2026年6月2日火曜日

20260601 株式会社講談社 講談社学術文庫 徳富蘇峰著「読書法:読書九十年」pp.20‐23より抜粋

株式会社講談社 講談社学術文庫 徳富蘇峰著「読書法:読書九十年」
pp.20‐23より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061585347
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061585348
 
 予は必ずしも書物の中に成長したものではない。わが家は横井小楠のいわゆる実学連の仲間であり、父は小楠門下ではいささか名の知れたる一人であった。実学連では読書は第二義であって、横井その人は学者であったが、門人には書物を読むことをむしろ奨励ぜずして、 なるべく実際についてその知見を磨くことを奨励した。そのために書物を読む者は詞章記誦の徒としてむしろこれを退けるの風があった。そのために、横井門人中には「大学」一巻を繰返し講義して、それで大先生として立った者もいた。ところが予の父はその仲間ではむしろ読書人であった。その読書人であった理由は、わが家が読書に縁のある家であり、わが父が横井の門人となる以前に熊本時習館教授近藤淡泉先生の門人としてその青年の若干期間を過ごしたためである。
 予の家は細川の殿様よりもむしろ先に肥後に落ちついたものである。細川家は寛永年間に 加藤氏の後を承けて肥後の殿様となったが、予が家は殿様入国以前から、肥後の南端、薩摩 に境する葦北郡の水俣に住したる郷士であった。もとより郷士であり、殿様から禄を貰うでもなければ、武士としての特権を持っているでもなく、ただ山を拓き海を干拓して自給自足で過ごしていたのであって、きわめて呑気な生活をして代々過ごしてきた。そのうちに予の父の曾祖父、予より五代の先祖に徳富久貞というという者があり、これが自分は学者ではなかったが、学者との交通をなし、そのうちに自然に文教の必要を感じて、自らわが郷里の水俣に学校を建て、先生を熊本時習館より聘して、ここに初めてわが郷の学問はその曙光を発したのである。久貞の友人には辛島塩井・高本紫冥・富田日岳などがその主なるものであって、辛島は山陽の父春水の友人であり、春水とともに徳川将軍に召出され昌平黌の講筵に臨んだものである。高本は本来の儒者ではあったが、本居宣長などと交わり、国学に力を致したるものである。富田は高山彦九郎の親友で、九州においては討幕の率先者といっても差支えない。かかる交際であって、彼が死んだときには、彼の墓には辛島塩井がその墓碑銘を書いている。
 德翁有志。興起斯中。家則教子。邑則勧農。既老益壮。惟学惟崇。延師興庠。民始発朦。 
(徳翁志有って、この中より興起し、家にはすなわち子を教え、邑にはすなわち農を勧む。既に老ゆるもますます壮なり。これ学びこれ崇び、師を延いて、庠を興す。民始めて朦を発けり。)
 この意味は訳すれば、熊本は大藩であるが、その領地の水俣は薩摩に隣し文化には遅れている。海や山に被い包まれ、人民は生活が豊かで風俗も醇朴である。徳富翁はこの郷に興って家ごとにその子弟を教え、村ごとにその農業を勧め、老年に至るまでいよいよ壮んで、学問を尊び教師を招きて学校を興し、そこでその人民も初めて文化の光を見るに至った。
 これは少しは掛値があるかもしれぬが、実際その通りであって、その学校には相当の蔵書 があった。その目録だけは予の家になお保存しているが、不幸にして書物は散乱してそのうちのきわめて小部分しかない。しかし、散乱したとはいうものの、田舎郷士の家としては相当の蔵書家といっても差支えない。それは熊本から郡奉行などが出張している際、常に予の家から書物を借用しそれを運んでいったことなど、予は今なお目のあたり見たことを記憶している。
 予の母は矢島家の出であって、その同胞は一男七女、母は第四女であって竹崎順子の妹で 横井常世子・矢島楫子の姉である。横井津世子は小楠の妻であり、竹崎順子・矢島楫子などは、大がい現代の婦人についての知識ある者はその名を知っているであろう。しかして、予の外祖母は当時の女性としては相当の教養があって、その筆跡などを見てもまことにりっぱなものである。彼女についてはさすがの横井小楠もよほど感心したとみえて、自ら筆をとってその墓碑を書いている。
 右のごとく、予が家には書物があり、父母ともに読書に縁のある者であって、自然予もそ の雰囲気のうちに成長してきたから、いやでも応でも書物の虫とならざるを得ぬような環境 に置かれていた。ことに予は上に五人の姉を控えて晩年に生れたものであるから、父母が予 を教育することは、実を言えばいささか有難迷惑であって、いわゆる教育に食傷したほどである。「大学朱熹章句」などは母の乳を吸いつつ教えられたものである。「唐詩選」とか「雪中の松柏愈々青々たり」などという詩などは、すべて母の膝の上にあって覚えたものである。したがって予は寺子屋に行くころには相当に読書の方には趣味もあったが、予にとって最も苦手であったのは習字である。寺子屋では読書が三分であとの七分は習字である。われらが寺子屋生活は歌舞伎座の「菅原伝授手習鑑」で見た通りのことをやってきたのである。予はそのうちの涎くりではなかったが、字を書くことについては本来嫌いである。それで習字の時間には非常に困った。清書などは無茶苦茶にやってのけたから、今でも覚えているが、予が清書のときに「ね」の字を書いたら、先生が朱筆をもって、その傍らに「猫のようである」と評をつけてくれたことがある。実際予は徳の字はともかく書いたが、富という字を書くことは、『四書」の素読をなしつつある時代においても、ようやく片仮名で書いたくらいである。初めからこの人間がいかに均斉のとれざる、智能の円満に発達せざる一種の身障者であったかがわかる。

2026年5月31日日曜日

20260530 2471 記事に到達して思ったこと:引用記事の起源?

