2026年7月21日火曜日

20260721 株式会社 河出書房新社 三島由紀夫著 対談集「源泉の感情」 pp.124-127より抜粋

株式会社 河出書房新社 三島由紀夫著 対談集「源泉の感情」
pp.124-127より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4309407811
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309407814

 それで、あなたの占領時代についての考えを聞きたいと思うんだ。年はいくつだった? 

野坂:戦争が終わったときは十四でした。そのときは、ごく卑俗な意味でいって、価値が全部ひっくりかえってしまった。それをまざまざとみてきたんです。だいたい僕は満州事変のころに生まれて、ずっと戦争のなかで育ってきたんです。新聞の第一面はいつも戦争の記事だったし、戦争は日常茶飯事のことだったわけです。戦争がなくなるという状態は、まず考えられなかった。それが突如、昭和二十年になくなっちゃった。そして進駐軍が日本にやってきて、最初にかちんときたのは、キューキューと日米親善。 ーサンキューとエクスキューズ・ミーで親善だというんで、そんな新聞記事をみて、こんなばかばかしいことがあるか。この前まで鬼畜米英といってたのが、すっかりがっかりしちゃって、それが僕の原体験に近いようなものになった。それからあとは、一切何も信じない、自分自身さえうまく生きてゆけばいいんで、他人を裏切っても、嘘をついても、首吊りの足を引っ張ることをやってもかまわないという気持でしたね。それに、戦争で全部ひっくりかえったところでも、大人のようにはなりきれなくて、やっぱりアメリカ人には強い憎しみをもっていた。パリなんかで、自分の目の前で親父がナチスに銃殺されたとかいう実際的な感じではなくて、僕らの場合には、空襲で雲の上から爆弾、焼夷弾がどこかまわず落ちてきた、相手がさっぱりわからない。そこでは具体的にちっとも憎しみを感じなかったけど、実際問題として進駐軍がやってきて、ホッペタの赤い奴が町を歩いてるのをみると、こんなでかい、強そうなやつと、なんで喧嘩をしたんだろうという気持はあった。ただ、こいつたちがおれたちをひどい目にあわせたんだ、この野郎という気持だった。だから横浜の裏通りで、五、六人でアメリカ兵をぶんなぐって溜飲を下げていた。そして昭和二十七、八年までは、アメリカ人をみると、なんとかうまくごまかして生きてやろうという気持がずいぶんありましたね。 

三島:それは政治家だって、あの時代はそうだと思う。吉田茂がそうでしょう。僕は今でも吉田茂は偉い人だと思うけど、明治以後の日本の歴史で、あんなに日本人の欺瞞をうまく成功させたのは、あの人だけでしょう。それはどこから学んだかというと、イギリスですね。 日本の政治家は少なくとも正義、真実あるいは誠実という顔をしていなければならなかった のに、吉田茂の時代には国民全体が欺瞞の精神に味方をした。あんなにアメリカ人をもてあ そんだ人はいないよ。それにまたみごとに乗せることができたのは、イギリス的な教養が彼 にあったからだけど、イギリス的な教養は日本の昭和の歴史のなかでは、いつも無力だった。 いつも国家主義者の怨嗟の的であり、日和見主義、無力の標識、不決断の象徴であった。ところが吉田茂は、そのイギリス的な教養を逆に使って、欺瞞にうまく役立てた。これは近代史のなかで、面白い時代だと思う。あんなに日本人のなかで、 欺瞞がうまくいった時代はなかったと思う。それからあとはだめです。政治家がどんな欺瞞をやっても、国民がついてゆかない。国民の考えていることと、欺瞞とがみごとに一致した時代はもうこないでしょう。 今はただ欺瞞と腐敗があるだけで、国民だれもが味方をしていない。あなたも、そして僕も怒っているのは、それですよ。欺瞞のまま、これからどこへゆくかということは心配でしょう。

野坂:あまり心配じゃないんです。今まで一所懸命、日本はもっとりっぱに、男らしくな らなければいけないと思ってきたけど、考えてみると、むしろ日本の男はもっとフニャフニ ャになった方が、そして社会全体の組織も完全に植民地化して、僕らフィリピンの男が女たらしで、ジャズばかり歌って、何もできない、とてもあいつらには戦争なんかできないと思ったけど、それと同じように日本人もなったほうがいいのかもしれない、落ちるところまで 落ちちゃってね。 

三島:学習院のころの友だちで、まだ戦争の激しかった昭和十七年ごろ、日本も早くフィリピンみたいにならないかな、と言っていた奴がいましたよ。でも、かなり今までにあったんじゃないかな、そういうことは。 

野坂:今までにあったけど、まだアメリカの日本に対するイメージは、硫黄島、サイパン とか、日本は強い国だというほうが多いでしょう。そして今の日本人は憎しみも悔いも、あまりもっていない。人種差別もないし、共産主義に対しても、たとえば小汀利得がアカはいかぬと言っても、なぜ悪いのかわからない、若い連中はとくにそうだと思う。だれに対しても憎しみをもてない。自分の生命、財産を脅かすはっきりした形をとってくれば別だけど、 それよりもむしろ妥協して、ニコニコ笑いながら話して、なんでも解っちゃうみたいでしょ う。それなら、むしろそれを助長して、いっそ完全な植民地化しちゃったほうがいいんじゃ ないかと思う。

2026年7月20日月曜日

20260720 株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー⑦「ある異常体験者の偏見」 pp.501-505より抜粋

株式会社文藝春秋刊 山本七平著 山本七平ライブラリー⑦「ある異常体験者の偏見」
pp.501-505より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4163646701
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4163646701

