2026年8月11日火曜日

20260811 日経BP 日本経済新聞出版刊 アレクサンダー・C・カープ / ニコラス・W・ザミスカ 著 / 村井章子 訳「テクノロジカル・リパブリック 国家、軍事力、テクノロジーの未来」 pp.134-139より抜粋

日経BP 日本経済新聞出版刊 アレクサンダー・C・カープ / ニコラス・W・ザミスカ 著 / 村井章子 訳「テクノロジカル・リパブリック 国家、軍事力、テクノロジーの未来」
pp.134-139より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4296124862
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4296124862

 西洋文明という巨大かつ堅牢な概念をぶち壊そうとする挑戦は1960年代から本格的に始まったが、おそらく頂点に達したのは、1978年にエドワード・サイードの「オリエンタリズム」[邦訳・平凡社]が出版されたときだろう。ロンドン・レビュー・オブ・ブックス誌のアメリカ人編集者アダム・シャッツは、初版から40年後の2009年に発表した論文の中で、「オリエンタリズム」は「戦後の知の歴史において最も影響力のある著作の一つ」と評している。有力な書評家の一群がこぞってサイードの著作を取り上げ、「オリエンタリズム」は学界再編の契機となった。
 サイードの著作の魅力と文化的影響力は、どれほど強調しても誇張にはなるまい。「オリエンタリスト」という言葉は、主流の文化的エリートの間ではある種の蔑称として使われるようになった。この言葉はいまでも議論を脱線させる力を持っており、さらに言えば皮肉なことに、大学のキャンパスでアイデンティティを構築し力を行使する手段にもなっている。シャッツによると、サイードが使い出してから「オリエンタリズム」という言葉は「リベラル系の大学のキャンパスでは会話を途絶えさせるような言葉の一つになったという。そういう大学では、誰も人種・性・同性愛・トランスジェンダー差別主義者と呼ばれたくないのと同じくらい、オリエンタリスト呼ばわりされたくないのだ」とシャッツは述べている。とはいえ「オリエンタリズム」の置き土産はもっと複雑だ。植民地主義的な世界観に根ざす教条主義が次々に他の教条主義に取って代わられるようになったが、どれもこれも似たり寄ったりで、「オリエンタリズム」がもたらした新しい知に反する歴史観や記述を同じような論法で否定するだけだった。19世紀以前の東洋学者(オリエンタリスト)がある種の文化や民衆を劣った存在として描いたのとまさに同じように、1980年代~90年代の学者たちは、サイードの登場以降、ある種の主張を特定して疎外し、まともに扱う価値がないと決めつける手段を手にしたのである。
「オリエンタリズム」はまた、全米さらには世界の大学の人文学部の機構と内部の権力闘争を様変わりさせた。インドの作家パンカジ・ミシュラは、「オリエンタリズム」が「新しい研究職を大量に生み出した」と書いている。実際、同書の出版を契機にアメリカの高等教育機関には新しい分野が誕生したと言える。それは植民地主義的知識を破壊する学問を生むと同時に、ミシュラによれば、知識人亡命者(おおむね男性である)に自己宣伝の手段を提供した。彼らは「多くの場合、出身国で支配階級に属していた。植民地時代に繁栄した階級に属していたことさえある」という。「被植民の上流階級にとって、西洋のオリエンタリストを糾弾することは終身在職権を手に入れる方法の一つになった」。
「オリエンタリズム」の文化にもたらした影響があまりに徹底的で全面的だったため、同書が現代の議論や世界観の構築において果した役割に、多くの人はほとんど気づいていない。シリコンバレーの現役世代はとくにそうだ。人文科学教授のティモシー・ブレナンが書いたサイードの伝記は、「ポストコロニアル研究はもはや単なる学問の一領域ではなくなった」という一文から始まる。では何になったのか。「他者」、「異種混交(ハイブリディティ)」、「差異」、「ヨーロッパ中心主義」といった、特殊な意味を付与された用語で彩られる世界観を指すようになったのである。これらの用語は「演劇のプログラム、出版目録、美術館のカタログはおろか、ハリウッドの映画にすら見当たらない」ものだった。1990年代から21世紀にかけて、アメリカの知識人や作家・ジャーナリストといった学術界周辺の人々、そしてシリコンバレーの人々は、体制派エリートの支配的な政治思想の中心に「オリエンタリズム」を据えた。大方の人は「オリエンタリズム」を手に取ったこともなく、中には存在すら知らない人もいるというのに、である。
 「オリエンタリズム」の実質的な勝利は、歴史を語る行為、すなわち膨大な細部や事実の寄せ集めを要約・構成して物語に落とし込むという行為は、けっして中立で公平にはなり得ず、世界における力の行使にほかならない、と幅広い読み手に知らしめたことにある。サイード本人が1994年版のあとがきに書いたように、「アイデンティティの形成は、一つひとつの社会における力の配分、持てる者と持たざる者の配分と分かちがたく結びついている。したがって、学者の空想などではない」。こうして、何が歴史や人類学を作り出すのか、その装置やしくみがサイードの研究対象となった。この装置には、分断へ、「われわれ」と「他者」の定義づけへと向かわせる傾向があり、サイードにとっては、そのこと自体が歴史を作る行為の結果であるとともに、おそらくは必然の要素だった。サイードはイギリスの歴史家デニス・ヘイを引用して、こうはっきり述べている。「ヨーロッパという概念は、ヨーロッパ人としての“われわれ”を非ヨーロッパ人の“他者”から区別する集団的な概念である」。それから半世紀近く経ったいま、この主張に異論の余地はない。というよりむしろありきたりである。だが1970年代にはきわめて過激で、大学当局や教授陣を大いに動揺させた。サイードの中心的なテーマは今日の人文科学分野の基礎となり、発言者のアイデンティティは発言内容以上に、とは言わないまでも同じぐらい重要だとされるようになっている。話す側と聞く側、語り手と物語、ひいては話し手のアイデンティティと真実との関係に関する理解が修正されたわけで、その影響は根深く、かつ長続きした。しかも修正が極端な場合、その影響は有害ですらあった。サイードの主張が過剰に拡大された結果、脱構築の動きが勢いを増し、数十年が経つうちには発言者のアイデンティティのほうが発言内容より重視されるようになった。
 サイードに対する批判は多く、しかも多岐にわたっている。その一つは、東洋において西洋と同様の「権力と知識」構造の調査をサイードがあまり熱心に行っていない、というものだ。東洋でも、下位階級の中で底辺層に服従を強いることを正当化する手段として、知識が用いられていた。ミシュラが指摘したとおり、「オリエンタリズム」は「先行するアジア、アフリカ、ラテンアメリカの思想の膨大な記録に関して何の言及もない。その中には、バラモン教のカースト理論など非ヨーロッパ人のエリートによるものも含まれており、それらはエリートによる支配を自然かつ正統的に見せるための理論だった」。
 サイードの中心的な主張(と解釈したもの)を直接的に攻撃するケースもすくなくない。たとえば西洋文明を必修とすることに賛成だったシカゴ大学のウィリアム・マクニールは、1960年代に西洋文明概論が必修科目から徐々に、やがて急速に姿を消した後もなお、道徳的相対主義(と彼が呼ぶもの)に果敢に抵抗した。道徳的相対主義は20世紀後半に台頭し、やがてもっと許容されやすい多文化主義(multiculturalism)という名前を隠れ蓑にするようになった、とマクニールらは主張する。マクニールは1997年に発表した論文で、世界史講座をつくる試み自体が「あらゆる文化的伝統を平等に扱わなければならないというあきらかにまちがった主張によってしばしば汚染された」と述べている。彼はサイードを名指ししたわけではないが、当時はサイードの存在もその主張もすっかり浸透し、いたるところで話題になっていたから、この分野の議論に加わる者は必然的にサイードと意見を闘わすことになった。
 ここで改めて指摘しておきたいのは、文化の変化は早いということである。マクニールがしたような発言を今日したら、ただちに撤回しなければなるまい。20世紀末までには、文化について規範的な主張、たとえばある特定の文化の長所短所などをあえて論じる歴史学者は、だいたいにおいて退場させられるか、すくなくとも職を失うことになった。ヨーロッパとかつての植民地の間の経済産出高や軍事力の差を指摘するといった控えめな試みであっても、文化的会話ではつつしまなければならない。