 直近の記事投稿により、総投稿記事数が2471に到達しました。そして残り30記事未満の投稿により、当面の目標としている2500記事まで到達することが出来ます。当ブログ開始当初の3年間は、ほぼ毎日1記事のペースで作成・投稿していましたが、そのためか当時は、毎日が眠かったことを記憶しています。これは、夜半に作成していたから眠かったのであるか、あるいは、たとえ眠くとも、作成していたのかは、現在となっては判然としませんが、いずれにしましても、当時の行為があったことから、現在も、どうにか、当ブログを継続することが出来ているのだとは云えます。それでも、投稿記事数が2400を超え、継続期間が11年近くになっても、未だ実感はなく、また同時に、文章作成に対する自信も乏しく、未だに毎回、綱渡りで作成しているような感覚があります。また、そうした感覚であっても継続出来ていること自体が実は驚くべきことであるのかもしれません…(苦笑)。また、去る5/25投稿『身体感覚と文献資料との記号接地の感覚について:南紀での記憶から』にて「ブログ記事の題材に困ることがあれば、南紀でのことを思い出して書けば良い」と述べましたが、たしかに、記事作成の際、地理関係の確認のため、グーグル・マップにて場所を確認していますと、その作業に付随して、また他の記憶も想起して、その要点をいくつかの単語や短い文章を下書きとして保存して、後日、それを見て、再度、その記憶を想起して、新たなブログ記事作成に繋がれば良いのですが、こうしたことは、毎度上手く行くわけではないようです…。それでも、以前に保存していた下書きを、久しぶりに開き、その続きを作成して、新たな記事作成が比較的スマートに出来ることも度々あります。それ故、こうした下書きは、出来るだけ作成しておいた方が良いと考えます。また、私見となりますが、このことは読書での犬耳(dog-ear)とも通じるものがあると考えます。以前より引用記事の投稿がしばらく続くことが度々あり、また、今後もあると思われますが、それらの引用記事は、まさに、さきの犬耳(dog-ear)のおかげで毎回比較的スムーズに選定して、作成することが出来ていると云えます。おそらく、引用記事のみの作成であれば、今後1~2年程度は、さらに継続することが出来るとものと考えます。書籍からの引用記事は、元来、収入を企図しない当ブログにおいても考慮して、周囲の人文系の研究者の方々にご意見を伺い、現在のようなスタイルにしましたが、後に2020年からのエックス(当時はツイッター)との連携以降は、それまでに作成した引用記事を連繋して用いることが多くなり、また、その効果によって、より多くの引用書籍の購入に繋がれば良いと考えます。しかし、そのように考えてみますと、私の場合、社会人になっても読書する習慣を維持したからこそ、その後、大学院に進むことが出来、学位取得、そして、その後のいくつかの就職にも繋がったのだとも云えますので、あるいは、当ブログの本質・エッセンスとは、これまでの読書で興味深いと感じた著作・記述を開陳する目的で作成した引用記事であったのではないかとも思われるところです…。そして、この興味深い書籍・記述の開陳を実際に行っていた時期のはじめを想起しますと、それは、和歌山市在住の文系大学院生時代の頃であり、そのことも、以前にブログ記事題材にしていたことが思い出されました。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

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20260530 腸内細菌叢に関する資料をあたり思ったこと

