2026年2月13日金曜日

20260212 株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻 pp.34-39より抜粋

株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻
pp.34-39より抜粋
ISBN-10 : 4480084878
ISBN-13 : 978-4480084873

 日本人の世界観の歴史的な変遷は、多くの外来思想の浸透によってよりも、むしろ土着の世界観の執拗な持続と、そのために繰返された外来の体系の「日本化」によって特徴づけられる。         

 外来の世界観の代表的なものは、第一に大乗仏教とその哲学、第二に儒学、殊に朱子学、第三にキリスト教、第四にマルクス主義であった。この順序は、必ずしも厳密に、年代の順序ではない。仏教徒儒教は、おそらく同時に、6世紀の中頃に輸入された。しかしそれぞれの世界観が日本文化に圧倒的な影響を及ぼした時期は、仏教の方が儒教の場合よりも早い。仏教は、7世紀から16世紀までの文化の背景として、重きをなした。儒教のの影響は早くから現れて、14、5世紀以降いよいよ強まったが、体系的な世界観としての宋学の影響が決定的になったのは、17世紀以後である。キリスト教は、16世紀後半と19世紀末・20世紀前半の、マルクス主義は両大戦間の知識層に、大きな影響をあたえた。

 以上の他にも注意すべき外来思想として、先には老荘があり、後には西欧19世紀の科学思想があって、いずれも文学との関連において見すごすことができない。しかしそのいずれも、自然・人間・社会・歴史の全体を説明しようとする包括的な体系ではなかった。

 外来の四つの世界観は、すべて包括的な体系である。抽象的な理論を備え、ある場合には彼岸的であり(仏教・キリスト教)、他の場合には此岸的である(儒教・マルクス主義)が、いずれも超越的な存在または原理との関連において普遍的な価値を定義しようとする。すなわち大乗仏教における仏性、キリスト教における神、儒教における天または理、マルクス主義における歴史である。そこでたとえば、仏性が超越的であるから、菩薩の慈悲が善悪の慣習的な基準を超えて、万人に及ぶということにもなる。神が絶対者であるから、万人はその前で平等であり、神に保証された正義は、特殊な歴史的文化を超えて妥当する。天が君主に超越するから、革命(の古典的な意味)が成りたち、理が普遍的であるから、理とされる規範は社会的状況にに左右されない。歴史の法則が主観に超越するから、上部構造としての思想を進歩と反動の観点から説明することもできるのである。超越者が世界的な存在であれば、体系は彼岸的であり、世界内在的な原理であれば、体系は此岸的である。中国の伝統的な世界観は、印度・西欧の場合と異り、此岸的であった(老荘もその例に洩れず)。日本に印度の影響が及んだのは、中国文明を介してであり、西洋の影響が及んだのは、後の時代になってからの事である。したがって中国的世界観の此岸性は、日本の土着の文化の此岸性を保存するのに役立ったはずだろう。おそらく東アジアの文明の全体について、その思想的特徴は、中国の場合にも、日本の場合にも、共通の此岸的正確であるといえるのかもしれない。しかし今しばらくその面を措いて、外来の世界観の、中国思想の場合も含め、抽象的・理論的・包括的な性格、超越的な原理と普遍的な価値への志向についていえば、それこそはまさに土着の世界観と対照的であるが故に、決定的な影響を日本文化にあたえたのである。

