日経BP社刊 黒川 清著「大学病院革命」
pp.179‐181より抜粋
ISBN-10 : 482224556X
ISBN-13 : 978-4822245566
現在の医療不信のベースにあるのは医療と患者の間のコミュニケーション不全にある、と申し上げました。そこから考えると、改革すべき重要な病院の機能があります。それは病院の広報システムです。
現在、日本の病院の広報システムもあまりにお粗末です。医療事故がおき、テレビで記者会見が報道されますが、病院側は事実を隠蔽しようとするクセが抜けず、切羽詰まると今度は土下座。広報戦略としては、最悪のやり方をどこの病院もとっている、としかいえません。どんな情報をどう開示するのか、どうすれば病院のブランドを落とさず、患者や世間の信頼をかちとれるのか、それを考え、情報発信を実行できる広報専門の担当者が必要です。もちろん、最終的にはこうした広報戦略を束ねるのは病院の経営者である院長や理事長です。
企業の場合、広報は社長直属になっており、先進的な企業の社長は自ら広報マンであることを自覚しています。それと同じような病院経営者の自覚とシステム作りが病院においても急務です。
アメリカでは、医療事故があると、すぐに弁護士が飛んできます。夜中であろうが、経営者や関係スタッフが集まり、それぞれがやるべき仕事を分担します。取材を受ける人間を決めます。「対外的にどこまで話すべきか」「どういう観点で話すか」も議論します。同時に、院内委員会を調べ、事故について調査し、報告書をすぐにまとめます。それをもとに外部評価委員を集めて会議を開き、質問を受けます。
東海大学で医療事故が起きたとき、私はアメリカの大学病院で学んだ広報体制をとってみました。でもこのような方法は日本の病院のあいだになかなか広まっていません。
人の失敗から学ぶというのはとても大切です。ゆえに医療の安全についての講座や講義を医者や大学医学部の学生たちに対して行う必要があります。医療というのは100%確実ということがありません。だから「事故はある」という前提で、ふだんから備えておくべきなのです。病院でおきた過去のヒヤリハット事例を集めるとか、専門家を読んで話を聞く。無論、普段はもちろんいざというときの患者さんの家族との対応も欠かせません。患者さんの信頼を得るためには、何かあったときではなく、ふだんから情報発信をすることが大切です。
医療事故は、いつだって起こりえる。ゼロにする努力を怠ってはいけませんが、ゼロになることはありえない、と考えるべきです。そういう教育をしながら、制度的なミスがどこにあるかという話を考え、分析し、改善し、透明性を保つ、広報する。病院側が意識と体制を変え、こうした対応がとれるようになれば、医療と社会の関係も改善し、医療不信を解消する方向に持っていくことは可能なはずです。
鶴木次郎のブログ
主に面白いと思った記述、考えたことを記します。 自身の備忘録的な目的もあります。
2026年4月15日水曜日
20260414 ダイアモンド社刊 小室直樹著「危機の構造 日本社会崩壊のモデル」 pp.4-6より抜粋
ダイアモンド社刊 小室直樹著「危機の構造 日本社会崩壊のモデル」
pp.4-6より抜粋
ISBN-10 : 4478116393
ISBN-13 : 978-4478116395
政治は国民大衆の鏡であるという。敗戦の廃墟の中から立ち上がり、未曾有の経済復興を遂げ、わずか30年足らずで世界のトップクラスの経済大国になった国民のエネルギーとは、経済万能主義、金権絶対主義のエネルギーであった。当然のこととしてエントロピーを増し、それが社会構造の末端にまで及んだ。そして日本を破局に向けて邁進させるようなメカニズムが生れたのである。問題の政界を取り巻く腐敗も、官僚と財界と自民党のどろどろした癒着も、さらに視点をかえていえば、公害によってすっかり変色した自然も、アラブの資源ナショナリズムによって起こった石油危機も、現在の社会構造とそれによって生じるメカニズムの「ひこばえ」である。一本の糸をたぐっていけば、行き着くところは同じ根である。
では、一体、このメカニズムとは何か、この解明が本書の主要なテーマであるが、要約して結論をいえば次のようになる。すなわち、高度経済成長にもとづく「最も空想的な人間の夢想すら上回る」社会変動にもかかわらず、日本人の行動様式は、構造的には戦前におけるそれとは変わっていない。つまり、structurally isomorohic である、ということだ。そのためにこれらの間の矛盾から生じる構造的アノミー(アノミーは「無規範」もしくは「無規制」と訳される。詳しくは後出第五章参照)によってこのような致命的なメカニズムが生じると考えられる。
