2026年4月27日月曜日

20260426 株式会社二玄社刊 村上兵衛著「国破レテ: 失われた昭和史」106‐113より抜粋

株式会社二玄社刊 村上兵衛著「国破レテ: 失われた昭和史」
106‐113より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 437730612X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4377306125

青年将校と北一輝
 日本が国際連盟を脱退してから、ちょうど3年たった1936年(昭和11年)2月26日、未明。東京で重大な事件が突発した。
 その日は、前日に降り積もった大雪が、まだ首都をあつく、まっしろに蔽っていた。
 その雪を踏みしめて、22名の青年将校に率いられた、約1400余名の部隊が行動を起し、首相(未遂)、内大臣、蔵相、教育総監(陸軍)をはじめ、多くの重臣を襲い、首相官邸、陸軍省をふくむ永田町一帯 ―― いわば日本の政治の心臓部を占拠し、一挙に制圧した。
 首謀者たちは、これまで何度かクーデター未遂事件を起こした陸軍中央のエリート将校たちではなかった。
 彼らはすべて、隊付の ―― いわば下積みの若い尉官たちであった。この純真な青年たちは、その部下の兵士たちから直接、農村をはじめ一般庶民の疲弊をもっとも身近にかんじ、軍部の腐敗をふくめて、すべての日本の政治・社会の現状に、痛憤を抱いていた。そうして、このような現状がつづく限り、自分たちは安んじて国防の第一線に立ち、生命を抛つことはできない、と信じた。
 しかし、とりわけ規律厳正で、国家に対する忠誠心のあつい、陸軍士官学校出身の若い将校たちが、いわば徒党を組み、その部下を率いて大事を決行する ―― それは将校たちの、政治や社会に対する単純な憤慨からだけでは起り得なかった。そこには彼らの確信を支える、重い思想が必要であった。それを供給したのは、北一輝というひとりの思想家である。
 1883年(明治16)生まれの北は、社会主義者として出発し、わずか23歳のときに、発刊後ただちに発禁となった『国体論及び純正社会主義』の大著によって、その天才的な片鱗を示した。
 彼は、中国の革命に身を投じ、1919年(大正8)パリ講和会議が行われているころ、上海にあって排日のデモの怒濤を書斎から見おろしながら、「日本改造法案大綱」を書きあげた。
 この本も、ただちに発禁となった。が、それは青年将校たちの秘かなバイブルとなった。その内容を一口でいえば、天皇のもとにおける絶対平等主義であり、私有財産の大幅な制限、農地解放をふくむ日本の体制の根本的な変革を志向していた。
 彼の平等主義は、国際関係にも及び、中国の保全を説き、日本政府が山東半島の権益にこだわっているのを冷罵した。彼は、青島を取るよりも、イギリスから香港を奪取せよ、と説き、また日本は満州に植民するよりも、空漠たるオーストラリアを目指すべきである、と主張した。
 その大胆で、インスピレーションに満ちた宣言は、若者の心を妖しく魅了するに充分であった。
 北は、2月26日の青年将校の決起にはむろん直接には加わらなかった。が、彼らの思想的リーダーである磯部浅一(予備役)主計中尉とたえず連絡を取っていた。そして、熱心な法華経の信者である北は、彼らの成功をひたすらに神仏に祈り、霊感のくだるのを待っていた。

殺気立つ決起軍
 占拠地域の厳重な歩哨線を通って、まず川島義之陸相らが、占拠された陸軍省に入った。その大広間で、陸相は決起部隊の士官たちに囲まれ、最初の交渉が行われた。
 彼らの第一の要求は、彼らの行動が「義」のために行われたものであることを、陸軍および政府が認めよ――というものであった。同時に、今後の処置として、陸軍大将・真崎甚三郎を事態収拾の責任者として推し、維新内閣の実現を求めた。
川島陸相は、もう寝呆けていたわけではないが、あまりの思いがけない重大事件の突発に気が動転していて、ろくに口も利けない有様であった。その広間の一隅には、どこをどう通って来たのか、参謀本部の作戦課長の現職にある石原莞爾大佐が、いつのまにかふらりと入り込んでいた。その姿を目敏く認めた決起軍の栗原安秀中尉がつかつかと彼に近づき、「石原大佐どの。あなたのお考えは、われわれと根本的に違うのではありませんか。大佐どのは昭和維新について、どのように思われますか」と、語気するどく迫った。彼ら隊付の若い士官たちは、中央のスタッフたちを幕僚ファッショと呼び、除かなければならない主要な敵の一部と考えていた。

「昭和維新……? ぼくにはよく解らん」と、石原はぶっきら棒にこたえた。

「ぼくは、日本が軍備を充実すればそれが維新になる、と考えておる。何も、事件など起こすことはない」

 栗原中尉は、腰のピストルに手を掛けながら、さて、この男を射ち殺すべきかどうか、ためらった。

 横から、斎藤瀏予備役少将――彼は川島の二期後輩、著名な愛国歌人で、決起軍のシンパサイザーであった――が、議論に加わった。

「石原くん。きみなら、今、どうする」

「皆を説得して、引き揚げさせます。それでも聴かなければ……」と、石原はあいかわらずぶっきら棒にいった。

「軍旗を奉じて、討伐します」

「何をいうか、きさま!」

 斎藤少将の甲高い声が広間にひびいた。

 陸相との交渉を、取り囲むようにして背後から見まもっていた林八郎少尉が、ギラリと刀を抜き、それをふりさげたまま石原のほうに近づいてきた。背後から、「石原なんぞ、ぶった斬れ!」という声がかかった。

