九世紀前半に、真言僧空海の著作において、その知的水準の(しかし必ずしも宗教的独創性の、ではない)絶頂に達した。しかしそのシナ語の著作の読者は限られ、その内容に土着思想の反映をみること甚だ少ない。空海の宗教活動(鎮護国家、祈雨、総じて真言宗寺院と宮廷権力とのむすびつき)は仏教の「日本化」の一時期を画し、空海の哲学思想は、仏教の「日本化」の拒否、その彼岸性の徹底、土着世界観の克服という点で、画期的であった。
 時代の知識人が大衆と共有したであろうところの土着世界観は、九世紀の仏教受容とどう係りあっていたか。その係りあいを実に見事に語っているのは、薬師寺の僧景戒の作った『日本霊異記』(九世紀初)である。作者の伝記は全く不明。文はいわゆる「変体漢文」である。すなわち訓読を前提とした漢文で、そのために語順が日本語に従いシナ語に従わぬところがある(たとえば「狐為妻令生子縁第二」と書き、「狐を妻として子を生ましむる縁第二」と読む。原文をシナ語として読めないことはあきらかである)。内容は、『日本霊異記』の正式の表題『日本国現報善悪霊異記』が示すとおり、また編者景戒の序文がいうとおり、中国での先例に倣い、日本国での因果応報(現報善悪)の不思議な話(霊異)を、上・中・下三巻にあつめて記したものである。話の源は、地方の伝承説話を含むと共に、また中国の文献、殊に序文が明示している『冥報記』(唐・唐臨の撰、七世紀中葉)と「金剛般若経集験記」(唐の孟献忠の撰、七一八)である(後者は話を多く前者に採る)。ただし「日本霊異記」の一一六話すのなかで、確かに「冥報記」に由来すると思われるのは九例にすぎない。中国種はおよそ全体の一割ということになる。
 景戒は『日本霊異記』を誰のために編んだか。「変体漢文」を読み得る人口は少なかったにちがいないから、大衆の読者を期待したはずはない。しかし僧侶の自家用としては、話と仏教との関係が「因果応報」に限られていて、単純にすぎる。仏教哲学の核心にふれた話はどこにもなく、話の内容は大衆教化の方便としか考えられない。したがっておそらく、僧侶の大衆向け説法の、参考資料、または素材として編まれたのだろうと思う。景戒自身が喋った話の備忘録が原型であったかもしれない。直接の読者は僧侶、しかし内容は僧侶のためではなく大衆的な聴衆のためのものであった、ということができるとすれば、『日本霊異記』は編者のみならず、その聴衆の好みやものの考え方をある程度まで反映していたろうと想像される。
 話の短いものは、原文一〇〇字に足りず、長くても数十ページにわたることはない。話のすじ立ては簡単なものが多い。内容は直接に僧侶や経典の功徳に係り、悪業の結果の不幸を語るものなどもあるが、またほとんど因果応報に関せず、ただ最後の数行に仏教的解釈を施したものも少なくない。たとえば二人の力の強い女の話(中巻、第四)。力の強い女が、三野の国にいて、往還に商人を襲い、盗みを業としていた。もう一人の小柄だが、力の強い女が、力くらべに出かけて、相手方が打とうとして起ち上ったとき、「二つの手を持ちへ、熊葛の鞭以て一遍打つ。打つ鞭に肉着く。亦一つの鞭を取りて一遍打つ。打つ鞭に肉着く。十段の鞭打つに随ひて皆肉着く」。そこで最初の女が降参し、それ以後、人の物を盗らなくなったので、土地の人々はよろこんだ。ーそういう話があって、その後に、「夫れ力人は、もち継ぎて世に絶え不。誠に知る、先の世に大力の因を殖ゑて、今此の力を得たることを」という解釈がある。すなわち話の内容と解釈との関係は、密接でない。おそらく力女の話が、地方民間の伝承としてあり、話そのものは仏教と全く関係がなかったのであろう。景戒はその話を聞き、牽強附会の解釈を加えて、仏教説話にしたてたにちがいない。『日本霊異記』に実にしばしばあらわれる話の内容と仏教的解釈との著しいくいちがいは、地方民間の伝承の多くが仏教と何の関係もなかったことを、示している。そこには多くの珍しい話(奇事)があった。そして珍しい話の因果論的説明はなかった。民衆が信じていたのは、力女の現在であって、「大力の因」の「先の世」ではあるまい。しかもそれだけではない。
 景戒自身の筆が活気を帯び、叙述に迫力が加わるのは、解釈よりも、話のすじにおいてであり、話のすじよりもその細部の描写においてである。解釈は、いつの時代にも力人がいるのは、因果の理による、ということである。話のすじは、特定の時代に二人の力女がいて一方が他方に勝ったということである。(この話のすじは、「いつの時代にも力人がいる」ことの例証としては、甚だ不十分である)。話の細部は、打ちおろす鞭に相手の肉が着いて来るという具体的で感覚的な光景である(その細部は話のすじをあきらかにするために全く必要でない)。『日本霊異記』の独特の魅力は、解釈でも、話のすじでもなく、話の細部の簡潔で、的確で、生々しい描写による。今景戒自身が、意識的には解釈を重んじていたとして、ー現に彼自身の序文はそういっているー、いわば無意識的に、話の細部の描写において、その著作が光彩を放つことに到ったのは、なぜだろうか。可能な説明の一つは、彼が『日本霊異記』を書き下すまえに、同じ様な話を聴衆に語って聞かせていたからであり、どういう語り口が聴衆の好みに合うかを心得ていたから、ということである。しかし彼自身のなかに、あらかじめ抽象的観念を操作すること(仏教哲学)や、彼岸思想に深入りすること(仏教の超越性)よりも、現世の感覚的世界の細部に対する関心(土着世界観の特質)がなかったとすれば、これほど鮮かに聴衆の要求に応えることはできなかったろう。すなわち聴衆との直接の接触があったとして、そのことが、『日本霊異記』の作者を作ったのではなく、作者のなかに潜在した大衆的世界を、いわば当人の意に反しても、顕在化させたのである。