 我々の身体の中には、もう一つの生態系とも云うべき腸内細菌叢が存在しています。そして、これは単に食べ物を分解するだけの存在ではなく、免疫機能の調整、代謝の制御、慢性炎症の抑制など、全身の恒常性を支える重要な役割を担っています。こうした知見は、近年、腸内細菌叢の研究が急速に進展したことに因るのですが、その背景には、次世代シーケンサー(NGS)の登場があります。これにより、従来の培養法では観察することが困難であった多くの腸内細菌をDNA配列から直接解析できるようになり、そこから、我々の腸内には想像をはるかに超える多様な細菌・微生物が共生していることが明らかになりました。そしてまた、この次世代シーケンサー(NGS)による技術革新は、人間を一つの生物として捉える従来の見方から、人間と微生物との共生体(ホロバイオント)として理解する新たな視点をもたらしました。
 こうした視点に基づき、昨今、欧米ではアッカーマンシア属(Akkermansia muciniphila)が「次世代の善玉菌」として注目を集めています。この菌は腸粘膜を覆うムチンを利用しながら生育し、腸管バリア機能の維持や代謝調節との関連が報告されています。一方で、他の研究からは、我々日本人では欧米人に比べてアッカーマンシア属の割合が低い傾向も報告されています。とはいえ、こうした腸内環境の違いから「我々日本人の腸内環境は欧米人よりも劣っている」と考えることは適切ではありません。むしろ、そこには長い歴史の中で形成されてきた食文化や生活環境への適応の結果として、それぞれ異なる特徴を持つ腸内細菌叢が形成されたのだと云えます。
 そして、こうした特徴の違いは、欧米社会における一神教的な世界観と、我々の社会における多神教的なそれに例えることが出来るのではないかと考えます。もちろん、実際の腸内細菌叢は極めて複雑であり、単一の菌が全体を支配しているわけではありません。しかし、欧米の研究では、アッカーマンシア属のような特定の有益菌が腸粘膜の恒常性維持に重要な役割を果たしていることが多数報告されています。言い換えますと、比較的目立つ中心的な存在がいる構図として理解することが出来るのではないかと考えられます。
 これに対し、我々日本人の伝統的な食生活には、海藻、野菜、豆類などの食物繊維や、味噌、納豆、漬物などの発酵食品が数多く存在します。こうした環境では、プレボテラ属をはじめとする多糖類分解菌や、海藻由来成分を利用できる菌群など、多様な細菌がそれぞれの役割を担いながら相互に代謝産物をやり取りし、その結果として短鎖脂肪酸の産生や腸管環境の維持に寄与しています。そのため、我々日本人の腸内細菌叢は、特定の菌種のみが突出して機能するというよりも、多様な菌群が相互に補完しながら働く「分散型」の生態系として理解することが出来ると考えます。また、こうした様相は、まさに「八百万の神々」が、それぞれ固有の役割を担いながらも全体として均衡を保つ、多層的で柔軟な秩序にも通じるように思われます。
 そして、こうした腸内細菌叢の特徴や傾向を考える上で、近年注目されているのが「口腸連関(oral-gut axis)」です。お口は単なる食物の通り道ではありません。毎日大量の細菌が腸へと送り込まれる消化管の最初の入り口です。そのため、口腔内環境が乱れてしまうと、本来は口腔内に留まるべき細菌が消化管へと流入し、腸内細菌叢や全身の炎症状態に影響を及ぼす可能性があることが指摘されています。
 特に歯周病関連菌として知られるフソバクテリウム・ヌクレアタム(Fusobacterium nucleatum)は、近年、大腸がんや炎症性疾患との関連が世界中で研究されています。この菌が直接病気を引き起こす原因であると断定することは出来ませんが、腸内の炎症環境に関与する可能性が示されており、腸内生態系のバランスを乱す要因の一つとして注目されています。
 そして、先述しました我々日本人の多様性のある腸内細菌叢は、多くの菌が協力しながら機能することで安定性を保っています。そのため、お口から炎症性細菌が継続的に流入する状況が続きますと、その細菌叢のバランスに少なからぬ影響を与える可能性があります。また逆に云えば、お口の健康が維持されていれば、腸は余計な炎症刺激にさらされにくくなります。もちろん、お口の健康管理だけで腸内環境の全てが決まるわけではありません。しかし、お口の健康を維持することは、健康な腸内細菌叢を支える一つの要因であるとは云えるでしょう。
 このように、腸内細菌叢における民族あるいは個人での特徴の相違は、単に医学的なものではなく、それは長い歴史の中で形成された食文化や生活習慣の違いを反映した、生態系そのものの個性を示すのではないかと考えられます。そこから、昨今流行の「菌活」と称してサプリメントなどで特定の菌を補おうとするだけでなく、お口から腸までを一つの連続した生態系として捉える視点を得ることも重要ではないかと考えます。
 さらに、我々日本人は、しばしば古来土着の神道における「八百万の神々」という言葉を用いますが、そのような世界観とは、あるいは思想や宗教観といった観念的なものとして存在するだけではなく、我々の身体そのものの中に、腸内細菌叢として微細ながらも物理的な存在として刻み込まれているのかもしれません。
 ともあれ、少なくとも近年の腸内細菌叢研究が示しているのは、我々人間は決して単独で生きる存在ではなく、無数の他者との共生の上に成立しているという事実であるとは云えます。
 そして、そのように考えてみますと、古来より存在した神道的な多様性の世界観の上に、外来の宗教であった仏教を受容しようとした聖徳太子による「和をもって貴しとなす」という言葉もまた、多様な存在が共存することの価値を表現したものとして、あらためて興味深く感じられます。
 もちろん、聖徳太子が腸内細菌叢の存在を知っていたはずはありません。しかし、最先端の生命科学が明らかにしつつある「共生」の姿は、我々の祖先が経験的に培ってきた世界観と、どこか深いところで響き合っているようにも思えます。そう考えますと、「和をもって貴しとなす」という言葉もまた、単なる政治的理念や道徳律ではなく、多様な存在が互いを活かしながら共存するための知恵として、現代に生きる我々に新たな意味を投げかけているのかもしれませんが、さて、実際のところはどうなのでしょうか。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。



