また、投稿後に手直しなどをしつつ、当記事をあらためて眺めていますと、不図、自作文章と引用文とを示しつつ先に進める書き方は、以前に読んだ大西巨人による「神聖喜劇」という作品に、それがあったことが思い出されました。
この「神聖喜劇」は、和歌山在住期間の末頃に読みはじめ、その後、市川に戻り歯科技工専門学校に通っている頃にかけて読んでいた記憶があります。また、当ブログ記事にも「神聖喜劇」からの引用記事がいくつかありますが、しかし「当作品全てをまたあらためて精読にて通読しろ」と云われますと、それは不可能ではないと思われるものの、読了に至るまでは多くの時間を要するものと思われます。
また「日本人としての古今を通じた教養とはどのようなものか?」とお考えになる方がいましたら、試しに当作品を読まれてみますと、何やら、それらしきものは以前と比べ、分かるようになるのではないかとも思われるところです。
そういえば書店にて思ったことですが、昨今、題名に「教養」を冠する書籍が少なからず刊行されているようですが、本来、書籍とは題名に、その書籍の効能(たとえば「教養が身につく」など)を謳うようなものではなく、あるいは現在、そうした題名を冠する大半の書籍は、その効能については、疑問符がつくものが多いのではないかと思われます。そして、そうした中、さきの大西巨人による「神聖喜劇」は、我が国にて知名度が顕著に高いとは云えませんが、それでも、さきの「教養」については何かしら感知し得るものがあるように思われるのです・・。
くわえて、当作品がもしも英語をはじめ外国語に精確に翻訳されますと、より我々日本人のあまり諸外国に知られたくないような性質が明らかになってしまうといった危惧も生じてきますが、他方で、ある程度文化的な発展を遂げた国々においては、大抵、そうした種類の文学作品といったものがあるのかもしれません・・。何故ならば、そうした出版業界の様相こそが文化的な発展を担保する「自由」を象徴するとも見ることが出来るからです。
ともあれ、件の大西巨人による「神聖喜劇」ですが、その文章の書きぶりについて度々「似ている」と思ったのが夢野久作でしたが、では、それら双方にて類似・共通する特徴的な要素について考えてみますと、それは、我々人類が古くから変わらずに持ち続けていると内面では実感しつつも、同時に、それを表出することは、進化発展を遂げた現代の我々にとっては相応しくなく、あるいは躊躇されるような、恐ろしくも残忍な要素を敢えて描いていることであるように思われるのです。
そして、科学的ではありませんが、そこから思ったことは、あるいはこうした要素を文章にて抉り出し、露見させたがるような性質とは、あるいは、九州北部御出身の文章表現者の中において、ある程度広く認められることであるのかもしれないということであり、また、たしかにそこに「何か」があるのだとしますと、それは、おそらく地域独特の口語、文語を含めた言語世界にあるのではないかと思われるのですが、さて如何でしょうか?
今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
順天堂大学保健医療学部
祝新版発行決定!
ISBN978-4-263-46420-5
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