20260811 株式会社株式会社講談社 講談社学術文庫 竹山道雄著「歴史的意識について」 pp.150-151より抜粋

株式会社講談社 講談社学術文庫 竹山道雄著「歴史的意識について」
pp.150-151より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 406158622X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061586222

 いまさら言うまでもないが、1616年に、法王庁はコペルニクスの地動説を、「聖書の各所に言葉どおりに記してある説、また初期教会の教父たちの見解にあきらかに背いている故に」、異端と宣言した。そして、カリレイにそれを祖述することを禁じた。カリレイはいったんこれに従ったものの、なおつづけていたので、終身禁固刑を宣告された。

ところで、その聖書であるが、創世記をはじめ非合理的なことがいっぱい書いてある。現代の科学者はもとより、物を考える人で、あれをそのまま信じている人がどれほどあるのか。といつもふしぎに思う。すくなくとも学者には、歴史家であれ哲学者であれ心理学者であれ…いないように思われる。俗人にもほとんどいないようだ。ただアメリカでは、創世記信仰復活が大きな運動になっている由である。

昔ある国にああいう信仰が行われていたことは分るし、他人の信仰についてとやかくだ批判めいたことを言うつもりはない。

ただいかにも解しがたいのは、あの聖書に盛られている猛烈な妬み、憎しみ、呪い、復讐・・・・・について、いまだに何の自己批判がされていないことである。イエスは自分がユダヤ人でありながら、「汝らユダヤ人よ、汝らは悪魔の子である。云々」と説教をした。やはりユダヤ人の聖者マタイは、「ユダヤ人は神の子を殺した故に、子々孫々まで罪がある」という邪悪な創作をした。これらの言葉がその後もずっと生きていて、世界史に測るべからざる災厄(さいやく)を生むことになったが、しかもこれらを明記した聖書が神の啓示として、何の改訂もされないままに今でもベストセラーをつづけている。キリスト教国は戦争や侵略をつづけたが、それにはつねに神意がもちだされていた。しかも、キリスト教は愛の教ということになっている。