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2026年5月28日木曜日

20260528 株式会社講談社 講壇社学術文庫刊 谷川健一著「魔の系譜」 pp.52-55より抜粋

株式会社講談社 講壇社学術文庫刊 谷川健一著「魔の系譜」
pp.52-55より抜粋
ISBN-10: 4061586610
ISBN-13: 978-4061586611

崇徳上皇
 明治と年号が改元される半月ばかりまえ、慶応四年八月二十五日、明治天皇の勅使、大納言源朝臣通富、副使三条左少将は讃岐に下向した。勅使の一行は阿野郡坂出村(現在の坂出市)の港に着船し、そこから白峰にある御陵にむかった。天皇即位の翌日から懸案になっていた、崇徳上皇の御神霊を京都にむかえてたまつるためである。一行が白峰のふもと、高屋の阿気というところにたどりつくと、道の上方にみすぼらしい神社が建っている。高屋という地名から、高家神社というが、一名「血の宮」とも呼ばれる。  
 そこをすぎ、「煙の宮」をとおりすぎて、一行は白峰陵のまえに立った。西行が白峰陵をおとずれて、「よしや君昔の玉の床とてもかからん後は何にかはせん」となげいたのは、仁安二年か三年の秋であり、崇徳上皇がなくなられて、三、四年しかたっていないころのことであった。
 その後、白峰陵はなんども修築されて、慶応元年にもそれがおこなわれたが、その雰囲気は勅使一行が御陵のまえに立ったときも、ほとんど変わりがなかったはずである。勅使が御陵のまえに立ったその日は、崇徳帝の命日にあたる八月二十六日であった。勅使はうやうやしく額ずくと、明治天皇の宣命を崇徳帝の御神霊のまえによみあげた。

 天皇我詔旨登挂巻母畏伎 讚岐国阿野郡 白峰乃山陵爾鎮座須 崇徳天皇乃御大前爾恐 美恐 美母申 給波久登申佐久志保元乃年頃忌々志伎御事与利起利弖其終爾波海路遙祁伎此国 爾佐閉行幸氏御鬱憤乃中爾崩御良世賜閉留波何奈留禍 神乃禍 事両夜有祁年最母畏 久悲 伎事 乃極美登常爾歎伎思食須此者 素先帝乃叡慮奈利志爾其事平果志賜波受此現 世乎神去給比伎故 今度其大御意乎継志氏尊霊乎迎閉 奉 利其御積憤乎和米 奉 利賜波牟登思 食氏皇宮爾最近伎 飛鳥井町爾清祁伎新宮乎造利設 立二位権大納言 源 朝臣通富乎差使 氏尊霊乎迎閉 奉 利賜布故此由平平 久安 久聞食氏 速 爾多年乃宸憂乎散志御迎 人登共爾皇都爾還 坐氏天 皇朝 廷乎常磐爾堅磐爾夜守 日守 爾護 幸反 給比此頃皇軍爾射向比 奉 留陸奥出羽乃賊徒 乎波速 爾鎮 定米弖天 下安穏爾護 助 賜反登恐 美恐 美母申 賜波久登申
 慶応四年八月十八日

【人工知能の援用による現代語訳】 
 天皇(すめらみこと)が、言葉に発するのも恐れ多く尊き、讃岐国阿野郡の白峰山陵にお鎮まりになっておられる崇徳天皇の御前に、畏れ尊び、深く慎んで申し上げます。
 かつて保元の年頃、まことに忌まわしい出来事が起こり、その果てに海路遥かに遠く離れたこの国へと移られ、深い御鬱憤の中に崩御あそばされました。これは一体どのような災い、神の引き起こされた禍事(まがごと)であったのでしょうか。朝廷はそのことを思うたび、まことに恐れ多く、また深く悲しきことの極みとして、常に嘆き思し召してまいりました。
 この御霊をお迎えすることは、もとより先帝(孝明天皇)の深い思し召し(叡慮)でもありましたが、そのお心を果たせぬまま、先帝は現世を去り神去り(崩御)なされました。 そこで今、新たにその大御心を受け継ぎ、崇徳天皇の尊き御霊をお迎え申し上げ、これまでに積もり積もった御憤りをどうか和らげ、お慰め申し上げたいと思し召されました。
 そのため、皇居に最も近い飛鳥井町に、清らかな新たなる御社(白峯神宮)を造営いたしました。そして、二位権大納言源通富朝臣を勅使として遣わし、お迎え申し上げます。
 どうか、この朝廷の志を安らかに、平らかにお聞き届けいただき、長年にわたる歴代天皇の深い憂いをお鎮めください。そして、お迎えの人々とともに、懐かしき皇都(京都)へとお帰りください。
 そして、この皇朝と朝廷を、夜も昼も、とこしえに堅牢にお守りくださいますようお願い申し上げます。あわせて、今まさに朝廷に弓引き、抗っている陸奥・出羽の賊徒どもを速やかに平定し、天下をふたたび安穏の世へと導き、お守り助けくださいますよう、畏れ多くも深く慎んで、永永と申し上げます。
 慶応四年八月十八日