さらにここで十分に認識しておくべきことは、社会的現実を科学的に分析し、この分析にもとづいてこれを合目的的に制御するという社会科学的な態度と能力とが日本人には決定的に欠如していることである。この「精神」の欠如は、現在にだけ特有のものではない。戦前も戦後も、あるいはいかなる社会変動を経験しても全く変わっていないのである。このような態度を続ける限り、いかなる危機も救い難いものであるといわざるをえない。この点を克服してこそ、政治的、経済的、社会的危機は外部のものではなく内部のものとなり、所与のものとして位置づけられる性質のものではなく、われわれの克服可能な課題となる。この課題を制御対象とみなし、社会科学的に分析し、有効な制御を施すとき、いかなる危機もその超克の下に解決されるであろう。「危機」とは、有機状態のするどい亀裂である。それは極限にまで狂暴性を発揮する恐怖の状態、少なくともそこまでにいたる予兆である。原始時代の人間が天災にうろたえたように、われわれがいま、この「危機」の野放し状態を許すとしたら、われわれ日本人は滅亡するしかあるまい。だが、われわれは、実はこの恐ろしさに少しも気づいていない。あの第二次世界大戦においてわれわれを襲ったそれと同じタイプの大破局が再び襲ってくる可能性がないと、だれが断言できるだろう。世の中が一見太平安泰、物資的多さのムードに満ちているとき、このことに気づくのは容易ではない。精神の弛緩は、満たされたままの現状を所与のごとき感で蔽い続ける。
ISBN-10 : 4478116393
ISBN-13 : 978-4478116395
政治は国民大衆の鏡であるという。敗戦の廃墟の中から立ち上がり、未曾有の経済復興を遂げ、わずか30年足らずで世界のトップクラスの経済大国になった国民のエネルギーとは、経済万能主義、金権絶対主義のエネルギーであった。当然のこととしてエントロピーを増し、それが社会構造の末端にまで及んだ。そして日本を破局に向けて邁進させるようなメカニズムが生れたのである。問題の政界を取り巻く腐敗も、官僚と財界と自民党のどろどろした癒着も、さらに視点をかえていえば、公害によってすっかり変色した自然も、アラブの資源ナショナリズムによって起こった石油危機も、現在の社会構造とそれによって生じるメカニズムの「ひこばえ」である。一本の糸をたぐっていけば、行き着くところは同じ根である。
では、一体、このメカニズムとは何か、この解明が本書の主要なテーマであるが、要約して結論をいえば次のようになる。すなわち、高度経済成長にもとづく「最も空想的な人間の夢想すら上回る」社会変動にもかかわらず、日本人の行動様式は、構造的には戦前におけるそれとは変わっていない。つまり、structurally isomorohic である、ということだ。そのためにこれらの間の矛盾から生じる構造的アノミー(アノミーは「無規範」もしくは「無規制」と訳される。詳しくは後出第五章参照)によってこのような致命的なメカニズムが生じると考えられる。
さらにここで十分に認識しておくべきことは、社会的現実を科学的に分析し、この分析にもとづいてこれを合目的的に制御するという社会科学的な態度と能力とが日本人には決定的に欠如していることである。この「精神」の欠如は、現在にだけ特有のものではない。戦前も戦後も、あるいはいかなる社会変動を経験しても全く変わっていないのである。このような態度を続ける限り、いかなる危機も救い難いものであるといわざるをえない。この点を克服してこそ、政治的、経済的、社会的危機は外部のものではなく内部のものとなり、所与のものとして位置づけられる性質のものではなく、われわれの克服可能な課題となる。この課題を制御対象とみなし、社会科学的に分析し、有効な制御を施すとき、いかなる危機もその超克の下に解決されるであろう。「危機」とは、有機状態のするどい亀裂である。それは極限にまで狂暴性を発揮する恐怖の状態、少なくともそこまでにいたる予兆である。原始時代の人間が天災にうろたえたように、われわれがいま、この「危機」の野放し状態を許すとしたら、われわれ日本人は滅亡するしかあるまい。だが、われわれは、実はこの恐ろしさに少しも気づいていない。あの第二次世界大戦においてわれわれを襲ったそれと同じタイプの大破局が再び襲ってくる可能性がないと、だれが断言できるだろう。世の中が一見太平安泰、物資的多さのムードに満ちているとき、このことに気づくのは容易ではない。精神の弛緩は、満たされたままの現状を所与のごとき感で蔽い続ける。
2026年4月13日月曜日
20260413 中央公論社刊 角山栄著「茶の世界史 改版 - 緑茶の文化と紅茶の世界」 pp.54-57より抜粋
中央公論社刊 角山栄著「茶の世界史 改版 - 緑茶の文化と紅茶の世界」
pp.54-57より抜粋
ISBN-10 : 4121805968
ISBN-13 : 978-4121805966
いったいどうして茶がヨーロッパのなかでも、とくにイギリス人の間でひどく愛好され、国民的飲料として急速に普及するようになるのであろうか。日本人なら誰でも不思議に思って一度は話題にするテーマであろう。しかしこの問題はそう簡単に答えの出る問題ではない。社会的・経済的・文化的要因が複雑に絡んでいて、短絡的なアプローチではとても解答が見出せそうにない。たとえば茶がポピュラーな飲料になる以前のイギリスでは、人びとはいったい何を飲んでいたのか。それにしてもイギリスに茶が受け入れられた文化的基盤はいったい何であったのか。またほんとうに茶は何の抵抗もなくスムーズに受け入れられたのかどうか。また何らかの文化的摩擦があったとすれば、そうした摩擦や抵抗を排除して、国民的飲料として定着せしめたものは何であるのか。茶には、非アルコール的競合飲料としてコーヒー、チョコレートであったが、どうして茶がイギリスでは他を抑えて優位を占めるにいたるのであろうかなど、少なくともこうした問題を考慮にいれておく必要があるだろう。