ヒットラーは「アルメニアの虐殺(ぎゃくさつ)をいま誰が覚えているか」と言ったそうであるが、社会の記憶は短く、年がたてば忘れられて問題ではなくなるというのも事実である。現に、ドイツ人の多くはあの大事件については考えることをやめてさながらなかったことのようにしているうちに忘れてしまって、自分は依然として昔ながらの深い内面性をもった高貴な個性ある人格だと思いこんでいる。フロイトは、不安や葛藤をよびさますような体験は抑圧され、忘れられる、と説明しているが、まさにそれである。キリスト教会も当時は反抗しなかったし、今もべつに贖罪をしていないようだ。戦後になって日本在住のカトリック神父で、われわれは固い信念をもっているが、日本人の宗教心は折衷主義で倫理性がないなどと説教した人もいた。

2026年8月9日日曜日

20260809 株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「歴史・科学・現代」加藤周一対談集 pp.20-26より抜粋

株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「歴史・科学・現代」加藤周一対談集
pp.20-26より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4480092943
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480092946

丸山:世界創成神話というのはいろんな民族にあるわけだけれど、日本ほど具体的な国土、それも淡路島とか対馬とか、一つ一つ小さな島の名前をあげて、順々に生誕を語ってゆくのは、どうもあまり例がないらしいね。

加藤:その辺がまたおもしろいんだな。特定の地名ー殊に平安朝以後の名所・歌枕など―が文学に持っている影響は大きいですね。それが極端になると、食べ物の嗜好にまで及んでいる。どこそこの芋だとか魚だとか、「どこそこの」ということがなによりも大切になりますね。

丸山:「風土記」はもちろん、記紀にも、地名の起源説話がやたら出て来るものね。

加藤:それからもう一つ”なる”ということでね。ヨーロッパや中国の町は”つくった”町でしょう。それにたいして日本の町は”なった”ものだ。京都は中国の町の模写だから別にして、本来の日本の町は”なる”ものでしょう。まさに現代の日本の都市もまた”なる”都市で…

丸山:徂徠が「政談」や「太平策」の中で、江戸の町は全然計画性がないから、いつのまにか品川まで家続きになっちゃって、どこから都市でどこから田舎だかわからない、ということをいっている。大学にいたころ演習でテキストに使ったので、江戸のメガロポリス化といったら、学生がみんな笑ってね。ぼくは冗談半分でいったんですけど、なかに一人、真面目だけれど、ユーモア感覚のあまりない学生がいて、「あのころからそうだったんですか」(笑)と感心していました。いつの間にか、誰がしたというのでなしに、何となくひろがっていくという、自然膨脹主義で、とうとう東海道メガロポリスになってしまった。徂徠の「都鄙の別なし」というのはじつにうまい表現だと思うんです。

加藤:ヨーロッパの中世都市では、だいたい中心に教会があって、城壁をつくって城壁の中にずっと殿様以下町人までが住んでいる。

丸山:空間ということで一つ伺いたいのは、ひじょうに素朴な疑問なんだけれど、たとえば、シスチンの礼拝堂にミケランジェロが「旧約聖書」をテーマにして、「天地創造」から「最後の審判」まで、全部壁画に描きましたね。日本の神話も、スケールの大小はともかく、絵の題材としては大変面白い話が多いでしょう。そういうものを壁画にしたということはまずないですね。どういうわけだろう。

加藤:神話は神道のものでしょう、仏教系統じゃない。ところが神道の方には、絵だけじゃなくて神像もない。伊勢神宮でも天照大神の像はないということになっている。それが一番根本的な理由じゃないでしょうか。神道もそうですが、儒教にも、「イコノグラフィー」は発達しなかった。むしろ仏教やキリスト教が「イコノグラフィー」を極度に発達させた特殊な例外じゃないでしょうか。

丸山:なるほど…。たとえば絵巻物だって、あれだけ日本に伝統があるんだし、天の岩戸神話や出雲神話の絵巻があってもよさそうなものだという気がするんですけどね。神道だってイデオロギーの面では、仏教や儒教にもろに影響されているのにね…

加藤:神話の物語はたとえば能にもほとんど出てきませんね。あれだけ古い、いろいろの材料を使っている能にもない。

丸山:日本の神話がいわゆる民族の伝承として日本人の興味を喚起していたら、何らかの形で芸術化した筈で、そう考えるほうが普通だと思う。してみると、日本神話は文献化されて以後は、果して神話として伝承されたといえるのかどうか。神道家による神代巻の注釈書は伊勢神道以来、いろいろあるけれど…。その点だけ見ても、神話神話といってもこれをギリシア神話などとすぐ比べるのは危険だ。これはもう少し論議してもいい問題じゃないかな。