 本来日本的な世界観の構造を叙述することは、明示的な理論体系の特徴を列挙するほど容易ではない。神道の理論的な体系は、卜部兼俱から平田篤胤に到るまで、儒・仏・道、またキリスト教のの概念を借用している。外来思想の影響をうけない神道には理論がない。そこで儒・仏の影響が少いとされる記・紀・風土記から土着的と想像されるものの考え方を抽象するほかはないだろう。一方でそれは民俗学的資料と照合し、他方では後代の文献と対比する。そうして想像することができるのは、おそらく下っても4、5世紀の頃には成立していたであろう非超越的な世界観である。その背景には、祖先崇拝・シャーマニズム・アニミズム・多神教の複雑な信仰体系があり、地方によって内容を異にする。その世界観の特徴えおさしあたり要約すれば、およそ次のようにいえるだろう。抽象的・理論的ではなく、具体的・実際的な思考への傾向、包括的な体系にではなく、個別的なものの特殊性に注目する習慣。そこには超越的な原理がない。カミは全く世界内存在であり、歴史的には神代がそのまま人代に連続する。しかもそのカミは無数にあって(八百よろずのカミ)、互いに他を排除しない。当然、唯一の絶対者はありえない。いかなる原理も具体的で特殊な状況に超越しないから、超越的な原理との関連においてのみ定義されるところの普遍的な価値も成りたたない。しかしもちろん、そういうことは、特定の個人にとっての絶対的な価値がありえないという意味ではない。それどころか特定集団の首長が、その集団の成員にとっては、しばしば絶対的な権威となり、忠誠が絶対的な価値となった(天皇制国家からヤクザまで)。しかし他の集団の成員にとっては、その権威は通用しないし、その首長への忠誠は価値ではない。たとえばヤマトタケルがクマソを征伐したのは、自己の集団を拡大するためで、当事者の双方に妥当する価値を実現するためではなかった。その伝統は、少なくともたてまえとして、聖地を解放するために戦った十字軍の話と、根本的に異なる。十字軍の目的は、彼ら自身もトルコ人にも妥当するはずの神の正義を実現することであった。

 このような土着の世界観が、外来の、はるかに高度に組織され、知的に洗練された超越的世界観と出会ったときに、どういうことがおこったか。第一に、外来の世界観がそのまま受け入れられた場合があり、第二に、土着の世界観を足場としての拒絶反応があった。しかし第三に、多くの場合におこったことは、外来の思想の「日本化」である。外来の思想が高度に体系的な観念形態であった場合には(儒・仏・キリスト教・マルクス主義)、その「日本化」の方向は常に一定していた。抽象的・理論的な面の切り捨て、包括的な体系の解体とその実際的な特殊な領域への還元、超越的な原理の排除、したがってまた彼岸的な体系の此岸的な再解釈、体系の排他性の緩和。たしかに少数の例外もあった。また以上の方向のどの面がめだつかも、場合により異なっていた。しかし外来の世界観の体系が日本の歴史過程のなかで変化したとき、変化には必ず一定の方向があり、逆の方向へ変った例はない。ということは、当然、変化を引きおこした力が、歴史のあらゆる時代を一貫し、遂に今日に到るまで失われなかったことを示唆するだろう。その力の主体を土着の世界観と称ぶこともできる。それは「土着の世界観」の一つの定義である。かくして日本文化の背景には、常に、外来の世界観、土着の世界観、日本化された外来種の世界観があったということができる。

2026年2月12日木曜日

20260211 中央公論新社刊 「自由の限界」世界の知性21人が問う国家と民主主義 中公新書ラクレ pp.39-42より抜粋

中央公論新社刊 「自由の限界」世界の知性21人が問う国家と民主主義 中公新書ラクレ
pp.39-42より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4121507150
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121507150

日本が人口減少に転じてほぼ10年になる。出生率は20年間にわたって非常に低い。国民の年齢中央値は約46.9歳に至り、世界で最も老いた国民と言える。日本は人類にとって未知の領域を進んでいる。
 人口が減っても問題はないと主張する人々がいる。「ひとり当たりの生産性が向上するから」「世界一の日本のロボットが生産を担うから」というような理由を耳にする。ロボット待望論は日本人の秘めた夢ではなかろうか。人口減少で労働力不足が甚だしくなり、移民受け入れが不可避となる前に、完璧なロボットが登場するという夢だ。確かに日本のロボット技術は素晴らしい。加えて、日本の高齢者は定年後も働き続ける意欲を持つ。
 しかし、日本の課題はモノの生産ではない。日本は経済的豊かさを既に手にしている。真の課題は人口の再生産にある。国が繁栄し、居心地も良く、創造的であるためには、十分に若い人口を持つ必要がある。高齢者は既知の技術・知識を使う仕事はできるが、創造し、刷新する仕事は難しい。ロボットは人口を再生産できない。高齢者とロボットの働く社会はうまく機能した場合でも、停滞は免れまい。知的な刷新を可能にするには、人口構造が十分に若くなくてはならない。
 解決策は二つ。一つは子供を作ること、もう一つは移民を受け入れること。前者の方がより大事だが、二つを組み合わせて実施することが効果的だ。だが、日本に出生率回復の決め手はなく、移民受け入れは文化的に容易でない。人口問題は人々がその深刻さを理解する頃には、危機の度合いは加速度的に進んでいるものだ。私の見るところ、日本は決定的に重大な瞬間に近づいている。
 
