pp.66-69より抜粋
ISBN-10 : 4309229433
ISBN-13 : 978-4309229430
ISBN-10 : 4309229433
ISBN-13 : 978-4309229430
物語は、偽の記憶を植えつけたり、架空の関係を形成したり、共同主観的現実を創出したりすることを通じて、人間の大規模なナットワークを生み出した。そして、それらのネットワークが世の中の力の均衡を完全に変えた。サピエンスは物語に基づくネットワークのおかげで、あらゆる動物のうちで最強になり、ライオンやマンモスに対してだけではなく、ネアンデルタール人らの太古の他の人類種に対しても、決定的な優位性を獲得した。
ネアンデルタール人は、孤立した小さな生活集団を形成して暮らしていた。そしてわかっているかぎりでは、異なる集団どうしが協力することが仮にあったとしても、それは稀で、わずかでしかなかった。石器時代のサピエンスも、数十人から成る小さな生活集団を形成してくらしていた。だが、物語を語るようになると、サピエンスの集団はもう孤立して生きることはなかった。崇拝されている先祖や、トーテム(訳注:部族や氏族などの集団が、自らや祖先と結びついていると考えている自然物や事象)である動物、守護霊などについての物語によって、集団どうしがつながり、物語と共同主観的現実を共有する複数の生活集団が、部族を形成した。それぞれの部族は、何百あるいは何千もの人を結びつけるネットワークだった。 大きな部族に所属していれば、争いが起こったときには明らかに有利だった。500人のサピエンスは、50人のネアンデルタール人を楽に打ち負かすことができた。だが、部族のネットワークには、他にも多くの利点があった。もし私たちが50人の集団で孤立して暮らしていて、普段の生活圏が深刻な旱魃に見舞われたら、多くが飢え死にするかもしれない。よそに移ろうとしたら、敵対的な集団に出くわす可能性が高いし、馴染みの内土地で食べ物や水や(道具の製作用の)燧石を見つけるのにも苦労しかねない。だが、もし自分の集団が部族のネットワークの一部なら、困ったときには集団のうちの少なくとも何人かが、遠く離れた友人たちのもとに行って暮らすことができるだろう。もし共有している部族のアイデンティティが十分に強固なら、彼らは私たちを歓迎し、地元に特有の危険や狩猟採集の場所を教えてくれるだろう。そして、10年か20年後には、今度は私たちが彼らに恩返しできるかもしれない。というわけで、部族のネットワークは、一種の保険の役割を果たした。リスクを、以前よりも多くの人に分散することで最小化したのだ。
サピエンスは平時にさえ、小さな生活集団内の数十人とだけではなく部族ネットワーク全体とも情報を交換し、大きな恩恵を受けることができた。部族内の集団の一つが、前よりも良い槍の穂先の作り方を発見したり、珍しい薬草を使った傷の癒やし方を覚えたり、服を縫うための針を発明したりしたら、その知識を他の集団へと素早く伝えることができた。サピエンスの一人ひとりは、ネアンデルタール人よりも知能が高くなかったかもしれないが、500人のサピエンスがいっしょになれば、50人のネアンデルタール人よりもはるかに高い知能を発揮できた。
これらすべてを可能にしたのが物語だった。物語の力は、唯物論的な歴史解釈には見落とされたり否定されたりすることが多い。特にマルクス主義者は物語のことを、根底にある力関係や物質的な利益を覆い隠す煙幕にすぎないと見る傾向がある。マルクス主義の理論によると、人々はいつも客観的な物質的利害に突き動かされていて、物語を利用するのは、そうした利益を偽装し、競争相手を混乱させるためにすぎないという。たとえば、このような観点に立てば、十字軍の遠征も、第一次世界大戦も、イラク戦争もすべて、宗教や国民主義や自由主義の理想のためではなく、強力なエリートたちの経済的利益のために戦われたことになる。これらの戦争を理解するというのは、神や愛国心や民主主義についての神話的なイチヂクの葉を一枚残らず取りのけ、力関係をむき出しにして眺めることを意味する。
ところが、このマルクス主義の見方はシニカルなだけではなく、間違ってもいる。十字軍の遠征や第一次世界大戦やイラク戦争をはじめ、人間の争いのほとんどで、物質的利益がそれなりの役割を果たしたことは確かではなるものの、それで宗教や国民主義や自由主義の理想が何の役割も果たさなかったことにはならない。しかも、物質的利益だけでは、どの陣営とどの陣営が争ったのかは説明できない。12世紀にフランス、ドイツ、イタリアの地主や商人が団結してレヴァント地方(地中海東岸の地方)の領土と交易路を征服しようとした一方で、フランスと北アフリカの地主や商人が手を組んでイタリアを征服しようとしなかったのはなぜか?そして、2003年にアメリカとイギリスがイラクの油田を征服しようとした一方で、ノルウェーのガス田を征服しようとしなかったのはなぜか?これは、人々の宗教的な信念やイデオロギー上の信念を拠り所としないで、純粋に物質主義的な打算だけで本当に説明がつくのか?