 陸相と交渉していた山口一太郎大尉がそれに気づき、あわてて立ちあがって二人の間に割って入った。

「石原さん」と山口大尉は低い声で、「別室で話しましょう」と強引に誘い、部屋から連れ出した。

「連中は気が立っているんですから……」と、山口は廊下をあるきながらいった。

「石原さんも、あんなことをいうから、わるい」

「そうか、オレがわるいかな」

 二人は、ガランとした別室に入った。

山口大尉がまた交渉の席に戻って行くと、石原はしばらく顎を撫でながら何事か考えていたが、やがて部屋から出、ひとりでまた歩哨線を越えて行ってしまった。ちょうど入れ替るように、今度は一台のピカピカの車が、歩哨線に近づいてきた。真崎大将であった。たまたまそこに立っていた決起軍の磯部中尉は、雀躍せんばかりにして将軍を迎えた。

「閣下」と、磯部はヒタと大将の目をみつめていった。

「ついに、やりました!」

将軍はギロリとその目を見返し、「よォ解っとる。おまえたちの気持は、よォ解っとる……」と、同様にいささか興奮した面持ちで答えた。

「どうか、あとをよろしくお願いします」

 磯部は声を絞り、ほとんどすがるようにいった。

「うむ、うむ」

 荒木の思想的後継者と見られていた真崎は、青年将校らの激越な言葉を、ながい間、いつもこのようにアイマイな、しかし物分りのよい親父のような態度で聞いていた。

「そうじゃ。岡田(首相)のようなやつは、ぶった切れ」などと、この将軍は、ときには威勢のいい相槌を打ち、青年将校たちを随喜させることはあったが、しかし「実行行為」について賛成する言質を与えたことは、かつてなかった。

 真崎は、ずかずかと大広間に通ると、そこに川島陸相の姿を発見し、大声で叱りつけた。

「きさまは、こんなところで何をグズグズしちょる!」

 陸相はハッと立ちあがり、身をかがめて、この先輩に敬意を表した。

「貴様は、責任者じゃろうが。……すぐ宮中に参内せい!」


あわてる陸相
 決起軍の関係者以外で、この未明に起こった事件の全貌を、もっとも早く知ったのは、満州事変のときの軍司令官・本庄繁大将であった。このとき彼は、侍従武官長――いわば天皇の軍事に関する最高顧問――をつとめていた。早晩、5時。彼は女婿にあたる山口一太郎大尉からの伝令将校の来訪によって叩き起こされ、事件の概要を伝えられた。山口は、決起軍の同志ではあったが、あえて実行行為には加わることなく、事件のあとの上層に対する工作の役割を、引き受けていた。本庄侍従武官長が、天皇に最初の拝謁を行ったのは、朝6時である。天皇は、そのときは黙して眉をひそめ、深い憂いに沈んでいるかのようだった。そしてポツリと一言、「武官長だけ、こんなことになりはせぬかと、いつかいったことがあったネ」と、思いかえす風であった。それから3時間おくれて、陸相が慌しくやってきた。彼はくどくどと状況を説明し、さらに、「つぎの内閣は、国民生活を安定させ、国防を充実させる、強力な内閣でなければならぬ……と思慮いたします」と、その意見をつけ加えた。陸相の報告を、いらいらと不興げに聞いていた天皇は、そこで発言を遮った。
「陸相が、そういうことをいう必要はない。まず反乱軍を鎮圧する方法を講ずるのが、おまえの役目ではないか」
 陸相は、雷に打たれたようにハッとし、おそるおそる天皇の顔をうかがった。彼はまだ蜂起した青年将校たちの醸し出す殺気に感染していて、彼らを反乱軍ときめつけることさえアタマになく、ただ狼狽(ろうばい)していたのである。
 陸相は一言、「恐懼の至りにございます」と、ふかぶかと頭を下げ、そしてそくさと御前を退出していった。
 天皇は当時、その政治においても、あるいは大元帥としての軍令においても、日本の至高の位置にあった。が、定められた機関の決定にしたがい、それに“認可”を与える以外、一歩もそこからはみ出さないのを慣例としていた。  しかし、このときは諮問すべき重臣たちは一挙に暗殺され――ときの岡田啓介首相は、よく風貌の似た義弟が身代わりとなって危く難を免れたことが、やがて判明したが――補佐すべき機関は、一時的に機能が麻痺状態にあった。  天皇は、このときはじめてみずからイニシアチブを取った。そうして重臣たちを襲った怒りの感情もあらわに、蜂起した軍隊を「反乱軍」と断定し、ただちにその鎮圧を命じたのであった。  天皇のピリピリした感情と生真面目な意志とに支えられて、日本の統治機構、そして陸軍の組織も、最初の衝撃と混乱から自分を取り戻し、徐々に立ち直っていく…。

激昂する天皇
 天皇に一喝され、陸軍省――そのときは九段下の憲兵司令部に本拠を移していた――に舞い戻ったものの、川島陸相はなお途方にくれていた。そして、軍事調査部長・山下奉文(ともゆき)少将らの意見具申にしたがい、とりあえず陸軍の長老による軍事参議官会議の諮問を求めることとした。  この会議は、宮中の一室で行われた。陸相、参謀次長、皇族の陸軍長老(東久邇、朝香、梨本)らが参集し、とりあえず「陸軍大臣告示」を出そうということで、評定はえんえんと翌日の午前1時半までつづいた。  重大事件突発の報を秘書から電話で受けた内大臣秘書官長の木戸幸一も、天皇が最初の本庄侍従武官長の拝謁を受けようとしている午前六時には、すでに宮中に車で駆けつけたひとりであった。  彼は、警視総監を手にはじめに――電話はつながったものの、相手の意見はまるで意味をなさなかった――、まず近衛文麿、つづいて興津の西園寺公と、電話を掛けまくった。  西園寺は、まだ寝ていた。電話口に出ると、「また、やりおったか。困ったものだ」と、呟くようにいった。そして着替えを済ませ、おりからの雪模様の寒さのなかを、ほどなくやってきた静岡県警の警備車3台に護られて、その警察部長官舎に避難した。  2月26日の宮中は、混乱のなかに過ぎていった。天皇は、つぎつぎに重臣の拝謁を受けながら、そのあいだ2、30分おきに本庄侍従武官長を呼んだ。そして、「まだか……。反乱軍の鎮圧は、まだか」と、からだを震わせながら催促した。  さいごに、本庄大将が天皇に呼ばれて同じ督促を受けたときは、27日の午前2時を回っていた。この老将軍は、そのまま宮城に泊り込んだ。

