株式会社講談社 講談社学術文庫刊 湯川秀樹著「目に見えないもの」
pp.100‐103より抜粋
ISBN-10 : 4061580949
ISBN-13 : 978-4061580947
実父のこと
まず実父の話から始める。明治三年、南紀田辺藩の儒者浅井南溟の二男として呱々の声をあげた父の読書癖は、すでに幼少の間につちかわれたようである。十四歳で和歌山中学に入学するまでに、二十一史その他随分いろいろな漢籍を読んだらしい。後年京都へ来てからも、父はあらゆる種類の書物に興味を持ち、何とも分類の出来ない雑書が家に堆積していた。幾つも土蔵のある広い借家ばかりをさがして移り住んだのも、まったくこの厄介物のためであった。私ども兄弟も玄関から寝室にまではみ出した書物の中にあっては、いやでも読書家とならざるを得なかった。
十七歳の年に父は志を立てて東京に出た。浅井家はあまり豊かでなかったので兄から一年間の学資を受ける以上のことは望めなかったようである。それで官費で修行の出来る海軍兵学校を志望することとなった。しかし体格試験が不合格で一高に入学する結果となった。入学してまもなく、「我楽多文庫」の会員に引っ張りこまれ、その主宰者たる尾崎紅葉とも相識る機会を得た。そういう因縁で、後年文学の話が出ると、父は特別な親しみをもって、紅葉山人を語った。これに反して鴎外や漱石のものなどはほとんど読まず、またあまり興味を感じていなかったのは、ちょっと不思議なことである。
入学後二年して、同じ紀州藩の小川家の養子となることに定まった。養父ーすなわち私の母方の祖父ー駒橘は若い時分に長州征伐に従軍し、ついで慶応義塾で福沢先生の薫陶を受け、後年は横浜正金銀行に長らく勤めていた。そんな関係で父は専攻学科の選択などについて、当時の慶応義塾長小泉信吉先生ー現総長の厳父ーに相談したこともあったようである。その結果、一時は自然科学の応用方面として電気工学をやるつもりで、毎日図書館で物理学の書物をあさっていたそうである。父は元来多方面な人であったから、物理学に相当興味を持っていたとしても、別に不思議はない。そして私が斯学を専攻したということも、この時期における父の志を継いだものであるといえないこともないであろう。
しかし父は結局、電気工学は断念し、地質学を専攻することとなった。父自身の記すところによると、それには二つの動機があったらしい。一つは明治二十四年秋の濃尾の大地震である。二十二歳で本科二年に進級した父は、郷里紀州に帰る途中において、震災地の酸鼻の状況をまのあたりに見て、深く感動したのである。他の一つは熊野旅行であった。当時健康を害していた父は、鋭気を回復する目的をもって、和歌山から田辺を経て湯の峰温泉に立ち寄り、さらに瀞八丁から潮の岬にいたった。そして湯崎、白浜に一浴し、田辺に帰ったのであった。この間父は、郷土の山河の雄大なのに礼讃の念を禁じ得なかった。潮の岬の燈台に登って太平洋を展望しては
大潮奔駛去悠々 海角極端百尺楼 一望直南三万里 浮雲尽処是豪洲
と歌ったりした。豪洲とはもちろんオーストラリアのことである。濃尾の野の地変も、郷土の風物の千状万態も、ともに地質学の研究対象にほかならぬことを思うて、父の決意はついに定まったのである。
これにくらべると、私は誕生の翌年、すなわち明治四十一年、父が地質調査所から京都帝大文学部に転じた際からずっと京都で育ってきたので自然に対する態度も自ら違っていたようである。仰げばいつも眼前にある東山の連峰、京都一中から京都帝大まで十年間を毎日見慣れた鴨川の流れ。自然は私どもにとっては、美しくもまた静かな、穏やかなものであった。存在はその根源において、常に美しく且つ調和したものでなければならぬとの信念は、この環境の中で知らず知らずの間に出来上がったのかも知れない。私が理論物理学を志したということは、いまにして思えばまんざら偶然でもないようである。私はまた父のように、
大地地震にあう機会を、ちょっとのところで失ったのである。大正十二年に私は三高に入学した。その八月に野球その他一高との対抗試合が東京で行なわれるというので、私も応援団の一員として、「三」の字を染め抜いた赤旗と太鼓の中に埋もれながら、夜行で上京した。試合が済んで東京をたったのが八月三十一日の晩である。京都の家に帰って一息したところで、弱いがあきらかに地震が来た。これが関東大震災の余波であった。もしももう一日東京にいて、震災を経験したならば、あるいは私も父の後を継いで地質学でもやっていたかも知れない。
話が少し脇道へはいったが、かくして父は一高時代に地質学専攻を決意し、在学中にすでにあちらこちらへ、地質の調査、岩石の採取などに出かけたようである。そして明治二十九年大学を卒業するまでに「台湾諸島誌」と題する四百ページ近くの書物を公にしている。卒業後、地質調査所の技師となったが、明治三十三年パリで万国博覧会及び万国地質学会議が開かれた際、最年少の技師として参列した。そして博覧会の審査員の一人として、フランス政府から勲章を授与されたことは、父のあとあとまでの自慢の種の一つであった。この機会にフランスの一流学者の多くに接触し得たことは、父のその後の研究生活に相当な影響を及ぼしたらしい。父が終始フランスの科学や文化に対する良い理解者の一人であった素地は、この時に出来たのであろう。