ではまず、茶が入ってくるまえに、イギリス人は日常の飲み物として何を飲んでいたのであろうか。常民生活の記録が乏しいのでよくわからないが、主として水および自家製のエールを飲んでいたのではないかと思われる。イギリスの水は軟水で、大陸の水とちがって飲料に適していた。試みに、いまでも大陸の水でティを飲んでもティの味も香りもない。やはりティはイギリスで飲むのがいちばんおいしい。またエールというのは麦芽とイーストと水だけで醸造したもので、ビールの一種といってよいが、ビールとちがうのはホップを使っていないことである。イギリスへビールが入ってきたのは十五世紀のことで、フランダースから導入された。しかし十七世紀末までは、上流階級でも日常の飲み物といえばビールよりかエールであった。農民のあいだでは自家製のエールが飲まれていたが、農村共同体の祭りや結婚式のときに出るのもエールと決まっていた。ワインはまったくなかったわけではないが、フランスなどからの輸入ものが主であったし、またリンゴからつくるサイダーもあったが、いずれもイギリスでは上流階級や特別の行事のときの飲料で、庶民の日常の飲料ではなかった。もっとも十八世紀になると、ジンや安ものの輸入ワインが庶民のあいだで広く飲まれるようになるが、ともかくイギリスはフランスや他のヨーロッパ諸国と比べると、水は別として、もっとも飲み物の貧弱な国であったといってよい。だからフランス、イタリア、スペインといった地中海のワイン文化圏では、茶はほとんど割り込む余地がなかったのに、伝統的飲料がもっとも貧弱であったイギリスに茶が入りやすかったということができる。
なお、イギリスに茶が受け入れられた背景として、水が適していたことのほかに、土着の「代用茶」があったことは注意してよい。古くから知られる煎汁plant infusionがそれで、現在でも農村で用いられている。現在これをティとよんでいるが、これは本来のティではない。十六世紀にイギリスから大西洋を越えてアメリカにもたらされた薬用茶もセイジ・ティ(サルビアの葉を煎じたもの)があるが、それが伝統的な煎汁の一例である。その他ハートニーの「イギリスの食べ物」(1951年)があげているイギリス古来の代用茶には、Catnip tea(いぬはっか茶。これは風に効く)、Hyssop tea(ヒソップ茶。ヒソップはッ香りのよい刺激性の植物で、むかしその枝を清めの儀式に用いた。花も葉もティに使用され、熱湯を注いで二十分程浸し、蜂蜜を入れて飲むと、咳によく効くといわれる)、Raspberryleaf tea (木いちごの葉の茶。これを煎じてミルクと砂糖で飲む。またレモンと砂糖で飲んでもよい。妊娠の末期にとくに良いといわれる)、Black-currant tea(黒すぐりの茶。蜂蜜で飲めばのどや咳によい)などがあった。もちろんここに記した飲み方は現在のそれであって、茶が入ってくる前には砂糖の代りに蜂蜜が用いられたであろうし、飲み方がちがっていたであろう。こうした代用茶の基盤の上に、中国茶が入ってきたのであった。
代用茶がどの程度広く普及していたかどうかは疑問があるにしても、東洋的な茶の出し方を知らず、ただ煎じたらよいと思っていたものも多かった。
たとえば茶がアメリカ植民地に導入された十七世紀末から十八世紀はじめにおいてニューイングランドでは茶の葉を長い時間かけて苦い煎汁になるまで煮つめ、その煎汁をミルクも砂糖も入れないで飲んでいたのである。このような茶の飲み方はイギリスからもちこまれたもので、イギリス人のあいだでは茶も煎じて飲むくすりであると考えられていた。しかし奇妙なことには、その煎汁の出がらしの葉に塩をまぶし、バターをつけて食べていたことである。もっと傑作なのは、ニューイングランドの数都市では、煎汁を捨てて、出がらしの葉だけを食べていた。
ISBN-10 : 4121805968
ISBN-13 : 978-4121805966
いったいどうして茶がヨーロッパのなかでも、とくにイギリス人の間でひどく愛好され、国民的飲料として急速に普及するようになるのであろうか。日本人なら誰でも不思議に思って一度は話題にするテーマであろう。しかしこの問題はそう簡単に答えの出る問題ではない。社会的・経済的・文化的要因が複雑に絡んでいて、短絡的なアプローチではとても解答が見出せそうにない。たとえば茶がポピュラーな飲料になる以前のイギリスでは、人びとはいったい何を飲んでいたのか。それにしてもイギリスに茶が受け入れられた文化的基盤はいったい何であったのか。またほんとうに茶は何の抵抗もなくスムーズに受け入れられたのかどうか。また何らかの文化的摩擦があったとすれば、そうした摩擦や抵抗を排除して、国民的飲料として定着せしめたものは何であるのか。茶には、非アルコール的競合飲料としてコーヒー、チョコレートであったが、どうして茶がイギリスでは他を抑えて優位を占めるにいたるのであろうかなど、少なくともこうした問題を考慮にいれておく必要があるだろう。
