2025年5月1日木曜日

20250430 株式会社新潮社刊 竹山道雄著「古都遍歴ー奈良ー」pp.36-39より抜粋

株式会社新潮社刊 竹山道雄著「古都遍歴ー奈良ー」
pp.36-39より抜粋
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  私は奈良にきて、さまざまの古い仏たちを見ながら、そのあまりの多様さに眩惑され混乱して、はっきりとまとめて考えることがなかなかできないでいたが、そのうちにようやく一条の理解の筋道をたてることができた、と思った。これについては後にあららめて考えたいが、おおよそ次のようなことを疑うことができない。
ー日本の彫刻は宗教彫刻であって、その志向するところは精神的な感動をあたえるにあった。肉体はただ精神の宿る場として、このかぎりにおりてのみとりあげられた。肉体を肉体として表現しようという意欲はなかった。呪縛し魅惑する精神がもっとも宿る肉体の部分は、顔と手である。故に、ここが仏教彫刻の焦点である。ただこれをよりよく表現するためにのみ、顔と手には(そしておそらく胸あたりまでは)実在的にも充実した探求がされている。しかし、他の部分はほとんど顔を手を支える台のようなものであり、肉体としての注意の中に入ってこない。こういう部分の迫真的表現は、できなかったのではない。しようとしなかったのである。技能はあっても、その興味がなかったのである。そして、右の精神的感動の表現のためにもっとも用いられた表情は、荘厳な調和ある相貌のほかに、憤怒と微笑だった。また印を結んだ手の形だった。この神秘主義はさまざまのヴァリエーションをなしているが、この原理は他の原理が入ってきた後代にも、ずっと主流となっている。後代の肉感的であるといわれる彫刻ですら、その意図するところは肉感を通じての神秘感にあった。白鳳のあの完全な肉体への志向は、一つの挿話にすぎなかった。日本人は肉体を肉体としてヨーロッパ風に意識したことは、ほとんどなかった。仏像は人体としてではなく、精神的影響をあたえるものとしてつくられ、肉体を独立した存在として四方八方から立体的に眺めるという気持はなかった。いまのわれわれにとって自明な彫刻感は、おそらく大正時代に入ってはじめて確立したものであろう。だから、われわれが古い彫刻を見るときには、レンズを代え、ピントを別に合わせなくてはならぬー。
 この私の臆説は、念裏にすこしづつ醞醸していたのだったが、この釈迦三尊を見たときに決定的なものとなった。
 光背を頂点とする大きな三角形の中の、線の音楽の中から、三尊の顔と手が浮き出している。顔と手以外の部分には、実在を再現しようという意図はまったく見られない。体躯は非情な強靭な線の交錯する塊にすぎない。本尊は小さい台の上に坐っているので、蓮茎の上の脇侍と共に宙に浮いているようであり、そのひろく張りだして垂れた裳は着物というよりもむしろ雲のようである。
 胸にたれ下ったふしぎに象徴的な襟も、肩にかかっている蕨手形の髪も、光背の渦巻も、すべて線による主観の表現であり、現実を遮断している。そして、抽象的な紋様をくりかえすことによって、直観に限定された方向をあたえ、感情にきびしい統制を加て、意識のうつろいやすい感性の領域からひき離して、絶対世界へと強制している。
 本尊の体躯は萎縮して、顔はゴツゴツとして頬骨がつき出て、鼻は平らに、唇はひろく、ほとんどネグロ的な相好である。何となく未開人の呪術師を思わせ、こちらを凝視しながら嘲笑しているようでもある。円満とか慈愛とかいうことからはとおく、むしろ怪奇で醜悪である。
 醜とか悪とかグロテスクとかいうことは、つよい力をもっている。むしろ醜の中にこそ、人の心を貫き圧倒するものがある。額から光を放って人をおそれさせはばからせたカインは、強烈な呪縛力をもっていたのであろう。この像も人の心にしみ入るような凝視と蠱惑をもっている。そして、この手!この手はじつに傑作だと思った。両手共に掌を前にむけて、片方は挙げ片方は垂れ、いかにも人を吸引しながらしかも同時に拒否しているようである。中門の遠望にもこれに似た謎のような感じを味わったけれども。
 この仏像の前に、飛鳥の人はおそれおののいたことであったろう。一光三体の六つの視線に射すくめられて、ひれ伏したことであったろう。かねてから山の霊や木の霊や生や死のもつ呪力はしっていたが、精神が自立して主体となって、このような超人の俤をとってかれらの前に出現したのは、これがはじめてであったろう。
 私にはこの仏像の印象はじつに強烈で、金堂の四天王と共に、暗い神秘主義の絶頂だと思われた。
 ところが写真ではー。この三尊は光線を十分にあてた大きな写真で見ると、いずれも若々しく柔和な微笑をたたえている。古拙で純潔で愛らしい。左右の脇侍は、宝物殿の六観音によく似たあどけない子供の顔をしている。私がじかに見たのとはまったく正反対の表情である。その呪縛は畏怖ではなく、情愛である。見ていて心をとろかすようである。
 どちらがほんとうなのだろう?
 やはり両方がほんとうなのだろう。
 この仏像は二重の表情をもっているにちがいない。