加藤:絵巻物といえばね、たいへん抽象的な画面構成と、ひじょうに細かい部分の描きこみとの、両方の要素があるんですね。「ミニアチュール」の意味は、よくわかると思う。つまり、「いま」と「ここ」という立場からいって、全体との関連からはなれても、細かいところへどんどん入って行くんですね。それはわかるんですが、あの抽象的な画面構成、たとえば「源氏物語絵巻」でも、画面を分割する建物の線とか、単色の大きなブロックとか、これは簡単に説明できない要素ですね。その辺のところに日本美術史の一つの大きな問題があると思うんです。

丸山:ぼくはその辺のところはよく分らないけれど、あれ「抽象的」っていえるのかしら…

歴史主義ー西洋と日本

丸山:話を元にもどしますけれど、一般常識的な意味で、歴史というのは、現世の出来事の時間的な変化を追ってゆくということでしょう。ところが超越的な世界宗教が出てくると、この世における人間の営みを絶対的な立場から審判する。それにたいして人間はどう永劫の責任を負うか、ということが大きな関心事になる。キリスト教だけじゃなくて、仏教の業(カルマ)とか輪廻 (サムサラ)とかだって、やっぱり、そういう問題への答えでしょう。ですからごく普通の歴史的見方にとっては、超越宗教というのは有利な土壌にならない。まさに逆に、日本のようにそういう超越者の意識がうすいところでは、昔から出来事をみる目が歴史主義的だったというところがあるんじゃないか。ヨーロッパでいうと、かえってギリシア・ローマの異教的世界の時代にすぐれた歴史家がいて、中世以後で本当に歴史の世紀が来るのは十九世紀ですね。たとえば、ヘーゲルは歴史哲学の元祖みたいにいわれるけれども、ヘーゲルの歴史哲学は根本的に弁神論ですよ。むろんドイツ観念論のなかではいちばん歴史内在的な見方をするわけだけれど、結局歴史というのは神の世界計画の実現の過程で、目的論的ですね。だからランケとかランケ以後の歴史主義の発展というものは、ヘーゲル主義の呪縛からの解放のためのものすごい苦闘を経て、いわゆる歴史的個体性の認識と時代的な相対性の見方を成熟させていった。ところがあらゆる時代を内在的に理解していこうというのを押しすすめてゆくと、歴史上の人物にしても出来事にしてもそれなりに分っちゃうことになってね、峻厳な価値判断がくだせなくなる。ニーチェがほとんど本能的に反撥したのはそこでしょう。いわゆる「すべてを理解することはすべてを許すことだ」。それで今度はトレルチやマイネッケなんかが、歴史主義の危機を論じ出すようになる。日本は、その意味で絶対者の基準がはっきりしないから、ヨーロッパが十九世紀でようやく開花したような見方ー歴史は過去をありのままに (wie es gewesen ist) 書くものだ、というランケのような考え方ーは、何だそんなことはあたりまえじゃないか、ということになる。素朴な形ではあるけれども、昔からそういう見方が強いから・・・・

加藤:そのとおりだと思いますね。だから、近代的な歴史観が明治になって入って来たときに、そのままつながろうというところがあったと思う。ただ歴史主義の発展はヨーロッパでは、三段になっていて、一つはヘーゲルからマルクスまでかな、歴史の法則を求めるという…

丸山:摂理史観のヴァリエーションですね。

加藤:マルクスも、拡大して考えれば摂理史観ですね。そのあとが、今おっしゃったような実証主義的な歴史主義、人間史学が出てくる。しかし、そこには、壊すことの出来ない人格の統一性にたいする信頼がある、人間の劇としての歴史ですな。そのもっとあとで、こんどは人格の統一性にたいする信頼が失われる。それはいろいろなインパクト、フロイトもあるでしょうしいろんな要素があって、結局、人格の統一性にたいする懷疑の時代に入って来た。それが「現代」だといえますね。日本は、いわばはじめから、ヨーロッパの第三段階ですね。現在の第三段階に近いところがある。近代的というよりも、もっとも最近のヨーロッパの風土になまにつながる類似性があるんじゃないでしょうか。

丸山:面白いですね。たとえば、マルクス主義の受容のされ方でも、そういう一面がある。マルクス主義の受容はひじょうに複雑で、いろいろな面がありますよ。公式主義といって反マルクス主義者からやっつけられるのは、いわば日本の思想の土壌と逆の面です。しかし同時に、観念や思想の歴史的制約とか、歴史の発展法則の鉄のごとき必然性とかーこっちの面でいうと、たとえば生産力の発展は産霊(むすひ)の”なりゆく”史観に、また不可抗的な必然性は”いきほひ”の史観にズルズルと受け入れられるような…

加藤:そういう一面もある。マルクシズムには、個人的決断、丸山さんのいう”つくる”意志、その不在を理論化する面があった。

丸山:ぼくなんか戦前の実感で、ひじょうに気になった一面ですね。世界史的必然というのが、理論的意味はともかく、現実には天下の大勢には勝てない、という考え方を助長する。大勢といえば、これを多勢とも書いて、おおぜいと訓むのも、象徴的だと思うんです。軍記物にも出て来ますね。おおぜいになると”いきほひ”がついちゃってとても手におえない(笑)。