 考えてみれば、収容所とは、サント・トマスであれカランバンであれ、少々残酷な言い方だが「民族秩序発生学」を研究する実験場のような所である。帝国陸軍とはいえ、徹底的に壊滅させられた残り二割が、降伏・収容・輸送の途中で残存のかすかな指揮系統さえ払拭されてごちゃまぜにされ、さらに将官・将校・下士官兵と分断され、兵科も各部も階級も無視して機械的に五百人ずつの一組にされ、それが数組ずつ各収容所に入れられ、そこで勝手に秩序をつくらされる。これは互いに顔も知らない、米英蘭等のさまざまな人間を、サント・トマス大学に入れ、そこへ囲い込んで勝手に秩序をつくらすのと、同じような実験であろう。
 ただ彼らとわれわれとの違う点は、日本軍が秩序をつくろうとせず放置していたのに対して、米軍はその“民主主義教育癖”を発揮して、しきりと民主的秩序を作らすべく指導したことである。従って外形的には何やら“員数組織”があった。だがその内実は、帝国陸軍の内務班同様、自然発生的な別秩序に支配されていた。帝国陸軍の「兵隊社会」は、絶対に階級秩序でなく、年次秩序であり、これは「星の数よりメンコ(食器)の数」と言われ、それを維持しているのは、最終的には人脈的結合と暴力であった。
 兵の階級は上から兵長・上等兵・一等兵・二等兵である。私的制裁というと「兵長が一等兵をブン撲る」ようにきこえるが、実際はそうではなく、二年兵の兵長は三年兵の一等兵に絶対に頭があがらない。従って日本軍の組織は、外面的には階級だが、内実的な自然発生的秩序はあくまでも年次であって、三年兵・二年兵・初年兵という秩序であり、これが階級とまざりあい、両者が結合した独特の秩序になっていた。
 そしてこの秩序の基盤は前述の「人脈的結合」すなわち“同年兵同士の和と団結”という人脈による一枚岩的結束と、次にそれを維持する暴力である。二年兵の兵長が三年兵の一等兵にちょっとでも失礼なことをすれば、三年兵は、三年兵の兵長のもとに結束し、三年兵の兵長が二年兵の兵長を文字通りに叩きつぶしてしまう。従って二年兵の兵長は三年兵の一等兵に、はれものにさわるような態度で接する。表面的にはともかく、内実は、兵長という階級に基づく指揮などは到底できない。それが帝国陸軍の状態であった。このことは「古兵殿」という言葉の存在が明確に示している。一等兵は通常、階級名をつけずに呼びすてにする。しかし二年兵の上等兵は三年兵の一等兵を呼びすてにできず、そこで「○○古兵殿」という呼びかけの尊称が発生してしまうのである。
 考えてみればこれは、収容所に入ったあの夜「牢名主」の幕舎長から言われたことであった。そして、虚構の階級組織が消失し、収容所で自然発生的な秩序ができてきたときは、その実情がむき出しになり、人脈・金脈・暴力の秩序になった。サント・トマスの「秩序維持の法廷と陪審制度」などは、遠い夢のおとぎ話に等しい。
 小松さんは『虜人日記』で、この暴力支配の発生・経過・状態を、短く的確に記している。「暴力団といっても最初から勢力があったわけではない」のだが、自ら秩序をつくるという意識の全くない「PW各人も無自覚で」「勝手な事を言い、勝手な事をしている」うちに、暴力的人間は、食糧の横流しなどで金脈・人脈を構成し、いつしか全収容所を押えた。
 「各幕舎には一人位ずつ暴力団の関係者がいるのでうっかりした事はしゃべれず、全くの暗黒暴力政治時代を現出した…彼らの行うリンチは一人の男を夜連れ出し、これを十人以上の暴力団員を取り巻き、バットで殴る蹴る、実にむごたらしい事をする、痛さに耐え兼ね悲鳴をあげるのだが、毎晩の様にこの悲鳴とも唸りとも分らん声が聞こえて、気を失えば水を頭から浴せて蘇生させてからまた撲る、このため骨折したり喀血したりして入院する者も出て来た。彼らに抵抗したり口答えをすれば、このリンチは更にむごいものとなった。ある者はこれが原因で内出血で死んだ。彼らの行動を止めに入ればその者もやられるので、同じ幕舎の者でもどうすることもできなかった。暴力団は完全にこの収容所を支配してしまった。一般人は暗黒感にかられ、発狂する者さえ出てきた」。そして米軍が介入して暴力団が一掃される。するととたんに秩序がくずれる。「何んと日本人とは情けない民族だ。暴力でなければ御しがたいのか」。これが、この現実を見たときの小松さんの嘆きである。
 そしてこの嘆きを裏返したような、私的制裁を「しごき」ないしは「秩序維持の必要悪」として肯定する者が帝国陸軍にいたことは否定できない。そしてその人たちの密かなる主張は、もしそれを全廃すれば、軍紀すなわち秩序の維持も教育訓練もできなくなると言うのである。それを堂々と主張する下士官もいた。
 「いいか。私的制裁を受けた者は手をあげろと言われたら、手をあげてかまわないぞ。オレは堂々と営倉に入ってやる。これをやらにゃ精兵に鍛え上げることはできないし、軍紀も維持できない。オレはお国のためにやってんだ。やましい点は全然ないからな。いいか、あげたいやつは手をあげろ」
 そしてこの暴力支配は将校にもあり、部下の将校を平気で撲り倒し、気にくわねば自決の強要を乱発し、それをしつつ私的制裁撲滅を兵に訓示していた隊長もいる。石田徳氏は『ルソンの霧』(朝日新聞社)で自決強要の恐怖すべき現場をそのままに記しておられるが、こういった例は決して少なくない。
 収容所は、それらがただ赤裸々に出てきたにすぎない。そしてここまで行かなくとも、暴力一瞬前の状態に相手を置き、攻撃的暴言の連発で非合理的服従を強要するのは、だれ一人不思議と思わぬ日常のことであった。そして戦後にもこれがあり、多数の集中的暴言で一人間に沈黙を強いることを、だれも不思議に思っていない。
 なぜか。なぜそうなるのか。軍隊にはいろいろの人がいる。動物学を学んでいたYさんは、これを「動物的攻撃性に基づく」秩序だと言い、収容所とは鶏舎で、その秩序はちょうど「トマリ木の秩序」と同じだと言った。雄鶏は、最も攻撃性の強いものがトマリ木の一番上にとまり、その強さの序列が上から順々に下がりトマリ木の序列になる、と。
 帝国陸軍は、「攻撃精神旺盛ナル軍隊」だけを目指したから、動物的攻撃性だけが主導権を持ち、野牛の大群が汽車に突撃するような攻撃をし、同時にそれを行うための秩序が、暴力という動物的攻撃性だけの「トマリ木の秩序」になった、と。そう言われれば「戦後的ケロリ」は、攻撃が頓挫した野牛群が、ケロリとして草をくっているのと同じことなのか?
 また軍事史の教官だったというA大佐は、日本軍創設時に原因があると言った。そのころは、血縁・地縁を基礎とする自然発生的な村落共同体が厳存していたところで、その中の若衆制度という、青年期の年次制「組」制度が輸入の軍隊組織と結合し、若衆三年兵組、二年兵組、初年兵組という形になり、その実質には結局が手つけられなかった。そのうえ陸軍は自然発生的な村の秩序しか知らず、組織をつくって秩序を立てるという意識がない。これはヨーロッパの、アレキサンダー大王のマケドニア方陣以来の、幾何学的な組織という考え方とそれを生み出す哲学が皆無なため、そういう組織的発想に基づく軍隊組織とは、内実は全く別ものになった、と。
 従って軍人勅諭には組織論はもとより組織という概念そのものがなく、「礼儀を正しくすべし」の「礼」だけが秩序の基本だった。だから外面的な礼儀の秩序が虚礼となって宙に浮くと、暴力とそれに基づく心理的圧迫だけの秩序になってしまった。一人への公開リンチによるによる全員への脅迫が全収容所を統制し得たのと非常によく似た形、すなわち一人の将校を自殺させることによって、全将校とその部下を統制し、同時に私的制裁が未端の秩序を維持するという形になってしまった、と。