 こうして勅使は崇徳上皇の御神霊に還御を乞うたと、あくる二十七日、上皇の御遺影を神輿に奉じ、御遺愛の笙を副えて、日没時に下山した。二十八日に坂出港を出発、九月五日に京都に還った。高松藩主松平頼聡が命を受けて、伏見に奉迎し、神輿にしたがった。飛鳥井町の新しい神廟に、崇徳上皇の神霊は祀られた。じつに帝の死後七百五年目のことである。
 右に掲げた宣命にあるように、崇徳上皇の御神霊を京都に呼び迎えることを計画したのは、孝明天皇である。慶応二年、京都の飛鳥井町(現在は上京区今出川堀川東飛鳥井町)に白峯神社の造営が企てられたが、孝明帝の死去によって、先帝の遺志を明治天皇がついだのである。
 慶応四年といえば、ときあたかも戊辰の役の年、朝廷方は征討軍を東上させ、まさに奥羽諸藩を挑発して、一戦をまじえようとしていた。このとき、崇徳上皇の霊が、奥羽諸藩のほうに味方して官軍をなやましたとしたら、それこそゆゆしい事態になるかも分からないと、朝廷は判断した。そこで、京都に御還御をねがい、明治天皇の宣命にも、「此頃皇軍に射向い奉る陸奥出羽の賊徒をば速やかに鎮め定めて天下安穏に護り助け賜え」という結語を入れることを忘れることができなかったのである。
 それにしても、この宣命の文章のなんと鞠躬如として、崇徳天皇の御霊にむかっていることか。「御鬱憤の中にかむあがらせ賜える」とか、「御積憤をなごめ奉り」とか、相手の帝の心情に心をよせ、さやけき新宮をつくったから「多年の宸憂を散らし」、お迎え人とともに京都におかえりいただくよう懇願しているのである。
 それはまるで、怒れる人間をなだめるときの言葉そっくりである。まかりまちがって、疎略にあつかえば、それがかえって上皇の怒りを招くことをひたすらおそれているのである。
しかし考えてもみよ。それは上皇の死後すでに七百余年を経ているのである。しかもこのように、生きた人に面とむかってなだめ、すかし、御機嫌をとるような態度はいったい何を意味するか。それほど崇徳上皇のたたりが、歴代の朝廷や貴族や武士におそれられてきたからではないか。

2026年5月27日水曜日

20260527 株式会社講談社 講談社学術文庫 吉田敦彦著「日本神話の源流」 pp.20‐24より抜粋

株式会社講談社 講談社学術文庫 吉田敦彦著「日本神話の源流」
pp.20‐24より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4061598201
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061598201

 日本の島々は、北と西と南西の三方向において、それぞれ風土的にも文化的にも明瞭に特色のある、ユーラシア大陸の北部・中央部および南部の東端に連絡する可能性をもっている。すなわちまず日本列島は、北においては、千島、カラフト(サハリン)、沿海州を経由して、独特な狩猟民文化を発達させた北方ユーラシアの森林地帯と接続している。西に向かっては本州と九州が、朝鮮半島を媒介として、馬の飼育を特徴とする剽悍(ひょうかん)な遊牧民ーいわゆる「騎馬民族」ーに、古くから縦横の活躍の舞台を提供してきた旧満州(中国東北部)から蒙古、カザフスタン、南ロシアにまたがる、「ユーラシア・ステップ地帯」と結びつく。そして西南においては、朝鮮半島南部を介し、または直接的にも、定住の農耕民・漁撈民の居住区域である、中国の中南部からインドシナを経てインドにいたる、東南アジアのモンスーン地帯の東端とも、さして隔てられてはいないのである。
 日本列島は、さらに九州の南端からは、ほとんど切れ目なしに点在する小さな島々の連続と、それと並行して北上する黒潮の太くて速い流れによって、台湾およびフィリピンと結びつけられており、インドネシアの諸島をはじめ南太平洋上に浮かぶ島々ーいわゆる「南洋」あるいは「オセアニア」ーからの、民族の移住や文化の影響を受ける可能性をもっている。しかしながら日本列島の東方には、広漠たる太平洋が広がり、右に述べたようなさまざまな経路によって、大陸および南洋方面から日本に波及してくる民族の移動や文化の伝播の流れが、日本列島を通過してさらに東へ向けて運び出される道を遮断しているように見える。
 日本列島の置かれている地理的位置の、このような特殊性のゆえに、北と西と南の三方向から日本に移住した民族、伝播した文化は、この列島において、行きどまり滞留する傾向をもったと考えられる。その結果日本は、古来さまざまの外来文化を受容しては、これを長期間にわたって保存するうちに、日本的風土および在来の文化的伝統と同化させ、独特な「日本的」な形に練成するという過程をくり返してきたのである。外来文化の長所を短期間のうちに摂取するという点で、世界の諸民族中にも例がないほどの能力を発揮するといわれる、日本民族の言いふるされた特性も、われわれの祖先が古くからこのような過程をくり返してきたあいだに、徐々に醸成されたものであろう。
 日本文化が歴史時代において、古くは朝鮮と中国の文化ーそして間接的にはインド文化ーの、より新しくは欧米文化の影響を、きわめて貪欲(どんよく)な仕方で吸収したことはよく知られている。しかし日本文化の、右に述べたような意味での「吹溜(ふきだま)りの文化」的な性格は、実は、より古く先史時代にその淵源があると考えられる。
 われわれが使っている日本語という言語も、言語学界で定説化しつつある見解に従えば、こんにちは南洋の原住民によって話されている言語のあるものと親縁関係をもつと想像される「南島語」系の「基語」の上に、中央アジアのステップ地帯からもたらされたと思われる、アルタイ系言語の強い影響がつけ加えられることによって成立したものであろうと言われる。