2026年6月8日月曜日

20260608 朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp22‐26より抜粋

朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp22‐26より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4022605170
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4022605177

歴史の中の紀州人たち
 このあいだ、ひさしぶりで司馬遼太郎氏にお目にかかった。和歌山城の見えるレストランで一時間ほどお話を伺う機会があった。そのとき、ヘミングウェイの話が出た。
「かれは、紀州へ来たかったのですよ」
 逞しい漁夫サンチャゴと、鮫の群れのあいだでくりひろげられる海のたたかいを、名作『老人と海』に描きあげたヘミングウェイは、黒潮の紀州の海に、生涯、あこがれに似た思いを抱きつづけていたという。
「勇敢な紀州の漁夫と、すばらしい紀州漁法に魅かれていたのでしょうな」
 その、ヘミングウェイの心を掻きたてた紀州漁法が発達したのは、戦国末期から近世初頭にかけての時代であった。おりから、城下町など諸国都市の拡大と農業生産の発展を誘因した漁獲物(食糧魚や魚肥)の社会的需要が急激に増大する。
 この時期、諸国の漁民に先がけて、すでに高度な各種の漁業技術を掴んでいた紀州漁夫たちは、東は相模、房総、常陸から東北へ。西は四国、瀬戸内、中国、九州、五島列島にいたるまで魚をもとめて旅漁に出かけていった。この先進的な漁夫たちの足跡は、いまも諸国の浦々に色濃く残されている。
 慶長11年(1606)、従来の銛突捕鯨から網取漁法を考案し、その捕鯨法を秘法とせず吝ます、われから出向いていって土佐津呂組の漁民に伝え、長門、九州五島の人びとに授けひろげ、熊野太地鯨方の名を天下に鳴りひびかせた和田一族の人びと・・・また、戦国末期の弘治年間(1555~1558)、のちに近世最大の干鰯生産地帯になる九十九里浜に鰯地引網漁法を伝えた紀州の西宮久助。寛永のころ(1624~1644)、銚子(千葉県)に近い外川を開発し八つ手網鰯漁法を伝えた有田、広村の崎山次郎右衛門。元和年間(1615~1624)、土佐国に赴き鰹釣漁法の祖となった印南浦の漁夫甚太郎。そしてその子の、土佐に鰹節の燻乾、製法技術を伝えた”土佐節の始祖”二代目甚太郎。天明年間(1781~1789)安房国に移住し、改良した鰹節技術で、”安房節”を完成させた同じ印南浦の与市。これらの人びとのほかにも、加太の大甫七重郎、栖原の角兵衛、下津の七兵衛・市郎兵衛など、東国の海べりの各地で網漁を興した男たちは多い。そして、かれらのその進出ぶりは、
⦅房総の間に在りて漁業の旧家と称するものは、おおむね紀州より来りてその業を拓きたるにあらざるはなく・・・(『房総捕鯨志』)⦆
⦅紀州の漁人来りて業をなすもの陸続として絶へざる(『房総水産図誌』)⦆