ではまず、茶が入ってくるまえに、イギリス人は日常の飲み物として何を飲んでいたのであろうか。常民生活の記録が乏しいのでよくわからないが、主として水および自家製のエールを飲んでいたのではないかと思われる。イギリスの水は軟水で、大陸の水とちがって飲料に適していた。試みに、いまでも大陸の水でティを飲んでもティの味も香りもない。やはりティはイギリスで飲むのがいちばんおいしい。またエールというのは麦芽とイーストと水だけで醸造したもので、ビールの一種といってよいが、ビールとちがうのはホップを使っていないことである。イギリスへビールが入ってきたのは十五世紀のことで、フランダースから導入された。しかし十七世紀末までは、上流階級でも日常の飲み物といえばビールよりかエールであった。農民のあいだでは自家製のエールが飲まれていたが、農村共同体の祭りや結婚式のときに出るのもエールと決まっていた。ワインはまったくなかったわけではないが、フランスなどからの輸入ものが主であったし、またリンゴからつくるサイダーもあったが、いずれもイギリスでは上流階級や特別の行事のときの飲料で、庶民の日常の飲料ではなかった。もっとも十八世紀になると、ジンや安ものの輸入ワインが庶民のあいだで広く飲まれるようになるが、ともかくイギリスはフランスや他のヨーロッパ諸国と比べると、水は別として、もっとも飲み物の貧弱な国であったといってよい。だからフランス、イタリア、スペインといった地中海のワイン文化圏では、茶はほとんど割り込む余地がなかったのに、伝統的飲料がもっとも貧弱であったイギリスに茶が入りやすかったということができる。
なお、イギリスに茶が受け入れられた背景として、水が適していたことのほかに、土着の「代用茶」があったことは注意してよい。古くから知られる煎汁plant infusionがそれで、現在でも農村で用いられている。現在これをティとよんでいるが、これは本来のティではない。十六世紀にイギリスから大西洋を越えてアメリカにもたらされた薬用茶もセイジ・ティ(サルビアの葉を煎じたもの)があるが、それが伝統的な煎汁の一例である。その他ハートニーの「イギリスの食べ物」(1951年)があげているイギリス古来の代用茶には、Catnip tea(いぬはっか茶。これは風に効く)、Hyssop tea(ヒソップ茶。ヒソップはッ香りのよい刺激性の植物で、むかしその枝を清めの儀式に用いた。花も葉もティに使用され、熱湯を注いで二十分程浸し、蜂蜜を入れて飲むと、咳によく効くといわれる)、Raspberryleaf tea (木いちごの葉の茶。これを煎じてミルクと砂糖で飲む。またレモンと砂糖で飲んでもよい。妊娠の末期にとくに良いといわれる)、Black-currant tea(黒すぐりの茶。蜂蜜で飲めばのどや咳によい)などがあった。もちろんここに記した飲み方は現在のそれであって、茶が入ってくる前には砂糖の代りに蜂蜜が用いられたであろうし、飲み方がちがっていたであろう。こうした代用茶の基盤の上に、中国茶が入ってきたのであった。
代用茶がどの程度広く普及していたかどうかは疑問があるにしても、東洋的な茶の出し方を知らず、ただ煎じたらよいと思っていたものも多かった。
たとえば茶がアメリカ植民地に導入された十七世紀末から十八世紀はじめにおいてニューイングランドでは茶の葉を長い時間かけて苦い煎汁になるまで煮つめ、その煎汁をミルクも砂糖も入れないで飲んでいたのである。このような茶の飲み方はイギリスからもちこまれたもので、イギリス人のあいだでは茶も煎じて飲むくすりであると考えられていた。しかし奇妙なことには、その煎汁の出がらしの葉に塩をまぶし、バターをつけて食べていたことである。もっと傑作なのは、ニューイングランドの数都市では、煎汁を捨てて、出がらしの葉だけを食べていた。
20260412 中央公論新社刊 鈴木康久・河野忠 著「名水と日本人-起源から百名水まで、文化と科学でひもとく」 pp.212-215より抜粋
中央公論新社刊 鈴木康久・河野忠 著「名水と日本人-起源から百名水まで、文化と科学でひもとく」
pp.212-215より抜粋
ISBN-10 : 4121028759
ISBN-13 : 978-4121028754
一般的に磨崖仏とは石仏の一種であり、自然の懸崖に露出した岩や岩壁に仏像を彫刻したものをいうが、仏像に限らず、梵字などが刻まれた「種子磨崖」、南無阿弥陀仏の六字名号が刻まれた「名号磨崖」、五輪塔などが刻まれた磨崖や石窟内の壁に刻まれた石窟仏などを含めた総称として用いられている。
磨崖仏は、東北地方の福島県や近畿地方の滋賀県・奈良県・京都府、九州地方、特に大分県に偏在する。大分県は「磨崖仏の宝庫」といわれる磨崖仏密集地域であり、現在もその所在が知られるものだけでも八三ヵ所、総数約四〇〇体にのぼる尊像が確認され、一説に全国総数の八割を占めているといわれている。
