株式会社ゲンロン刊 東浩紀著「観光客の哲学 増補版」pp.386‐388より抜粋
ISBN-10 : 4907188498
ISBN-13 : 978-4907188498
それでも最後にひとつ論点を示しておこう。スクリーンの時代から触視的平面の時代への移行にしたがい、人文系知識人のありかたは大きく変わるはずだと思われる。
第七章でも紹介したことだが、二〇世紀の学問では「同一化」が熱心に論じられた。ひとは、父(いまとなってはジェンダー的に問題があるが、なぜか当時は父の話ばかりがされていた)やその代理の人物に同一化して大人になるのであり、その過程で失敗するとさまざまな病が生じると考えられた。
そして奇妙なことに、精神分析が構想した人間の理論と映画批評の言説のあいだには構造的な類似性があった。精神分析の理論によれば、ひとは目のまえの父(見えるもの)に同一化するだけでは不十分で、その背後にある象徴的な価値(見えないもの)に同一化することになっていた。そのような二重化がうまく動かないと、ひとは成熟しない。同じように映画批評においても、観客はスクリーンに登場する俳優(見えるもの)に同一化するだけではなく、それぞれの場面を撮影する監督=カメラの視線(見えないもの)に注目しなければ、作品の価値は十分にわからないということになっていた。「見えるもの」を乗り越え、「見えないもの」に向かうことで、ひとははじめて大人になり、本当の知を手に入れることができる。二〇世紀の知識人は、そのような前提のもとで、ひとは目のまえの「見えるもの」にすぐ騙される、だから「見えないもの」について語ることで世の中をよくしようと行動してきた。そこではスクリーンというメディアの構造と同時代の人間観が深く共振している。
だとすれば逆に、スクリーンが触視的平面に置き換えられることで、そのような人間観も変わるだろう。それは政治や社会についての言説も変えるはずだ。具体的には、いま記したような「見えるもの」と「見えないもの」の対立に基づく行動原理、すなわち、ひとは「見えるもの」にすぐ騙される、だから「見えないもの」について語ろうという指針そのものの有効性が失われていくのではないか。
実際、そのような現象はいまやあちこちで観察されるように思われる。たとえば本書初版出版の数カ月まえ、アメリカではドナルド・トランプが大統領になった。トランプはポピュリストで、発言には性差別的で人種差別的なものが多く、政策も場当たり的で批判も多い。にもかかわらず彼は二〇一六年には勝利を収めたし、二〇二〇年の大統領選で敗北したあとも大きな影響力を持っている。
二〇一六年のトランプ旋風は専門家にとっても予想外の現象だった。リベラルの多くは当初、トランプの支持者はセレブで大金持ちという煌びやかなイメージ(見えるもの)に騙されているだけであり、支離滅裂な実態(見えないもの)を暴けば影響力も下がるだろうと考えた。けれどもそううまくはいかなかった。支持者の多くはいくら真実を示されても嘘のほうを信じ続けたし(フェイクニュース)、リベラルの執拗な批判は、逆に支持者たちの側に悪質な陰謀論の流行を引き起こすことになった。トランプは「にせもの」にすぎず、見えないところにこそ「ほんもの」があるという知識人のキャンペーンは、一方では「にせもの」でなにが悪いという開きなおりを引き出し、他方ではおれたちはおれたちの「ほんもの」があるのだという独自の世界観を生み出す結果にしかならなかったのである。
触視的平面の時代においては、ひとは「にせもの」の彼方に「ほんもの」があるはずだと考えない。現代は、「にせもの」が「にせもの」として触られ、操作され、加工され、多くのひとがその操作そのものに快楽を覚える時代であり、また「にせもの」を触っているだけでもいつか「ほんもの」に届くはずだと信じられる時代なのだ。すべてが見え、触ることができるはずの時代においては、見えないものについて語る人々はむしろ信頼を失う。そんな時代に知識人がなにを行動原理にすべきなのか、なかなか悩ましい問題だ。