 と、特記されるほどであった。
 関東への産業開発の進出といえば、日本が年間一人あたり5升(9リットル)消費するという「醤油」もその一つであろう。鎌倉の頃、三代将軍源実朝の菩提をとむらうために建てられた紀伊国由良、興国寺の開山、法燈国師覚心は、さまざまなものを日本人にもたらした。径山寺味噌と醤油と尺八(洞簫)と普化宗である。かれが宋(中国)の浙江省、径山興聖禅寺の典座寮(台所)でまなんだ味噌醸造の過程で発見した醤油が、文暦元年(1234)、となり村の湯浅に伝えられ醸造され、以来、この湯浅醤油が日本の味を代表する”醤油”の起源となり、その製法は全国に撒き拡げられ伝播していく。有田、広村から大消費地の江戸にちかい銚子で醤油をつくりはじめた浜口儀兵衛 (ヤマサ醤油の祖・現在十一代目)、浜口吉右衛門(ヒゲタ醤油の祖)、それにおなじ村の岩崎重二郎、古田荘右衛門らも銚子で醤油醸造をはじめ、やがて銚子は湯浅醤油をしのいで日本の醤油醸造のメッカとなる。
 紀州人の東進は、漁法や醤油だけではなかった。海の国道一号線ともいうべき熊野灘、遠州灘を越えて、紀伊国屋文左衛門の蜜柑船よりも早く、寛永11年(1634)、有田蜜柑を積んだ滝河原村の藤兵衛(通称蜜柑藤兵衛)の船が、江戸に向かっているし、当時の江戸ー大坂間の定期輸送船となった菱垣船(元和5年・1619)も、紀伊富田浦の250石船が、そのはじまりである。
 ーこうして、歴史のなかに紀州発祥の数かずを眺めてみると、その数は意外に多い。紀州漁法、鰹節、醤油、尺八、虚無僧。南海の孤島の種子島から根来寺にもたらされた鉄砲。幕末維新すでにミルクを飲み、靴を履き、日本徴兵制の前身となった国民皆兵の大日本共和軍隊。西洋靴伝習所(製靴工場)。そして”明治維新の新政府の原型”になったと西郷隆盛を驚嘆させた官(藩)制の改革、郡県制度の確立・・・と、紀州人が日本史に与えた影響は大きい。鰹節にしても醤油にしても、紀州人がなかったら日本の味は・・・食文化は・・・もっとちがったかたちのものになっていたかもしれない。
 が、世に先がけて発見し、苦難の果てに開発したそれらの殆どは、紀州で花ひらいてはいない。その卓越した技術を紀州人は秘しておくことをしなかった。頼まれれば諸国各地に伝え拡げに出向いている。そのため、かれらが辛苦して咲かせた大輪の花も、実も、すべて他国の土に根付き、そのお株をうばわれてしまっているのである。鉄砲にしてもそうだ。その出現によって戦国の潮流を変え、大きな戦術革命をもたらしたこの最新火器でさえ紀州人は、
〈杉ノ坊、仁王房ナドト云フ者、関東二下リテ鉄砲ヲ教ヘシガ・・・〉
 という有様であった。そして皮肉なことに根来寺は、この自分たちが気前よく教え拡めた鉄砲のために、歴史の塵のなかに滅び去っていくのである。こういう、一種、陽気な紀州人気質というのは、進取とか磊落とだけでは片付けられない、なにかがある。それはおそらく、当時の秘伝、口伝などと技術を隠蔽することを好んだ諸国の人びとの理解を超えた奇妙な気風であったにちがいない。