2026年4月26日日曜日

20260426 株式会社文藝春秋刊 池内 恵著『書物の運命』pp.96‐98より抜粋

株式会社文藝春秋刊 池内 恵著『書物の運命』
pp.96‐98より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4163680608
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4163680606

 西暦紀元前後、アレキサンドリアがヘレニズム学芸の中心地だったころ、この地の図書館は万巻の書を集め、世界の知を結集していたとされる。しかし、7世紀にイスラーム教徒の軍勢がアレキサンドリアを征服した時には、すでに図書館は荒廃してしまっていた。
 この古代図書館の理念に倣って大図書館を建設し、世界の知を集積するというプロジェクトをエジプト政府が立ち上げ、ユネスコの後援を得て資金が集まった。完成した建物の主要部分は、ちょうどオレンジを八つ切りにして横たえたような形をしている。その「切り口」がガラス張りになっていて、地中海の陽光がいっぱいに差し込んでくる。
 ヘレニズム学芸の遺産の共有を通じて「西洋に開かれたエジプト文化」をあらわそうとしているのだろう。自らの文化をどう定義し、いかに世界に効果的に示せるか、という問題はテロリズムとの関連で疑念を持たれるアラブ諸国にとって死活問題である。
 式典にはフランスのシラク大統領をはじめ、スペイン国王夫妻やギリシア、レバノンの大統領など、豪華な来賓が集まった。日本もユネスコを通じてこのプロジェクトに大きく貢献しているのだが、存在感は薄い。シラク大統領が自ら出向いたフランスはすっかり主役である。
 シラクはその足でベイルートに赴き、18日から開かれた「フランス語圏機構」のサミットに出席した。モロッコ、レバノン、エジプトなどアラブ諸国もこの機構に加盟している。今回はイラク問題やパレスチナ問題などの議題に関心が集中し、シラクはアラブ寄りの姿勢を示して大いに点数を稼ぎつつ、言質は取られずに帰った。
 フランス語・文化の影響というのはかつての植民地支配を意味するのだが、それすらもしたたかに外交の手段にしてしまう。このような「文化の政治」において、日本はいかにも発信力が弱い。
 今年のエジプトではもう一つ大きな式典があった。革命の五十周年である。一九五二年七月二十三日、青年将校の一団が決起した。後に大統領となるナセルやサダトを含め、この時の指導者の多くは一九一八年に生まれている。士官学校に平民の入学がゆるされるようになった一期生である。この世代が政界を牛耳り続け、世代交代の制度を築けなかったことが、五十年後に制度疲労となって重くのしかかっている。
 興味深いことに日本では田中角栄と中曽根康弘がこの一九一八年の生まれである。一歳年下になると宮沢喜一がいる。破竹の急出世を遂げた田中角栄にしても首相となるのは七二年である。すでにその二年前、ナセルは心臓発作で亡くなっていた。ナセルを継いだサダトは八一年に暗殺される。中曽根の首相就任はその翌年である。宮沢になると九一年になってやっと首相の座をつかんだが、五五年体制に幕を引くという役回りを負わされた。
 若くして権力を握るには無理をしなければならず、機が熟すのを待って念願かなったころには盛りを過ぎている、という傾向が日本の政治の世界にはあるようだ。エジプトの場合は全く逆で、極めて若いうちに武力で権力を奪取し、死ぬまでその地位から立ち退かない。どちらが良いとも言えないだろう。
 日本の場合は、政治力と教養を兼ね備えた政治家が早期に首相を経験し、退任後を国際機関の長のような役目を務めて過ごすというライフコースが存在しない。このことが、文化をめぐる国際政治の舞台で、存在感を示せない一因になっているのではないか。

2026年4月22日水曜日

20260422 東洋経済新報社刊 北岡伸一・細谷雄一・田所昌幸・篠田英朗・熊谷奈緒子・託摩佳代・廣瀬陽子・遠藤貢・池内恵 編著「新しい地政学」 pp.350‐355より抜粋

東洋経済新報社刊 北岡伸一・細谷雄一・田所昌幸・篠田英朗・熊谷奈緒子・託摩佳代・廣瀬陽子・遠藤貢・池内恵 編著「新しい地政学」
pp.350‐355より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4492444564
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4492444566

 中東はなぜ、地政学的な認識において重視され、それに基づく戦略論・外交政策論の対象となってきたのだろうか。ここでは本書の編者が示している「相対的な位置」、「資源・エネルギー」、「歴史とアイデンティティ」の三つの方面から見ていこう。