多元的文化から独自の文化へ

 新石器時代以後における日本の先史文化は、周知のように考古学者たちによって、もっとも大まかには縄文と弥生と古墳の三時代に区分されているが、これらの諸文化を、日本の周辺に同時代的に存在した先史文化と比較してみるならば、それぞれが異なる地域と起源的に結びつくことが明らかであるように思われる。
 すなわちまず縄文時代の文化は、中期以後には後に述べるように他の地域からの影響も受けたと想定されるが、少なくとも起源的には、北方ユーラシアの原始的狩猟漁労民文化炉の結びつきが、もっとも顕著であるらしい。これに対して弥生文化は、一般に認められているように、中国の江南地方から東南アジアにかけての「モンスーン地帯」に発達した稲作文化と密接に関係し、他方古墳文化はその基調において、ステップ地帯の馬匹飼育遊牧民の文化と共通する性格を持つと思われるのである。
 日本の先史文化のこのような多元性を認めると同時にわれわれはまた、それぞれの時代が、外来文化の要素を吸収した上で、結局はそれらをこの国の風土と見事に調和した独特の形態に練成させ、日本列島の上に世界のどの地域とも異なるユニークな文化を展開させてきた事実を忘れてはなるまい。外から受容された要素が、日本において他に見られぬ新しい形に発達を遂げた顕著な実例として、ここでは弥生時代の銅鐸と、古墳時代における前方後円墳の場合を想起しておこう。日本の先史文化に固有のこれらの遺物・遺跡は、われわれの心に、他文化の中で生み出された美によって与えられる感動とは別の種類の、あるなつかしさと共感の入りまじった感情を呼び起こす。他文化の産物である芸術作品は、心からわれわれを感動させる傑作であっても、なおどこかにわれわれの日本人的美意識に抵触し、われわれの心の琴線と完全には調和しきれぬ部分ー 西洋文化に関してはわれわれはそれを、俗に「バタ臭さ」という言い方で表現している ーを持つのが普通である。これに反して銅鐸や前方後円墳の優美さからは、それらが体質・気質・審美感覚などにおいて、われわれと同質な人々によって創造された美的形態であることを、直感的に感じ取れる。

2026年5月26日火曜日

20260525 身体感覚と文献資料との記号接地の感覚について:南紀での記憶から

 既に2カ月近く前のことにはなりますが、ここ10年以上定例となっている、半年毎の和歌山市訪問の際、紀伊田辺まで足を延ばし、わずか2時間ほどの滞在ではありましたが、其処で大変懐かしい感じを受けました。紀伊田辺駅近くの街並みの様子は、かつて私が隣の南紀白浜(西牟婁郡白浜町)に在住していた頃と比べ、明らかに寂れてはいましたが、それでも街は息づいており、その雰囲気も以前と同様であるように感じられました。
 こうした感覚を覚えつつ、駅前通りを扇ヶ浜方面に歩いていますと、内からの思い付きであるのか、あるいは、外からの啓示であるのか「ブログ記事の作成に困ることがあれば、南紀でのことを思い出せば、いくらでも書けるだろう。」という言葉が生じました。もちろん、それは実際の声として聞こえるものではありませんが、心の中で、そうした主張が自然と生じたのです。
 こうしたことは、度々あるわけではなく、また、何らかの感興が湧いた際に随伴して生じるものでもないようですが、それでも何度か、そのような経験があったことは記憶しています。そして、こうした内面での思い付きや啓示のようなものは、当ブログでも以前、記事題材として述べましたが、どうしたわけか、南紀白浜在住の時期に集中しています。
 一つは、大雨のなか、夕刻過ぎに富田川沿いの国道311号線を中辺路方面へ自動車で走行していた際、ヘッドライトが正面道路上に大きなカエルを照らし出したため、自動車を道脇へ寄せて停車し、ハザードランプを点灯させて、懐中電灯を手に車外に出て、カエルを照らしました。すると、それが異様なほど大きく感じられ、さらに「ここから先へは行くな」との、先ほど述べたような思い付き、あるいは啓示のような感覚を覚えたため、すぐに来た道を引き返したことがありました。
 二つめは、休日に自転車で、JR白浜駅方面から県道にて峠を越え、上富田町へ入り、さらに直進して富田川を渡り、庄川という地区へ入り、さらに進みますと、徐々に人家が疎らとなり、富田川の支流である庄川の流れが、小橋を渡るたび左右に変わりつつ、なおも自転車を走らせますと、庄川の流れがほぼ真正面を横切る場所に架かる小橋の左側に、河の神様でもある弁天様を祀る祠があり、その辺りで、先ほどのカエルの時とはまた異なる、これは言葉にならない畏怖の感情を覚えたため、そこから先へは進まずに引き返したことがありました。
 その後、同地域の大学院に進みましたが、其処でも、このことが気になり、大学図書館にて資料をあたっていますと、かつて、この地域で行われていた雨乞い祭祀についての記述を見つけました。
 この特徴的な雨乞い祭祀は、当地域だけでなく、少し北のみなべ寄りの田辺地域(芳養)、さらに北の日高川流域においても類似した祭祀を確認することが出来ました。そこから、これは一つの村落などの小規模単位ではなく、ある程度広域的な共同体で行われた祭祀、つまり、地域全体が旱魃という危機へ直面した際に実施された雨乞い祭祀であったものと考えられます。

