2026年6月16日火曜日

20260615 2485記事の到達から歴史意識の記号接地について

 おかげさまで、直近の記事投稿により、総投稿記事数が2485に到達しました。今後、当記事を含め、さらに15記事投稿することで、当面の目標である2500記事に到達することが出来ます。また、ここしばらく引用記事を作成してきましたが、同時に当ブログとは別に並行して、自らの文章も作成していたため、2週間ほどのブランクはあるものの、新たなオリジナル記事の作成も、特に支障はないと思われます。むしろ、当ブログでの記事作成の方が自由度が高いためであるのか、作成を始めますと、あたかも、ペンを用いて紙に文章を書いているかのような錯覚を覚えるほどに、自然に文章が出てきます。そして、それがあまりにも滑らかであったことから「本当にこれで文章として大丈夫なのだろうか…?」と少し心配にもなりましたが、なおも進めていますと「元来、私のブログはこのように文章を作成していたのだ…。」ということが思い出され、安心して再度作成に戻るのです。そして、そうであるのならば「早々とブログ記事の作成を始めておけば良かったのに…。」とも思われるのですが、この記事作成に取り掛かるまでの停滞したような感じも、決して無意味なものではなく、速やかに集中(フロー)状態に入るための、ある種の段階のようなものであるとも考えられます。そして、そのように考えてみますと、今回のオリジナル記事作成に至るまで、2週間ほど継続した引用記事の作成もまた、そうした段階であったのではないかとも考えられます。つまり、引用記事をしばらく作成することにより、続くオリジナル記事の作成が容易になり、さらに、感覚的ではありますが、そのようにして作成したオリジナル記事の方が、相対的に文章が面白く感じられ、そして閲覧者数も伸びると思われるのです。
 直近にて、そうした傾向があったのは、2週間ほど前の去る5月30日に投稿した「腸内細菌叢に関する資料をあたり思ったこと」でした。当記事は、その後もありがたいことに比較的閲覧者数が伸びており、また、そこで述べました「腸内細菌叢(マイクロバイオーム)」と「我が国の八百万の神々」とを比較した見解は、これまでに聞いたり、あるいは読んだりした記憶はないため、おそらく、ここで初めて言語化された見解ではないかとも思われます。
 元来、私は八百万の神々や神社そして神道に対して、能動的な関心を持っていたわけではありませんでした。その意識が変化したのは、これまでにも度々言及してきました2001年から3年間の南紀白浜在住期の頃でした。当時の勤務先は、白良浜にほど近い白良荘グランドホテルであり、その従業員駐車場は、白良浜の北に位置する半島状の権現崎に祀られている熊野三所神社の社叢裏手にあたり、駐車場のすぐ近くには神社の裏参道入口として鳥居が立っていました。そうした環境ですと、休憩や勤務後などに境内に入ることが度々あるのですが、それが続きますと、何時の日か「ああ、これが多分、より本来の神社に近いのだろう…。」と何かが繋がるのです。しかし、それは未だ言語化されるものではなく、感覚として気が付くといった感じです。そして、その感覚は、境内の開口して玄室内の箱型石棺が見られる火雨塚古墳や、社殿などの施設を囲む、南方的で横溢とした社叢を一つのものとして認識されるようになると、自然と生じるのではないかと思われます。そしてまた、それも一つの歴史意識の記号接地であったのだと云えます。つまり、新しくとも千数百年前の古墳時代から、人びとは既にこの場所を畏れ敬い、祀ってきて、そして、それが現代においても神社として続いているという事実を身体感覚で理解したと云うことです。このようにして時間をかけて徐々に身体化された見解により、他の場面においても速やかにそれを運用することが出来るようになり、そしてまた、ある程度専門的な関連する著作も自分なりに理解しつつ読むことが出来るようになるのではないかと考えます。その意味において、たしかに南紀白浜在住時の、こうした環境は、たいへんに幸運であったと云えます。これにつきましては、まだ続きがありますが、それにつきましては、2500記事到達までに、また新たに記事を作成します。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。


一般社団法人大学支援機構

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ISBN978-4-263-46420-5

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2026年6月15日月曜日

20260614 株式会社藤原書店刊 平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」 pp.427‐430より抜粋

株式会社藤原書店刊 平川祐弘著「竹山道雄と昭和の時代」
pp.427‐430より抜粋
ISBN-10 : 489434906X
ISBN-13 : 978-4894349063

神道の美学
 学術上の真の記述と芸術上の美の記述とは異種であり別である。美術史家の論文は事物の真を正確に記述せねばならない。しかし正確なだけでは足りない。情報を提供するだけの美術史教授では第一級とはいえない。事物の美を描き、さらにその精神文化史的意味をも伝えることが望ましい。竹山の論が貴重なのは美術にあらわれた宗教文明の論としても示唆に富むからである。美術が育つためには背後に精神共同体が存在する以上、その宗教的精神共同体が共有する感受性にも言及しなければならないのは当然ではないだろうか。

 ー昭和五十八年秋に私たちは京都へ最後の旅をしたが、その帰る日の午後、鷹峰の芸術村を通り、円通寺の近くから比叡山を眺め、その借景の向こうの山をかぎりなく美しいと思った。美しいがこれが竹山にとり最後だという予感があった。そして糺の森を抜け下鴨神社へ寄り参拝をすませて「やはり神社の境内はいいですね。気持ちがやすらぎますね」とほっとして私がいったら、竹山も「あなたもそう感じますか」といった。多くの仏閣を見、そこで足掛け三日の旅程をおえ、安らぎを覚えたからかもしれない。しかしそれだけでなかった気がする。第三章でも述べたように、竹山は母が天竜鹿島の椎脇神社宮司の田代家の出で、それだけ神道に理解もあり親近感も覚えていたからこそ神道の審美学も語ったのであろう。「あちこち歩くうちに、神社にあるものが日本人の造形感の根本のものをあらわしているように思われてならなくなった。つぎつぎと外国からの影響があって新しい形態が入ってきても、結局ついには神道的な形に同化されてしまう。日本独特な感触のヴェールにつつまれてしまう」。
 昭和三十八年、竹山は毎月一回、新幹線開通以前の東海道線で鎌倉から京都へ通い、東山を遍歴し『藝術新潮』に十九回にわたり『京都の一級品』を連載した。私は前年からイタリアで留学していたが、竹山から「毎月の京都泊の仕事が楽しくて結構だと思っています」という趣旨の手紙をもらった。そんな二十年も前からすでに神道にふれてこんな見方を述べていた。