「同質」の起源
 日本は今、なすべきことは人口問題の大議論だ。同様に重要なことは、明治維新からの近代化の歩みを再検討することだ。
 私見では、日本が人口減少に至ったのは、この150年の近代化のあり方に原因がある。日本は申し分のない社会を築いたと大帝の日本人は感じているため、新たに子供を加えること、移民を受け入れることは申し分のない社会に余分な混乱を与える、と案じているのではなかろうか。
「日本人は同質・均質で、調和を重んじる」という日本の自己イメージは、近代化を通じて作られた。
「家督を相続するのは長男ひとり」という「直系家族」は明治時代に天皇家を対象に法制化され、その後に制定された民法によって社会全体の規範になる。
 明治日本は科学技術・経済・憲法で大いなる近代化を遂げた。直系家族は上下関係に価値を置き、上意下達の社会をうむ。伝達は極めて効率的で、科学技術と経済の発展に寄与した。これは欧州の後発国ドイツにも当てはまる。日独ともに西洋の列強に追いつく。
 しかし、上下関係に基づく秩序は次第に絶対視されるようになり、父権が強化され、社会の制約が増して、社会が硬直化していく。
 今日の日本で直系家族は消滅し、女性の半数近くは大学に進んでいる。にもかかわらず、上下関係重視や女性差別は解消されていない。価値観が硬直しているように見える。
 江戸時代は、秩序は行き渡らず、雑然としていて、柔軟で奔放な側面もあった。庶民の過酷な貧困について承知しているが、女性は今日よりも社会的に自由だったのではなかろうか。こうしたことを速水融先生とその門下の研究から読み取った。
 西洋の意識に日本が立ち現れるのは、明治時代の1905年、ロシアに勝利した時だ。西洋は驚愕したが、日本は西洋の国際政治の独占を破ったことで歴史に貢献したと私は考える。日本はその後、植民地主義を採るが、私の解釈では、西洋列強の模倣に努めた結果だ。列強が植民地を強奪するのなら、日本も持つべきだ、と。
 日本の歴史を大局的に見れば、日本は拡張主義に走る懸念の少ない、平和国家だ。江戸時代は鎖国しながらも、知的・科学技術的情報は国外から取り入れ、国内商業を発達させて、長期の安定を築いた。ほとんど独りでも発展が可能なことを日本は世界に示した。
 日本に今、必要なことは江戸時代の精神を見いだし、江戸時代の柔軟さや奔放さや奔放さを少しは取り戻すことではなかろうか。

2026年2月10日火曜日

20260209 中央公論新社刊 エルンスト・H・ゴンブリッチ著 中山 典夫訳「若い読者のための世界史」改訂版 pp.311-313より抜粋

中央公論新社刊 エルンスト・H・ゴンブリッチ著 中山 典夫訳「若い読者のための世界史」改訂版
pp.311-313より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4122072778
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4122072770