現在、手元にある資料での記述は以下の通りです。

株式会社角川書店刊『日本民俗誌大系』全12巻 第4巻 近畿 p.201より抜粋
『北富田村庄川奥に牛屋谷(一に牛鬼谷)という滝あり、滝の奥に洞窟あり主住むという。昔、主を怒らしたため一万余の材木を洞窟に取り込まれ行き先知れず、それだけ洞窟の深さはかられずという。旱魃の時ここに雨を祈り、いかにしても雨降らぬ時は牛の首をこの滝壺に投ず、さすればその穢(けが)れを清むるためにたちまち雨降ると伝えられ、現に大正二年大旱魃の時、牛の首を投げ入れた。』

この雨乞い祭祀についての記述は、他の複数の文献資料にも確認することが出来ました。ともあれ、当時の私にとって、こうした文献資料の発見は衝撃的なものであり、いわば、かつて自らが感じた身体感覚と、文献資料とが繋がる感覚であったと云えます。あるいは、こうした現象も一種の「記号接地」であったのかもしれません。
 そうしたことから、私は地域での雨乞い祭祀を基軸として、地域性について考察することにしました。そして、そのようにして研究を進めていきますと、この雨乞い祭祀が、どのような経緯、経路で当地域に伝播したのかという疑問に至りました。
 その際、以前に何となく読んでいた『日本国現報善悪霊異記』(『日本霊異記』)の内容が、不意に思い出されました。しかし後になり考えてみますと、このように、かつて何となく読んでいた書籍を後年、必要とされる場面において想起されるということは、当時においては、それなりに運の良いことであったのではないかと思われます。
 あるいは、人工知能が広く実装された社会において、我々人間は、こうした曖昧で断片的な過去の記憶を、その都度の必要性に応じて、自らの力で想起させる必要性そのものが徐々に失われていくのかもしれません。その結果として、人間側のそうした能力自体も、少しずつ退化していく可能性があるのではないかとも思われました…。
 ともあれ、この『日本国現報善悪霊異記』(『日本霊異記』)において興味深い、関連性があると思われた説話につきましては、また別の機会に述べさせて頂きたく思います。
 そして最後に、改めて南紀在住時代の記憶を掘り起こしてみますと、たしかに、まだそれなりに文章化することが出来そうなものが残されているようにも感じられましたが、実際のところは、どうなのでしょうか…。
 また、人工知能を援用せず文章を作成することは、当初のうちは、それなりにしんどさを伴うものではありましたが、徐々に、自らの記憶と文語化とのギアが噛み合い始めますと、むしろ次第に捗るようになり、そしてまた、それなりに楽しくもなってくるようです…。ともあれ、今回もまた、ここまでお読み頂き、どうもありがとうございます。


一般社団法人大学支援機構

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ISBN978-4-263-46420-5

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2026年5月22日金曜日

20260521 スマートフォン時代での紙の読書に意味について:

 現代を生きる我々は、これまでの歴史のなかで最も多く、文字や文章に接して生きているのではないでしょうか。街中の景色はもちろんのこと、スマートフォンを開けば、ニュース、SNS、動画、広告などで、無数の解説や情報を容易に見つけることが出来ます。かつてであれば、大学や図書館へ行かなければ知り得なかった専門的な情報に、誰もが瞬時にアクセス出来るようになったことは、人類の科学技術史における画期的な進化であると云えます。
 しかし、こうした利便性の高まりの一方で、現在の我が国社会全般からは、ある種の絶望感にも通じる強い疲労感が感じられます。そして私は、この社会に漂う疲労感こそが、さきに述べた文字や文章を取り巻く環境の激変と、深く関連しているのではないかと考えます。有史以来、最も多くの人々が文章を読むことが出来て、さらに、多くの文字情報に接しているにも関わらず、不思議なことに、社会を生きる人々の思索や思想などは必ずしも活性化されていません。それどころか、我々の思考は以前よりも短いものへと断片化され、その内容の方も浅薄化しているのではないかと思われます。
 これは、単純に「昔の方が良かった」と過去を美化したいのではありません。デジタル技術がもたらした情報の民主化それ自体は、大きな意味を持つ進歩です。しかしその一方で、そうした新しい情報環境が、それを受け取る側である我々の思考のあり方や、脳の認知構造そのものを変えているのではないかという懸念があるのです。
 パソコンであれスマートフォンであれ、スクリーン上の文字は、スクロール操作により次々と画面から流れ去っていきます。そして、そのような環境で日常的に文章を読むことに慣れていきますと、人間は、ある程度の長さと論理的構成を持つ文章を、一つの有機的な繋がりを持った全体として認識することが徐々に困難になっていくのではないかと考えます。
 こうしたスクリーン上での文章の読み方において重視されるのは、全体を熟読することではなく、自分に必要なキーワードを素早く拾い集める能力です。そこでは、我々の脳は深い理解や知性の発達を促すモードではなく、効率性を最優先した「流し読む」状態へと自動的に切り替わります。そして、この状態の変化は、単なる文章の読み方の違いに留まらず、もっと深いところで、人間の認識の本質や世界観そのものにまで影響を及ぼすのではないかとも考えられるのです。
 これまでの人類の知的営み、あるいは大半の科学研究は、「見えているもの」の背後にある「見えない構造」を読み解こうとする情熱により支えられてきたと云えます。たとえば、映画であれば、画面に映る俳優の演技を追うだけではなく、その背後にある監督の演出意図や時代背景を読む。社会現象の分析であれば、表面的な出来事に一喜一憂するのではなく、その奥にある権力構造や制度、歴史的経緯を考える。つまり、「すぐ目の前にある分かりやすいもの」に飛びつくのではなく、その内奥にある本質を想像し、考えることこそが、知性の重要な役割であると信じられてきました。
 ところが近年の情報環境では、この「背後を読む」という極めて人間的な行為が、著しく困難になりつつあるのではないかと思われます。特にSNS空間においては、情報は「深く読む対象」というより、むしろ「触れて瞬時に反応する対象」として現れます。タイムラインをスクロールし、直感的にタップし、拡散し、短い感想を述べる。そこでは、その瞬間ごとの感情的快楽や反応速度ばかりが優先され、一度立ち止まって、その情報の真偽や背景をじっくりと考える時間は失われやすい環境にあります。
 さらに深刻であるのは、アルゴリズムの存在です。デジタル空間では、自分にとって心地よい情報や、既に最適化された言説ばかりが次々と提示されてきます。その結果、我々は大量の情報を浴びながらも、実際には他者の思考のコピーを消費しているだけになり、自分自身でゆっくりと考えることが出来なくなっているのではないでしょうか。
 本来、知性とは、単に知識を多く所有していることを意味しません。外から得た情報を一度、自らの内部に沈め、咀嚼し、既存の知識と突き合わせながら、自分なりに組み替えて再構成すること。その往復運動の過程で初めて「自分はこれをどう考えるのか」という問いが生まれるのだと考えます。そして、その過程を経て、我々は、少しずつ自らの思想や考えを形成していくのだと考えます。そして、そのためには、どうしても効率性とは対極と云える「立ち止まる時間」が必要になります。
 そして、そうした内省的な営為を支えるものの一つが、冒頭で述べました文章のあり方とも繋がる「紙の書籍」ではないかと考えます。紙の書籍を開く時、そこには文字が流れ去るスクロールはありません。手には頁の紙の厚みがあり、視界には余白があり、文章は印刷された位置に留まっています。我々は自分のペースで読み進め、気になった一文があれば自由に立ち止まり、いつでも前の頁に戻ることも出来ます。これは決して単なる懐古趣味やデジタル嫌悪ではなく「自分で考える」という精神的行為を物質的に支える極めて重要な身体的環境であると云えます。
 紙の本を読んでいる時、我々は単にインクで刷られた文字を目で追っているだけではありません。行間を読み、文脈の起伏を感じ取り、あえて書かれていない著者の思想や沈黙を想像しています。そこでは、「見えるもの」の背後にある「見えないもの」へと、人間の意識が自然と向かっていきます。
 情報が絶え間なく流れ続け、その速度により、社会全体が疲弊している現代だからこそ、時にはスクリーンから距離を置き一冊の本を開いてみる。その時間は、コスパ・タイパという意味では遠回りであるかもしれませんが、スクロールにより流れ消えていく言葉を消費し続けるだけの状態から抜け出し、自らの思考を取り戻すためには、そうした遠回りこそが必要ではないでしょうか?
 そして、おそらく今後の社会では「素早く反応する能力」だけではなく、「遅く深く考える能力」が、むしろ希少な知性として再び価値を持ち始めるのではないかと思われます。大量の情報を処理することは、やがて人工知能により代替されていくと思われます。しかし、立ち止まり、矛盾を考え、行間を読み、背後にある構造を想像しつつ、自らの言葉として思考を形成することは、最後まで人間にしか出来ない知的行為として残り続けるのではないかと考えます。
 流れていく言葉に即座に反応するのではなく、一度立ち止まり、言葉を自分の内部へ沈め、自らの言葉として再び言語化する読書の時間を、これからの時代にこそ、日常のどこかで意識的に持つことが、さらに重要になってくるのではないかと思われます。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。



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