 神道は言挙げせず、教理としては貧弱だけれども、宗教感情の対世界態度をあらわすものはただ言葉には限らない。(神社という)形もそれに劣らず雄弁である。

そして敗戦後、非難されることのなにかと多かった神道について、こうも述べた。

 ところが、われわれは神道についてはほとんど何も知らない。教わったこともない。神道が国体を顕揚し戦意を強化したなどというけれども、われわれは神道からなんの強制をうけたおぼえはなく、その教義すらはっきり聞いたことはない。ただ森の中の空屋のような祠に、さまざまの名の神が祭ってあり、しかもその神はそこにはいず、代わりにその神を偲ばせる御霊代が御神体になっている。ぼんやりと曇った鏡などが懸っていて、正体は不明である。ふしぎな謎のようなものだが、それについても別に気にしないで無関心でいる。

神魂神社
 竹山は神道についてはその造形表現である神社を語り、その形によって触発された自分の意識のうごきを分析した。著作集に一点だけ入れた神道関係の文章は出雲の神魂神社である。その建築は大きくないが、純粋性という点から「比類のないもの」と竹山はいった。

 神魂神社の入口への階段は、左右に迫った杉の森のあいだに、大きな石塊を重ねて、それが三十二段ある。石は赤味をおびて豪快だが、段は高いし、凸凹しているし、小雨にぬれているから、昇り降りは楽ではない。立派な自然石の手洗鉢があって、苔むして、清水が迸りでては流れ落ちている。その音がうつくしい。この石段のあたりには、太古の巨石崇拝のあとが残っているように思われた。

 入口の最後の段を、太い杉が左右から挟んでいる。ここから内は聖なる地域であることを示していて、まことに象徴的な入口である。深い自然感がただよっている。鳥居と同じ役目をしている。...

 神魂神社はすぐ後ろに清浄な山を負っている。そこの小さな平地に、明るい錆につつまれた木造建築が、一分の隙もない比例をなして組み合って、格調きわめて高く聳えている。「自分の美しさを世間に知ってもらおうとは思いません」といいたげである。幸いにも、ここはまだ観光地ではないから、周囲の調和を乱すものは何もない。昔のままである。この土地の人々すら、通称大庭大宮といっていて、神魂神社といっては通じにくい。大庭とは昔の政庁の意味で、かつてここはこの地方の政治の中心地だった。

 この神社の美しさは、直接に目で見て感じる他はないだろう。...いまこの神社からは、潜勢する精気のようなものが発散しているのだが、写真はそれを捉えることはできないだろう。...文章もこの直接の感じを再現することはできない。

 この比例のうつくしい建物は、さらに一面に銀鼠の錆につつまれている。はじめは何か塗料がぬってあるのかと思ったほどだった。本殿の屋根はきれいに掃いたようだが、拝殿の屋根の上には杉の葉がたくさん落ちている。錆ーパチナとは、物と空間を結びつける媒介物だが、屋根には青を主とし、木材には白を主としたむらむらが、えもいわれない。「神錆び」という言葉があったような気がするが、もしなければ、そういう新語をつくって、ここにあてはめたい。
 静かで、清らかで、素朴で、自然で、しかもいかなる無駄もなく一分の隙もなくひきしまって鋭く、霊気をこめて、神魂神社は日本人の美しさの最高のものの一つだと思う。言葉の醇乎たる意味において古典的である。...カモスというのは神イマスあるいは神ムスビがなまったものだろう。...現存の大社造の神社では神魂がいちばん古い。そしていちばん美しい。...神魂はおそらくもっとも始原のものに近いだろう。

 竹山の文章に誘われて出雲へ行った人もいるだろう。行ってはぐらかされたような気持ちになった人もまたいるだろう。だが神魂神社から八重垣神社のあたりは連れ立って歩くといかにも気持ちがいい。伊邪那岐・伊邪那美命が男女の道を学ばれたのは鶺鴒からだという伝説があるが、大庭で鶺鴒の番(つがい)が私たちの目の前の小道をよぎるのを見たときは、神話世界にはいりこむような気がして私たちは思わず顔を見あわせた。

2026年6月14日日曜日

20260614 株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻 pp.16-19より抜粋

株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻
pp.16-19より抜粋
ISBN-10 : 4480084878
ISBN-13 : 978-4480084873