きみは、1500年ころからローマでは、ルネサンスの教皇たちが聖職者であるということよりも華やかさとか権威とかを大切にし、有名な美術家を使って豪華な教会を建造していたことをおぼえているね。とくに、すでにフィレンツェで芸術に贅をつくしていたあのメディチ家のふたりの人物が教皇の地位についてからは、ローマでは、まるで奇跡とも思える巨大な建物がつぎつぎと天を目指して築かれていったのだ。コンスタンティヌス大帝が創建したと伝えられ、かつてそこでカール大帝が皇帝の冠をさずけられたあの古代のサン・ピエトロ(ペトロ)大聖堂さえも、もはやものたりなく思えた。そこで、それに代わる途方もない規模とこれまでにないうつくしさをもつ、新しい教会を建てようとしたのだ。もちろん、それには莫大な費用を必要とした。それをどのようにしてあつめるか、それは当時の教皇たちにとってはたいした問題ではなかった。方法はどうでもよい。豪華な教会を建てる資金があつまればよかったのだ。そこで司祭や修道士たちの多くは、教皇に気に入られるため、教会の教えとは合致しないやり方で資金をあつめることをはじめた。

彼らは、罪の赦しを金にかえた。「免罪符」とよばれるものを売ったのだ。たしかに教会は悔いた罪は赦されると教えた。しかしこの「免罪符売り」は、その教えと合致するものではなかった。

 そのころドイツのヴィッテンベルクに、アウグスティヌス修道会に属するマルティン・ルターという名の修道士がいた。1517年、当時のもっとも有名な美術家ラファエロの指導のもとで新しいサン・ピエトロ大聖堂の建設がはじまった。同じ年、その資金をあつめるためにひとりの免罪符売りがヴィッテンベルクにもやってきた。そのときルターは、この非教会的な免罪の濫用を世に知らせようと、95項目の条文を書いた板をヴィッテンベルクの教会の扉に打ちつけた。そのなかで彼は、罪の赦しという神の恩寵を金銭で取り引きすることをはげしく攻撃した。ルターにとって、罪の赦しという神の恩寵は、けっして金などであがなえるものではなかった。彼は、つねに自分自身をすべての罪びと同様神の怒りをおそれねばならない罪びとと感じていた。神の罰から救ってくれるものはただひとつ、神の無限の恩寵だけである。それを人間は、金で売買することなどできない。いかなる善人といえども、すべてを見る、すべてを知る神の前では、罰にあたいする罪びとである。ただ、神のあたえたまう恩寵への信仰のみが、罪びとを救うことができるのである。ただ、神のあたえたまう恩寵への信仰のみが、罪びとを救うことができるのである。それ以外は何もない。

 このことをルターは、やがて免罪とその濫用をめぐるはげしい争いのなかで、いっそうはっきりと、そしてもはや絶対的なものとして主張するようになった。信仰以外、何もいらない。信者をミサをとおして神の恩寵に参加させる司祭や教会さえ、無用である。神の恩寵は、仲介されるものではない。ただ神に対する個人の堅い信頼と信仰のみが、信者を救うことができる。教えの大いなる秘儀、聖なる晩餐にてキリストの肉を食しキリストの血を杯で飲む、ただこの大いなる秘儀を信じるだけである。何ぴとといえども、他人をたすけて神の恩寵を得させることはできない。信じる者は彼自身が司祭である。教会の司祭は、たんに教師、協力者にすぎない。それゆえ彼も、他の人間と同じに生きることがゆるされ、結婚もゆるされる。信じる者に教会の教えはいらない。彼は自分で、聖書のなかに神の教えをさがせばよい。聖書のなかにあるもの、それだけがすべてである。これがルターの考えであった。

2026年2月6日金曜日

20260205 株式会社講談社刊 東浩紀著「動物化するポストモダン」オタクから見た日本社会 pp.56-58より抜粋

株式会社講談社刊 東浩紀著「動物化するポストモダン」オタクから見た日本社会
pp.56-58より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061495755
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061495753

 大きな物語の凋落とその補填、というメカニズムは、もう少し視野を広げても位置づけることができる。20世紀の後半はそもそも、日本だけでなく、世界的に、二つの時代に挟まれた大きな変動期だった。50年代までの世界では近代の文化的論理が有力であり、世界はツリー型で捉えられていた。したがってそこでは必然的に、大きな物語がたえず生産され、教育されmまた欲望されていた。たとえばそのひとつの現われが学生の左翼主義への傾倒だった。