いろいろな原因があったと思う。そして事大主義も大きな要素だったに違いない。だが最も基本的な問題は、攻撃性に基づく動物の、自然発生的秩序と非暴力的人間的秩序は、基本的にどこが違うかが最大の問題点であろう。一言でいえば、人間の秩序とは言葉の秩序、言葉による秩序である。陸海を問わず全日本軍の最も大きな特徴、そして人が余り指摘していない特徴は、「言葉を奪った」ことである。日本軍が同胞におかした罪悪のうちの最も大きなものはこれであり、これがあらゆる諸悪の根元であったと私は思う。

2026年7月17日金曜日

20260716 大きな物語と社会のゆくえについて…

 おかげさまで、昨日の投稿記事は、投稿翌日としては多くの方々に読んで頂けました。これを読んでくださった皆さま、どうもありがとうございます。そうしたこともあり、本日もブログ記事の作成を始めた次第ですが、昨日の投稿記事後半では、出来るだけ、記号接地させた言語を用いて自問自答をすることにより、参照し得る記憶が増大し、それに伴い、新たな記憶の発見とも思えるような出来事が生じると云った意味のことを述べましたが、こうしたことはたしかにあり、そうした当初は、いわば個人的なものであった感覚が、対話や議論を通じて、より明晰なものとなり、そして共有化されることにより、社会全体での知的水準やリテラシーが徐々に向上してゆくのではないかと思われるのですが、近年のインターネットを軸とした情報化社会では、当初のごく個人的であった感覚から、共有され広がっていく過程が、ある程度可視化されてしまうことからか、逆に、当初の感覚から広がってゆくことが少なくなり、そこから、共有され得る大きな物語も生じ難くなり、それ(大きな物語の生成)は、他の文化部門の「業務」となっていったのが近年の我が国ではないかと思われます...。しかしながら、こうした実際の出来事や歴史に基づく大きな物語の検討・策定が、おそらく、情報化社会以前の、近代以降の我が国が極めて苦手としてきたことであり、それが一つの要因となり、結果的に(1945年の)政体の変化にまで至ったのではないかとも思われますが、このことは、昨今のさまざまな国内ニュースの報道などを目にしますと、あらためて考えさせられます。また、こうしたことを述べますと「現代社会においては、むしろ大きな物語が氾濫しているではないか?」といった批判もあると思われますが、たしかに、インターネット空間では、政治、経済、外交、安全保障、科学技術、歴史など、陰謀論も含め、多くの大きな物語が日々消費されており、また、それらを主張する各々共同体の内部においては、その大きな物語は、しばしば絶対的な権威を持っているかのように見受けられます。しかしながら、こうした状況は、現代においては、どれほど壮大な思想や理念を掲げる物語であったとしても、それが社会全体を統合する唯一の原理として受け入れられることはなく、あくまで無数の選択肢のひとつとして流通していることを示しているのではないかと考えます。それは、換言しますと「大きな物語」の消滅ではなく「大きな物語として名乗ることができなくなった社会」と云えるのかもしれません。しかしながら、こうした状況をインターネットや情報技術の発達だけに帰することは、おそらく適切ではないと考えます。むしろ、この問題の根底には、近代以降の我が国が抱えてきた、ある種の性質があるようにも思われます。太平洋戦争中の1942年、和辻哲郎は、「挙国一致」を掲げながらも、実際には各分野が縄張り争いを続け、国家全体の方向性を見失っていることに強い危機感を抱いていました。それに対して長谷川如是閑は、日本とは元来、そのような多様な意見や立場が併存し、互いに妥協しながら進んでいく国なのだ、と応じています。この議論から考えてみますと、そこには、現代にも通じる大きな問題が潜んでいるように思われます。すなわち、我が国は、古くから多様な価値観や共同体を包摂する能力を持っていた一方で、それらを貫く明確な理念や思想を形成することは、必ずしも得意ではなかったのではないか、ということです。戦前社会においては、天皇制という我が国全体を包括する象徴体系が、そのような多様な集団を、いわば「千成瓢箪」あるいは「ササラ」のように、どうにか束ねていました。しかし、敗戦により、その象徴体系は大きく変質しました。そして、その後の高度経済成長や消費社会の時代を経て、現在では、それぞれの共同体や専門分野が独自の論理によって動きつつも、それらを最終的に接続する原理が弱まりつつあるように見えます。かつては、官庁、陸海軍、大学、財界、地方共同体などが、それぞれ独立した価値論理を持ちながらも、なお全体を参照しようとする意識がありました。しかし、現代の社会では、政治は政治、経済は経済、学術は学術、趣味は趣味、インターネット上の共同体は共同体として、互いに交わることなく、独自の正当性を主張するようになっているようにも見えます。これは単なるセクショナリズムではなく、むしろ「セクショナリズムの絶対主義化」とでも呼ぶべき現象であるのかもしれません…。