2024年4月3日水曜日

20240403 河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「ホモ・デウス」上巻 pp.234-236より抜粋

河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ:著 柴田 裕之:訳「ホモ・デウス」上巻 
pp.234-236より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309227368
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309227368 

 科学には、宗教が下す倫理的な判断を反証することも確証することもできない。だが、事実に関する宗教的な言明については、科学者にもたっぷり言い分がある。「受精後一週間のヒトの胎芽には神経系があるか?胎芽は痛みを感じられるか?」といった、事実に関する疑問に答えるには、聖職者よりも生物学者のほうが適格だ。

 事実をもっとはっきりさせるために、ある歴史的実例を詳しく考察しよう。この例は、宗教のコマーシャルではめったに耳にしないが、当時、途方もなく大きな社会的・政治的影響を及ぼした。中世のヨーロッパでは、ローマ教皇は絶大な政治権力を誇っていた。ヨーロッパのどこで争いが起こっても、教皇はそのたびに問題の決着をつける権限を主張した。その権限の正当性を立証するために、教皇は繰り返しコンスタンティヌス帝の寄進状を挙げ、ヨーロッパの人々の注意を喚起した。この寄進状の物語によれば、三一五年三月三〇日、ローマ皇帝コンスタンティヌスは公式の命令書に署名し、ローマ教皇シルウェステル一世とその後継者たちにローマ帝国西部の永続的な支配権を与えたという。歴代の教皇はこの貴重な文書を保管し、野心的な君主や好戦的な都市や反抗的な農民が敵対の構えを見せたときにはいつも、強力なプロパガンダの道具として利用した。

 中世ヨーロッパの人々は、昔の皇帝の命令にはおおいに敬意を払っており、文書が古いほどその権威を増すと考えていた。彼らはまた、王や皇帝は神の代理人だとも考えていた。コンスタンティヌス帝は、ローマ帝国を異教徒の領域からキリスト教帝国に変えたので、とりわけ崇められていた。だから、当時の都市の議会の要求と、ほかならぬコンスタンティヌス帝が発した命令とが衝突したら、古い文書のほうに従うべきなのは、中世ヨーロッパの人々には明らかだった。したがって、教皇は政治的な抵抗に遭うたびにコンスタンティヌス帝の寄進状を振りかざし、服従を求めた。ただし、いつもうまくいったわけではない。だがコンスタンティヌス帝の寄進状は、教皇のプロパガンダと中世の政治秩序の重要な土台だった。

 コンスタンティヌス帝の寄進状を念入りに調べてみると、この物語が上の表のように三つの別個の要素から成ることがわかる。

 古い皇帝の命令が持つ倫理的な権威は、およそ自明とは言い難い。二一世紀のヨーロッパ人の大半は、現在の人々の願望のほうが、とうの昔に死んだ君主たちの命令に優先すると考えている。とはいえ、この倫理的な論争に科学は参加できない。どんな実験も方程式も、この問題に決着をつけられないからだ。現代の科学者が七〇〇年前にタイムトラベルしても、昔の皇帝たちの命令はいまの政治の議論には無関係であることを、中世のヨーロッパ人に証明できないだろう。

 もっとも、コンスタンティヌス帝の寄進状の物語は、倫理的な判断だけに基づいていたわけではない。そこには、とても具体的な事実に関する言明も含まれており、それは科学にも立証したり反証したりする資格が十分ある。一四四〇前、カトリックの司祭で言語学の先駆者ロレンツォ・ヴァッラが科学的な研究を発表し、コンスタンティヌス帝の寄進状が偽造文書であることを証明した。ヴァッラはその文書の文体や文法や使われている語句を分析した。そして、この文書には四世紀のラテン語では知られていない単語が含まれており、コンスタンティヌス帝の死後およそ四〇〇年を経てから捏造された可能性が非常に高いことを実証した。この文書には、他にも重大な問題がある。そこに記された日付は「コンスタンティヌスが四度目に執政官に、ガリカヌスが初めて執政官を務めた年の三月三〇日」だ。ローマ帝国では毎年二人の執政官が選ばれ、文書では誰が執政官かで年を表すのが習いだった。あいにく、コンスタンティヌス帝が四度目の執政官になったのは三一五年だったのに対して、ガリカヌスが初めて執政官に選ばれたのは三一七年になってからだった。これほど重要な文書が本当にコンスタンティヌス帝の時代に書かれたのなら、これほど明白な誤りが含まれていることはけっしてなかっただろう。トマス・ジェファーソンと同僚たちが、アメリカの独立宣言に「一七七六年七月三四日」と日付を書き込んだようなものだ。

 今日、コンスタンティヌス帝の寄進状は八世紀のいずれかの時点に、教皇の下で捏造されたということで、歴史学者全員の意見が一致している。ヴァッラは古い皇帝の命令の道徳的権威にけっして異議を唱えることはなかったものの、彼の科学的分析は、ヨーロッパ人は教皇に従うべきであるという実際的な指針の効力を間違いなく切り崩した。

20240402 株式会社白水社刊 オーランド―・ファイジズ著 染谷徹訳「クリミア戦争」上巻 pp.126‐129より抜粋

株式会社白水社刊 オーランド―・ファイジズ著 染谷徹訳「クリミア戦争」上巻 pp.126‐129より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4560094888
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4560094884