筆者が調査した大分県における磨崖仏分布を図8-27に示す、未調査の磨崖仏がまだ相当数あるものの、そのほとんどに湧水が存在する。湧水の存在する割合は、調査済みのものだけを対象とすると、九四%にも達する。
磨崖仏と阿蘇溶結凝灰岩
磨崖仏が彫られている溶結凝灰岩は、水によって風化されやすい特徴を持っているので、文化財保護の観点から見ると湧水の存在は好ましくないという。にもかかわらず大分県の大野川流域湧水近くに多数の磨崖仏が見られるのはなぜだろう。
磨崖仏は自然の岩石を素材としているため、その造形は石材からくる材質的制約を受ける。特に岩質の硬さやきめの細かさによって、彫られる仏像も異なってくる。大分県中南部に所在する磨崖仏の多くは、阿蘇火山灰の堆積層である溶結凝灰岩の緻密で軟らかい岩肌に刻まれており、もろく割れやすいという欠点がある。溶結凝灰岩はカルデラ式火山に特有の地質に見られ、九州では阿蘇火山や桜島火山が有名である。
大分県、特に大野川流域には九万年前に噴火した阿蘇山の噴出物である溶結凝灰岩が堆積している。一般的に溶結凝灰岩は岩石内の空隙が大きく、水が浸潤しやすいために、非常によい帯水層(水が貯えられる地層のこと)となって豊富な地下水を供給する。したがって、溶結凝灰岩のある地域には地下水や湧水が豊富に存在するのは自明のことであり、事実、大分県の竹田湧水群はよく知られた湧水地帯である。また、凝灰岩は岩石の中では非常に柔らかい岩石に分類され、かつては建築石や石橋・石仏などに盛んに用いられた。磨崖仏を造立するにはとても都合のよい岩石であったのである。
また、大分県の磨崖仏は、仁聞、日羅、蓮城法師の三人が彫像したと伝えられているが、実際には無名の石工たちが長い年月をかけて彫ったのであろう。その過程で、石工たちは作業の合間に水分を補給しなければならなかった。ただでさえ、岩石を穿つ重労働である。作業の合間にとる水のことを硯水というが、この水が近くにあることが磨崖仏造立の第一条件だった。
また、磨崖仏は仏様であるから、毎日水をお供えしなければならない。この水のことを閼伽水という。第七章で述べたように、閼伽水は見た目の透明度が高く硫酸イオンが多量に含まれている。おそらく先人たちは閼伽水に適した水質を持っている湧水を経験的に知り、彫りやすいその場所に磨崖仏を造立したと考えられる。
ISBN-10 : 4121028759
ISBN-13 : 978-4121028754
一般的に磨崖仏とは石仏の一種であり、自然の懸崖に露出した岩や岩壁に仏像を彫刻したものをいうが、仏像に限らず、梵字などが刻まれた「種子磨崖」、南無阿弥陀仏の六字名号が刻まれた「名号磨崖」、五輪塔などが刻まれた磨崖や石窟内の壁に刻まれた石窟仏などを含めた総称として用いられている。
磨崖仏は、東北地方の福島県や近畿地方の滋賀県・奈良県・京都府、九州地方、特に大分県に偏在する。大分県は「磨崖仏の宝庫」といわれる磨崖仏密集地域であり、現在もその所在が知られるものだけでも八三ヵ所、総数約四〇〇体にのぼる尊像が確認され、一説に全国総数の八割を占めているといわれている。
筆者が調査した大分県における磨崖仏分布を図8-27に示す、未調査の磨崖仏がまだ相当数あるものの、そのほとんどに湧水が存在する。湧水の存在する割合は、調査済みのものだけを対象とすると、九四%にも達する。
磨崖仏と阿蘇溶結凝灰岩
磨崖仏が彫られている溶結凝灰岩は、水によって風化されやすい特徴を持っているので、文化財保護の観点から見ると湧水の存在は好ましくないという。にもかかわらず大分県の大野川流域湧水近くに多数の磨崖仏が見られるのはなぜだろう。
磨崖仏は自然の岩石を素材としているため、その造形は石材からくる材質的制約を受ける。特に岩質の硬さやきめの細かさによって、彫られる仏像も異なってくる。大分県中南部に所在する磨崖仏の多くは、阿蘇火山灰の堆積層である溶結凝灰岩の緻密で軟らかい岩肌に刻まれており、もろく割れやすいという欠点がある。溶結凝灰岩はカルデラ式火山に特有の地質に見られ、九州では阿蘇火山や桜島火山が有名である。
大分県、特に大野川流域には九万年前に噴火した阿蘇山の噴出物である溶結凝灰岩が堆積している。一般的に溶結凝灰岩は岩石内の空隙が大きく、水が浸潤しやすいために、非常によい帯水層(水が貯えられる地層のこと)となって豊富な地下水を供給する。したがって、溶結凝灰岩のある地域には地下水や湧水が豊富に存在するのは自明のことであり、事実、大分県の竹田湧水群はよく知られた湧水地帯である。また、凝灰岩は岩石の中では非常に柔らかい岩石に分類され、かつては建築石や石橋・石仏などに盛んに用いられた。磨崖仏を造立するにはとても都合のよい岩石であったのである。
また、大分県の磨崖仏は、仁聞、日羅、蓮城法師の三人が彫像したと伝えられているが、実際には無名の石工たちが長い年月をかけて彫ったのであろう。その過程で、石工たちは作業の合間に水分を補給しなければならなかった。ただでさえ、岩石を穿つ重労働である。作業の合間にとる水のことを硯水というが、この水が近くにあることが磨崖仏造立の第一条件だった。