 しかし時代は60年代に大きく変わり、70年代以降は、逆に急速にポストモダンの文化的論理が力を強める。そこではもはや、おおきな物語は生産もされないし、欲望もされない。ところがこのような変動は、ちょうどその時期に成熟した人々に大きな負担を与える。なぜなら彼らは、世界そのものがデータベース的なモデルで動き始めているにもかかわらず、教育機関や著作物を通じて、古いツリー型のモデル(大きな物語への欲望)を植え付けられてしまっているからだ。結果としてこの矛盾は、特定の世代を、失われた大きな物語の捏造に向けて強く駆動することになる。ここでは詳しく述べないが、たとえば、70年代のアメリカで高まったニューサイエンスや神秘思想への関心、世界的に生じた学生運動の過激化などはそのひとつの結果だと考えられる。そして日本のオタク文化の台頭もまた、やはり同じ社会的背景を共有している。当時の第一世代のオタクにとって、コミックやアニメの知識や同人活動は、全共闘世代にとっての思想や左翼運動ときわめて近い役割を果たしていた。

大きな物語を必要としない世代の登場

 しかしそのような複雑な心理がいまでもオタク系文化を規定しているかといえば、それはまた別の問題である。むしろ筆者には、逆に、紺代からポストモダンへの流れは、進むにつれて、そのような捏造の必要性を薄れさせていくように思われる。というのも、ポストモダンの世界像のなかで育った新たな世代は、はじめから世界うぃデータベースとしてイメージして、その全体を見渡す世界視線を必要としない、すなわち、サブカルチャーとしてすら捏造する必要がないからだ。もしそうだとすれば、失われた大きな物語の補填として虚構を必要とした世代と、そのような必要性を感じずに虚構を消費している世代とのあいだに、同じオタク系文化といっても、表現や消費の形態に大きな文化が現われているに違いない。

 そして実際にその新しい傾向は、大塚の評論が発表されたあと、90年代の10年間でかなりはっきりと目に見えるものになってきた。90年代のオタクたちは一般に、80年代に比べ、作品世界のデータそのものには固執するものの、それを伝えるメッセージや意味に対してきわめて無関心である。逆に90年代には、原作の物語とは無関係に、その断片であるイラストや設定だけが単独で消費され、その断片に向けて消費者が自分で勝手に感情移入を強めていく、という別のタイプの消費行動が台頭してきた、この新たな消費行動は、オタク自身によって「キャラ萌え」と呼ばれている、後述のように、そこではオタクたちは、物語やメッセージなどはほとんど関係なしに、作品の背後にある情報だけを淡々と消費している。したがって、この消費行動を分析するうえでは、もはや、それら作品の断片が「失われた大きな物語」を補填している、という図式はあまり適切でないように思われる。

2026年2月3日火曜日

20260203 株式会社河出書房新社刊 イタロ・カルヴィーノ著 須賀敦子訳 「なぜ古典を読むのか」 pp.17-19より抜粋

株式会社河出書房新社刊 イタロ・カルヴィーノ著 須賀敦子訳 「なぜ古典を読むのか」
pp.17-19より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 430946372X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309463728

 古典とは、他の古典を読んでから読む本である。他の古典を何冊か読んだうえでその本を読むと、たちまちそれが「古典の」系譜のどのあたりに位置するものかが理解できる。

 この時点で私は、ひとつの決定的な問題、すなわち古典を読むことと、古典でないすべての他の読書とを、どう関連づけるかについては書かずにはいられない。つぎのような疑問が、この問題とかかわっている。「もっと根本的なところでわれわれの時代を理解するのに役立つ本を読まないで、なぜ古典を読めというのか」そして、「時事問題にかかわる印刷物がなだれのようにわれわれを圧し潰そうとするこの時代に、古典を読む時間や余裕はどこにあるのか」。