言語とその表記
 日本語と中国語とは、系統を異にする言語で、その音体系も、語彙も、文法(語順、助辞、用語の語尾変化など)も、全くちがう。それにも拘らず、大陸文化との接触がおこったとき、日本語には表記の手段がなかったから、すでに高度に発達していた中国の文字が日本語の表記に用いられるようになった(中国の文字による日本語表記の現存する最古の例は、五世紀にさかのぼる)。中国の文字(漢字)は、表意文字で、一字が単音綴の一語を代表するから、その文字によって日本語を表記するためには、特別の工夫が必要である。すなわち一字の意を採って音を捨てる(相当する日本語の音をあてる)方法と、一字の音を採って意を捨てる(本来の表意文字を表音文字として使う)方法とがあって、その双方が併用された。後者の場合に、採用された中国音は、『古事記』および『万葉集』の例では、五、六世紀の中国南方の発音であり、『日本書紀』の例では、七世紀の北方音である。表音文字としての漢字=真名が簡略化されて、仮名がつくられ、頻に用いられるようになったのは、九世紀であった。その意味で平安朝前期は、日本語の表記法に関し、全く画期的な時代である。
 日本語の表記に漢字を用いた日本人は、また中国語の詩文を、日本風に読む方法も工夫した。返点によって語順を変え、送仮名によって日本語に固有な助辞や語尾変化をつけ加えたのである(訓読の漢詩、漢文)。この独特の中国文翻訳法に慣れた日本人は、みずから中国語の詩文を作るようになった。 
 少なくとも七世紀以後一九世紀まで、日本文学の言語には二つがあった。日本語の文学と中国語の詩文である。たとえば『万葉集』と『懐風藻』、『古今集』と『文華秀麗集』。ここで日本人の感情生活が、外国語の詩作ではなく、母国語の歌に、はるかに豊かに、はるかに微妙にあらわれていたことは、いうまでもない。しかし散文では、そのときすでに、事情がちがっていた。たとえば『歌経標式』は、詩歌の理論を語って、『文鏡秘府論』の理路整然たるのに及ばない。また時代が下れば、詩歌においてさえも、中国語による表現の意味は重きを加えた。たとえば室町時代の抒情的世界は、連歌のみによって代表されるのではなく、また同時に五山の詩僧の作品によっても代表される。『菟玖波集』と『狂雲集』と、いずれに一時代の詩的精神がみなぎっていたのか、にわかにこれを決し難い。いわんや徳川時代についてはなおさらである。このような事情は、中世の欧州文学におけるラテン語の併用を思わせるだろう。しかし彼我の大きなちがいは、ラテン語と欧州諸語(若干の例外を除いて)とが、中国語と日本語の場合ほど言語学的に隔っていなかったということである。またおそらくそのことに関連して、文芸復興期以後、ラテン語の文学は次第に近代欧州語の文学のなかに吸収されていったが、日本では文学の二カ国語併用が明治時代までつづいたということである。
 二カ国語併用の歴史は、当然、漢文脈とその語彙の日本語文への影響を生み、また逆に日本語の影響をうけた日本人独特の漢文を生んだ。前者の例は、すでに『今昔物語』にみられるし、後者の例は『明月記』にもみられる。殊に日本文のなかに、漢文の影響の強い文体と、口語にちかく漢文の影響の少ない文体とを生じたことは、日本語文学の表現力の拡大に測り知ることのできない貢献をしたといえる。明治以後の日本社会が西洋の概念を輸入する必要に迫られたときに、長い間に日本語のなかに吸収消化されていた漢語が、どれほど大きな役割を果たしたかは、今さらいうまでもないだろう。近代の日本は、漢字の組合せによる新造語で、ほとんどすべての西洋語を訳し了せたという点で、西洋語をそのまま採り入れることを余儀なくされた他の多くの非西洋文化と、著しい対照をなしている。そのことは、おそらく決定的に、この国のいわゆる「近代化」に役立った。しかし他方では、新造語の氾濫によって、日本語の伝統的な味わいを損い、そのために文学、殊に詩作に、複雑で困難な問題を提出することになったのである。

20260613 株式会社講談社 講談社学術文庫 竹山道雄著「歴史的意識について」 pp.14‐26より抜粋

株式会社講談社 講談社学術文庫 竹山道雄著「歴史的意識について」
pp.14‐26より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 406158622X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061586222

