2021年5月18日火曜日

20210518 株式会社平凡社刊 宮崎市定著「東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会」pp172-176より抜粋

株式会社平凡社刊 宮崎市定著「東洋における素朴主義の民族と文明主義の社会」pp172-176より抜粋

ISBN-10 : 4582805086
ISBN-13 : 978-4582805086

 欧州にて最初に科学文明の花の咲きたるは、かつてのイスラム帝国の遺址たるスペイン、ポルトガルの二国である。彼等はイベリア半島北部に残存せるキリスト教国にして、やがて南下してサラセン人をアフリカに追い、彼等の科学知識を取って自ら利用することによりて繁栄を来し、西は大西洋を越えて新大陸を発見し、東は喜望峰を廻りて旧大陸に渡来した。

 明末ポルトガル人がその船に科学を載せて、古き東洋の文明国に訪れたることは、さすがに甚深の影響を中原の文明社会に及ぼした。もしも明廷が十分に西洋科学の価値を認識してこれを中原に移植せしむるに努めたならば、恐らく社稷を滅ぼさずしてすんだことだろう。しかも余りに古き文明社会は彼等の眼を曇らせていた。彼等は僅かに紅毛砲の威力や、世界図の正確さを認識したるに過ぎなかった。むしろ西洋宣教師の異常なる努力にも拘らず科学は単に輸入せられるのみにて、移植せられずに終わった。清朝の康熙帝はさすがに科学に対して正確なる認識を有していたらしい。素朴民族出身の帝の眼に曇りはなかった。しかも帝は中原の経営だけにて手いっぱいであった。凡てが明朝滅亡後の後始末を前提として割り出されていた。帝の英邁をもってして、結局、西域の科学文明に接しこれを打擲したる蒙古人の態度に比して、満州人は何程の優越さも表し得ざる結果となりたるは惜しむべき極みである。これも亦。数千年来積り来れる中原文明社会の迷信的なる因習が作用せる当然の帰結と考うべきであろう。

 中原の文明社会に対して、幸いに東洋には一個の素朴主義社会が存在した。そは日本である。世人或いは日本の文明の古きことをもって誇とするも、単に古きのみにて何等の価値もない。幸いにして日本は古き文明を有しつつも、一方において素朴主義を捨てざりしことが世界に向って誇るに足る事実である。日本精神とは建築や文学に表れる文飾ではない。むしろ言わず語らずして行動する素朴主義精神でなければならぬ。その他のものは飾りでこそあれ、むしろ本質とは縁遠き存在に属する。

 日本人の素朴にして謙虚なる、正を正とし邪を邪とし、一点の曇なき明鏡のごとき天真は、西洋の科学文明に対して驚くべき判断の正確さを示した。吾人は便宜上、西洋の科学というが、実は科学には西洋もなく、東洋もない。ただ人類の科学あるのみた。いわゆる西洋の科学も、その源を尋ぬれば西アジアではないか。子が親に学び、後輩が先輩に学ぶことが自然なれば、後進国が先進国に学ぶのもまた自然すぎるほど自然である。これをもし嫌忌する者があれば、それこそ夜郎自大なる文明主義の弊害であり、貴族主義の悪徳である。後進国たるは些かも恥辱でなく、後進にして先進を学ばず、学んで出藍の誉を得ざるこそ大なる恥辱である。

 江戸時代の日本には一人の西洋宣教師もなく、欧州学は動もすれば国法に抵触するの虞れさえあった。この時に当って、前野良沢、杉田玄白等を中心とする蘭学社中が、医書の翻訳を企て、「譬へば眉といふものは、目の上に生じたる毛なりとあるやうなる一句、彷彿として長き春の一日には諦められず、日暮る迄考へ詰め、互ににらみ合って、僅か一二寸の文章、一行も解し得る事ならぬことにてはあり、鼻は面中にありて推しの一句を訳し得たる時の嬉しさは、何にたとへんかたもなく、連城の玉をも得し心地せり」という。言々句々辛苦の状察すべきである。かくして解体新書の成りたるは後桃園天皇の御代安永三年、清では乾隆帝の三十九年、西暦一七七四年にしてアメリカ独立戦争の前年であった。

 科学に対する日本と清との態度の相違が、その後の両国の運命を決定した。余は科学そのものとは言わない。科学に対して何等の偏見なき素朴なる態度を取り得たことが、取りも直さず、わが国の社会が素朴主義の根底に立ちたるものなるを立証し得た。そしてその素朴主義たるや、満州人、蒙古人のそれと異なって、発展性を有しおることも同時に知り得たることえを言うのである。かくしてわが国民は、科学の移植に成功し、文明生活と素朴主義とを如何にして調和せしむべきかの鍵を握るに至ったのだ。

 前野、杉田無かりしも、わが素朴主義社会は必ずやこれに代る者を出したことであろう。しかもかかる推測によって先覚者の功労は毫も光輝を減ずるものでない。もしも世人が日本精神発揚の偉人として国学者を顕彰するならば、吾人は同時にいわゆる洋学者をも忘れざらんことを切望する。

 東方における清朝衰微は、吾人をして西方におけるトルコ帝国の頽廃を想起せしむる。西暦十五、六世紀、トルコ帝国が西アジアの旧文明の廃墟に、溌剌たる新興の意気に燃え、東ローマ帝国を滅ぼしてバルカンを席捲し、ドイツ帝国を震撼せしめたる頃、その科学、その技術においてもまた優秀なるものがあった。彼等は戦勝によっても慢心せず、オランダにオルテリウスの地図書現るれば、直ちにこれを翻訳するを忘れなかったのである。その末葉に至っては、安逸を貪って徒らに自大、他に向って国境を鎖して目を塞げば、自己と共に外界もまたその進歩を停止すると考えた、極東のトルコは正に清朝であり、かつては満州八旗六万の健児が内には厖大なる中原の社会を整頓し、外には天山の北に準噶爾の強豪を圧倒してなお余裕ありしものが、長髪賊の叛乱以来、一掬の数に満たざる英仏、欧州諸国の暴兵の前に叩頭して和を乞わざるべからざるに立ち至った。

 然りと雖も日本の社会もまた常に順風の舟路のみを辿ったのではない。せっかく民間に溌剌たる素朴主義の躍動を示しつつも、その指導階級はいつの間にか、文明化しおおせていた。僅か四杯の蒸気船にても夜も寝られぬ醜態を演じたるは、吾人たるも正に心肝に銘記すべきた。幸いにして王政復古成就し、日本は本来の面目に立ち返り、これと共に指導層の入り替りも行われて、後ればせながらも素朴主義国家の力強き一歩を踏み出したのである。