20260608 株式会社角川書店刊 横溝正史著「獄門島」 pp.36‐39より抜粋

株式会社角川書店刊 横溝正史著「獄門島」
pp.36‐39より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4041304032
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4041304037 

 話題がやっと鬼頭家へめぐってきたので、耕助はいくらか緊張したが、しかし、口先だけは相変わらず軽かった。 
 「その嘉右衛門さんというのは、千万太君のお父さんかね」 
 「なに、祖父さんでさ。去年78で死にましたが、元気なものでしたね。体は小さかったが、肝ったまの大きな人で、いい旦那でしたよ。島では太閤さんといっていて、なかなか死にそうにはなかったが、やっぱり戦に負けたンがこたえたんですかね。ポックリ往生しましたよ」 
 「それじゃ終戦後亡くなったんだね。それで千万太君の両親というのはどうしたんだね」  耕助のもっとも疑問とするところはそこだった。このあいだ、千万太の死を知らせにいったとき、座敷へ現われたのは月代、雪枝、花子という三姉妹と、早苗という娘、ほかに50前後の、みっともない顔をした老婆が御飯のときちょっと顔を出したが、広い屋敷にはそれ以外、男気の感じられなかったのが不思議であった。千光寺の和尚も、 
 「ここに逗留してもろうてもよいのだが、女ばかりの世帯だから・・・・・・」 と、そういって耕助を、自分の寺へつれてかえったのである。
 「千万さんのおふくろさんは、千万さんが生まれると間もなく亡くなったそうですよ。それで後添いをもらったんですが、このひともだいぶまえに亡くなりました」 
 「ああ、それじゃあの三人のお嬢さんは、千万太君とは腹ちがいなんだね」 
 「へえ、そうですよ」
 「それで、千万太君のお父さんは・・・?」
   「与三松の旦那ですかい。ええ、その人はまだ生きていますよ。生きていますが御病気でね。だれのまえへも出ねえんです」 
   「病気?どこが悪いんだね」 
   「どこってその・・・あまり大きな声じゃいえねえが、つまり、その・・・気が狂ってるんですね」 
 耕助は思わず大きく眼をみはった。 
 「気が狂ってる・・・それでどこかへ入院してるのかい」 
 「いえ、入院しちゃいません。あの家にいるんですよ。なんでも座敷牢がこさえてあってその中に入れてあるそうですが、ええ、もう久しいもんです。かれこれ十年にもなりますねえ。あっしなんざ、もう顔も忘れっちまったくらいですからねえ」 
 それを聞いて耕助は、はじめて思い当たるところがあった。このあいだ、鬼頭家の座敷に座っているとき、かれは一度、ただならぬ叫び声を聞いたのである。それはまるで、野獣の咆哮にも似た、あらあらしく、物狂おしい叫び声で、耕助もそれには少なからずどぎもを抜かれたものである。 
 「ふうむ、それでその気ちがいというのは暴れるのかい」 
 「いえ。ふだんはしごくおとなしいンですがね、どうかすると手に負えねえことがあるそうです。ところで妙なもンで、あそこに早苗さんという娘さんがいるでしょう。ありゃ気ちがいさんの姪に当たるんですがね、これが一言二言声をかけると、ケロリと、おさまっちまうんです。それにひきかえ現在のわが子の娘たちが行くと、これがいよいよ手に負えなくなるンだそうですから、困ったもんでさあ」
 「そりゃ・・・しかし、妙だね」 
 「なに、別に妙でもなんでもありませんや。あの三人の娘というのが・・・このほうがかえって妙でさあね。自分のおやじを、まるで動物園の虎かライオンみたいに、おもちゃにしては喜んでるってしろものですからね。気ちがいさんの寝てるところを、格子の外から物差でつついたり、紙礫を投げつけたり、それで三人、きゃっきゃっと喜んでるってえンですから、話を聞いただけでも気味が悪くなりまさあ。どうもあの娘たちは変ですぜ」 
 あの三人の変なことには、耕助もすでに気がついている。兄の死でさえがかれらにとっては、自分たちの髪の格好、帯の結びかたほども気にならないらしかった。和尚がまじめな話をしていても、うつむいてくすくす笑ったり、袖をひっ張ったり、ひじで突っついたり、それで三人が三人ともきれいな娘であるだけに、いっそう不健全で病的で、見ているほうでも気持ちが悪くなるのだった。 
 これはたいへんな娘たちである。と、耕助は思った。ゴーゴンの三姉妹であると耕助は考えた。ゴーゴンとはギリシャ神話に出てくる怪物である。もとは美しい処女であったが、ミネルバと美をきそったがために、姉妹三人頭髪ことごとく蛇となり、鷲の羽と真鍮の爪をもった怪物に化せられた。鬼頭家の三姉妹には、どこかそういう気味の悪い妖怪味が感じられるのだった。