相対的に重要視されてきた中東

 第一に、中東の置かれた相対的な位置が持つ国際政治上の重要性は特筆される。中東はヨーロッパとアジアとアフリカの結節点に位置し、交通の要衝であることから、グローバルな大国が覇権的な地位を確立・維持するために、中東を掌握することが不可欠となる場面が、歴史上、恒常的に存在してきた。これは必ずしも中東そのものに希少な価値が内在的にあることを意味せず、むしろ相対的な位置関係によって生じた重要性である。大国あるいは帝国が、ヨーロッパとアジア・アフリカを横断する広範な領域に政治的・軍事的に勢力を展開するためには、その中間に位置する中東に安定的にアクセスし、自由に通行することが不可欠であると歴史上多くの場面で認識されてきたことから、中東に政治的な影響力を行使する手段を有し、場合によっては軍事的な手段を用いて支配することの価値が存在してきた。また、グローバルな通商貿易の存立に、中東地域の安定と、そこへの自由・安定的なアクセスの確保が不可欠なことから、世界的な帝国は中東の統制の必要性を感じ、中東に進出した。  ヨーロッパ・アジア・アフリカにまたがる地域という特性そのものは、歴史を通じて変わることのない地理的な要因に多くを由来しており、近代に限らず、古代から、中東(と近代に呼ばれるようになった地域)の戦略的な重要性をもたらしてきた。たとえば、古代ギリシアの歴史家ヘロドトスが記録に残した「ペルシア戦争」は、アケメネス朝ペルシアが拡張しアナトリア半島とバルカン半島南部にかけての、現在のトルコを中心とする地域を制圧したのに対して、アテネが中心になって立ち向かったという構図である。また、共和制ローマの三頭政治の崩壊後の内戦で、カエサルはポンペイウスを追い落とし、紀元前48年、逃亡するポンペイウスを追ってエジプトのアレクサンドリアに上陸した。カエサルはプトレマイオス朝の内紛にクレオパトラ7世の側に立って介入し、翌年の「ナイルの戦い」に勝利し、共にエジプトを掌握した。カエサルはこの年に現在のシリアからトルコ黒海沿岸にかけての地域に遠征を行って勝利し、翌年に現在のチュニジアで政敵に勝利してローマに凱旋した。  
 エジプト・チュニジアやシリア・トルコといった現在の中東・北アフリカに戦略的な足場を築いたことで、カエサルはローマの内紛において優位に立ち、紀元前44年に終身独裁官に就任し、後の帝政ローマの成立への礎を築いた。カエサル暗殺後の第二次三頭政治では、イタリア以西を支配地域としたオクタウィアヌスが、北アフリカを支配地域とするレピドゥス、そしてギリシア、トルコ、シリア北西部、リビア東部を支配地域とするアントニウスと覇を競った。オクタウィアヌスはまずレピドゥスを降伏させて北アフリカを掌握し、アントニウスと対峙した。アントニウスはクレオパトラと結婚し、プトレマイオス朝にローマの東方領土を分割しようとしていた。オクタウィアヌスはアントニウスを紀元前31年にアクティウム(現在のギリシア)の海戦で破り、ローマに凱旋して、ローマ皇帝の前身となる「プリンケプス(第一人者)」に就任した。このように、中東を掌握することが、古代ローマで最高権力者の地位を獲得する際に不可欠の要件であったと見ることができる。
 ローマ帝国が衰退・不安定化し分裂傾向を抱える過程で、中東の重要性は増し、帝国の重心は中東に向けて移動していった。324年に皇帝となったコンスタンティヌス帝はサーサーン朝ペルシアの脅威に備えるために、330年にビュザンティオンを開いて遷都した。これが皇帝の死後はコンスタンティノポリスと呼ばれ、395年のローマ帝国東西分裂以降は東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の首都となり、コンスタンティノープルと呼ばれた。オスマン帝国は1453年にコンスタンティノープルを征服して首都とし、イスタンブルと呼ぶようになった。ローマ帝国・東ローマ帝国と、それを継承したオスマン帝国が、ボスポラス海峡に跨り、黒海と地中海の結節点を扼するビュザンティオン=コンスタンティノポリス=コンスタンティノープル=イスタンブルを首都とし続けたことは、この地点を掌握することの地政学的な重要性が、継続して認識されてきたことを意味するだろう。地中海世界から西アジアにかけての領域を支配する帝国にとって、中東に直接あるいは間接的なプレゼンスを持つことは政治・外交・安全保障政策上、極めて重要であり、不可欠であった。

 近代における帝国主義の時代に、西洋「列強」がグローバルに勢力を伸長させ、世界各地で植民地獲得競争を行った時、やはり中東は争われる対象となった。これは英仏の東地中海からインドへの展開、ロシアの南下政策、ドイツの遅れた台頭が、衰退・崩壊過程のオスマン帝国の領域で摩擦を繰り広げた「東方問題」として現れた。

 中東の特性は、近代の地政学、特に海洋権力論に依拠した議論においては「チョークポイント」の議論によって論じられた。軍事や国際政治経済における「チョークポイント」の多くが中東に位置する。マハンは1890年の『海上権力史論』において七つのチョークポイントを指摘した。チョークポイントは、それを設定する主体や目的や政治的・軍事的環境条件の変化によって様々に定義されうるが、冷戦後のグローバル・エコノミーにおける資源や食糧の輸送経路の保全という観点からは、代表的なチョークポイントは次のものである。