もっとも、興味深いことに、多くの人びとは、その絶対性を本気で信じているわけではありません。誰もが、自らの属する共同体や価値観が、数ある選択肢のひとつに過ぎないことを、どこかで理解しています。その意味では、現代社会は、確固たる信念に基づいて対立しているというよりも、互いに相対化された無数の物語が、相争いながらも、曖昧な均衡を保ちながら共存している状態であると云えるのかもしれません。そして、そうした状況のなかで、我々は、どのようにして、再び現実の出来事や歴史と向き合い、それを他者と共有し得る言葉を考えることが出来るのでしょうか?冒頭で述べたように、記号接地した言語での自問自答は、意識化されていなかった記憶を呼び覚まし、新たな観念の連合を生じさせます。しかし、それは決して個人の内面だけで収束される営みではありません。本来、それらは、対話や議論を経て、より大きな文脈へと接続され、社会全体の知的基盤を形成するものであると考えます。しかし、現代のインターネットに基づく情報化社会では、その過程そのものが可視化され、断片化され、そして即座に消費されてしまいます…。その結果、個人的な感覚が共同体へ、共同体の経験が歴史へ、そして歴史は社会全体の物語へと包摂される機会を失いつつあるのかもしれません。そして、もしも、そうであるのならば、我が国が直面している問題は、単なる政治・経済の混乱や停滞、人口減少だけではなく、むしろ、我々は今、個々の経験や記憶を、再び社会全体の言葉へと接続すること、そのものを問われているのではないかとも思われるのですが、如何でしょうか?また、今回もまた、ここまでお読み頂きどうもありがとうございます。

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2026年7月16日木曜日

20260715 2500記事到達後のこと:自問自答の源流…

 去る7月9日の記事投稿により、総投稿記事数が2503となり、またそれは、当ブログを開始した2015年6月22日から4036日目となります。そうしますと、ブログ開始当初から、5日のうち3日以上は、ブログ記事を作成・投稿してきたことになります。そのように考えてみますと、我が事ながら「多少はやったな…。」と思うことが出来る半面、感慨や感動などは全くありません…。しかし、2500記事に到達してから徐々に、ブログ記事作成への義務感そして、そこから生じる圧迫感などは減衰し、むしろ「とりあえず、目標に到達することが出来たのだから、ブログやSNSから一旦離れて休んだ方が良いのではないか?」と考えるようになりました。そのため、冒頭、7月9日から、新規でのブログ記事の投稿は行っていません、他方、これまでのブログ継続期間に因る習癖であるのか、文章自体は複数作成しました。また同時にここでも徐々に「ブログやSNSから離れても良いのでは…」と考えるようになり、あらためて離れてみますと、何と云いますか、これまで、あまり意識することがなかった感覚が、以前よりも強く感じられるようになりました。その感覚は端的に「内面で自問自答をしている感覚」です。思い返してみますと、この感覚が当初からあったために、当ブログ開始当初に、対話形式での記事を作成することが可能となり、続いて、独白形式の記事も作成出来るようになりました。そして、それらの源泉となったのは「内面での自問自答」でした。この今なお続く「自問自答」は、私の場合、おそらく、さまざまな分野の書籍を読み続けることにより、維持されているのではないかとも思われます。くわえて面白いことは、この自問自答は、自らの記憶を対象とするものであり、そこで、これまでに殆ど意識したことがない記憶が甦ることがあるのです。そうすると「それは記憶の捏造では…?」と、不審に思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、それは違うのです。何と云いますか、出来るだけ記号接地させた言語の用い方で自分の記憶を対象として自問自答をしていますと、そうしたことが度々生じるのです。あるいはまた、それは、共通する記憶を持たれる方との会話においても、同様に度々生じると云えます。たとえば、二人が会話で、過去に二人が共に経験した、ある出来事について話し合っていて、一方が、その出来事のある場面での具体的な様相について自らの記憶に基づいて述べると、他方が、その出来事についての、また別の具体的様相が即座に思い出されて、話が広がっていくといったことであると云えます。またそれは、内面化された一人での自問自答においても生じるのだと考えます。そして、この自問自答の駆動を維持しているのが、さきにも述べましたが読書であると思われます。そこから、つい先日、ある記憶が思い出されたのですが、その具体的な内容は、また近い別の機会に述べたいと思います。そして、今回もまた、ここまでお読み頂きどうもありがとうございます。

