株式会社ゲンロン刊 東浩紀著「訂正可能性の哲学」
pp.145‐148より抜粋
ISBN-10 : 4907188501
ISBN-13 : 978-4907188504
日本の例も挙げておこう。二〇一〇年代に強い影響力をもった思想家に落合陽一がいる。
落合は大学に籍を置いて研究するだけでなく、エンジニアでアーティストでもあり、みずからベンチャー企業も経営しているという新しいタイプの知識人である。行政にも深く関与しており、二〇二五年の万博ではパビリオンをまるまるひとつ担当するといわれている。
そんな彼は二〇一八年に「デジタルネイチャー」という著作を発表している。デジタルネイチャーとは「計数的な自然」を意味す造語である。近い将来、世界のあらゆるところにセンサーが張り巡らされ、人物も物流もすべてがデータ化され、ネットワークを介してアクセスされ分析されるような時代がやってくる。そのときぼくたちは、目や耳で捉えることができる物理的な環境とはべつに、デバイスを通じて知覚するデータ環境も新たな「自然」として認識することになる。それがデジタルネイチャーだという。落合は、これからの政治やビジネスはこのデジタルネイチャーの活用に敏感でなくてはならないと説く。
この主張そのものに問題はない。データ環境の重要性は仮想現実や拡張現実といった言葉で広く認識されているものである。ただし落合はその誕生に、カーツワイルのシンギュラリティと同じような、大きな文明論的な意味を見出している。
落合によれば、デジタルネイチャーが誕生することで、人類は不完全な市場原理に頼らずとも資源を最適に配分できるようになる。生産力は飛躍的に増大し、個人の特性を分析して社会的役割を指定できるようにもなる。そのうえ落合は、そのとき人類は、ひとにぎりの先進的な資本家=エンジニア層(AI+VC層)と、残り大多数の労働から解放された大衆層(AI+BI層)に分裂することになるだろうという。「AI+VC」は、人工知能(AI)に支援されてイノベーションに挑むベンチャーキャピタル(VC)の担い手を意味し、「AI+BI」のほうは、政府によるベーシックインカム(BI)で衣食住を保障されるる、人工知能の勧めに従ってそこそこの幸せを追求する生き方を意味するとされている。
これは人類を選良とそれ以外に分ける社会像にほかならない。明らかに倫理的に問題がある。しかもさらに厄介なことに、落合は同書で、デジタルネイチャーの誕生は人類を古い道徳観から解き放つものなのだと主張することで、そのような批判の可能性そのものを封じ込めてしまっている。
彼のヴィジョンによれば、未来の人類は、というよりもその一部の「AI+VC層」は、もはや個人の幸福のような小さな目標には関わらない。大きな視野でイノベーションを押し進め、「コンピュータがもたらす全体最適化による問題解決」によって人類という種全体の幸福を追求することになる。その試みはまったく新しく崇高なものなので。「自由」や「平等」のような古い人間中心主義的な考えにしばられてはならない。落合はこの点について、シンギュラリティ以降においては「人間」の概念こそ「足かせ」になるのであり、人々は「機械を中心とする世界観」に対応する必要があると繰り返し強調している。そこでは「全体最適化による全体主義は、全人類の幸福を追求しうる」のであり、「誰も不幸にすることはない」のだという[★4」。
つまりは落合は全体主義をはっきりと肯定している。彼のエンジニアやアーティストとしての業績には敬意を払うべきだろう。しかし同時に、彼の未来像が、カーツワイルほど壮大ではないにしても、同じくらい夢想的で、政治的にはより危険でありうることにも注意が払われるべきではないだろうか。情報技術と全体主義の関係については、のち第六章でふたたび触れる。
このように二〇一〇年代は、情報産業論を背景にした夢想的な文明論が、政治やビジネスの現場に大きな影響を及ぼした時代だった。ぼくたちはいま、共産主義という第一の大きな物語のかわりに、シンギュラリティの到来という第二の大きな物語が席捲する時代を生きている。
資本主義はもはや終わることはない。世界革命は起きない。国民国家も消えることはない。しかしそのかわりに人類には計算力の指数関数的な成長がある。ありあまる計算力は、どこかの時点で人類の社会や文化を根底的に変えてしまうだろう。そして人類は遠からず、働かなくてもだれもが快楽を手に入れ、実質的には死ぬことすらない、永遠の楽園への切符を手に入れることができるだろう。そしてその未来への扉を開くのは、いまや政治家でも哲学者でもなく、起業家とエンジニアなのだ・・・。