 一日のある部分を。ルクレティウスや、ルキアノスモンテーニュエラスムスケベードマーロウ方法序説ヴィルヘルム・マイスターラスキンプルーストヴァレリー、ときに気が向けば紫式部、あるいはアイスランド・サガなどを読むためだけに、「読書の時間」をもうけている幸福な人間を想像してみよう。それも、出たばかりの新装本の書評を書く仕事、教授資格をとるための論文執筆、契約でひきうけた編集の仕事の切迫した締切りなども、この人には関係ないとしよう。この幸福な人は自分が汚染されないために、読書のダイエットをきびしく守り、新聞を読むことも新刊小説や最近行われた社会調査の誘惑からも、つねに自分を守らねばならない。さて、このような厳格主義がどれほど正しいか、あるいは有益かは、一応、別の問題として措くことにする。時事問題のたぐいは月並で不愉快なものかもしれないけれど、前に進むにしても、後に退くにしても、とにかく自分がどこに立っているかを、わからせてはくれる。そして、古典を読んで理解するためには、自分が「どこに」いてそれを読んでいるかを明確にする必要がある。さもなくば、本自体も読者も、時間から外れた雲のなかで暮らすことになるからだ。古典をもっとも有効に読む人間は、同時に時事問題を論じる読物を適宜に併せ読むことを知る人間だと私がいうのは、こういった理由からである。そのためには、かならずしも内面の静寂を前提としない。忍耐が足りなくていらいらしているときも、なにかが不満でうんざりしているときでも、古典は読める。

 理想をいえば、時事問題その他は、窓のそとの騒音ぐらいに思えるのがいちばんいい。窓のそとでは交通渋滞や天候不順があることを知りながら、部屋にいて古典の言説の透徹した格調たかいひびきに耳をかたむける、というのが。しかし、音声をいっぱいにあげたテレヴィジョンみたいな時事問題の喧騒に満ちた部屋にいて、遠くに聞こえる轟音ほどに古典の存在を感じられるなら、それでもずいぶんとましなのである。

20260203 株式会社ゲンロン刊 東浩紀著「テーマパーク化する地球」 pp.165-167より抜粋

株式会社ゲンロン刊 東浩紀著「テーマパーク化する地球」
pp.165-167より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4907188315
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4907188313

 では、そもそも人文学とはなにか。さまざまな定義があるだろうが、筆者はそれを、反復不可能な歴史を扱う知と考える。他方で自然科学は、反復可能な事象を扱う知だと考える。より正確にいえば、反復不可能に見える現象を反復可能な相のもとで捉え返す、それこそが自然科学の本質だと考える。ダーウィニズムは歴史を扱うではないかと反論が来そうだが、吉川浩満が「理不尽な進化」で指摘したとおり、進化論はまさに反復可能性と反復不可能性の矛盾に切り裂かれた学であり、だからこそ逆に自然科学の本質を照らし出している。

 人文学者は、「この歴史」をたった一回の奇跡として受け取る。したがって、偶然としか考えられないような歴史の細部もすべて重視し、伝統の継承なしには前に進めないと考える。対して自然科学者は、「この歴史」を、無限の反復のなかの一例、統計のひとつのサンプルと解釈する。彼らにとって、本質は歴史ではなく歴史を産出する原理のほうであり、したがって、偶然の出来事はノイズとして排除すべきだし、教科書は新しければ新しいほどよいと考える。人文学と自然科学の制度や慣習のちがいは、基本的に歯この差異から帰結する。

 このように整理すればあきらかなように、人文学と自然科学は、どちらが正しいとか、どちらが優位とかいったものではない。人間は、普遍を認識することができるが、実存としてはただいちどしか生きることができない。人類は、普遍的な認識に到達することができるが、その認識へはひとつの歴史を通してしか到達しない。人文学と自然科学の「対立」は、このような人間の存在構造そのものにより生み出されたものであり、「学際的」云々によって乗り越えられるようなものではない。人間は、人文学だけで生きていけないのと同じように、自然科学だけでも生きていけない。そもそも自然科学はその本質において自律的ではない。反復可能な事象を扱う自然科学、それそのものが反復不可能な「ヨーロッパ近代」の産物でしかないという矛盾については、かつてフッサールが「ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学」で扱い、またデリダも、同書付録論文への長いコメンタリーである『「幾何学の起源」序説』で主題としている。