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2026年7月9日木曜日

20260709 11年の継続、2500記事の到達から思ったこと

 おかげさまで、先月6月22日に、当ブログ開始から丸11年となりました。また、去る7月6日の記事投稿により、総投稿記事数が当面の目標としていた2500に到達しました。とはいえ、これまでと同様、目標到達の達成感や感激、感慨は全くなく、そのため今回も、ごく当り前のように、こうしてブログ記事の作成をしています……(苦笑)。
 しかし、振返ってみますと、ここ最近は、自らの文章による記事よりも、主に引用記事を作成・投稿してきました。これは、自らの文章での記事作成と比べ、緊張や逡巡などの心理的負担が少なく、そのため、2500記事に到達しても、先述しましたように感慨が乏しかったのではないかと思われます。
 また、2500記事到達後の現在、こうして自らの文章によるブログ記事を作成していても、不思議なことに、目標到達前の緊張感はありません。その意味で、引用記事の作成は、私にとって、ある局面においては有効な手段ではあったと云えます。
 もっとも、これまで、引用記事ではなく、自らの文章での記事作成が主であった頃、ある程度の目標へ到達した時も、やはり感慨などは乏しかったため、そこから考えますと、引用記事であるか、自らの文章であるかの相違は、実のところ、さほど大きなものではないのかもしれません…。おそらく11年間程度継続していますと、自らの文章であれ、引用による文章であれ「ブログ記事を作成する」という行為そのものが日常化され、達成感や感慨などをあまり意識出来なくなるのではないかとも思われます…。
 それでも継続していますと、時折は面白いことも起きます。去る6月29日投稿分の『インプットとアウトプットとブログ開始に至る契機について』を投稿した後、ほどなくして、文系師匠と鹿児島在住時にお世話になった研究室の先輩から相次いでご連絡を頂き、近況などを知らせてくださいました。しかし、お二人とも私のブログについては、特に触れられませんでした。そのため、これらのご連絡とブログ記事の投稿とは関係がないのかもしれませんが、タイミングを考えてみますと、何らかの関連があったのではないかとも思われます。実際のところは分かりませんが……。
 また、こうしたことは今回だけではありません。たとえば、ある記事を投稿した直後に、それと内容的に関連がある既投稿記事が読まれていたり、あるいは記事で述べた出来事に実際に立ち会っていなければ結び付かないような別の既投稿記事が閲覧されていたりするのを見ますと、何とも不思議な感じを受けます。そして、こうした出来事は決して少なくありません。
 こうしたことを考えますと、たとえ、このような小さなブログであっても、そこで述べた内容が、誰かの記憶を呼び起こしていることもあるのではないかと思われます。そして、もしもそうであるのならば、当ブログのような発信にも、何らかの意味があり、また、私自身としても、それは興味深いものがあると云えます。
 そのため、2500記事は、引用記事の投稿を中心として、どうにか達成しましたが、今後も、あまり変わらないペースで、出来るだけ自らの文章での記事作成を継続したいと考えています。それでも、引用記事がある程度続きますと、自らの文章による記事も比較的スムーズに書けるようで、今回の記事もまた、その流れで作成出来ているのではないかと思われます…。以前のように、自らの文章による記事を連日投稿できるようになりたいものですが、願っていれば、いずれまた、出来るようになると思われます。これまで、何とか当ブログを継続することが出来ていますので…。
 くわえて、ともかく目標としていた2500記事には到達しましたので、今後しばらくは、アウトプットたる当ブログよりも、インプットである読書の方に、もう少し注力したいとも考えています。そして、その背景には、ここ数年の世界情勢の大きな変化があります。
 2020年からの新型コロナ禍、2022年2月からのロシアによるウクライナ侵攻、翌2023年10月のイスラム原理主義武装組織ハマースによるイスラエルへの奇襲攻撃を契機として再燃したパレスチナ・イスラエル紛争など、現在に至るまで世界情勢は混迷を続けています。そのなかで、我が国も必ずしも賢明に処しているようには思われず、他方、国内においても元首相の暗殺をはじめ、さまざまな不祥事やスキャンダルが続き、それ以前の社会とは、様相が大きく異なるように思われます。それは、何と云いますか、社会全体で価値観が揺らいでいることを示しているのではないかと思われます。
 そして、新しい情報が次々と現れては消費されていく現在であるからこそ、ある程度長く読み継がれてきた著作を読む、あるいは改めて読み直すことに意味があるのではないかと思われます。
 具体的な著作を挙げますと、まずは夏目漱石による『現代日本の開化』です。人工知能が比較的広汎に実装されつつある現在に当著作を読みますと、改めて考えさせられるものがあると考えます。こちらは100年以上前に和歌山で行われた講演を基にしたものであり、明治維新以降、急速に西洋文明を受容し、近代化を推し進め、日清・日露の戦役を終えて一段落した頃の我が国で不可避であったであろう事態を「神経衰弱」と述べています。その内容は、人工知能がさらに高度化し、そして広汎に社会実装されるであろう今後の我が国社会を考える上でも、少なからず参考になるのではないかと考えます。
 漱石は当著作で、西洋の開化が概ね内発的であったのに対し、我が国の開化は外発的であったと指摘しています。換言しますと、我が国は、西洋化の波に抗う術はなく、急激に表面だけでも取り繕う必要があったことから、内実が伴わない「表層のみの開化」となり、それが後々、我が国に「神経衰弱」を齎したと述べています。そして、それが避け難い状況であったとしても、西洋文化崇拝一辺倒になることなく、主体性(自己本位)を保つことが重要であるとも述べています。こうした指摘は、人工知能が急速に進化し、普及しつつある現在であるからこそ、新たな技術をどのように受容し、そして活用していくべきかを検討する上で参考になり、その意味で『現代日本の開化』は多くの示唆を与えてくれる著作であると考えます。
 そして、次に挙げたいのは竹山道雄による諸著作です。竹山道雄は、戦間期から戦中・戦後の我が国をはじめ欧州の社会の様相を、さまざまな著作で述べていますが、戦争に向かう1930年代の社会の空気や、時代精神の変化、イデオロギーの対立、そして自由や教養などの意味についての考察は、単に当時の歴史の流れを知るためだけではなく、ふたたび分断や不安が広がる現代の国際社会や我が国の状況を考える上においても多くの示唆があると考えます。歴史は全く同じ形で繰り返されるものではありません。しかし、人間社会の構造や、人々の心理には、時代や国境を超えて共通する部分が少なからずあります。であるからこそ、こうした時代変化の様相を冷静に述べた著作は、現代においても参照され、そして来たるべき時代においても意味を持ち続けるのではないかと考えます。しかしまた、竹山道雄による、この時代(戦間・戦中・戦後)を描いた文章は、総じて比較的冷静な筆致ながらも、いや、それだからこそであるのか、そこから、現在の我が国社会とあまり変わらない要素が看取されて、徐々に気が滅入ってくると云った特徴があります。そして、それは司馬遼太郎が「昭和戦前期の日本には精神衛生に悪いものがある...。」と述べていたことと、おそらく通底すると思われますが、しかし、そうであるからこそ、やはり読んで知っておいた方が良いのではないかと思われるのです…。たとえ、読んでいるさ中に気が滅入って来ても、この場合は、それこそが歴史の持つ他に代替出来ない、大きな価値や意味ではないかと思われるのですが、さて、実際のところはどうなのでしょうか?
 ともあれ、今回もまた、ここまでお読み頂きどうもありがとうございます。そして、今後も引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。