加藤:同じことになると思いますけれど、マルクシズムは本来、思想が歴史的・社会的に制約されているということ、主観的には個人の自由意志の決意であるかのようにみえても、じつは歴史的にはブルジョア階級の利益を擁護しているにすぎない、ということを強調する。だから、対ブルジョアのきわめて戦闘的な思想になるわけでしょう。歴史は自由な個人の”つくる”ものだというのが、ブルジョア思想の根幹だから。そういうブルジョア思想がなければ、戦闘的イデオロギーではなくて、今までつづいてきた伝統的な文化の再確認になってしまうんでね。

2026年8月4日火曜日

20260803 「地の文章」と「修辞をした文章」と文章作成について思ったこと

 去る7月6日に目標としていた2500記事に到達してから、早くも1カ月近く経ちました。その期間で当記事を含めて、2500記事から、さらに10記事追加しましたので、およそ3日に1記事は投稿してきたことになります。この投稿頻度は、目標到達後の休息期間としては多すぎると思われますので、以降、さらに休みを多くしたいとは考えていますが、PC前に座り、当ブログを開きますと、不思議なことに『また何やら文章を作成しなくては…』といった心持ちになってくるのです…。加えて、そうした気持ちが生じると云うことは、既に充分、休息を取ったことを意味するのではないかとも考えられるため、とりあえずスムーズに作成出来るところまで作成して、その後、作成への気持が涸れていなければ、そのまま続け、困難であれば、作成文章を下書きとして保存しておけば良いと考え、作成を始めた次第ではありますが、思いのほかに文章は進み、この程度まで進みました。そういえば、冒頭で述べた2500記事到達直後、何を思ったかまた、ノートを購入し、そこに何かしら文章を書くようにしていますが、紙のノートに筆記具で文章を書くと云う行為は、かつては頻繁に行っていましたが、昨今では、そこまでの頻度ではないため、何やら新鮮に感じられ、しかも、紙に文章を書いていますと、こうしてPC前に座り、キーボードで文章を入力するよりも、かなりスムーズに文章が出てくるのです…。これは当初、それなりの驚きがあったことから現在も続いていますが、今後出来る限り続けてみたいと考えています。そして、ここまで作成していた、その様相を検証するために、また筆記具を持ちノートを開きますと、やはりスムーズに何やら文章を書くことが出来るのです。そこで、それぞれの文章の違いは何であるかと検討するため、過日、記したノートの文章を読んでみますと、そこでも、このことに言及しており、ノートに書く文章を「地の文章」として、PCに入力する文章の方は「少し修辞をした文章」と記していました。これはたしかに事実に近いのではないかと云えます。また、こうしたことを書いていますと、以前にも当ブログにて述べました、言語についての考えが想起されます。それは、初期ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」の「言語が意味を持つのは、それが実際の世界の構造に接地されて、その構造を写像出来る場合に限られる。そして、この写像の可能性こそが、言語で語り得ることと、語り得ないことの境界を定める。」と云った考えです。これを、さきのノートへの手書きと、PCでの入力に当て嵌めて考えてみますと、手書きの方は「地の文章」であると同時に、言語の重要な要素である「写像」については、あまり考慮していない文章であり、また、そうであるからこそ、スムーズに作成することが出来るのではないかとも思われます。そして、それは文章が湧いてくる身体と、手に持った筆記具との「近さ」に因ると考えます。他方のPC入力での文章は、作成するために、その文章の内容を予め自覚しておかないと作成することが困難であることから、ある程度、文章として読まれることを意識して「写像」つまり現実世界と言語との対応関係、あるいは読み手からの文章としての理解のし易さを考慮して、修辞をした文章を作成することから、手書きほどにはスムーズな文章作成が困難であると思われるのです。そして、こうしたことは、おそらく今回はじめて感じられたことではないと思われますが、何度かそうした経験をすることにより、修辞を施し、ある程度、他者からの理解を得られるような文章を作成することが出来るようになるのではないかと考えますが、そのように認識を新たにしてみますと、ここしばらくは、目標到達後の休息期間ではありますが、時々は、このように新たなブログ記事を作成することは良いことであるように思われました。そして、今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。

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2026年8月3日月曜日

20260802 下戸遺伝子と三遠式銅鐸を結ぶことで見えてくる様相

日本の古い歴史を調べる際に、記紀などの文献資料や、古墳や出土物などの遺跡・遺物などをあたることが多いのではないかと考えます。たしかに、そうした方法は重要であり、また主たるものであると云えます。しかし、そこに自然科学分野での知見や研究成果などを組合せてみますと、それまでの方法では看取することが困難であった、新たな興味深い様相を、時には見出すことが出来るのではないかと考えます。

その一例を挙げますと、それは「三遠式銅鐸」「水稲耕作文化」「ALDH2変異(下戸遺伝子)」「マラリアの流行」といった、一見、関連性が乏しいと思われるキーワードをつなぐことにより見えてくる様相であり、これらは、近畿東部、東海西部、北陸南部をまとめた地域を軸としますと、結び付けることが出来ます。