 月日がすぎてゆくにつれて、「昭和の動乱」はあの前後十余年間の個々の現象だけをとりあげていたのでは、真相は分らない、と思うようになった。
 あれが何であったかを説明するために、ひろく読まれた『昭和史』は「天皇制ファシズム」という仮説を設けた。また東京裁判は「全面的共同謀議」という仮説を設けた。そして、この枠に合致させるべく材料が取捨按配された。
 しかし、「天皇制ファシズム」にせよ「全面的共同謀議」にせよ、そんなものはどちらもなかったのである。
 争闘とか戦争とかいうものは、そのいちばん根本をたずねてゆけば、結局は生物としての人間の本然に由来するので、歴史上どこでもつねに絶えることなく、まことに人の世は修羅道であるという感に堪えない。が、今はそこまでは遡らず、「昭和の動乱」に限っても、もっと全体の位置と形勢を考えなくてはならないと思う。ここではもとよりそのごく輪郭だけを。ー
 日本は無資源で、貧しく、人口過剰だった。あの動乱がはじまる前に、オーストラリアの新聞に「日本は増加する人口の圧力で蒸気機関が内から破裂しはしないか」と論ぜられているとて、問題になったことがあった。教育程度は高かったけれども、資本と近代技術がなかった。すでに大植民地をもって世界中を支配して富強だった先進国とちがって、後発国で、土台が弱くて余裕がなく、選択肢がせまかった。しかも、五大国の一であると自己過信をしていた。
 あのころ世界はずっと弱肉強食の帝国主義だった。それはまだ不道徳と感じられてはいなかった。イギリスがその先達で、あれが文明の絶頂であると信ぜられ、他国はイギリスとどのくらい距離があるかをもって文明度の順位がはかられた。
 日本はせっせとそのあとを追って真似をした。イギリスはビクトリア女王の治世だけで六十度も戦争したそうで、すでにアフリカからインドから南太平洋を領有していながら、さらにシナを蚕食しはじめた。フランスはおなじくアフリカから仏領インドシナからもっと東を、オランダはインドネシアを、領有していた。かれらの植民地化の領土拡張は、生きるためのやむをえぬ進出ではなくて、むしろ一種の使命感の満足であり、ほとんど道楽のようなものだった。自分たちが世界を支配するのが天然自然の理であると疑わなかった。その偉大と栄光をかがやかしめることがむしろ道徳だった。戦前にシナ各地の各国の租界を見た者は、日本がその間にわりこもうとしたことが、あの当時の規準にてらしてとくに貪欲だったとは考えまい。日本は人並み外れだったのではなく、むしろ人並みになろうとしていたのだった。近代化するとは富国強兵の帝国主義化することだった。それに対する、ナショナリズムに目醒めたシナ人の怨恨は十分に分ることだが。
 やがて世界規模の経済危機がはじまった。英連邦は、持てる領域をブロック化した。他国もこれをはじめた。あの富んだアメリカにさえ失業者が溢れたのだから、貧しい日本ははなはだ苦しんだ。満州事変は満州駐屯の関東軍の陰謀だったのではあったが、国民は「軍に感謝をして」、ここに日本も自分のための経済ブロックをうちたてようとした。内外からの圧力が加わって弱いところに破れでたのだった。
 世界経済危機は一九二九年からはじまったが、共産主義の脅威はそれよりもっと前からだった。これも世界各国に大インパクトをあたえた。それには内憂と外患とあった。内憂は内から掘り崩されることだったし、外患は五ヵ年計画による全体主義の圧迫だった。これに対抗するために、ソ連に隣接するほとんどすべての国、接していなくてもスペインや南米諸国などが反動化し、イギリスにもモズレー、フランスにもラ・ロック、アメリカにもカフリンなどのファシストが輩出した。
 日本もこの問題に直面した。国内は思想問題で大動揺をした。関東軍はあの勢力に隣接して睨みあって、互いに権謀をたたかわしていた。軍は全体主義に対抗するためには、こちらも乏しい力を結集して総力戦時代にそなえなくてはならぬと痛感した。失業者はあふれ、農村は疲弊し、工場の争議も小作争議もあいついだ。思想界はほとんどマルキシズムによって占められた。
 後発国がむりにむりを重ねた。もしそれをしなければ、アジア諸国のように他国の支配に従属しなければなかった。ーこれらのことは「昭和の動乱」のはなはだ重大な背景であり、これを抜きにして考えることはできない。
 日本は真空の中にいたのではなかった。このような状況の中をあがいて、歴史は右往し左往してすすんでいった。
 国の内外の錯綜した危機にあたってそれに対処すべき日本の主体は、たまたま議会民主主義だった。これが未熟だった。議会民主主義とは豊かな余裕のある国で平時にのみ機能しうる一種の贅沢品なのかもしれない。西園寺公の近代化設計は時期がすこし早すぎたのかもしれない。公自身も晩年に「やはり国は、その国民以上のものにはなれぬものか」と嘆息している。(スイスのような特別な国は別として、危機にあたって議会民主主義がうまくいっていたところがあっただろうか?ワイマール憲法下のドイツはもとより、チェンバレンのイギリスもダラジエのフランスもみな失敗した)。日本では、政争苛烈で汚職があいつぎ、ジャーナリズムが放肆で暗殺が頻発した。
 経験に富み思慮のふかい人々が、外には戦争を防ぎ内には革命を防ぐべく努力をしていた。もしこの人々が奉ずるイデオロギーが権威をもちつづけることができたら、国はあるいはスペインとはちがった形で中立を保って、大戦の惨禍から免れる可能性もあったと思われるが、その人々は当時の世界に伝染した傾向的集合表象(別出)に憑かれた若い将校たちによって殺されてしまった。
 歴史の中では、同じ状況が二度くりかえすということはない。「昭和の動乱」はあの状況の中でおこったことであり、種々さまざまな原因が絡みあってついにあの破局に達したのであって、歴史上にただ一回の事実だった。

いくつかの疑問
 私は日本無罪論を唱えるつもりはないけれども、裁判には異様な無理があったことを感ぜずにはいられない。それについてのいくつかの疑問を記す。大部分は、東京裁判判決書の冒頭の管轄権の部分に関することである。
 といっても、私は国際法といったようなことについてはまったく無知なので、さだめし誤りもあるだろうけれども、いまは一普通人の疑念を記して、蒙をひらいてほしいと願うのである。
 『月曜評論』誌に、富士信夫氏が東京裁判傍聴記を連載していられる。すでに四十一回に及んでいる。裁判の過程をくわしく報じて論評したもので、これが完結したらこの問題についての認識が大いに深まるものと思う。