2026年6月7日日曜日

20260607 法政大学出版局刊 高谷重夫著『雨乞習俗の研究』 pp.400‐405より抜粋

法政大学出版局刊 高谷重夫著『雨乞習俗の研究』
pp.400‐405より抜粋
ISBN-10:4588920022
ISBN-13:978-4588920028.

第六章 雨乞儀礼の諸相第一節 雨乞と動物供犠

(一)箕面の滝の祈雨
 大阪府立図書館に『名杖探葦』(曉隣蟻士著、安永七年序)と題する一部の写本がある。著者については知るところがないが、大坂内外に杖を索いて名勝を探った紀行文集である。その中に北摂箕面の滝(大阪府箕面市)について次のような記事がある。
 滝の肩に竜穴あり。その深きこと人是を計るに知れず、土民雨を祈るに白馬の首を切て竜穴を穢すに忽大雨すといへり。
 今から十数年前、箕面市粟生の古老から、昔雨乞に白馬の首を切って箕面の滝に入れたという話を聞いたことがある。しかし、実際にこのような雨乞行事があったものかどうか。これについてなお疑問なきを得なかったが、先年世に出た『箕面全史』の「史料篇六」に載せられた「嘉永六年旱魃記録」を見るに及んで、この雨乞法が実際に行われていたことが明らかになった。その記事を次に紹介してみよう。
 嘉永六年(一八五三)の大旱にこの地方は水不足に苦しみ、六月に十七日には箕面川の瀬掘りをして、わずかに川に残る水を田に入れたが、七月一日には終いに雨乞の相談となった。氏神で神籤を引き妙見山(大阪府豊能郡能勢町)か都の東寺の弘法さまか、どちらに効があるかを伺ったところ、大師と出たので東寺へお火を受けに行き、七月三日より七日の間祈祷に務めたが効がなかった。結願の九日の会合に萱野郷から内々、この節幸いに近辺に葦毛の馬が見つかったという話があり、急ぎ相談の上、牧之庄と萱野郷より入用銀を二つ割で出すこととし、十日には早速この馬を買いに行った。その晩に双方より人足を一人ずつ出し、初夜頃この馬を箕面山上に曳いて上り、高い丘の上で馬を刎ね、胴体ばかり萱野郷の山谷に蹴落として隠しておき、首を雄滝に漬けた。この費用には馬代六両、人足代二両のほか雑費三貫七百文を要した。これほどまでにしたのに何の感応もなく、翌日少し曇っただけであったとある。
 箕面の滝は今でこそ市民の遊楽地であるが、貝原益軒の『有馬温泉之記』に、滝道が危険なので見物を見合せたとあるように、以前は容易に近づきがたい山中の神秘な滝であった。その下にある竜安寺は役行者開基と伝える修験の霊場であったが、『元亨釈書』(卷一五)には行者が夢中にこの滝口より入って竜樹大師に渇したという話を伝え、また『古今著聞集』(巻二)には平等院の僧正行尊が箕面山に三箇月籠っていた時、夢に竜宮に到り如意宝珠を得たという話のあるのも、やはりこの滝に竜宮の入口があると信ぜられていたからであろうか。『摂陽群談』に、箕面の滝に竜穴ありと記し、近世の「竜安寺秘密縁起」(『箕面市史』史料篇六所収)にも「滝頂上有御窟則竜穴也、其竜錦斑長三丈余、動吐黒雲俄隱於白日」とあり、またこの竜穴に雨乞すれば甘雨忽ちに降るともある。すなわちこの滝は竜神の棲む霊地であり、請雨の地であるとされていたのである。このことは『元亭釈書』(巻四)に応和二年(九六二)の旱りに、当時箕面に庵を結んでいた金竜寺の僧千観が、庵の北方の滝において、手に香炉を捧げて祈禱したら、その煙が上って雨となって降ったとあるところからみて、少なくとも中世以来の信仰であったことが明らかである。