また、磨崖仏は仏様であるから、毎日水をお供えしなければならない。この水のことを閼伽水という。第七章で述べたように、閼伽水は見た目の透明度が高く硫酸イオンが多量に含まれている。おそらく先人たちは閼伽水に適した水質を持っている湧水を経験的に知り、彫りやすいその場所に磨崖仏を造立したと考えられる。
2026年4月12日日曜日
20260411 2440記事に到達して思ったこと:文章作成と記憶の励起
直近の引用記事の投稿により、総投稿記事数が2440に到達しました。この数字からは、達成感よりも、これまでの継続期間をあらためて感じさせられます。また、これにより当記事を含め、残り60記事の更新により、現在目標としている2500記事に到達することが出来ます。60記事の更新は、毎日1記事の投稿であれば約2カ月間を要します。そして、2日に1記事の投稿であれば、約4カ月もの期間を要し、現在から起算しますと、夏真っ盛りの頃での到達となることが見込まれます。その頃、未だにブログ記事作成をしているのかと考えますと、正直なところ、少々滅入ってくるような感覚もありますが、元来、私にとってブログ記事の作成は、滅入るような性質のものではありませんでした。それにもかかわらず、ここに来て、そうした感覚があるということには、やはり10年以上にわたり、2400記事以上作成してきたことによる疲労のようなものが出てきているのだと思われます。そして、そうであるのならば、どこかで一度、当ブログのことを忘れるほどに休止することも、一つの選択肢であると考えられます。もっとも、そのためにも、現在掲げている2500記事という目標に、まずは速やかに到達しておくことが望ましいようにも思われます。そこから、本日も、先ほどより文章の作成を始めた次第ですが、先述の2440記事到達ということもあってか、ここまでは比較的速やかに書き進めることが出来ました。そういえば、今月に入ってからの投稿2記事「20260402 先日の久しぶりの紀伊田辺訪問から思ったこと」と「20260405 書籍の選択と文章作成とのバランスと、そこから生じるものについて」の投稿数日前に、2017年より毎年、些少ながらも支援させて頂いている医療系シンクタンクさまより、お礼と共に新年度分の支援額の領収書PDFファイルが添付されたメールを頂き、これに対する返信として、了解と領収書へのお礼を述べる文面に続き、前述の投稿2記事にて述べたように、書籍を複数分野のアカデミアの先生方にお送りし、その反応について簡潔にお伝えして結びました。これに対する返信はすぐにはありませんでしたが、その後、「20260405 書籍の選択と文章作成とのバランスと、そこから生じるものについて」の投稿翌日にお返事があり、書籍送付および反応についての情報を組織にて共有されたとのことでした。そこから「こちらのシンクタンクさまに当ブログを読まれている方がいらっしゃるのではないか?」と考え、勝手ながら少し緊張してしまいました(苦笑)。しかしながら、考えてみますと、これは特に驚くべきことでもなく、現時点での当ブログの閲覧者総数は115万人を超えていることから、そのようなことがあっても決して不思議ではないとも思われるのです。そうしますと、やはり今しばらくは、コンスタントなブログ更新を継続し、わずかではあれ、興味深く、我が国の社会に何かしら貢献し得る情報を発信していくことが良いのではないかとも思われるのです…。また、そのように考えますと、面白いことに、未だ文章化・発信出来ていない事が、まだまだ多くあるように思われてきます。あるいは、こうしてキーボードで文章を作成するという行為そのものが、過去の記憶を励起させ、それが最近での出来事や読書の記憶と化合することで、新たな文章の作成を可能にしているのかもしれません。換言しますと、文章作成という行為は、単に記録ではなく、記憶と経験を再編成する結節点として機能しているのだとも考えられます。今回、当初は2440記事到達の勢いで始めましたが、結果として、比較的自然に文章作成の流れに入ることが出来たように思われます。そして、おそらくは、この状態に入ることが、継続において、とても重要なことなのであるとあらためて思われました。ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

ISBN978-4-263-46420-5
*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
連絡先につきましては以下の通りとなっています。
メールアドレス: clinic@tsuruki.org
電話番号:047-334-0030
どうぞよろしくお願い申し上げます。
2026年4月9日木曜日
20260408 春風社刊 谷川健一著「古代歌謡と南島歌謡: 歌の源泉を求めて」 pp.205-207より抜粋
春風社刊 谷川健一著「古代歌謡と南島歌謡: 歌の源泉を求めて」
pp.205-207より抜粋
ISBN-10 : 4861100585
ISBN-13 : 978-4861100581
