2016年2月16日火曜日

20160216 ブログ閲覧者数について

A「先日のブログにて閲覧者数が増加したと書かれていましたが、その後はどうなりましたか?」

B「ええ、今現在のところ凡そ300~500程度で安定しております。それでも日によって随分偏差はありますが・・。」

A「はあ、そうですか・・そうすると、以前に比べ2倍程度の閲覧者数でどうにか安定しているということですね。
それで今後の目標などは何かあるのですか?」

B「・・とりあえず現在の目標は、自身の作成記事であれ、書籍からの抜粋であれ、記事を書き続けるといったところでしょうか?
閲覧者数といった具体的な数値を目標として定めてしまいますと、どうも私の場合、あまり上手くいかないのではないかと思います・・。
といいますのは、元来私のブログとは、多くの閲覧者を集めることを企図したものではありませんし、この後に及んでそうした方向に転進()するのは、良いことではないと思うのです。
しかし一方において、閲覧して頂いているということは、どこかで念頭に置いてはありますが・・。
それ故、こうした記事を作成するということには、ある種のバランス感覚のようなものが多少なりとも求められるのかもしれません。
それが私にあるかどうかは別としても・・()。」

A「ううむ、まあブログなどの場合、読んでいる方々が不特定多数ですからね。
そうした中で、思想的にあまり偏らず、同時に問題となりそうな言説を避け、それでありながら何かしら主張し続けるというのは、少なくとも、そこまで簡単ではないのかもしれません・・。
とはいえ、Bさんのブログ記事を読んでいますと時折Bさんの元からの志向、思想の地金らしきものが見えたりすることもありますが・・()

B「・・私の志向の地金ですか・・たしかにそういったものはあるとは思いますが、それはAさんから見て右どちら寄りですか()?」

A「ええ、それは昔からあまり変わらず多少寄りな感じは受けます。
しかし同時にBさんの場合、その歴史、文化的な背景に対しての実感に基づいた知識あるいは敬意みたいなものを感じますので、昨今巷で流行している右寄りの言説とはまた少し違うような感じを受けます・・。
そして、それは右寄りであると同時に左寄りとも見えることがある何とも不思議なものなのですが、どうやらそれが近代以降の日本の右寄りといわれる思想の源流における特徴であるのかもしれません・・。」

B「はあ、それはどうもありがとうございます・・。
また、これまでブログを書いてきましたが、それにより何かイヤガラセらしきものを受けたこともありませんので、特に内容的に問題のあることは書いていないのではないかと思いますが・・。
あるいは単に泳がされているのかもしれませんが・・()
いや、これは自意識過剰ですね(苦笑)。」

A「まあ今現在Bさんのブログにそこまで影響力があるとは思えませんし、またブログの内容においても特に問題があるとは思えませんので、何れにせよ大丈夫だと思います()
とはいえ、戦前の社会においては、徐々に蒸返されていった感のある「天皇機関説問題」などもありますから、まあ気をつけるのに越したことはないと思います。」

B「ああ「天皇機関説」ですか・・先日読んだ新書「丸山真男の時代」にそのことが書かれていました。
それによると当時、蓑田胸喜という方が先導的な思想家であったようですが、あのくだりを読んでいますと、どうも現在の様々な報道との類似性を考えてしまいます・・(溜息)
つまり、我々日本人には、何か絶対的な価値観を神聖視し、それに基づいて異端分子と思われるものの排撃をはじめると、まさにそれに飽きるまで続けるような傾向があるのかもしれません・・。
また、そのやり方においては、ある程度の人気者にして泳がせておいてから、おもむろに釣上げ、苦しんでいるところをおためごかし的な意見を投げつけて楽しむといった、大変湿気の多いところもまたあるのではないでしょうか・・?
そして、このような行為とは、見方を変えれば教育にもなり、またいじめにもなるので、善悪の判断が判然としないまま、今なお曖昧模糊として存在しているのではないでしょうか?
また、このような性質とは、これまでに我が国と戦ったことのある国々においては、ある程度共通の認識となっているのではないかと思いますが・・。
それは映画でいえば「戦場のメリークリスマス」「太陽の帝国」などにおいて見受けることができるのではないでしょうか?」