ボスフォラス海峡*

ドーバー海峡

ジブラルタル海峡*

マラッカ海峡

ホルムズ海峡*

バーブルマンデブ海峡*

パナマ運運河

スエズ運河*

 このうち*を付した五つが広い意味での中東に含まれる(さらにマラッカ海峡は「イスラーム圏」に含まれる)。
 海洋国家としての英国の発展と覇権の維持に不可欠なチョークポイントを多く抱える場所として、近代における中東の地政学的な重要性は定義された。英国から米国に覇権が遷移した際にも、中東の地政学的な重要性への認識は受け継がれ、現在に至る。英国と米国によって推進されたグローバルな通商貿易体制に裨益する日本なども、この中東の地政学的重要性への認識を共有するようになった。  同時に、中東は大陸権力(ランド・パワー)を重視するドイツを発信源とする地政学においても重要である。それは中東の拡大・延伸領域と認識される「イスラーム世界」を重要な対象とする地政学と言える。この大陸型地政学の観点から、トルコやイランと歴史・文化的に連続性が強い中央アジアが、英・露を中心とした西欧列強の間で争われる「グレート・ゲーム」の対象となった。

豊富な資源による重要性
 
 第二に、この相対的な地理的条件において重要な中東に偏在して石油・天然ガスが産出されるという点が、近現代において中東の地政学的な重要性を飛躍的に高めている。現代の国際政治において、中東に関する地政学的な関心の原因となる要素の筆頭が、資源エネルギーであることは言を俟たない。中東に遍在する石油・天然ガスの支配や管理は、それを消費国まで運ぶシーレーンやパイプラインの維持を含めて、中東をめぐる国際政治の焦点となっている。特に第二次世界大戦以後においてこれは顕著である。中東の原油を消費国に運ぶシーレーンの途中に、ホルムズ海峡やスエズ運河、バーブルマンデブ海峡といった「チョークポイント」が点在していることにより、中東の安全保障はグローバルな課題となる。

2026年4月21日火曜日

20260420 株式会社新潮社刊 大岡昇平著「俘虜記」 pp.312-317より抜粋

株式会社新潮社刊 大岡昇平著「俘虜記」
pp.312-317より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4101065012
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4101065014