(二)武庫川流域の雨乞
 箕面の滝がこのように祈雨の霊地とされていたことから、上述のような異常な雨乞法が伝承されていたものと考えられるが、北摂ではこの他にも同種の雨乞法の行われていた土地が少なくとも二箇所あった。
 そのうちの一つは、箕面の西、兵庫県宝塚市(旧川辺郡小浜村) 川面で最近まで行われていた雨乞である。昭和十四年八月三十一日の『大阪朝日新聞』に「牛の首で雨乞」と題して、次のような記事が掲げられている。この村では雨乞に武庫川の支流惣川の上流に牛の首を投げ入れる風があり、大正十二年にこれをやって雨を得たというが、八月三十日、豊中市の屠殺場より取り寄せた牛の生首と生血をブリキ缶に入れ「雨請 川面村」と書いた幟を立て、半鐘・太鼓を鳴らし、貝を吹く山伏も加わって約二百人が馬淵に行って雨乞をしたとあってその写真も出ている。川面の古老の話によれば、この雨乞は長尾山字檜王山の奥の谷の山の神を怒らせて雨を降らせるのだそうである。村人が檜王山麓の御坊に集り、寺の鐘、村の半鐘で出発、幟を押し立て、鐘・太鼓で武庫川上流の馬滝の谷(上記馬淵と同所か)に行き、そこの机岩の上に牛の首を祭ると牛の生血を一斗ばかり岩の上に流す。それがすむと一行はさらに谷を遡り馬滝に到り、滝壺の前の石に牛の首を据えて帰った。明治の初年頃までは牛三頭を現場まで連れて行ってそこで首を切ったという。またこの雨乞で降り出した雨が七日間も続く大雨となり、流れて来た牛の首を山中に埋めたらやっと止んだという話もある(昭和四八年調査)。
 同じ武庫川の上流の高座岩でも同種の雨乞の行われたことは『有馬郡誌』(上巻、五七三頁)にみえている。その場所は木ノ元村(現西宮市)の少し上で、巨岩が河中に突出し、上が平たくて座敷のような高座岩で「其儀式は動物の血を塗るにあり、然らばその汚れを厭ひ洗ひ去らんがために雨を降らすといふ。その血は名塩ならば純黒色の犬の血を塗り、武庫川辺両郡は純白色の馬の血を塗るを例とす」とある。名塩は旧有馬郡塩瀬村、現在は宝塚市に属するが、『西宮市』(巻二)には『塩渓風土略記』なる書を引いて、安永の頃名塩では生瀬川(武庫川上流)の高座岩で黒犬を殺し、その腹を割いて岩の上に血を流したとしている。
 旧川辺郡稲野村、現在の兵庫県伊丹市の昆陽・池尻・山田・野間・南部・堀池ではユゴウという水利組合を結成していたが、このユゴウが一体となって前記の高座岩で同種の雨乞を行っていたことについては『伊丹市史』(巻六、三二六頁以下)に詳細な記事がある。それによると、この雨乞の行われた最終は明治十六年である。この年の大旱に各村の庄屋が集って相談の結果、この雨乞をすることに決し、村の博労が伊勢から白馬を買って来た。はじめは殺すのがかわいそうだと血を少し採って使ったが、効がないので旧例通りにすることになった。すなわち白馬を殺し、血を一滴残さず桶に取り、首を挟箱に入れ、昆陽寺に詣って読経を頼み、読経の続く中で行列を組む。先頭は白裃姿で雨乞の巻物を持って馬で進む。若者仲間が槍を持ってこれを警固する。しかしこの巻物は本物ではなく、本物は商人姿の二人が一足先に持って出る。次いで若者仲間が馬の首の入った挾箱を担いで行く。この後には各村の代表が続く。
 途中で昆陽池を左廻りに廻ってから武庫川を遡る。生類(西宮市)のコーライ岩(前記の高座岩と同じか)に着くと、まず馬の首を取り出して岩の上に置き、白衣の者が経を読む。終ると首をミソ滝の淵に入れる。担いで来た桶の血は岩一面に塗りつける。本来はここまで白馬を曳いて来て白装束の者が首を切り落す式があったという。この行事がすむと、来た時と同じ行列を作って帰るが、途中昆陽池に寄って右廻りに廻った。この時待望の雨が降り出し、大雨となったそうである。この雨乞は今は絶えているが雨乞の巻物二巻は今も伝わっている。また村では毎年盆の十七日に殺された馬の施餓鬼を昆陽寺でしている。なおコーライ岩の下は竜宮に通じていると伝え、そのためこの岩を血で汚すと乙姫さんが怒って雨を降らせ襷がけで岩を洗うという。池田市の『伊居太神社日記』(『池田市史』史料篇三)の文政三年(一八二〇)七月二十三日の条に、この夜昆陽池の池掛り十二箇村の者十五歳以上が皆池の堤に出て雨乞し、その鐘・太鼓の音が夜明けまで聞えた。その上、馬の首を生瀬の奥の滝に漬けに行ったそうで、その験か大雨が降ったという。噂では馬の首代は七匁二分かかったそうだ、と記している。この記事から、この雨乞が少なくとも十九世紀の初頭以来行われて来たことが明らかである。
 武庫川流域では、さらにこの上流地域でも同種の雨乞が行われていたらしい。すなわち三田市(兵庫県) 下田中では大正十二年の雨乞に牛の首を屠殺場でもらって来て、これをヒトモシ山の上で柴とともに昼から夕方までかけて焼いた。灰は臭いがそのままにしておく。神を怒らせるためという(兵庫県立有馬高等学校歴史クラブ『ほくせつ』六号)。同市青野でも、牛を殺し、その首を山上の堂に持って行き、その血を堂に塗ると、神が汚いのを怒って雨を降らせるという(同上書)。
 兵庫県ではもう一箇所、 飾磨郡夢前町でも昔この雨乞が行われた。すなわち夢前川上流のカメガツボと称する甌穴に牛の生首を投げこむと水神の怒りを買って大雨になるという(『夢前町史』九三八頁)。