 英国内で過去数十年間蓄積されてきた根深い対露不信は、ロシア皇帝のロンドン訪問によっても払拭されなかった。現実問題としては、英国の国益を損傷するようなロシアの脅威は微小であり、両国間の外交関係と貿易関係も、クリミア戦争が勃発する時までは概して良好だったが、それにもかかわらず、反露感情は(反仏感情以上に)英国民の世界観を左右する重要な要素となっていた。そもそも、ほぼすべてのヨーロッパ諸国で国民のロシア観を形成していたのは恐怖心と想像力だったが、英国もその例外ではなかった。十八世紀の全期間を通じてロシアが強行した急速な領土拡張、ナポレオン軍を粉砕したロシアの軍事力の誇示、「ロシアの脅威」を論ずる小冊子、旅行記、政治論文などがヨーロッパの各国で次々に刊行され、ロシア脅威論は一種のブームとなった、現実的な脅威または体感できる恐怖というよりも、むしろヨーロッパの自由と文明を脅かすアジア的な「他者」としてロシアを論ずる議論が主流だった。これらの出版物の業者たちがその想像力によって生み出した固定観念としてのロシアは、野蛮な強大国であり、本質的に攻撃的で領土拡張主義的だが、同時に狡猾かつ欺瞞的で、「見えざる勢力」と共謀して西欧諸国に敵対し、西欧社会に浸透しようとする陰謀国家だった。

 「ロシア脅威論」の著者たちがその主張の根拠としていた参考文献の中に「ピョートル大帝の遺書」と呼ばれる文書があった。反露派の作家、政治家、外交官、軍人などの多くが、世界征服を企むロシアの野望の明白な証拠として「ピョートル大帝の遺書」を引用している。ピョートル大帝はこの文書の中で誇大妄想的な国家目標を言い残したとされていた。すなわち、バルト海から黒海に至る広大な範囲に領土を拡張し、オーストリアと組んで欧州大陸からトルコ人を放逐し、東地中海地方(レヴァント)を征服し、インド貿易を支配し、ヨーロッパ全土に不和と混乱の種を撒き散らし、欧州大陸の支配者になるというのがその目標だった。

 「ピョートル大帝の遺書」は実は偽造文書だった。十八世紀初頭のある時期にフランスおよびオスマン帝国とつながりを持つ何人かのポーランド人、ハンガリー人、ウクライナ人によって創作され、数種類の異本を経た後、最終的にこの偽造文書は一七六〇年代にフランス外務省の文書館に収蔵された。フランスはこの文書をピョートル大帝の真正の遺書として扱った。それがフランスの外交政策に役立つと考えられたからである。ヨーロッパ東部におけるフランスの主要な同盟国(スウェーデン、ポーランド、トルコ)はすべてロシアによる侵略の被害者だった。十八世紀から十九世紀の初めにかけて、フランスの外交政策の基底には、「ピョートル大帝の遺書」の内容をロシアの外交政策の基本と見なす考え方があった。

 この文書の影響をとりわけ強く受けたのがナポレオン一世だった。ナポレオンの外交顧問たちは事あるごとに「ピョートル大帝の遺書」に書かれた思想や文言を持ち出している。たとえば、フランスの総裁政府時代(一七九五~九九)と執政政府時代(一七九九~一八〇四)の両期を通じて外相の地位にあったシャルル¥モーリス・ド・タレーランは、「ロシア帝国の全システムはピョートル一世以来一貫して変わらぬ目標を追求している。すなわち、全ヨーロッパを野蛮の洪水の下に沈めるという目標である」と主張している。ナポレオン・ボナパルトから厚く信頼されていた外務省幹部のアレクサンドル・ドートリーヴ伯爵は同様の趣旨をさらに直截に表現している。

 ロシアは戦争を通じて近隣諸国の征服を追及する一方、平時には近隣諸国以外の地域にも進出して不信と不和を扇動し、全世界を混乱に陥れようとしている・・ロシアがヨーロッパでもアジアでも他国の領土を簒奪していることは周知の事実である。ロシアはオスマン帝国とドイツ帝国の破壊を目論んでいる。そのやり方は正面攻撃だけにとどまらない・・ロシアは陰険な手口で秘密裏にオスマン帝国の基盤を掘り崩すための陰謀をめぐらし、地方勢力の反乱を扇動している・・その一方で、オスマン帝国政府(「ポルト」)に対しては常に友好的な姿勢を装い、オスマン帝国の友人、保護者を自称している・・ロシアはオーストリアに対しても同様の攻撃を準備している・・そうなれば、ウィーンの宮廷は消滅し、西欧諸国はロシアの侵略から身を守るための最も有力な防壁を失うことになるだろう。

「ピョートル大帝の遺書」は一八一二年にフランスで刊行された。ナポレオン軍がロシアに侵攻した年である。それ以来、同書はロシアの拡張主義的外交政策の決定的な証拠としてヨーロッパ各国で再版され、引用されることになる。以後、ヨーロッパ大陸でロシアが参戦する戦争が勃発する時には、決まって「ピョートル大帝の遺書」が話題となり、一八五四年、一八七八年、一九一四年、一九四一年などに繰りかえし刊行された。第二次大戦後の冷戦時代にも、ソ連の対外侵略の意図を説明する資料として引用されることがあった。一九七九年にソ連がアフガニスタンに侵攻した時には、「クリスチャン・サイエンス・モニター」紙と「タイム」誌がモスクワの意図を示す証拠として「ピョートル大帝の遺書」からその一部を引用し、英国下院の論議でも同書が取り上げられた。