我々日本人には、少量の酒を飲んだだけで顔が赤くなったり、動悸や頭痛が生じる人が少なくありません。これは、アルコールの分解過程で生じる有害物質アセトアルデヒドを処理する酵素「ALDH2」の働きが弱い体質によるものです。このお酒に弱い、いわゆる「下戸遺伝子」と呼ばれるALDH2変異型は、世界的に一様に存在するものではなく、東アジア地域に著しく集中しています。近年のゲノム解析研究によりますと、この変異は、約2~3万年前に中国南部の長江下流域付近で発生し、その後、同地域を起源とする水稲耕作文化を持つ人びとの移動に伴い、日本列島に流入したと考えられています。

現代の我が国におけるALDH2変異型(下戸遺伝子)の分布を見てみますと、縄文系ゲノムの割合が高い東北地方や九州南部、沖縄などでは、酒に強い遺伝子が高頻度で見られるのに対し、前述の近畿東部、東海西部、北陸南部地域では、このALDH2変異型(下戸遺伝子)を持つ人びとの割合が顕著に高くなっています。そこから、この下戸遺伝子は、我が国においても全国で一様に存在するものではなく、特定の地域に定着したものであることが分かります。

では何故、この近畿東部、東海西部、北陸南部地域において、大陸由来の下戸遺伝子が定着、維持され続けたのかと考えてみますと、そこには、水稲耕作文化の普及による自然環境の変化と、それに伴う感染症という淘汰圧が作用したのではないかと考えられます。

大陸を起源とする水稲耕作文化は、弥生時代から、豊かな水資源を持つ近畿東部の琵琶湖周辺や東海西部の木曽三川流域、北陸南部の九頭竜川流域などで広く展開されました。その一方で、大規模な水田や用水路の開発は、同時に、低湿地や水たまりなどの湿度の高い環境を生み出し、それはマラリア原虫を媒介する蚊の格好の繁殖場にもなりました。そして、これらの地域は、近現代に至るまで、マラリアの流行地として知られていました。

ここで注目されるのが、さきの下戸遺伝子とマラリア感染症との関係性です。

飲酒時に体内に蓄積するアセトアルデヒドには一定の抑菌作用や寄生虫の増殖を抑える効果があるという仮説があり、マラリア負荷の強さが下戸遺伝子を持つ人々の生存に有利に働いた(正の選択圧)可能性が指摘されています。確かな科学的事実とするには、さらなる検証が必要ではありますが「水稲耕作」「感染症リスク」「遺伝的定着」の環境的相互作用は、地域社会の成り立ちを考えるうえで、大変興味深いものであると云えます。

そして、この下戸遺伝子の高頻度地域およびマラリア感染症の流行地域と概ね一致するのが、弥生時代後期を特徴付ける銅鐸の一様式である「三遠式銅鐸」の出土分布地域です。三遠式銅鐸は、同じく後期式の銅鐸である「近畿式銅鐸」が大きな飾耳を吊り手(紐)に持ち、文様の突線を大きく盛り上げ、躍動的な勢いを強調するものが多いのに対して、「三遠式銅鐸」は造形的に対極に位置していると云えます。吊り手(紐)に大きな飾耳はなく、表面に「袈裟襷文」や「鋸歯文」などの直線的あるいは幾何学的な文様を精密・均一に刻み込むという技術的特徴を持っていると云えます。

その文様の描き方は、近現代の工業製品の意匠を思わせるほどに整然としており、同一様式の線や文様が精確に反復されています。こうした双方銅鐸の意匠の相違は、それぞれの製作を担った工人集団や、その技術的特徴の違いを反映していると考えます。

おそらく、銅鐸の作製を担った工人集団は、その技術と同様、朝鮮半島を含む大陸にルーツを持ち、そして、彼等が持っていたのは一連の鋳造技術だけでなく、ALDH2変異型(下戸遺伝子)もまた、そうであったのではないかと考えます。そして、この下戸遺伝子に由来する銅鐸の意匠あるいは一種の美意識が、前述した三遠式銅鐸の精密・均一な銅鐸表面の文様であったのではないかと考えます。

また、さらに歴史的視野を広げてみますと、この地域は、後世、戦国時代において、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と云った組織化や制度構築に長けた乱世の覇者を輩出し、さらに近現代においては、自動車産業や工作機械などに代表される、我が国が誇る工業文化も生み出しました。近代工業に不可欠な標準化や工程の統御を重んじる優れた工業文化を生み出した風土は、三遠式銅鐸の精密・均一な文様の意匠と通底するものがあるのではないかと考えます。

二千年近い歴史の隔たりがあるため、これらを直接の因果関係で結び付けることは困難でありましょうが、同じ地域において、規格性や精密な技術を尊重する価値観が繰り返し表出してきたことは、地域社会のプロトタイプ(原型)を考えるうえで極めて興味深い現象であると考えます。