疑問その一、事後法
 法の不遡及ということについては、日本側の主張に対して、「その問題は後回しにする」と留保したまま、ついに答えはなかった。これでは裁判の成立自体の根拠があやしい。もしこの点についての結着がつかないままでいるならば、たとえ日本が東京裁判を全面的に否定しても、論理的にはその否定がなりたつことであろう。
 キーナン検事の冒頭陳述は、感情的な道徳論といったような傾向がつよい。これに対して、 清瀬弁護人の管轄権論争は法理論としてははるかに理が通っているように思われるが、どういうものであろうか。裁判全体が戦後心理に支配されて感情にかられている。
 私が知ったオランダのローリング判事はこういう主張だった。ー法の不遡及ということは法廷の恣意をふせぐための市民的慧知であり、未来の戦争をなくするという現在の大課題の前には二次的なものである。ふたたび戦争が起こらないようにするためには、あらゆる方法をとらなくてはならない。ー
 ローリング氏の言うことだけれども、この説には首を傾げた。この「今後の戦争をふせぐため」の教育手段としての懲罰ということは、キーナンもしきりに唱えている。
 しかし、もし勝利者が新しい法をつくって敗者を裁くということになれば、それは勝者の正義ー勝てば官軍ということになるだろう。戦犯であるかどうかは勝った者がきめるという恣意になる。もしヒットラーが勝ったら、チャーチルやルーズベルトが犯罪人ということになっただろう。
 現に、チャーチルの回想録には、イギリス戦時内閣が成立したときのことを記して、 ーこれで、万一敗戦の場合にはロンドン塔で斬首される者の顔触れがそろった、とある。
 ローリングさんは尊敬すべき人格者で私は大好きな人柄だが、話していてときどき、ふしぎに空想的な言葉を洩らすことがあった。(たとえば、もし上官の命令が平和に反するものであると考えたときには、文武を問わず、下僚はそれに不服従の義務がある、という法を制定すべきだ、というごとき)。この人は、国連の何とか平和委員会の長だったので、今はその後任を坂本義和氏がついでいる。
 戦後十年たって、オランダのフローニンゲンに同氏を訪ねたら、感慨をこめて言っていた。「東京裁判はあやまりだった。今だったらインド人のパルのように考えるだろう。通常戦犯は罰せられるが、政策樹立者たちを犯罪に問うべきではなかった。あの頃には、ルーズベルトのような思想がゆきわたっていて、ソ連と協力しようという空気だった」。
 右のソ連との協力ということを根拠づけるものに、一九四三年十月に発表された米英ソ三国のモスクワ会談の共同コミュニケがある。ーそれは「三国政府は、それぞれ自国の国家的利益とすべての平和愛好国の利益のために戦争遂行に対して設定された、今日の密接な協力を、軍事行動の終った後にも継続することを重要であるとし、かような方法によってのみ、平和を維持し、各国の政治・経済・社会的福利の完全な発達を成就しうるということに一致した」というのである。
 このソ連との協力を果して新しい世界秩序をうちたてるべく、事後法によって日本を罰した。
 このことはそれまでの歴史の経験から生れていた。第一次大戦後には、少数民族の自決によって世界平和を樹立しようとしたが失敗した。この経験から、第二次大戦の末期に南阿のスマッツ将軍が「世界の平和を保つためには力をもった大国が抑える他にはない」と演説したことは、当時の日本の新聞でも読んだ記憶がある。東京裁判は大国の共同制覇によって世界平和を維持しようという気運から生れたものだったが、結局はこれはフィクションだった。現実には、もうすでにこの頃に米ソの確執がはじまっていた。モロトフの「永遠のニエット」がすべてをだめにしてしまっていた。
 事後法の問題は裁判の成立を疑わせるが、さらにまた裁判は、全面的共同謀議があったという前提の上になりたっている。しかし実際にはそんなものはなかった。これもやはり裁判の成立を疑わせるものではないかと思うが、これについては後に考えたい。

疑問その二、一般的な正義の原則とは
 判決文には、東京裁判はニュルンベルク裁判の原則をそのまま踏襲した、とある。ここにさまざまな無理が生れた一因があったと思われる。
 判決文が引用しているところによると、そのニュルンベルク裁判の意見は次のようである。ー「法なければ正義なし」という法律格言は・・・一般的な正義の原則である。条約や誓約を無視して、警告なしに、隣国を攻撃した者を処罰するのは不当であると主張することは、明らかに間違っている。なぜなら、このような事情のもとでは、攻撃者は自分が不法なことをしていることを知っているはずであり、従って、かれらを処罰することは、不当であるどころではなく、もしかれの不法行為が罰されないですまされるならば、それこそ不当である。
 そして、本(東京)裁判所は、ニュルンベルク裁判所の意見であって本件に関連のあるものには、無条件の賛意を表するものであるー。
 このように判決文は、東京裁判は一般的な正義の原則によって裁いた、と言っている。これは重大である。
 もし一般的な正義の原則を基準として謝るならば、古今 に無罪の国は一つもあるまい。
 普遍道徳は、ある特定の時期や特定の事情によって別なものになることはない。一九二八年のケロッグ・ブリアン協商の不戦条約以前に行われた侵略とそれ以後に行われた同性質のそれとが、一方は是認されるが他方は否認されるということはない。かつて英仏蘭などの先進国が、力と権略によって侵略して大植民地を獲得して搾恥したことと日本が行った侵略とが、差別されるはずはない。神の目からみれば、一般的正義の原則はどちらにも等しかるべきものである。アヘン戦争その他無数のことをやったイギリス(アヘン戦争は自由貿易の原則の名において行われ、当時は自国の商品を買わない国があると砲艦をおくっておどかした)が、いかなる一般的な正義の原則によって日本を裁くのか?
 一九二八年当時には先進国は大特権を擁していた。この現状を変更するをゆるさぬということは、たしかに平和の維持ではあったが、また現状を固定するのが正義であるということはたいへん好都合なことでもあった。近代戦争の惨害がはなはだしいから、平和が唯一の正義となったのだったが、この正義は同時に不正義でもあった。それは先発国の利益を固定して、後発国を窒息させる大義名分ともなった。戦時中の西田、和辻の諸賢哲の肯定論は、みなこの観点に立っている。
 またカイロ宣言にも、「三国の目的は、日本国より一九一四年の第一次大戦の開始以後に於て、日本国が奪恥しまた占領したる太平洋に於ける一切の島嶼を剝奪すること・・・」とあるが、どういうわけで一九一四年以後という区切りがつけられたのだろう。奪取占領は、それまでにご自分がさかんにやっていたのだが。
 遺憾きわまることであるが、平和かならずしも正しくはなく、戦争かならずしも不正ではない。不利な国はいかに働いても窒息するばかりという平和は正しくはないし、日清や日露は不正ではなかった。スターリンの大祖国戦争も。
 一般的な正義の原則が事後法をつくるということは、筋が通らないだろう。
 ヒットラーが行ったような天人共に許さざるような所業も、じつは国際法で裁くことはできないものではないかと疑う。ナチスを裁いたのは結局は勝者の力であった。勝者の力が「一般的正義の原則」を適用したのだった。勝たなければ裁けなかった。勝敗にかかわらず罰しうる国際法なるものは存在しない。ヒットラーの所業は、われわれの正義感からいえば、極秘に処してもなおあきたらないものであるが、しかしそれを裁く者は結局は力しかない。ーこれはこの創造世界の中の解きえざる謎の一つである。