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2026年7月8日水曜日

20260707 株式会社講談社刊 東浩紀著「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」 pp.16-20より抜粋

株式会社講談社刊 東浩紀著「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」
pp.16-20より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4061498835
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061498839

 前著の『動物化するポストモダン』は、タイトルに示されているように、ポストモダンとオタクの関係を中心とした社会分析の書物である。「ポストモダン」あるいは「ポストモダン化」は、一九七〇年代以降の先進諸国で生じた社会的変化を意味し、「オタク」とは、同時期の日本で成長した、マンガやアニメ、ゲームなどを中核とした趣味の共同体を意味している。
 ポストモダンもオタクも、日本では流行語になってしまったため、いまでは多様な意味を抱えている。そのためにかえって見えにくくなっているが、ポストモダン化の進展とオタクの出現は、時期的にも特徴的にも関係している。したがって、オタクについてポストモダンの概念を使って、また逆にポストモダンについてオタクの経験を参照して考えることには意味がある。そして、その視点からは、いままでの日本社会論ではなかなか語られなかった、戦後日本のある側面が見えてくる。筆者は前著で、このような立場のもとでオタクの歩みに注目し、一九九五年以降、若いオタクが急速に物語に関心を失っているように見えること(「萌え」「データベース消費」の台頭)、そしてその変化が、短期的な流行ではなく、むしろポストモダンの徹底化、すなわち「大きな物語の衰退」の反映として分析できることを指摘した。本書の議論は、まずはそのような状況認識を前提としている。
 私たちはポストモダンと呼ばれる時代に生きている。ポストモダンでは物語の力が社会的にも文化的にも衰える。そして、現在の日本では、オタクたちの作品や市場が、そのようなポストモダンの性格をもっとも克明に反映し、表現や消費のかたちをもっとも根底的に変えている。したがって筆者は、二〇〇〇年代の物語的想像力の行方について考えるために、まずは、その物語の衰退にもっとも近くで接しているはずの、オタクたちの表現に注目するべきだと考える。これが本書の出発点である。