 我々が移転した時は、三中隊まで炊事場完成、中隊本部の棟上げがすんだだけであった。我々はまず図の中庭に当るところにテントを建てて住み、逐次周囲に我々の住居たるべきニッパ小屋を建造して行った。
「うら枯れしニッパアをもて葺くなればニッパア・・ハウスと申すやうなり」俘虜の中の歌人が歌った。ニッパとは幹を持たない椰子の一種で、その柔軟な葉を二三尺に綴ったものを単位にして屋根を葺く。別に枯れたのを集めたわけではなく、最初は随分緑したたるようでもあるが、やがては枯れて褐色を呈して来る。ニッパ椰子の葉で葺くから、ニッパ・ハウスと呼ぶことには間違いない。
 収容所の我々の住居は、最初は米軍規格のテントであったが、戦争の終焉の見通しのつかないままに、便所を除き半永久的のニッパ・ハウスを俘虜自身に建造させるのが、米軍の方針となったらしい。
 建物は全部所謂切妻形である。これは周知のように左右二面の屋根のみを持つ簡単な造りで、別に米軍の指定によるものではなく、俘虜の中の大工が勝手に設計したものである(因みに比島人のニッパ・ハウスは多く四面の屋根を持っている)。
 まず椰子の幹を一丈ばかりの長さに切った丸柱を、二間おきに二列に建て並べ、「三角」と呼ばれる竹を鈍角の頂点を持った等辺三角形に組んだものを、各々相対した柱に渡す。その頂点を貫いて竹の梁を通し、それから左右にやはり竹の垂木を並べ、同じく竹の母屋で繋げば、この建物の骨格は出来上るのである。あとは屋根と、建物の前後に露出した「三角」をニッパで葺き、廂を出し、各「三角」の底辺を二本の竹の柱で支え、周囲に割竹で腰張をほどこせばよい。通路は「三角」を支えた中柱の間で建物を置く。
 これが中隊本部及び各小隊小屋の基本形であるが、炊事場のみ稍々異る。「三角」を支える中柱を欠き、入口は裏一方のみ、前面は全部腰張にして、食糧を分配する台を設えるのである。
 資材が米軍によって運び込まれるにつれ、俘虜は元気に、建築にかかった。二中隊の俘虜達は既に旧収容所でニッパ・ハウスを建てた経験者である。中でも敏捷な者が屋根へ上り、歌いながら竹材を釘でくくり、ニッパを敷く。各中隊、更に各小隊が競争になった。入所して日が浅く、虚弱で未熟な俘虜を抱いた三四五中隊は戦ったが、それでも一カ月の後には中隊全部が完成した。
 資材が米軍によって運び込まれるにつれ、俘虜は元気に、建築にかかった。一二中隊の俘虜達は既に旧収容所でニッパ・ハウスを建てた経験者である。中でも敏捷な者が屋根へ上がり、歌いながら竹材を針金でくくり、ニッパを敷く。各中隊、更に小隊が競争になった。入所して日が浅く、虚弱で未熟な俘虜を抱いた三四五中隊は暇取ったが、それでも一カ月の後には中隊全部が完成した。
 この間収容所の外でする米軍のための作業、つまり外業は中止されていた。もっとも作業は名目的なもので、どう考えても我々の享受していた衣食住プラス三弗の俸給、さらに一日八仙の作業手当に値するものではなかった。外業では我々は過分に支払われていた。しかし自分達の住居を建造するという労働では、我々は立派に一つの仕事をした。つまり自分のものであるから、毎日みな力の極限まで働いたのである。
 こうして自分達のものを自分で建てるという仕事の性質から、我々旧日本軍人の間に初めてデモクラシーが生れた。つまり各小隊共、多忙の口実で中隊本部、炊事場の建造に使役を出すことを拒み、各自その構成員が働くほかなかった。前述のように一二中隊は棟上げがしてあり、内部の盛土と周囲の腰張りを作ればよかったが、あとの三個中隊は全然手をつけてなかったから、これは特権に馴れた幹部達にとって打撃であった。
 殊に悲惨であったのは、大隊本部であった。旧収容所では日本人代表者イマモロは米軍との折衝を専断して、擬専制的権力を享受していたが、新収容所に移るのを機に、所内が中隊組織に改組され、各中隊に米軍下士官が配属されることになって以来、権力は分割され減少した。今や彼は大隊長となり、象徴になった。
 かつて現在の中隊長、小隊長等の幹部を一棟に集めていた大隊本部は、七人の直属スタッフを持つにすぎなくなった。つまり副長オラと書記中川、通訳の桜井、給仕二名である。これだけの人数で宿舎を建造するのは、事実上不可能であったから、彼等は結局テントの周囲に垣を繞らすに止った。イマモロが怒りながら二人の給仕を指揮して、割竹を地にさしている光景は、彼の権力失墜の最初の表現であった。
 彼の没落の原因であった中隊付けサージァントは我々が各々ニッパ・ハウスを建造し終った頃到着した。彼等は一個中隊に一人ずつ配属され、毎日昼間を中隊本部に詰めて米収容所長の諸指令を伝達し、遵守を監督した。彼等はまた朝夕中隊毎に点呼を取った。これも従来イマモロの重要な補佐的役目の一つで、彼の勢威の有力な源だったものである。
 私が通訳として属した第二中隊のサージァントはウェンドルフというドイツ系米人であった。金髪碧眼、丈は低く、むしろフランス人を思わせた。私は彼が南部ドイツの農民の出であろうと空想した(Wendorf の dorf は村である)。「ドイツ人たる君がドイツと戦うのは変な気がしないか」という私の問いに対して「私達がアメリカへ来たのは随分昔だ」と彼は答えた。
 彼の職業はデトロイトの自動車工場の事務員で、召集されて既に三年だそうであるが、一般にあまり兵隊臭くない米兵の中でも、特に兵隊臭くなかった。高射砲隊員としてギスカ、マーシャルと転戦した後、この閑職について、召集解除を待っているだけだったらしい。
 彼は大隊本部と我々の関係をすぐ理解し、我々と一緒にイマモロを無視するのを面白がっていた。例えば我々が毎朝米軍倉庫から受けて夕刻返す要具(鶴嘴、シャベル、蛮刀等。これ等は凶器であるから収容所内に止めることは許されない)の割当も、従来はイマモロが宰領していたが、これもサージァントの手に移った。毎朝我々は彼にメモを貰って門外の倉庫へ受領に行ったが、これは各中隊勝手に要求したため、すぐ数が足りなくなった。大隊本部は別に直属の米兵を持たないため、却って不利になった。
 大隊本部の前を要具を担いで通る俘虜を、ヒステリーを起したイマモロが強襲して、要具を道路上に散乱させた事件を機に、イマモロの収容所長への懇願が効を奏し、要具だけはイマモロが一括受領して各中隊に分配するよう、収容所長から中隊付サージァントに指令が出た。イマモロはまた威張り出したが、我々も負けていなかった。サージァントにエキストラ要求書を発行して貰ってイマモロを悩ました。イマモロが米軍の倉庫主任を後楯に頑張ると、ウェンドルフが直接米軍の倉庫主任にかけ合いに行って、無理矢理に要求数を取って来た。彼等の間にも、我々とイマモロの間に似た関係があったのかも知れない。
 我々のイマモロに対する鬱憤はかなり晴らされた。彼は永らく抵抗していたが、やがて諦めて我々を「お前ら」ではなく「あんた方」と呼ぶようになった。棒給生活者上りで元来殷勤なオラは「あなた方」といった。
 中隊別に食糧を分けることだけは依然イマモロの手中にあったが、これは彼が従来のように古い俘虜の多い一二中隊に偏愛する理由がなくなったという事実によって、却って公平に行われた。こうして旧収容所における日本的専制は各中隊にサージァントの配属されたことによって消滅したが、中隊内部では必ずしもそうは行かなかった。中隊長はじめ各小隊長、炊事長などが依然としてボスであった。しかしその権力は旧収容所でイマモロが雲の上の収容所長の威を藉りて振っていた権力ほどには到らなかった。サージァントが常駐して直接指令し監督していたからである。彼等の勢力の源はむしろ、いかにその指令を俘虜の利益のために誤魔化すかを誇示し、俘虜の怠惰に媚びて人気を博することにあった。そして憎まれ役はサージァントの代弁者たる通訳の方に廻って来た。