ところで、住吉の弟日娘と同一の名をもつ女性が「肥前国風土記」逸文に見える。その名を、乙等比売(おとひめ)と言うとあり、異本には弟日姫子(おとひめこ)とある。大伴狭手彦と相愛の関係になったが、狭手彦が新羅を征討に出陣するとき、山にのぼって領巾(細長い薄布)を振り、その船を見送ったという。この話は有名で、「万葉集」の巻五にはこの悲哀をうたった一連の歌がある。領巾を振った山は唐津市の鏡山だという。そして見送った女は松浦佐用姫(まつらさよひめ)となっている。
さきに見たように、大宰府の付近には児島と呼ばれる遊行女婦のいたことは明らかであるから、大陸との交流のふかい唐津付近に遊び女がいたとしてもおかしくない。住吉の弟日娘が遊行女婦であったように、大伴狭手彦と別れを惜しんだ弟日姫子もそうしたたぐいの女であったかもしれない。室町後期の「閑吟集」に、
つれなき人を 松浦の奥に 唐土船の 浮寝よなう(一三八)
とある。唐土船というのは唐船ともいい、中世に中国との貿易にあたった日本船を指す。「自分につれない人を待ちかねて、唐津湾の沖に停泊する唐船ではないけれど、浮寝をする」という意。浮寝というからには、船中で独り女が寝ているであろう。『梁塵秘抄』巻二にも、「遊女の好むもの」として、雑芸や鼓などがあげられているほかに、「小端舟」となる。遊女たちは小舟をあやつって旅客を迎えた。遊女の中の年老いた者は大傘をさしかけて、舟の棹を取ったのである。
そうしてみると、さきの「閑吟集」の歌も、船中で客を迎える松浦地方の遊女を指しているにちがいない。弟日娘と同一と思われる松浦佐用姫も「松浦地方のサヨという女」ということで松浦佐用姫と呼ばれたように思われるが、松浦というのを肥前の地名と固定してよいのかということになると、必ずしも断定できない。松浦佐用姫の伝説は日本各地に伝わり、奥羽地方にも分布しているからである。
柳田国男によると、「佐用姫のサヨは塞の神を意味し、松浦のマツは神あるいは貴人に対する奉仕を意味する言葉である。したがって松浦佐用姫は固有名詞ではなく、本来は遠く遊行して諸国の神の祭に参与した一群の女性を指す言葉であった」と言う。柳田はさらに、「村の祭に化粧して現わ来たり、神の故事を演ずる者は、昔も今も一階級しかない」(「民俗学辞典」)と付け加えている。
柳田はまた、小松という名は小野小町の小町と根源を同じくすると述べ、「陸前栗原の小松の虚空蔵堂などで、小野小町が佐用媛の任務に代わって居るのも、自分にとっては些かも偶然では無い」(「人柱と松浦佐用媛」)と言っている。
こうしてみるときに、松浦佐用姫の松は特別の意味をもつことになる。神をマツルとか貴人にマツラフという語と同種類の語が、マツである。神をマツリ、神にマツラフ女性が神聖な祝宴にはべるのはとうぜんとしても、それがやがて男たちの酒盛りをとりもつ巫娼の役割を果し、あげくのはてには枕席も共にすることになれば、マツという語も男が女をマツ、女がはやくから男をマツという風に転用されてくる。
住吉の浜の松がはやくから有名であったことは、すでに万葉の歌から明らかであるが、その松に殊更なる寓意を託された遊行女婦の群を私は想像してみるのである。
pp.205-207より抜粋
ISBN-10 : 4861100585
ISBN-13 : 978-4861100581
ところで、住吉の弟日娘と同一の名をもつ女性が「肥前国風土記」逸文に見える。その名を、乙等比売(おとひめ)と言うとあり、異本には弟日姫子(おとひめこ)とある。大伴狭手彦と相愛の関係になったが、狭手彦が新羅を征討に出陣するとき、山にのぼって領巾(細長い薄布)を振り、その船を見送ったという。この話は有名で、「万葉集」の巻五にはこの悲哀をうたった一連の歌がある。領巾を振った山は唐津市の鏡山だという。そして見送った女は松浦佐用姫(まつらさよひめ)となっている。
さきに見たように、大宰府の付近には児島と呼ばれる遊行女婦のいたことは明らかであるから、大陸との交流のふかい唐津付近に遊び女がいたとしてもおかしくない。住吉の弟日娘が遊行女婦であったように、大伴狭手彦と別れを惜しんだ弟日姫子もそうしたたぐいの女であったかもしれない。室町後期の「閑吟集」に、
つれなき人を 松浦の奥に 唐土船の 浮寝よなう(一三八)
とある。唐土船というのは唐船ともいい、中世に中国との貿易にあたった日本船を指す。「自分につれない人を待ちかねて、唐津湾の沖に停泊する唐船ではないけれど、浮寝をする」という意。浮寝というからには、船中で独り女が寝ているであろう。『梁塵秘抄』巻二にも、「遊女の好むもの」として、雑芸や鼓などがあげられているほかに、「小端舟」となる。遊女たちは小舟をあやつって旅客を迎えた。遊女の中の年老いた者は大傘をさしかけて、舟の棹を取ったのである。
そうしてみると、さきの「閑吟集」の歌も、船中で客を迎える松浦地方の遊女を指しているにちがいない。弟日娘と同一と思われる松浦佐用姫も「松浦地方のサヨという女」ということで松浦佐用姫と呼ばれたように思われるが、松浦というのを肥前の地名と固定してよいのかということになると、必ずしも断定できない。松浦佐用姫の伝説は日本各地に伝わり、奥羽地方にも分布しているからである。