ポストモダンと物語

 つぎに確認しておきたいのは、いままでの文章でもすでに問題となっていた、「ポストモダン」と「物語」の関係である。筆者は本書では、前著との重複を避けるために、ポストモダンの概念についてあらためて説明を行わない。本書の議論では、この言葉については、「大きな物語の衰退」ていどの理解でも文意を追えるようになっている。しかし、誤解を避けるため、あることだけ補足しておきたい。
 ポストモダン化は、社会の構成員が共有する価値観やイデオロギー、すなわち「大きな物語」の衰退で特徴づけられる。一八世紀の末から一九七〇年代まで続く「近代」においては、社会の秩序は、大きな物語の共有、具体的には規範意識や伝統の共有で確保されていた。ひとことで言えば、きちんとした大人、きちんとした家庭、きちんとした人生設計のモデルが有効に機能し、社会はそれを中心に回っていた。しかし、一九七〇年代以降の「ポストモダン」においては、個人の自己決定や生活様式の多様性が肯定され、大きな物語の共有をむしろ抑圧と感じる、別の感性が支配的となる。そして日本でも、一九九〇年代の後半からその流れが明確となった。これが、前著と本書の前提にある時代認識である。
 ところが、このような時代認識を提示すると反論が寄せられることが多い。それは、ポストモダンでは大きな物語は衰退すると言うが、現実には大きな物語はさまざまな局面で復活し、増殖しているのではないか、という反論である。
 二一世紀はポストモダンだという。しかし、実際には世界的には、大きな物語の衰退どころか、文明の衝突や原理主義の復活こそが問題となっている。国内を見ても、ナショナリズムや伝統の復活を願う声はますます高まっている。映画や小説を見ても、緻密な設定と重厚な世界観をもつ長大な物語は、以前と変わらず求められ続けている。話題を『動物化するポストモダン』が対象としたオタクの市場に限定したとしても、そこでも萌えの流行は一段落し、逆に物語が復活しつつあるように見える。そもそも、いまやインターネットは、政治分析からカルトや陰謀論、内部告発まで、世界中の人々が投稿した無数の大きな物語で満ちている。つまりは、マクロな水準でもミクロな水準でも、現在の状況は、大きな物語の衰退というよりも、むしろ物語の過剰や氾濫と捉えたほうが適切なのではないか。
 「大きな物語の衰退」という表現を常識的に理解するならば、このような疑問が生じるのはもっともかもしれない。しかし、その反論は実は誤解に基づいている。というのも、ポストモダン論が提起する「大きな物語の衰退」は、物語そのものの消滅を論じる議論ではなく、社会全体に対する特定の物語の共有化圧力の低下、すなわち、「その内容がなにであれ、とにかく特定の物語をみなで共有するべきである」というメタ物語的な合意の消滅を指摘する議論だったからである。
 ポストモダンにおいても、近代においてと同じく、無数の「大きな」物語が作られ、流通し、消費されている。そして、それを信じるのは個人の自由である。しかし、ポストモダンの相対主義的で多文化主義的な倫理のもとでは、かりにある「大きな」物語を信じたとしても、それをほかのひとも信じるべきだと考えることができない。たとえば、もしかりにあなたが特定の宗教の熱心な信者だったとして、現代社会はその信仰は認めるが、あなたがすべてのひとがあなたの神に帰依するべきだと考え、ほかの神への寛容を侵害することは、たとえそれこそが信仰の表れだったとしても決して許さない。言いかえれば、ポストモダンにおいては、すべての「大きな」物語は、ほかの多様な物語のひとつとして、すなわち「小さな物語」としてのみ流通することが許されている(それを許せないのがいわゆる原理主義である)。ポストモダン論は、このような状況を「大きな物語の衰退」と呼んでいる。
 したがって、現代社会が物語に満たされていることは、「大きな物語の衰退」論への反証にはならない。オタクたちの物語が、たとえ内容的には気宇壮大な奇想に満たされていたとしても、多様な消費者の好みに合わせて調整され、「カスタマイズ」され、それゆえにほかの物語を想像させる寛容さを抱えて作られているかぎりにおいて、それは「データベース消費」のもとにある「小さな物語」として捉えるべきだと筆者は考える。この「ほかの物語を想像させる寛容さ」は、本論でのち論じていくように、現代の文学を考えるうえで鍵となる概念である。

2026年7月7日火曜日

20260707 中央公論新社刊 宮崎市定著「科挙: 中国の試験地獄」pp.2-7より抜粋

中央公論新社刊 宮崎市定著「科挙: 中国の試験地獄」
pp.2-7より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4121000153
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4121000156