2026年4月20日月曜日

20260419 我が国の「失われた30年」の基層にあるものについて

 「失われた30年」と呼ばれる、1990年代以降の長期にわたる我が国の低迷は、しばしば経済政策や制度設計の不備に帰されがちではありますが、その深層には、我が国社会全般において、人びとが書籍を読まなくなり、それに基づいて考えなくなったという、知的基盤そのものの変容があると考えます。また、こうした変化は、一見しただけでは看取し難いものではありますが、徐々にあらゆる営為を空疎なものに変え、最終的には形式だけが残る状態、すなわち「形骸化」をもたらすと考えます。本来、あらゆる人的営為は、それだけで成立するものではなく、方法や規則、あるいはそれを支える組織の仕組みがあり、それらに関与する人びとが、その意味や背景にある文脈を理解し、状況に応じて解釈し運用することにより、はじめて成立するものです。換言すれば、我々の営為とは、それに関与する人びとの思考によって支えられているのだと云えます。しかし、その前提となる思考が形骸化し、実質的に失われてしまうと、営為は、もはや内実を伴わず、単なる作業手順や工程へと変質します。このことを踏まえますと、文章や書籍を読むという行為は、単に知識を得るためのものではないと云えます。すなわち我々は、読むことを通じて、他者の経験や思考を追体験し、複数の視座を往還しつつ、抽象と具象とを機に応じて往復する力を獲得するのだと考えます。そして、この過程を経ることにより、我々は、接する事物の背景や構造を推量、理解し、それらを相対的に認識する力を身につけることが出来るのだと云えます。したがって、文章や書籍が読まれなくなるということは、単に社会における情報量が減少することを意味するのではなく、思考の形式そのものが単純化、浅薄化していくことを意味するのだと考えます。このような状況においては、営為の背景や意味、目的を考える力が減衰し、代わりに形式や手順といった、いわば即物的な要素に依拠する傾向が強まります。何故ならば、背景や意味を読み解くことが出来ない場合、人びとは、容易に看取可能な要素に拠るほかなくなるからです。その結果、営為の柔軟な運用は困難となり、現実の複雑さに対応出来なくなります。それにもかかわらず、形式や手順は厳守されるため、外見上は秩序が維持されているように見えます。そして、この外見と内実との乖離こそが、形骸化した社会の特徴であると考えます。その意味において、我が国は、こうした傾向が比較的顕著な社会であると考えます。太平洋戦争の敗戦後、米国を主とする占領軍のもとで様々な制度が導入され、民主化が急速に進み、社会に定着したように見えました。しかし、その多くは背景や意味、目的への十分な理解を伴わないまま受容されたものであり、そのため時間の経過とともに、徐々に忘却され、綻びが生じていきました。その結果、営為の正当性は、形式や手順、あるいは前例や空気に委ねられるようになったのだと考ます。このような状況においては、形式を逸脱することは過度に忌諱される一方で、形式に従ってさえいれば、実質が伴わなくとも問題視されないという逆転現象が生じます。さらに、昨今においては、情報環境の変化がこうした傾向に拍車を掛けているように見受けられます。すなわち、短文的で断片的な情報が主流となる中で、ある程度の長文を読み、論理を積み上げていく経験は希薄になりつつあります。その結果、複雑な問題を過度に単純化されたフレーズや印象によって捉える傾向が強化されて深い理解に基づく判断が困難になります。このような状況では、営為を支える思考の内実はさらに失われ、形式化は不可避の帰結となります。すなわち、どれほど精緻な制度設計を行ったとしても、それを運用する我々に、読むこと、そして考えることの習慣が乏しい限り、あらゆる営為は必ず形骸化していくと云えるのではないでしょうか。制度改革が為されても、状況が大きく改善しない一つの要因は、ここにあると考えます。つまり、問題の本質は外部にあるのではなく、我々を支える内的な知的基盤の側にあるのです。したがって、社会の再生や再活性化を考える際には、制度の改変以前に、人びとが再び読むこと、そして考えることを取り戻すことが不可欠であると考えます。これは即効性のある対応策ではありませんが、唯一、持続的に社会の質を高める方法であると考えます。つまり、読書という営為を通じて獲得される各自の内発的な知性こそが、諸営為に意味と内実を与え、形式を超えて現実に対応する力を社会にもたらすことが出来るのではないでしょうか。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

一般社団法人大学支援機構

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ISBN978-4-263-46420-5

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2026年4月17日金曜日

20260416 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「NEXUS 情報の人類史 : 下 AI革命」 pp.152-154より抜粋

河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「NEXUS 情報の人類史 : 下 AI革命」
pp.152-154より抜粋 
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309229441
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309229447

 文明は官僚制と神話の結合から誕生する。コンピューターベースのネットワークは新しい種類の官僚制であり、これまで私たちが目にしてきた人間ベースのどんな官僚制よりもはるかに強力で執拗だ。このネットワークはまたコンピューター間神話を創作する可能性が高く、そのような神話は人間が生みだしたどんな神話よりも格段に複雑で、人間には思いもよらない異質のものになるだろう。このネットワークの潜在的な利点は途方もなく大きい。逆に、潜在的な欠点は人間の文明を破壊しかねないことだ。

 一部の人にとって、文明の崩壊についての警告は悲観の極みのように思えるだろう。強力なテクノロジーが新たに現われるたびに、それがこの世の終わりを招くかもしれないという不安が湧き起こったが、私たちは依然としてここにいる。産業革命が進んでも、ラッダイト(機械化反対派)の描き出した破滅の筋書きは現実にはならなかったし、イギリスの詩人ウィリアム・ブレイクが作品に書いた「暗い悪魔の工場」は、けっきょく史上最も裕福な社会を生みだした。今日、ほとんどの人は一八世紀の先祖よりも桁違いに優れた生活条件を享受している。インテリジェント・マシンは、これまでのどんな機会よりもなお有益になるだろうと、マーク・アンドリーセンやレイ・カーツワイルのような熱狂的なAI支持者は請け合う。人間は、以前よりも段違いに優れた医療や教育、その他のサービスを享受し、AIは生態系を崩壊から救い出しさえするというのだ。

 残念ながら、歴史を詳しく見てみると、機械化反対派は完全には間違っておらず、強力な新テクノロジーを恐れるのはしごくもっともであることがわかる。仮に最後にはそうしたテクノロジーの利点が欠点を補って余りあるとしても、幸福な結末に至るまでには、たいてい多くの試練や苦難が待ち構えている。斬新なテクノロジーが歴史的惨事につながることが多いのは、テクノロジーが本質的に悪いからではなく、人間がそのテクノロジーを賢く使う方法を学ぶのに時間がかかるからだ。