ネアンデルタール人は、孤立した小さな生活集団を形成して暮らしていた。そしてわかっているかぎりでは、異なる集団どうしが協力することが仮にあったとしても、それは稀で、わずかでしかなかった。石器時代のサピエンスも、数十人から成る小さな生活集団を形成してくらしていた。だが、物語を語るようになると、サピエンスの集団はもう孤立して生きることはなかった。崇拝されている先祖や、トーテム(訳注:部族や氏族などの集団が、自らや祖先と結びついていると考えている自然物や事象)である動物、守護霊などについての物語によって、集団どうしがつながり、物語と共同主観的現実を共有する複数の生活集団が、部族を形成した。それぞれの部族は、何百あるいは何千もの人を結びつけるネットワークだった。 大きな部族に所属していれば、争いが起こったときには明らかに有利だった。500人のサピエンスは、50人のネアンデルタール人を楽に打ち負かすことができた。だが、部族のネットワークには、他にも多くの利点があった。もし私たちが50人の集団で孤立して暮らしていて、普段の生活圏が深刻な旱魃に見舞われたら、多くが飢え死にするかもしれない。よそに移ろうとしたら、敵対的な集団に出くわす可能性が高いし、馴染みの内土地で食べ物や水や(道具の製作用の)燧石を見つけるのにも苦労しかねない。だが、もし自分の集団が部族のネットワークの一部なら、困ったときには集団のうちの少なくとも何人かが、遠く離れた友人たちのもとに行って暮らすことができるだろう。もし共有している部族のアイデンティティが十分に強固なら、彼らは私たちを歓迎し、地元に特有の危険や狩猟採集の場所を教えてくれるだろう。そして、10年か20年後には、今度は私たちが彼らに恩返しできるかもしれない。というわけで、部族のネットワークは、一種の保険の役割を果たした。リスクを、以前よりも多くの人に分散することで最小化したのだ。
サピエンスは平時にさえ、小さな生活集団内の数十人とだけではなく部族ネットワーク全体とも情報を交換し、大きな恩恵を受けることができた。部族内の集団の一つが、前よりも良い槍の穂先の作り方を発見したり、珍しい薬草を使った傷の癒やし方を覚えたり、服を縫うための針を発明したりしたら、その知識を他の集団へと素早く伝えることができた。サピエンスの一人ひとりは、ネアンデルタール人よりも知能が高くなかったかもしれないが、500人のサピエンスがいっしょになれば、50人のネアンデルタール人よりもはるかに高い知能を発揮できた。
これらすべてを可能にしたのが物語だった。物語の力は、唯物論的な歴史解釈には見落とされたり否定されたりすることが多い。特にマルクス主義者は物語のことを、根底にある力関係や物質的な利益を覆い隠す煙幕にすぎないと見る傾向がある。マルクス主義の理論によると、人々はいつも客観的な物質的利害に突き動かされていて、物語を利用するのは、そうした利益を偽装し、競争相手を混乱させるためにすぎないという。たとえば、このような観点に立てば、十字軍の遠征も、第一次世界大戦も、イラク戦争もすべて、宗教や国民主義や自由主義の理想のためではなく、強力なエリートたちの経済的利益のために戦われたことになる。これらの戦争を理解するというのは、神や愛国心や民主主義についての神話的なイチヂクの葉を一枚残らず取りのけ、力関係をむき出しにして眺めることを意味する。
ところが、このマルクス主義の見方はシニカルなだけではなく、間違ってもいる。十字軍の遠征や第一次世界大戦やイラク戦争をはじめ、人間の争いのほとんどで、物質的利益がそれなりの役割を果たしたことは確かではなるものの、それで宗教や国民主義や自由主義の理想が何の役割も果たさなかったことにはならない。しかも、物質的利益だけでは、どの陣営とどの陣営が争ったのかは説明できない。12世紀にフランス、ドイツ、イタリアの地主や商人が団結してレヴァント地方(地中海東岸の地方)の領土と交易路を征服しようとした一方で、フランスと北アフリカの地主や商人が手を組んでイタリアを征服しようとしなかったのはなぜか?そして、2003年にアメリカとイギリスがイラクの油田を征服しようとした一方で、ノルウェーのガス田を征服しようとしなかったのはなぜか?これは、人々の宗教的な信念やイデオロギー上の信念を拠り所としないで、純粋に物質主義的な打算だけで本当に説明がつくのか?