 さて、あらためて依頼された主題に立ち返るとするならば、それゆえ、人間が人間であるかぎり、人文学がなくなることはないというのが筆者の考えである。人類が、ただいちど「この歴史」のなかでしか文化を築けないかぎり、いくら自然科学が発達し世界の物理的制御力が増したとしても、人文学の伝統が消え去ることはない。かりに人間が生物学的には人間ではなくなり、意識が情報になり、記憶が反復可能になり、「わたし」の数が無限に増殖可能になったとしても、そのなかに「このわたし」がいるかぎり、文学や哲学がなくなることはない。その点で人文学の未来は保証されている。人文学を必要とする人間はかならずいる。ただし、その従事者が、これからも現在のような優遇された労働環境を享受し続けることができるか、前世紀までのような社会的影響力をふたたび回復することができるのかといえば、それは保証のかぎりではない。

 人間が人間であるかぎり、人文学がなくなることはない。それは裏返せば、自分が人間であることに気づかない人間にとっては、人文学はほとんど価値がないということである。そして、いつの時代も、たいていの人間は自分が人間であることに気づいていない。

20260202 株式会社岩波書店刊 亀山郁夫著「ショスタコーヴィチ:引き裂かれた栄光」」 pp.364-365より抜粋

株式会社岩波書店刊 亀山郁夫著「ショスタコーヴィチ:引き裂かれた栄光」」
pp.364-365より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4006023715
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4006023713

 1957年、すなわちロシア革命40周年の記念すべき年、ショスタコーヴィチは、第一次ロシア革命を描写的に描く交響曲11番を完成させる。その初演は、同年10月30日、N・ラーフリン指揮、ソヴィエト国立交響楽団の演奏によって行われた。スターリン亡き時代にあって、この交響曲が、その長大さにもかかわらず、革命20周年を記念する交響曲第5番ほどの複雑な内面性をもたなかったことは明らかである。他方、20世紀初頭の革命歌をふんだんに使用した第4楽章は、文句なしに祝祭の音楽と意味づけることができるもので、そのメッセージ性の高さからしてめざましい成功を収めることができたのは当然のことだった。初演からまもなく開かれた作曲家同盟の会議でも、「けたはずれのリアリスティックな力強さを感じさせる作品」との評価が与えられた。

 全体で4つの楽章からなっており、それぞれの楽章に標題がついている。 

 第1楽章「宮殿前広場」は1905年1月9日(ユリウス暦)に起こった「血の日曜日」事件の不気味な予感を漂わせる音楽で、革命歌「開け!」を引用しつつ、革命前夜の不穏な空気を伝える」。アレグロによる第2楽章は。「1月9日」と題されており、低弦による不気味なうごめきが、民衆の行進を描き出す。ドルマトフスキーの詩につけた「革命詩人による10の詩」から第6曲「1月9日」の自己引用がなされ、トランペットの合図によって皇帝軍による虐殺の場面が描かれるが、弦楽器とチェレスタによる音楽はまさに葬送とレクイエムのシンボルと見ることができる。これは、エイゼンシテインの映画「戦艦ポチョムキン」の名場面「オデッサの階段」の伴奏として使用され大きな注目を浴びた。周知のように、「永遠の記憶」と題された次の第3楽章では、二つの革命歌(「同志は斃れぬ」「こんにちは、自由の自由なる言葉よ」)が引用され、力強いクライマックスを迎えたあとに再びレクイエム風の音楽に戻る。第4楽章「警鐘」は、金管楽器による革命歌「狂うがよい、暴君どもよ」、次いで「ワルシャワ労働歌」が使用され、炸裂する音楽ののち最後は帝政ロシアへの警鐘によって閉じられる。

 いかに内面的な複雑さを持たない音楽でも、ショスタコーヴィチにおいてはつねに「二番底」の存在を疑ってかからなくてはならない。十月革命40周年という記念すべき年にふさわしい音楽として、1905年がテーマとして取り上げられること自体、さして問題はない。しかし、この革命がそもそも挫折した革命であることを彼はどう受け止めることができたのだろうか、しかもこの曲が書かれる前年にハンガリー事件が起こり、ショスタコーヴィチ自身が知人を介してその事件の内実にかなり深く通じていた事実もある。