 産業革命は、その最たる例だ。一九世紀に世界中に広まり始めた工業技術は、伝統的な経済や社会や政治の構造を根本から覆し、まったく新しい社会を創設する道を拓いた。その社会は、より豊かで平和になる可能性を秘めていた。ところが、良好な工業社会を築く方法を学ぶのは簡単には程遠く、大きな代償を伴う実験が繰りかえされ、その過程で何億もの犠牲者が出た。

 代償の大きい実験の一つが、近代の帝国主義だった。産業革命は一八世紀後半にイギリスで始まった。一九世紀の間に工業の技術と生産方法が、ベルギーからロシアまでの他のヨーロッパ諸国と、アメリカや日本でも採用された。こうした工業の中心地では、帝国主義の思想家や政治家や政党が、工業社会として唯一成りたつのは帝国だと主張した。おおむね自給自足の農業社会とは違い、新しい工業社会は外国の市場と原材料への依存率がはるかに高く、そのような前例のない要求を満たすことができるのは帝国だけであるという理屈だ。帝国主義者たちは、自国が工業化はしたものの植民地を征服するのに失敗したら、より冷酷な競争相手によって、不可欠の原材料の供給網と製品販売のための市場から締め出されるのではないかと恐れた。植民地の獲得は、自国の存続に欠かせないばかりか、自国外の人類全体にとっても有益だと言い切る帝国主義者もいた。新しいテクノロジーの恩恵を、いわゆる未開発国に広めることができるのは帝国だけだと彼らは主張した。

 その結果、すでに帝国だったイギリスやロシアのような工業国が大幅に国土を拡張する一方、アメリカや日本、イタリア、ベルギーといった国々は帝国の建設に乗り出した。工業国の軍隊は、大量生産されたライフル銃と大砲を装備し、蒸気の力で運ばれ、電信によって命令を受け、ニュージーランドから朝鮮半島、ソマリアからトルクメニスタンまで。世界中を席捲した。無数の先住民が、こうした工業国の軍隊によって伝統的な生活様式を目の前で踏みにじられた。工業帝国というのはお粗末な発想であり、工業社会を築いて必要な原材料と市場を確保するにはもっと良い方法があることにほとんどの人が気づくまでには、一世紀以上に及ぶみじめな経験が必要だった。

 スターリン主義もナチズムの、工業社会の建設方法を突き止めるための、はなはだしい代償を伴う実験だった。スターリンやヒトラーのような指導者は、産業革命が解き放った巨大な力を制御して最大限に活用できるのは全体主義だけだと主張した。彼らは、工業世界で生き延びるには政治と社会と経済のあらゆる面で全体主義的支配が求められる証拠として、史上初の「総力戦」である第一次世界大戦を上げた。一方、望ましい面としては、産業革命はそれまでの社会構造をその人間的な不完全さや欠点もろともすべて溶解し、純粋な超人が暮らす完璧な社会を鋳造する機会を与えてくれる炉のようなものだとも、彼らは主張した。

2026年4月15日水曜日

20260415 日経BP社刊 黒川 清著「大学病院革命」 pp.179‐181より抜粋

日経BP社刊 黒川 清著「大学病院革命」
pp.179‐181より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 482224556X
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4822245566

 現在の医療不信のベースにあるのは医療と患者の間のコミュニケーション不全にある、と申し上げました。そこから考えると、改革すべき重要な病院の機能があります。それは病院の広報システムです。
 現在、日本の病院の広報システムもあまりにお粗末です。医療事故がおき、テレビで記者会見が報道されますが、病院側は事実を隠蔽しようとするクセが抜けず、切羽詰まると今度は土下座。広報戦略としては、最悪のやり方をどこの病院もとっている、としかいえません。どんな情報をどう開示するのか、どうすれば病院のブランドを落とさず、患者や世間の信頼をかちとれるのか、それを考え、情報発信を実行できる広報専門の担当者が必要です。もちろん、最終的にはこうした広報戦略を束ねるのは病院の経営者である院長や理事長です。
 企業の場合、広報は社長直属になっており、先進的な企業の社長は自ら広報マンであることを自覚しています。それと同じような病院経営者の自覚とシステム作りが病院においても急務です。
 アメリカでは、医療事故があると、すぐに弁護士が飛んできます。夜中であろうが、経営者や関係スタッフが集まり、それぞれがやるべき仕事を分担します。取材を受ける人間を決めます。「対外的にどこまで話すべきか」「どういう観点で話すか」も議論します。同時に、院内委員会を調べ、事故について調査し、報告書をすぐにまとめます。それをもとに外部評価委員を集めて会議を開き、質問を受けます。
 東海大学で医療事故が起きたとき、私はアメリカの大学病院で学んだ広報体制をとってみました。でもこのような方法は日本の病院のあいだになかなか広まっていません。
 人の失敗から学ぶというのはとても大切です。ゆえに医療の安全についての講座や講義を医者や大学医学部の学生たちに対して行う必要があります。医療というのは100%確実ということがありません。だから「事故はある」という前提で、ふだんから備えておくべきなのです。病院でおきた過去のヒヤリハット事例を集めるとか、専門家を読んで話を聞く。無論、普段はもちろんいざというときの患者さんの家族との対応も欠かせません。患者さんの信頼を得るためには、何かあったときではなく、ふだんから情報発信をすることが大切です。
 医療事故は、いつだって起こりえる。ゼロにする努力を怠ってはいけませんが、ゼロになることはありえない、と考えるべきです。そういう教育をしながら、制度的なミスがどこにあるかという話を考え、分析し、改善し、透明性を保つ、広報する。病院側が意識と体制を変え、こうした対応がとれるようになれば、医療と社会の関係も改善し、医療不信を解消する方向に持っていくことは可能なはずです。