2024年4月3日水曜日

20240402 株式会社白水社刊 オーランド―・ファイジズ著 染谷徹訳「クリミア戦争」上巻 pp.126‐129より抜粋

株式会社白水社刊 オーランド―・ファイジズ著 染谷徹訳「クリミア戦争」上巻 pp.126‐129より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4560094888
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4560094884

 英国内で過去数十年間蓄積されてきた根深い対露不信は、ロシア皇帝のロンドン訪問によっても払拭されなかった。現実問題としては、英国の国益を損傷するようなロシアの脅威は微小であり、両国間の外交関係と貿易関係も、クリミア戦争が勃発する時までは概して良好だったが、それにもかかわらず、反露感情は(反仏感情以上に)英国民の世界観を左右する重要な要素となっていた。そもそも、ほぼすべてのヨーロッパ諸国で国民のロシア観を形成していたのは恐怖心と想像力だったが、英国もその例外ではなかった。十八世紀の全期間を通じてロシアが強行した急速な領土拡張、ナポレオン軍を粉砕したロシアの軍事力の誇示、「ロシアの脅威」を論ずる小冊子、旅行記、政治論文などがヨーロッパの各国で次々に刊行され、ロシア脅威論は一種のブームとなった、現実的な脅威または体感できる恐怖というよりも、むしろヨーロッパの自由と文明を脅かすアジア的な「他者」としてロシアを論ずる議論が主流だった。これらの出版物の業者たちがその想像力によって生み出した固定観念としてのロシアは、野蛮な強大国であり、本質的に攻撃的で領土拡張主義的だが、同時に狡猾かつ欺瞞的で、「見えざる勢力」と共謀して西欧諸国に敵対し、西欧社会に浸透しようとする陰謀国家だった。

 「ロシア脅威論」の著者たちがその主張の根拠としていた参考文献の中に「ピョートル大帝の遺書」と呼ばれる文書があった。反露派の作家、政治家、外交官、軍人などの多くが、世界征服を企むロシアの野望の明白な証拠として「ピョートル大帝の遺書」を引用している。ピョートル大帝はこの文書の中で誇大妄想的な国家目標を言い残したとされていた。すなわち、バルト海から黒海に至る広大な範囲に領土を拡張し、オーストリアと組んで欧州大陸からトルコ人を放逐し、東地中海地方(レヴァント)を征服し、インド貿易を支配し、ヨーロッパ全土に不和と混乱の種を撒き散らし、欧州大陸の支配者になるというのがその目標だった。

 「ピョートル大帝の遺書」は実は偽造文書だった。十八世紀初頭のある時期にフランスおよびオスマン帝国とつながりを持つ何人かのポーランド人、ハンガリー人、ウクライナ人によって創作され、数種類の異本を経た後、最終的にこの偽造文書は一七六〇年代にフランス外務省の文書館に収蔵された。フランスはこの文書をピョートル大帝の真正の遺書として扱った。それがフランスの外交政策に役立つと考えられたからである。ヨーロッパ東部におけるフランスの主要な同盟国(スウェーデン、ポーランド、トルコ)はすべてロシアによる侵略の被害者だった。十八世紀から十九世紀の初めにかけて、フランスの外交政策の基底には、「ピョートル大帝の遺書」の内容をロシアの外交政策の基本と見なす考え方があった。

 この文書の影響をとりわけ強く受けたのがナポレオン一世だった。ナポレオンの外交顧問たちは事あるごとに「ピョートル大帝の遺書」に書かれた思想や文言を持ち出している。たとえば、フランスの総裁政府時代(一七九五~九九)と執政政府時代(一七九九~一八〇四)の両期を通じて外相の地位にあったシャルル¥モーリス・ド・タレーランは、「ロシア帝国の全システムはピョートル一世以来一貫して変わらぬ目標を追求している。すなわち、全ヨーロッパを野蛮の洪水の下に沈めるという目標である」と主張している。ナポレオン・ボナパルトから厚く信頼されていた外務省幹部のアレクサンドル・ドートリーヴ伯爵は同様の趣旨をさらに直截に表現している。

 ロシアは戦争を通じて近隣諸国の征服を追及する一方、平時には近隣諸国以外の地域にも進出して不信と不和を扇動し、全世界を混乱に陥れようとしている・・ロシアがヨーロッパでもアジアでも他国の領土を簒奪していることは周知の事実である。ロシアはオスマン帝国とドイツ帝国の破壊を目論んでいる。そのやり方は正面攻撃だけにとどまらない・・ロシアは陰険な手口で秘密裏にオスマン帝国の基盤を掘り崩すための陰謀をめぐらし、地方勢力の反乱を扇動している・・その一方で、オスマン帝国政府(「ポルト」)に対しては常に友好的な姿勢を装い、オスマン帝国の友人、保護者を自称している・・ロシアはオーストリアに対しても同様の攻撃を準備している・・そうなれば、ウィーンの宮廷は消滅し、西欧諸国はロシアの侵略から身を守るための最も有力な防壁を失うことになるだろう。

「ピョートル大帝の遺書」は一八一二年にフランスで刊行された。ナポレオン軍がロシアに侵攻した年である。それ以来、同書はロシアの拡張主義的外交政策の決定的な証拠としてヨーロッパ各国で再版され、引用されることになる。以後、ヨーロッパ大陸でロシアが参戦する戦争が勃発する時には、決まって「ピョートル大帝の遺書」が話題となり、一八五四年、一八七八年、一九一四年、一九四一年などに繰りかえし刊行された。第二次大戦後の冷戦時代にも、ソ連の対外侵略の意図を説明する資料として引用されることがあった。一九七九年にソ連がアフガニスタンに侵攻した時には、「クリスチャン・サイエンス・モニター」紙と「タイム」誌がモスクワの意図を示す証拠として「ピョートル大帝の遺書」からその一部を引用し、英国下院の論議でも同書が取り上げられた。

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