この様な社会とは、それ以前の縄文時代における様な生産性は低いものの原始的平等を保持していた社会と、古墳時代における様な生産手段が安定し且つ神聖とされる王、権力者の為に壮大な墳墓を造営した社会との過渡期であるといえる。
そこには古墳時代以降の一人あるいは少人数に集約される神格は代を通じ持続して存在しない一方、縄文時代に比べ複雑に体系化された自然崇拝的な信仰は存在していたと考えられる。
銅鐸とはその様な時代、社会、そして信仰の祭器であった。
出土した銅鐸を様々な要素によって分類することは可能である。しかし、それらがどの様な祭祀に用いられていたかは、全て想像の域を出ない。それ故、その祭祀を具現化しようとする場合、記録された過去、現代の祭祀を重ね合わせ、さらにそこに銅鐸の役割、機能を重ね合わせることより、ある程度の妥当性は得られるのではないかと考える。
以上のことを踏まえ、その具体的祭祀形態の記述を下に示す。
出土した銅鐸を様々な要素によって分類することは可能である。しかし、それらがどの様な祭祀に用いられていたかは、全て想像の域を出ない。それ故、その祭祀を具現化しようとする場合、記録された過去、現代の祭祀を重ね合わせ、さらにそこに銅鐸の役割、機能を重ね合わせることより、ある程度の妥当性は得られるのではないかと考える。
以上のことを踏まえ、その具体的祭祀形態の記述を下に示す。
弥生の習俗と宗教
上に示した記述により銅鐸祭祀形態をある程度具現化できたものと考える。また、銅鐸は引用記述内の春の祭祀のみならず雨乞い祭祀を含めた当時の祭祀全般に用いられたものと考えられている。
しかし、その後の時代において祭器としての銅鐸を見出すことは皆無である。その理由とは、弥生、古墳時代間に広域を統一する王権が樹立したことにより、地域社会における祭器としての性質が強かった銅鐸は、統一王権の安定化を阻害するものとして廃されたからと考えられている。