柳田国男によると、「佐用姫のサヨは塞の神を意味し、松浦のマツは神あるいは貴人に対する奉仕を意味する言葉である。したがって松浦佐用姫は固有名詞ではなく、本来は遠く遊行して諸国の神の祭に参与した一群の女性を指す言葉であった」と言う。柳田はさらに、「村の祭に化粧して現わ来たり、神の故事を演ずる者は、昔も今も一階級しかない」(「民俗学辞典」)と付け加えている。
柳田はまた、小松という名は小野小町の小町と根源を同じくすると述べ、「陸前栗原の小松の虚空蔵堂などで、小野小町が佐用媛の任務に代わって居るのも、自分にとっては些かも偶然では無い」(「人柱と松浦佐用媛」)と言っている。
こうしてみるときに、松浦佐用姫の松は特別の意味をもつことになる。神をマツルとか貴人にマツラフという語と同種類の語が、マツである。神をマツリ、神にマツラフ女性が神聖な祝宴にはべるのはとうぜんとしても、それがやがて男たちの酒盛りをとりもつ巫娼の役割を果し、あげくのはてには枕席も共にすることになれば、マツという語も男が女をマツ、女がはやくから男をマツという風に転用されてくる。
住吉の浜の松がはやくから有名であったことは、すでに万葉の歌から明らかであるが、その松に殊更なる寓意を託された遊行女婦の群を私は想像してみるのである。
2026年4月6日月曜日
20260405 書籍の選択と文章作成とのバランスと、そこから生じるものについて
相変わらず現在も数冊の書籍を読み続けていますが、そのうちの一冊である人類学を題する著作は、難解と思われるところが少なからずありますが、興味の方が強いことから、比較的好調に読み進み、半分以上にまで至りました。年齢を重ねますと、読むことが出来る書籍が以前よりも少なくなっているように感じられ、あるいは、読書以前の興味や好奇心と云ったモチベーションが、以前よりも減衰したように感じられます。それでも、ある程度興味を持ちつつ読み進めることが出来る書籍があることには安心させられます。そして、そうした興味・好奇心は、書店での立ち読みと云う、身体性を伴う行為により、更新・昂進される性質があると考えます。このことは、2020年から1~2年間続いたコロナ禍の際に痛感しました。しかし、その一方で、同年1月から開始したエックス(旧ツイッター)で得られる新刊をはじめとする書籍の情報もまた、興味深く有益であり、私の場合、2020年以降の状況(コロナ禍・エックスの開始)により、書籍選択の様相が変化したと云い得ます。また、エックスでのポストをしばらくの期間、読み続けていますと「こちらの方は、この本を読まれると面白いのでは…?」と考えることが度々生じるようになり、また同様に、対面での会話においても、そのように考えることが増えるようになりました。そうしたことから、一月ほど前、ある歯学分野の先生に「おそらく、先生はこちらの本を興味深くお読み頂けると思います。」と申し添えて、ある著作をお渡ししたところ、つい先日「おお、あの本良かったぞ、良いことが書いてあった。」とのご感想を頂きました。こちらの先生は、人を褒めることは多くないことから「あるいは、私の読みが当たったのでは…?」と思われました。また、直近投稿の「先日の久しぶりの紀伊田辺訪問から思ったこと」内で述べました「(和歌山での勉強会を)主催されている先生が、今春より、同じ和歌山市内に立地する四年制大学看護学部の教養科目を担当(兼任)されるとのご報告を頂き」の先生より「何か事前の参考になりそうな書籍があれば教えて欲しい」とのご要望を受け、手持ちで参考になりそうな書籍を数冊まとめて、つい先日、レターパックにて投函したことも思い出され、そこから、いくつかの異なる分野のアカデミアの方々から、書籍選択についての評価を頂けたことは、我がことながら印象深かったです…。また、そこから、鹿児島での歯科理工学の師匠が退職された後、戻られた師匠のご自宅に度々、書籍などをお送りしていたことが思い出されました。当時の私は現在よりも、かなり多く書籍を読んでいました。しかし一方で、こうした文章を作成することは出来なかったとも思われます。あるいは、既にそうした資質はあったのかもしれませんが、実際にそうした内容を文章として表して(著して)公表するという、継続を要する身体性の獲得が為されていなかったため、やはり、作成することは出来なかったと云えます。その意味で、その十数年後に、書籍の選択について、複数分野の先生方から評価されたことは、その十数年のうちの多くの期間、当ブログを継続してきたことが、何かしら効いているのではないかとも思われるのです…。そしてまた、多少不遜ながらも、こうしたことは、金銭的価値は乏しいのかもしれませんが、他方で、そこまで簡単なことでもなく、また、誰にでも出来るわけではないようにも思われるのですが、実際のところはどうなのでしょうか?ともあれ、今回もここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。

ISBN978-4-263-46420-5
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