2026年6月10日水曜日

20260610 筑摩書房刊 ちくま新書 宮台真司・奥野克己 著「宮台式人類学ー前提を遡る思考ー」 pp.42‐44より抜粋

筑摩書房刊 ちくま新書 宮台真司・奥野克己 著「宮台式人類学ー前提を遡る思考ー」
pp.42‐44より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4480077359
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4480077356

宮台 ええ。ヴェーバーの系列から外れますが、戦間期にプラグマティズムというアメリカの思想潮流が復活します。初期ギリシアに関連するので触れます。ニーチェの40年前にアメリカ超越哲学の鼻祖とされるラルフ・ワルド・エマソンが「力の受け渡し」の思想を展開、ニーチェに大きな影響を与えます。エマソンは「内なる光」と表現しますが、知識ならぬ動機付けの伝達のことで、宮台語で言えば、意味より強度の伝達(感染)が大切だとしたのです。
 牧師エマソンは、宗教の説教も学校の教育も、知識より動機付けの、認識より関心の、 真実より力の、伝達が大切だとし、哲学的・神学的な物言いをやめて日記を書きます。それを受けた戦間期のデューイは『経験と教育』で、動機付けに役立つ体験の配列が教育だとします。1990年代のローティは、壇上から真実らしきことを語って人から力を奪うのが昨今のリベラルだとし、「エマソン日記」のごとく私的な体験に照準した語り口を重 視します。 どんな語り口かというと、アイロニーです。コメディ研究の定説に従えば、アイロニー は、全体を部分に、超越を内在に、聖を俗に対応付けで脱臼する(ここで笑いを誘う)営みです。
ローティはこれを自己脱臼の意味で使います。真実らしき語りをした後「知らんけど」「たまたま聴いた 」「たまたま聴いただけや」と偶然性を持ち出し、自己を脱主体化する営みです。 かくて、偶然を持ち出し、アイロニー化することで、マウンティングされたという体験を回避して連帯する。初期作『偶然性・アイロニー・連帯』(1989年)を一言でまとめた骨子です。 
 関連して、言語を方向づける言外の働きに注目したのが、アムネスティ・レクチャーズ のひとつ「人権について」(1993年)。学者は専ら「人権とは何か」を論じるがクダラナイ。人に適用されるのが人権だが、誰が人かを支える生活形式をスルーしている。1964年の公民権法まで女も黒人も一人前の人と見做されなかった。女も黒人も人だと見做 せるようになるには、幼少期から異カテゴリーに属する子らと混ざり合って仲間になる遊 びが必要だと。 
 だから多様性でも、法的権利重視のサラダボウル(ゾーニング)より、成育環境や生活形式重視のメルティングポッド(フュージョン)を賞揚します。かくして、育ち上がりの 過程でどんな言語ゲームが自明になったのかが重要だとし、自らの哲学的源泉としてプラグマティストら以外にニーチェとハイデガーとヴィトゲンシュタインを挙げたのです。そして育ち上がりの環境の劣化を補うのが、文芸作品を通じた感情教育 sentimental educationだとします。感情 sentimentという言葉は、哺乳類や鳥類にも見られる情動 emotionと区別したもの。後述しますが、感情は自己防衛に、情動は生体防衛に、関係します。
 メルティングポッドの生活体験も、そんな生活を描く文芸の享受体験も、言語の使用を支える言外の前提ー宮台語の「言語の言語以前的前提」ーを築く感情教育です。感情教育が不完全な人々ー宮台語の「育ちが悪い人々」ーがリベラルを担う時、製造業から知財業への産業構造改革を背景に、差別解消のアイデンティティ・ポリティクスに淫す る劣化左翼から、見放された製造業労働者が、「俺が見てやる」と言う独裁者を誕生させ ると予測します。
 プラグマティストのローティを挟むと思想史が見易くなります。プラグマティストを一言で言えば「言語の言語以前的前提」に敏感な人。「言語の言語以前的前提」に鈍感な「育ちの悪い人」は。民主政の民主政以前的前提(ルソー)にも、市場の市場以前的前提(スミス)にも鈍感化し、良さげな「名目」に釣られ、市場経済と行政官僚制を通した、富裕層の集金システムに巻き取られます。詳しくは後述しますが、それを見通すには、今まで話した思想史の教養が必要なのです。

20260609 株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻 pp.144-147より抜粋

株式会社筑摩書房刊 加藤周一著「日本文学史序説」上巻
pp.144-147より抜粋
ISBN-10 : 4480084878
ISBN-13 : 978-4480084873