(三)近畿各地の例
 上記以外の近畿の例としては、まず大阪府で二箇所、箕面市の牧落・西小路・半町等では平尾(箕面市)の前池に牛の首を入れて雨に祈った話と、豊中市長興寺でも牛の首を切って、その血を神社の境内の岩に塗りつけたという話がある。ともに筆者の古老からの伝聞であるが、詳細は明らかではない。
 和歌山県西牟婁郡北富田村(現白浜町)の庄川に牛尾谷(一名牛鬼谷)という滝がある。滝壺は深く、奥に洞穴があり、主がすむという。昔この主の怒りを買って一万石の材木をこの洞穴に吸いとられた話もある。旱魃には「牛の首漬け」といって、牛の首を切って滝壺の棚の上に置き、藤葛で固く結んで背後を見ずに逃げ帰る。すると滝の主が汚れを流すために雨を降らすという。ただしこれはあらゆる手段を試みた後の最後の雨乞法であった(『郷土研究』一卷七号、吉田美穂『熊野雨乞行事』)。雑賀貞次郎『牟婁口碑集』(九四頁)にも同じ話があるが、牛の首は滝壺に投げ込むとある。
 奈良県では『大和志』の添上郡の条に「投牛山、在田村東、昔屠牛祈雨有応、因名」とある。これは単なる伝説とも考えられるが、以上に述べた事実を背景として考えると、やはり牛を殺して雨を祈る習俗が存したものと思われる。
 滋賀県伊香郡余吾町中之郷の池ノ谷に、雨乞に山伏を頼んで七夜の行をする洞穴がある。昔、下余吾の五平という者の母が牛とともにこの穴に入って人身御供となったら雨が降ったという伝えがある(渡辺守順ほか『近江の伝説』五四頁)。この話をも牛供儀の例証とするのは思い過しであろうか。

2026年6月5日金曜日

20260604 株式会社白水社刊 トム・リース著 高里 ひろ訳「ナポレオンに背いた「黒い将軍」:忘れられた英雄アレックス・デュマ」 pp286-2288より抜粋

