おそらく、その背景には、大陸へと続く朝鮮半島に度々派兵を行っていた4、5世紀代のヤマト朝廷にて派遣軍司令官的役割を担っていた当地の豪族である紀氏の存在があると云えます。他方で時代はそこから遡り、ヤマト朝廷始祖とされる神武天皇の東征のくだりにて、紀州での描写に登場することはなく、また、それによると当地では当時、女酋長を戴くクニグニ(村邑国家群)によって治められていたようです。
そして、この習俗(統治体制)に関しては、以前に当ブログにて引用したいくつかの記事にありますが、この場合は南方に、その起源があると思われます。ともあれ、東征後、当地がヤマト朝廷の支配下になると、この地に朝廷側の股肱を差し向けたのか、あるいはそれを在来土着豪族との婚姻などにより、支配の強化を図ったのか分かりませんが、ともあれ、このあたりの事情については、当地のいくつかの古社に参拝し、それら来歴の概要を知ったのちに検討してみますと、何となくではあれ、その背景にあった事情が理解出来るのではないかと思われます。
そういえば、1974年(昭和49年)にフィリピンのルバング島より帰還した最後の日本兵O氏のご実家は、和歌山市南隣の海南市にあり、その本家は、当地の古社にて代々神職を勤められています。古社とはいえ、どのくらい古くからであるのか、その由緒についてお聞きしたところ「鎌倉時代には既にこの地に存在したという記録があり、また、それ以前にもあったと思うが、その部分の記録が焼失して分からなくなってしまった。」とのことでしたが、何故、ここで「鎌倉時代以前から存在していたと思う」と云えるのかは、ここで話はさきほどの女酋長に戻り、当社は神武東征時の当地の女酋長である名草戸畔を祀っているとされるからです。
この女酋長たる名草戸畔は、上陸してきた神武軍との戦闘にて亡くなります。そして、その亡骸の特に頭部を祀ったのが当社であるとされ、そこから、ふるくより「おこべさん」(こうべ)という愛称にて親しまれてきました。
つまり、東京における平将門のような存在が、古来より朝廷側と戦った記録や口承が遺る地域においては、より身近なものとして未だに存在し、また、そうした地域においては、おそらく、それ以降の施政者達とは、あくまでも余所者であり、地元住民との妥協や協力関係によって、どうにか統治を続けることが出来たのではないかと思われます。
とはいえ、そうしたことは、時代時代のさまざまな要因によってブレが生じることがあり、時には地元住民側が強くなり、施政者側を圧倒することもあれば、あるいはまた、その逆もあり、そうした現象自体は現在もなお、続いていると思われます。
そこから、神武軍との戦いによって死んだ女酋長の頭部を祀っているという謂れ・由緒を持つ当地の古社を包摂するこの地域社会には、一体どのような性質があるのかと考えてみますと、それは少なくとも、歴代中央官衙の考えとは相容れないものであっても、特に不思議ではないように思われるのですが、さて如何でしょうか?
また、当和歌山県においては、そうした事例がほかにも少なからずありますので、こうした事情も相まってか、目上の方に対しての「敬語」があまり発達しなかったのかもしれません・・(笑)。
今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます。
順天堂大学保健医療学部
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