 日本仏教は、九世紀前半に、真言僧空海の著作において、その知的水準の(しかし必ずしも宗教的独創性の、ではない)絶頂に達した。しかしそのシナ語の著作の読者は限られ、その内容に土着思想の反映をみること甚だ少ない。空海の宗教活動(鎮護国家、祈雨、総じて真言宗寺院と宮廷権力とのむすびつき)は仏教の「日本化」の一時期を画し、空海の哲学思想は、仏教の「日本化」の拒否、その彼岸性の徹底、土着世界観の克服という点で、画期的であった。
 時代の知識人が大衆と共有したであろうところの土着世界観は、九世紀の仏教受容とどう係りあっていたか。その係りあいを実に見事に語っているのは、薬師寺の僧景戒の作った『日本霊異記』(九世紀初)である。作者の伝記は全く不明。文はいわゆる「変体漢文」である。すなわち訓読を前提とした漢文で、そのために語順が日本語に従いシナ語に従わぬところがある(たとえば「狐為妻令生子縁第二」と書き、「狐を妻として子を生ましむる縁第二」と読む。原文をシナ語として読めないことはあきらかである)。内容は、『日本霊異記』の正式の表題『日本国現報善悪霊異記』が示すとおり、また編者景戒の序文がいうとおり、中国での先例に倣い、日本国での因果応報(現報善悪)の不思議な話(霊異)を、上・中・下三巻にあつめて記したものである。話の源は、地方の伝承説話を含むと共に、また中国の文献、殊に序文が明示している『冥報記』(唐・唐臨の撰、七世紀中葉)と「金剛般若経集験記」(唐の孟献忠の撰、七一八)である(後者は話を多く前者に採る)。ただし「日本霊異記」の一一六話すのなかで、確かに「冥報記」に由来すると思われるのは九例にすぎない。中国種はおよそ全体の一割ということになる。
 景戒は『日本霊異記』を誰のために編んだか。「変体漢文」を読み得る人口は少なかったにちがいないから、大衆の読者を期待したはずはない。しかし僧侶の自家用としては、話と仏教との関係が「因果応報」に限られていて、単純にすぎる。仏教哲学の核心にふれた話はどこにもなく、話の内容は大衆教化の方便としか考えられない。したがっておそらく、僧侶の大衆向け説法の、参考資料、または素材として編まれたのだろうと思う。景戒自身が喋った話の備忘録が原型であったかもしれない。直接の読者は僧侶、しかし内容は僧侶のためではなく大衆的な聴衆のためのものであった、ということができるとすれば、『日本霊異記』は編者のみならず、その聴衆の好みやものの考え方をある程度まで反映していたろうと想像される。
 話の短いものは、原文一〇〇字に足りず、長くても数十ページにわたることはない。話のすじ立ては簡単なものが多い。内容は直接に僧侶や経典の功徳に係り、悪業の結果の不幸を語るものなどもあるが、またほとんど因果応報に関せず、ただ最後の数行に仏教的解釈を施したものも少なくない。たとえば二人の力の強い女の話(中巻、第四)。力の強い女が、三野の国にいて、往還に商人を襲い、盗みを業としていた。もう一人の小柄だが、力の強い女が、力くらべに出かけて、相手方が打とうとして起ち上ったとき、「二つの手を持ちへ、熊葛の鞭以て一遍打つ。打つ鞭に肉着く。亦一つの鞭を取りて一遍打つ。打つ鞭に肉着く。十段の鞭打つに随ひて皆肉着く」。そこで最初の女が降参し、それ以後、人の物を盗らなくなったので、土地の人々はよろこんだ。ーそういう話があって、その後に、「夫れ力人は、もち継ぎて世に絶え不。誠に知る、先の世に大力の因を殖ゑて、今此の力を得たることを」という解釈がある。すなわち話の内容と解釈との関係は、密接でない。おそらく力女の話が、地方民間の伝承としてあり、話そのものは仏教と全く関係がなかったのであろう。景戒はその話を聞き、牽強附会の解釈を加えて、仏教説話にしたてたにちがいない。『日本霊異記』に実にしばしばあらわれる話の内容と仏教的解釈との著しいくいちがいは、地方民間の伝承の多くが仏教と何の関係もなかったことを、示している。そこには多くの珍しい話(奇事)があった。そして珍しい話の因果論的説明はなかった。民衆が信じていたのは、力女の現在であって、「大力の因」の「先の世」ではあるまい。しかもそれだけではない。
 景戒自身の筆が活気を帯び、叙述に迫力が加わるのは、解釈よりも、話のすじにおいてであり、話のすじよりもその細部の描写においてである。解釈は、いつの時代にも力人がいるのは、因果の理による、ということである。話のすじは、特定の時代に二人の力女がいて一方が他方に勝ったということである。(この話のすじは、「いつの時代にも力人がいる」ことの例証としては、甚だ不十分である)。話の細部は、打ちおろす鞭に相手の肉が着いて来るという具体的で感覚的な光景である(その細部は話のすじをあきらかにするために全く必要でない)。『日本霊異記』の独特の魅力は、解釈でも、話のすじでもなく、話の細部の簡潔で、的確で、生々しい描写による。今景戒自身が、意識的には解釈を重んじていたとして、ー現に彼自身の序文はそういっているー、いわば無意識的に、話の細部の描写において、その著作が光彩を放つことに到ったのは、なぜだろうか。可能な説明の一つは、彼が『日本霊異記』を書き下すまえに、同じ様な話を聴衆に語って聞かせていたからであり、どういう語り口が聴衆の好みに合うかを心得ていたから、ということである。しかし彼自身のなかに、あらかじめ抽象的観念を操作すること(仏教哲学)や、彼岸思想に深入りすること(仏教の超越性)よりも、現世の感覚的世界の細部に対する関心(土着世界観の特質)がなかったとすれば、これほど鮮かに聴衆の要求に応えることはできなかったろう。すなわち聴衆との直接の接触があったとして、そのことが、『日本霊異記』の作者を作ったのではなく、作者のなかに潜在した大衆的世界を、いわば当人の意に反しても、顕在化させたのである。

2026年6月8日月曜日

20260608 朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp22‐26より抜粋

朝日新聞社刊 神坂次郎著「紀州史散策 トンガ丸の冒険ほか」pp22‐26より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4022605170
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4022605177