遺伝子は人々の移動と生活環境への適応を記憶し、出土遺物は人々の技術と意匠文化を今に伝えます。換言しますと「ALDH2変異(下戸遺伝子)の分布」、「水稲耕作とマラリア感染症」そして「三遠式銅鐸の文様の精密・均一さ」は、それぞれ独立の要素としてではなく組合せて考えることにより、さらに精確で明晰な歴史像の仮説を我々に示すのではないかと思われますが、さて如何でしょうか?そして、今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。


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2026年7月23日木曜日

20260722 2500記事到達後しばらく経ち、いくつかの記事の閲覧数の急増があって思ったこと

 7月も既に半ばを過ぎ、首都圏は、うだるような暑さの日が続いておりますが、当ブログは、今月6日投稿の引用記事により2500記事に到達しました。そして、その後も自らの文章による記事、引用記事を織り交ぜて投稿を継続しており、現在までの総投稿記事数は2507となりました。
 私としては、一旦、当ブログやSNSから離れたいと考えていますが、こうしたアウトプットは、半ば習癖となっているようで、そのため、今回もまた、このように新たな記事を作成しているのだといえます…(苦笑)。
 また、当記事につきましては、その作成に至った理由があります。その理由とは、2500記事到達後のここ2週間ほどで、どうしたわけか、以前の投稿記事である『20251104 黎明期の試作機である私について』が集中的に読まれており、その閲覧数は1500を超え、一挙に当ブログ全期間を通じて最も多く読まれた記事の上位4番目になったことです。
 当記事では、昨年11月初旬、2400記事到達を目前にして、当ブログ作成に至るまでの経緯を述べ、そのなかで、自らを、修士(経済学)を取得してから歯科技工士となり、その後、課程博士(歯学)を取得した、ごく初期、あるいは本邦初であったかもしれないと述べました。そして、今後は、そうした経験を活かし、若い医療専門職の方々が人文学に親しみ、臨床と研究を自由に行き来できる環境整備に貢献したいといった考えを述べていますが、これは2500記事に到達した現在においても変わりありません。
 とはいえ、実際問題として、そのような職種の求人は各種求人サイトなどにはありません。そのため、自ら大学さまなどに問い合わせを行い、泥縄式に営業をしていく必要があるのかもしれません…。しかし、その一方で、もしも当ブログやエックスでの私のポストなどをご覧になり、ご興味がおありでしたら、お気軽にお声掛けいただければと思います。
 以前にも何度か述べましたが、私は、未だ職業としては存在、あるいは定着していないであろう、定期的に大学を訪問し、そこでの興味深い取組みの様子や、大学付近の歴史・文化などを題材としたブログ記事を作成する、いわば大学専属のブロガー・ライターのような職種に就きたいと考えています。
 そして、先述の反応を見ますと、自らがこれまで積み重ねてきた文章作成の経験を、今後どのような形で社会に還元できるのかを、改めて考えさせられます。これまでのことを振り返ってみますと、やはり、ポンコツを基調とする私の取柄とは、こうした文章の作成であると思われますので、そのような職に就き、社会の流れをその活動のなかで見出しつつ、そしてまた、新たな文章作成へと結び付けることが出来れば良いと考えていますので、どうぞよろしくお願いいたします。
 そしてまた、面白いことに、ここ数日では『20251027 目標とする2400記事まで到達出来たら…』の閲覧者数も、どうしたわけか、特異的に伸びていました。
 当記事の概要は、2025年10月末、ブログの継続期間が10年4か月となり、その間の総閲覧者数は100万人を超え、目標とする2400記事到達を目前に控え、非営利の個人運営のブログとしては、それなりに頑張ってきたとは思われるものの、その内面の状況は凪に近いものがあり、あまり記事の作成意欲が湧かず、今後の継続についても疑問視しており、それは到達後に、なおも文章や意欲が湧き出るかどうかにかかっているので、そうした内面の変化を観察したうえで、今後の当ブログの方向性を模索したいといった意味のことを述べています。
 このことは、現在の私にも同様に当て嵌まります。その意味で、11年間の継続、そして2500記事へ到達した現状もまた、凪に近いものがある一方で、前述しました当ブログへの反応がありますと、やはり、何か新しい文章を作成したくなります…。
 また、本来、当ブログは、そのようにして作成・継続してきた側面があります。そして、面白いことに、そうしたことを明晰化するために文章を作成していますと、また別のことが連鎖的に想起されることが多いのです。その意味で、現在、文章として作成してみたいと考えていることがいくつかありますが、それらにつきましては、少しずつ文章化を試みていますので、また後日、ブログ記事としてご提示したいと考えています。ともあれ、今回もまた、ここまでお読みいただき、どうもありがとうございます。

一般社団法人大学支援機構

~書籍のご案内~
ISBN978-4-263-46420-5

*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。

連絡先につきましては以下の通りとなっています。

メールアドレス: clinic@tsuruki.org

電話番号:047-334-0030 

どうぞよろしくお願い申し上げます。







2026年7月21日火曜日

20260721 株式会社 河出書房新社 三島由紀夫著 対談集「源泉の感情」 pp.124-127より抜粋

株式会社 河出書房新社 三島由紀夫著 対談集「源泉の感情」
pp.124-127より抜粋

ISBN-10 ‏ : ‎ 4309407811
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309407814

 それで、あなたの占領時代についての考えを聞きたいと思うんだ。年はいくつだった? 