A「・・まあ、たしかに我が国には、そういったところがないともいえません。
そしてまた、そういったところをことさらに「無いもの」としようとするところに、これら諸外国は益々疑念を強くするようなところがあるように思えます・・。
かつての歴史におけるそうした行為の証拠とは、何も歴史的な資料だけによるものだけでなく、英訳された戦時中を舞台とした小説、あるいは邦訳されていない同様の小説などにおいても記されており、そこから得た視座に基づき現在の我が国の様々な動向を見れば、もしかしたら、そこには何の矛盾は感じないのかもしれません・・。
そして問題なのは、先方諸外国がそうした視座を我々には明示しないものの持っている一方、我々日本人はそれに一向に気付かず、良いこと尽くめの宣伝にて観光立国として安易に外貨を得ようとしようとしていることではないかと思いますが・・。」

B「・・随分手厳しい御意見であるとは思いますが、仰ることの意味はわかります・・
しかし、そうしたいわば全体的な傾向を改善することは大変困難ではないかと思いますが、どうでしょうか・・?」
 
一連の私のブログ記事を興味を持ち読んでくださっている方々、どうもありがとうございます。
皆様のお陰でとりあえずここまで書き続けることが出来ております。


Shuichi-Kato [A History of Japanese Literature] The First Thousand Years Vol.1 Kodansha international pp.91-92 20160216

The second spanning the establishment of Kyoto as capital in 794 and the discontinuation of the embassies to Tang China in 894 was a period in which imported Chinese civilization was gradually digested and submitted to a native transformation.

The results of this process had decisive significance in shaping the subsequent development Japanese culture and civilization.

Of the patterns and tendencies which emerged in the ninth century in such fields as politics, economics, society, language and aesthetics, some were preserved to the end of the Heian period, others survived to beginning or end of the Tokugawa period and some, particularly in the nature of politics and written and spoken Japanese language, are still making their presence felt today.


It is true that we can trace back the origins of the basis of the world view adopted by Japanese culture in succeeding centuries to the Nara period, but within that frame work most of the concrete manifestations of what is generally termed cultural tradition can be traced back to the ninth century only and no further.

In other words, the history of Japanese culture can be broadly divided into two-the first being the period up to the end of the Nara period, and the second from the ninth century to the present day.
The ninth century itself marks a turning point.


Looked at from a purely anthropological viewpoint, the ninth century was of no particular significance in the development of the Japanese race.

If one considers it in terms of the development from the settled agricultural society of the Yayoi period (c. 200 B.C-A.D.200) to today’s industrial society, the ninth century was not a watershed which has enormous significance.

Perhaps one of the most typical examples of the importance of the ninth century as a turning point can be seen in terms of the Japanese language.

As scholars of ancient kana-zukai (the use of the kana syllabary) such as, HashimotoShinkichi(1882-1945) have shown, the sound system of the Japanese language of the Nara period (in the Yamato region) had eight distinct vowel sounds and consonants which in some respects differ from those of today.

It was during the ninth century that the vowels were cut to the present day five and the consonants changed to approximate more closely those of today.

In other words the ninth century marks a period of substantial change and a turning point.

The ninth century also represents the period in which there was a transformation of the Japanese writing system, for it was during this time that the kana system was devised and became increasingly used in preference to the phonetically based mana system of the Nara period.

This invention of course led to the use of kana-majiri (mixed kana and Chinese characters) in the writing of literature, and although an obvious point, it is worth nothing that the writing system used in today’s newspaper fundamentally differed from that of that of the Manyoshu while the difference from that of the kokinshu, compiled in 905, is much less marked.

A History of Japanese Literature


  • ISBN-10: 4770029349
  • ISBN-13: 978-4770029348

  • Shuichi-kato