歴史の中の紀州人たち
 このあいだ、ひさしぶりで司馬遼太郎氏にお目にかかった。和歌山城の見えるレストランで一時間ほどお話を伺う機会があった。そのとき、ヘミングウェイの話が出た。
「かれは、紀州へ来たかったのですよ」
 逞しい漁夫サンチャゴと、鮫の群れのあいだでくりひろげられる海のたたかいを、名作『老人と海』に描きあげたヘミングウェイは、黒潮の紀州の海に、生涯、あこがれに似た思いを抱きつづけていたという。
「勇敢な紀州の漁夫と、すばらしい紀州漁法に魅かれていたのでしょうな」
 その、ヘミングウェイの心を掻きたてた紀州漁法が発達したのは、戦国末期から近世初頭にかけての時代であった。おりから、城下町など諸国都市の拡大と農業生産の発展を誘因した漁獲物(食糧魚や魚肥)の社会的需要が急激に増大する。
 この時期、諸国の漁民に先がけて、すでに高度な各種の漁業技術を掴んでいた紀州漁夫たちは、東は相模、房総、常陸から東北へ。西は四国、瀬戸内、中国、九州、五島列島にいたるまで魚をもとめて旅漁に出かけていった。この先進的な漁夫たちの足跡は、いまも諸国の浦々に色濃く残されている。
 慶長11年(1606)、従来の銛突捕鯨から網取漁法を考案し、その捕鯨法を秘法とせず吝ます、われから出向いていって土佐津呂組の漁民に伝え、長門、九州五島の人びとに授けひろげ、熊野太地鯨方の名を天下に鳴りひびかせた和田一族の人びと・・・また、戦国末期の弘治年間(1555~1558)、のちに近世最大の干鰯生産地帯になる九十九里浜に鰯地引網漁法を伝えた紀州の西宮久助。寛永のころ(1624~1644)、銚子(千葉県)に近い外川を開発し八つ手網鰯漁法を伝えた有田、広村の崎山次郎右衛門。元和年間(1615~1624)、土佐国に赴き鰹釣漁法の祖となった印南浦の漁夫甚太郎。そしてその子の、土佐に鰹節の燻乾、製法技術を伝えた”土佐節の始祖”二代目甚太郎。天明年間(1781~1789)安房国に移住し、改良した鰹節技術で、”安房節”を完成させた同じ印南浦の与市。これらの人びとのほかにも、加太の大甫七重郎、栖原の角兵衛、下津の七兵衛・市郎兵衛など、東国の海べりの各地で網漁を興した男たちは多い。そして、かれらのその進出ぶりは、
⦅房総の間に在りて漁業の旧家と称するものは、おおむね紀州より来りてその業を拓きたるにあらざるはなく・・・(『房総捕鯨志』)⦆
⦅紀州の漁人来りて業をなすもの陸続として絶へざる(『房総水産図誌』)⦆
 と、特記されるほどであった。
 関東への産業開発の進出といえば、日本が年間一人あたり5升(9リットル)消費するという「醤油」もその一つであろう。鎌倉の頃、三代将軍源実朝の菩提をとむらうために建てられた紀伊国由良、興国寺の開山、法燈国師覚心は、さまざまなものを日本人にもたらした。径山寺味噌と醤油と尺八(洞簫)と普化宗である。かれが宋(中国)の浙江省、径山興聖禅寺の典座寮(台所)でまなんだ味噌醸造の過程で発見した醤油が、文暦元年(1234)、となり村の湯浅に伝えられ醸造され、以来、この湯浅醤油が日本の味を代表する”醤油”の起源となり、その製法は全国に撒き拡げられ伝播していく。有田、広村から大消費地の江戸にちかい銚子で醤油をつくりはじめた浜口儀兵衛 (ヤマサ醤油の祖・現在十一代目)、浜口吉右衛門(ヒゲタ醤油の祖)、それにおなじ村の岩崎重二郎、古田荘右衛門らも銚子で醤油醸造をはじめ、やがて銚子は湯浅醤油をしのいで日本の醤油醸造のメッカとなる。
 紀州人の東進は、漁法や醤油だけではなかった。海の国道一号線ともいうべき熊野灘、遠州灘を越えて、紀伊国屋文左衛門の蜜柑船よりも早く、寛永11年(1634)、有田蜜柑を積んだ滝河原村の藤兵衛(通称蜜柑藤兵衛)の船が、江戸に向かっているし、当時の江戸ー大坂間の定期輸送船となった菱垣船(元和5年・1619)も、紀伊富田浦の250石船が、そのはじまりである。
 ーこうして、歴史のなかに紀州発祥の数かずを眺めてみると、その数は意外に多い。紀州漁法、鰹節、醤油、尺八、虚無僧。南海の孤島の種子島から根来寺にもたらされた鉄砲。幕末維新すでにミルクを飲み、靴を履き、日本徴兵制の前身となった国民皆兵の大日本共和軍隊。西洋靴伝習所(製靴工場)。そして”明治維新の新政府の原型”になったと西郷隆盛を驚嘆させた官(藩)制の改革、郡県制度の確立・・・と、紀州人が日本史に与えた影響は大きい。鰹節にしても醤油にしても、紀州人がなかったら日本の味は・・・食文化は・・・もっとちがったかたちのものになっていたかもしれない。
 が、世に先がけて発見し、苦難の果てに開発したそれらの殆どは、紀州で花ひらいてはいない。その卓越した技術を紀州人は秘しておくことをしなかった。頼まれれば諸国各地に伝え拡げに出向いている。そのため、かれらが辛苦して咲かせた大輪の花も、実も、すべて他国の土に根付き、そのお株をうばわれてしまっているのである。鉄砲にしてもそうだ。その出現によって戦国の潮流を変え、大きな戦術革命をもたらしたこの最新火器でさえ紀州人は、
〈杉ノ坊、仁王房ナドト云フ者、関東二下リテ鉄砲ヲ教ヘシガ・・・〉
 という有様であった。そして皮肉なことに根来寺は、この自分たちが気前よく教え拡めた鉄砲のために、歴史の塵のなかに滅び去っていくのである。こういう、一種、陽気な紀州人気質というのは、進取とか磊落とだけでは片付けられない、なにかがある。それはおそらく、当時の秘伝、口伝などと技術を隠蔽することを好んだ諸国の人びとの理解を超えた奇妙な気風であったにちがいない。