野坂:戦争が終わったときは十四でした。そのときは、ごく卑俗な意味でいって、価値が全部ひっくりかえってしまった。それをまざまざとみてきたんです。だいたい僕は満州事変のころに生まれて、ずっと戦争のなかで育ってきたんです。新聞の第一面はいつも戦争の記事だったし、戦争は日常茶飯事のことだったわけです。戦争がなくなるという状態は、まず考えられなかった。それが突如、昭和二十年になくなっちゃった。そして進駐軍が日本にやってきて、最初にかちんときたのは、キューキューと日米親善。 ーサンキューとエクスキューズ・ミーで親善だというんで、そんな新聞記事をみて、こんなばかばかしいことがあるか。この前まで鬼畜米英といってたのが、すっかりがっかりしちゃって、それが僕の原体験に近いようなものになった。それからあとは、一切何も信じない、自分自身さえうまく生きてゆけばいいんで、他人を裏切っても、嘘をついても、首吊りの足を引っ張ることをやってもかまわないという気持でしたね。それに、戦争で全部ひっくりかえったところでも、大人のようにはなりきれなくて、やっぱりアメリカ人には強い憎しみをもっていた。パリなんかで、自分の目の前で親父がナチスに銃殺されたとかいう実際的な感じではなくて、僕らの場合には、空襲で雲の上から爆弾、焼夷弾がどこかまわず落ちてきた、相手がさっぱりわからない。そこでは具体的にちっとも憎しみを感じなかったけど、実際問題として進駐軍がやってきて、ホッペタの赤い奴が町を歩いてるのをみると、こんなでかい、強そうなやつと、なんで喧嘩をしたんだろうという気持はあった。ただ、こいつたちがおれたちをひどい目にあわせたんだ、この野郎という気持だった。だから横浜の裏通りで、五、六人でアメリカ兵をぶんなぐって溜飲を下げていた。そして昭和二十七、八年までは、アメリカ人をみると、なんとかうまくごまかして生きてやろうという気持がずいぶんありましたね。 

三島:それは政治家だって、あの時代はそうだと思う。吉田茂がそうでしょう。僕は今でも吉田茂は偉い人だと思うけど、明治以後の日本の歴史で、あんなに日本人の欺瞞をうまく成功させたのは、あの人だけでしょう。それはどこから学んだかというと、イギリスですね。 日本の政治家は少なくとも正義、真実あるいは誠実という顔をしていなければならなかった のに、吉田茂の時代には国民全体が欺瞞の精神に味方をした。あんなにアメリカ人をもてあ そんだ人はいないよ。それにまたみごとに乗せることができたのは、イギリス的な教養が彼 にあったからだけど、イギリス的な教養は日本の昭和の歴史のなかでは、いつも無力だった。 いつも国家主義者の怨嗟の的であり、日和見主義、無力の標識、不決断の象徴であった。ところが吉田茂は、そのイギリス的な教養を逆に使って、欺瞞にうまく役立てた。これは近代史のなかで、面白い時代だと思う。あんなに日本人のなかで、 欺瞞がうまくいった時代はなかったと思う。それからあとはだめです。政治家がどんな欺瞞をやっても、国民がついてゆかない。国民の考えていることと、欺瞞とがみごとに一致した時代はもうこないでしょう。 今はただ欺瞞と腐敗があるだけで、国民だれもが味方をしていない。あなたも、そして僕も怒っているのは、それですよ。欺瞞のまま、これからどこへゆくかということは心配でしょう。

野坂:あまり心配じゃないんです。今まで一所懸命、日本はもっとりっぱに、男らしくな らなければいけないと思ってきたけど、考えてみると、むしろ日本の男はもっとフニャフニ ャになった方が、そして社会全体の組織も完全に植民地化して、僕らフィリピンの男が女たらしで、ジャズばかり歌って、何もできない、とてもあいつらには戦争なんかできないと思ったけど、それと同じように日本人もなったほうがいいのかもしれない、落ちるところまで 落ちちゃってね。 

三島:学習院のころの友だちで、まだ戦争の激しかった昭和十七年ごろ、日本も早くフィリピンみたいにならないかな、と言っていた奴がいましたよ。でも、かなり今までにあったんじゃないかな、そういうことは。 

野坂:今までにあったけど、まだアメリカの日本に対するイメージは、硫黄島、サイパン とか、日本は強い国だというほうが多いでしょう。そして今の日本人は憎しみも悔いも、あまりもっていない。人種差別もないし、共産主義に対しても、たとえば小汀利得がアカはいかぬと言っても、なぜ悪いのかわからない、若い連中はとくにそうだと思う。だれに対しても憎しみをもてない。自分の生命、財産を脅かすはっきりした形をとってくれば別だけど、 それよりもむしろ妥協して、ニコニコ笑いながら話して、なんでも解っちゃうみたいでしょ う。それなら、むしろそれを助長して、いっそ完全な植民地化しちゃったほうがいいんじゃ ないかと思う。