序論
 中国の政治思想によると天子なるものは天から委任をうけて、天下の人民を統治する義務を負わされたものである。
 しかし天下は広く人民は多いから、とうてい一人で統治することはできない。いきおい人民のなかから助手を求めて、その仕事の一部を分担させざるをえない。それがすなわち官吏であり、官吏の良し悪しは政治上に影響すること重大であるから、人民のなかの最も賢明なものを登用しなければならない。それがためには万人のなかから公平に人物を採用する試験制度こそ最良の手段だ。こうして科挙が始まったのである。
 これは実にすぐれたアイディアである。そしてこの科挙制度の成立したのが、いまから一四〇〇年ほど前の五八七年だということは、驚くべき事実である。
 なぜなら第六世紀はヨーロッパでいえばゲルマン民族移動の大混乱がようやくおさまりかけた頃で、中世的な封建諸侯の割拠、その花形である騎士道の黄金時代はこのあと長い時代をかけて展開されるからである。ところが中国では、封建諸侯にも比すべき特権貴族の黄金時代はこの頃すでに終わりを告げて、それに代わる新しい社会の胎動がきざしていた。科挙の制度も、単なる儒教の理念から形成されたものでなく、実際政治の必要に促されて、歴史の動きのなかから生まれ出たものなのである。
 それまでの中国は貴族主義全盛の時代といわれ、地方に有力な貴族群が根をはってはびこり、帝王権力もこれには一目おかないわけにはいかった。彼らは地方の州を単位として、そこにいわば貴族連合政権ともいうべき地方政府を形成した。その要職はすべて土着の貴族によって独占され、ただ長官だけが中央政府から任命されるので、かろうじて全体的に統一国家らしい体面を保っているだけである。
 この貴族群は地方政府を足場として、もし風向きがよければ中央政府へ進出して重く用いられるが、具合が悪くなれば地方へ引きこもって蟄伏しながら、おもむろに再起を計ろうとする。中央政府はこうした貴族たちの鼻息をうかがわなければ、円滑にその政治を行なうことができない。そこで貴族はますます図にのって、自分たちの家柄は天子のそれよりも古いと自慢しあい、天子の権利をないがしろにすることさえもしばしばであった。
 このような貴族のわがままにがまんしきれなくなったのが隋の文帝である。彼は地方政府に対する世襲的な貴族の優先権をいっさい認めず、地方官衙の高等官はすべて中央政府から任命派遣することに改めた。このためには中央政府が常に多量の官吏予備軍を握っていなければならないが、この官吏有資格者を製造するために科挙制を樹立したのである。すなわち年々中央政府が全国から希望者を集めて試験を行ない、種々の科目に及第した者に、秀才・明経・進士などの肩書をあたえて有資格者と定め、必要に応じて各地の官吏に任用するのである。
 中国では官吏登用のことを選挙というが、試験には種々の科目があるので、科目による選挙、それを略して科挙という言葉が唐代になって成立した。その後、宋代に入ってから科目は進士の一科だけに絞られたが、依然として科挙という言葉を使って清朝の末年に及んでいる。
 このように科挙なるものは、がんらいは天子が貴族と戦うための武器として突出されたものであったが、その任務はおおよそ次の唐代三百年ほどの間にほぼ果たされたと見てよい。次の宋代になるともはや世上には天子に刃向かうほど強力な貴族はいなくなり、科挙の全盛時代に入る。天子は自分が思うまま自由にこき使える官吏を、科挙によって十分に補給することができたのである。宋一代、科挙出身の政治家が自由に手腕を揮うことができ、中国史上はじめて見られる文治派の政治が完成されたのであった。
 しかし同時にこの頃から、官吏登用ははたして科挙のような試験制度にばかり頼っていてよいかという反省が生じた。北宋中期に出た有名な政治家王安石は科挙出身であったが、もっと進んだ考えを出して学校制度をはじめ、官吏は試験で採用するばかりでなく、あらかじめこれを学校で教育しておかなければならぬと考えたのである。いまから考えてみると、科挙制度はこの時代に、学校制度にその地位を譲っておくべきだったのである。
 宋を亡ぼしたモンゴル人の元王朝は、はじめは武力一点ばりで、学校にも科挙にも少しも興味をもたなかった。しかし征服された中国人の間には、科挙への郷愁のやみがたいものがあった。そのうち元王朝も少しずつ中国化してくると、中国人の切なる希望もあって、四十年ほど中絶していた科挙が小規模ながら再興されて、元の滅亡する直前まで続いた。
 モンゴル人を北へ追い払って中国人の中国を回復した明の太祖は、学校と科挙とを併用する政策をたてた。全国に学校をたて教官を任命し、そこで十分に教育した上で、生徒のなかから優秀な者を科挙の試験によって抜擢しようというのである。ところが不幸にしてこの政策は時間がたつ間に骨抜きにされてしまった。金のかかる学校教育が有名無実になってしまい、学校における試験が、しだいに科挙の試験の踏み台にされるようになると、それは始めから終わりまで試験だけの連続という、きわめて好ましからざる制度に変形してしまったのである。
 清朝は明代の科挙制度をそのまま踏襲した。ただし科挙も過去に長い歴史をもつようになると、しだいに弊害が積み重なってきたので、清朝はなるべくその弊害を矯正しようと努力した。しかし、単に試験に不正をなくして公平を図ることのみを目指したので、その結果は試験の上にさらに試験を重ねることになり、ますます試験の負担を増すだけであまり効果をあげることができなかった。そして清朝も末年になると、弊害の方がいよいよ募るばかりで、ついには世間からも愛想をつかされるようになった。
 そこへ押しよせたのがヨーロッパの新文明の波である。ヨーロッパの文明は学校でなければとうてい教育できない自然科学、実験、工作の要素を含んでいる。そこで清朝政府もついに兜をぬいで、一九〇四年を最後の年として、以後は科挙を行なわぬことに定めた。
 ただし科挙通過者の称号たる進士の名は、なお引き続いてこれを用い、大学卒業者、あるいは海外留学からの帰朝者に対し、その学歴に応じてあたえることにした。奇抜なのは、日本の服部宇之吉博士が清朝に招かれて京師大学堂の師範教習に任じられ、一九〇九年帰国の際に、進士の称号を贈られたことである。朝鮮には、中国へ入って実際に科挙を受けて進士となった者があるが、日本では唐代に阿倍仲麻呂がはたして進士になったか疑わしいのを除き、ただ服部博士だけが科挙制崩壊直後に進士となったのである。ただしこれは余談。
 以上は主として天子の側から科挙制を眺めたのであるが、これを人民の側から、受ける人の立場として見ると、また異なったニュアンスが出てくる。科挙は天子がせっかくこのように広く一般人民に門戸を開いて人才を求めるのだから、これに応じて存分の才能を伸ばしてみるのは男子生涯の壮挙といってよい。ただしこれも立派に言おうとすればそうなるのであるが、実際は何よりも就職の便利のためである。旧中国において何がもうかるといって、官吏となるほど得な職業は外にない。しかもそれが名誉とあわせて実益をつかむのだからたまらない。
 科挙の始まった六、七世紀の頃からのち数百年間は、官吏となる以外に利殖の道が少なく、下って明代頃から商売に身をいれれば、らくに暮らせるような世のなかになったが、しかし商人では肩身がせまい。その上、大商売をしようとすればどうしても身を卑下しつつ官辺と連絡をとらねば不便なので、そんな屈辱をしのんで金をもうけるよりも、官吏そのものになって堂々と好運をつかむのが一番賢いやり方なのである。
 そこで世人が争って科挙の門をめがけて殺到するから、広い門もだんだん狭くなる。競争が激しくなればなるほど、それに打ちかつには単なる個人の才能よりも、個人をとりまく環境が大いに物をいうことになる。もし同程度の才能に生まれついていれば、貧乏人よりは金持が有利、無学な親をもつよりは知識階級の家に生まれた方が有利、片田舎よりも文化の進んだ大都会に育った方が有利だということになる。その結果として文化が地域的にいよいよ偏在し、富もまたいよいよ不公平に分配されるようになる。
 中国は土地が広く人口も多い。そのなかから、最も環境に恵まれ、才能に富んだ人たちが集まって必死の競争を展開するのだから、科挙はますますむつかしい試験になる。試験地獄がもし起こらなかったら、その方が不思議であろう。