株式会社白水社刊 トム・リース著 高里 ひろ訳「ナポレオンに背いた「黒い将軍」:忘れられた英雄アレックス・デュマ」
pp286-2288より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4560084262
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4560084267

 どんよりと肌寒い十一月十日日曜日の明け方、ナポレオンは五〇〇〇人の軍隊に、五百人会の議員が集まるサン・クルー宮殿のオランジュリーを包囲するように命じた。最初はうまく事が運ばなかった。ナポレオンがオランジュリーに顔を出そうとすると、だまされた議員たちー全員が普段の服の上にゆったりとした赤い礼服をまとい、三色のスカーフを巻いていた―が「独裁者を倒せ!」と叫びだしたのだ。文民政治の経験に乏しいナポレオンは冷静さを失い、「おまえたちは今、一触即発の場にいるのだ!」と叫び返した。彼を非難する声が上がり、ののしりやつばまで浴びせられた。「独裁者を倒せ! 暴君を倒せ!」誰かがナポレオンの襟をつかみ、彼の体を揺すった。ボナパルト将軍を「追放」するための動議を議員が求めた。それは死刑宣告も同じだった。
 ナポレオンを救ったのは、五百人会議の年齢詐称議長リュシアンだった。仲間の代議士が兄に暴力をふるうのを見たリュシアンは、民主主義を侵害しているのはむしろおまえたちだ、と非難した。「ここには自由などない」と彼は叫び、スーツの上に着ていた赤い礼服を脱いで、演台の上に置いた。「諸君の議長は、公の喪のしるしに、民衆の行政官のシンボルを手放す」そう言うと、リュシアンは兄とともに即席の議場を出て中庭へと向かい、二人とも馬に跨った。リュシアンは馬上で軍隊に向かって演説し、「イギリス政府のあの破滅的な天才に触発されたに違いない、恐れを知らぬ盗賊が、五百人会に反旗を翻そうとしている」と告げた。彼は兄の名において、五百人会をこのような盗賊の手から解放し、彼らを議場から追い払うように、と兵士に求めた―「銃剣によって彼らを短剣から守り、われわれが共和国の運命を慎重に審議できるように」。
 ナポレオンは弟の演説の趣旨が兵士たちにうまく伝わらなかった場合に備えて、事を明確にしようとした。「抵抗する者がいたら、殺せ、殺せ、殺せ! わたしについてこい。わたしは戦争の神だ!」このときリュシアンは小声で、ここはエジプトではなくパリなのだから、黙っていたほうがよいと兄にささやいたと言われている。「相手はマムルークではないのですよ」そのあと、彼はこのクーデターで最も派手で効果的な身振りをしてみせた。ナポレオンの剣をつかんで鞘から抜くと、それを兄の胸に突きつけた。「もし兄が、フランス人の自由をおびやかそうとしたら、わたしが兄の心臓をひと突きにすると誓う!」このとき、エジプトで戦友のデュマ将軍とともにナポレオンの独断ぶりに文句を言っていたミュラ将軍は、騎兵たちに民主主義の秩序を破壊させる号令をかけた。馬を後ろ足で立たせ、軍刀を振りかざして「将軍万歳! 議長万歳!」と叫び、オランジェリーのドアを差して「突撃」と叫んだのだ。武装した騎兵隊が議場に侵入するのを見たフランスの議員たちは仰天し、窓に駆け寄ると、飛びおりて逃げだした。
 その夜、クーデターの協力者に回った何人かの代議士が、首謀者らとともに夜を徹して、ろうそくの明かりで作業を続け、採決をとり、文書を作成し、すべてを法に適合させた。午前三時には作業が終わった。フランスに新政府が生まれ、ナポレオンが第一統領に任命されて、三人の統領からなる上部組織のトップに収まった。必然的に、ほかの二名は彼の命令に従うことになった。”統領”という言葉は古代ローマを思い出させ、ローマでそうだったように、専制君主が最高位についたことを誰もが理解した。
 ヨーロッパのすべての物事、すべての人びとの運命は、まもなく三色の懸章を肩に掛けたこの独裁者の一存によって決められることになる。フランスの共和主義と民主主義の十年ー途方もない恐怖と希望に彩られた、いつまでも続くかに思えた奴隷解放の時代ーは終わった。