ISBN-10 : 400431268X
ISBN-13 : 978-4004312680
アレクシス・ド・トクヴィルには彼の姿を描くいくつかの絵画作品が残っています。そのなかでアンドレ・ジャルダンの手になる伝記をはじめとして、彼をめぐる書物の表紙のデザインにしばしば用いられていて、もっともよく見かけるのはテオドール・シャセリオーの描いた油彩の肖像でしょうか。本書の冒頭をごらんください。これは一八五〇年つまりトクヴィルの亡くなる九年前に制作されたもので、現在ヴェルサイユの美術館に所蔵されています。その次に知られているのは、レオン・ノエルの手になる石版画でしょう。
そのいずれも私は現物を見たことはないのですが、この二点を並べると、トクヴィルが後者ではどちらかというと凡庸な顔つきを示しているようであるのにたいして、前者では四〇歳代の半ばに達しているとは思えないほどの若わかしい表情とともに、とりわけ彼の眼の輝きが見る者の注意を惹き、そのまなざしがどこに向けられているのかたいへん気になるところです。画家を、あるいは作品に対峙する者を正面から見据えているようでありながら、本人からして心もち左のほうを向いているとも思えるトクヴィルの視線は、遠く世界の果てにまで到達しているのではないかとさえ考えたくなってきます。
二〇世紀の終わりから二一世紀のはじめにかけて刊行されたガリマール社のプレイヤード版の著作集では、その第二巻にノエル、第三巻にはシャセリオーの肖像の一部分が使用されていますが、第一巻にはまだ幼児の頃のトクヴィルの顔が現れます。全体としてはまだあどけない表情を残しているけれども、その眼もまた独特の光を放っているようで、この顔つきを眺めていると、彼のまなざしは終生とおして変わることがなかったのではないかという印象が強まります。
あるいはこの眼の光り具合は、彼が近視であったかもしれないことを想像させます。「政治的に不適切な」いいかたかもしれませんが、近視のかたの眼はふつうの人間のそれよりもずっと美しい。これら三点の肖像に加えてもう一つ、あの風刺画家のオノレ・ドーミエが「政治家さまざま」と題した石版画シリーズのなかでトクヴィルを採りあげています(第四章の扉に出てきます)。
そこには小さな鼻眼鏡を手にした姿があり、「彼がいつも手にしているこの眼鏡のお蔭で外交問題を明晰に見ることができますように」という文言が添えられているのが大変興味深い。この眼鏡は近視のためのものだったのでしょうか。それともひょっとすると老眼鏡なのでしょうか。
「外交問題」とあることからもわかりますが、これはトクヴィルが一八四九年に外務大臣となった頃の作品です。つまりこのとき彼は四四歳になっています。その年齢で老眼は少し早すると思われるかもしれませんが、同じく四四歳で老眼鏡をかけることになった私には、そちらの可能性も否定はできません。そして早くから老眼鏡を必要とする者には、その以前から遠くにあるものがよく見えていたこともわかります。
ただし私のようにふつうの者であるなら、その「遠く」というのは物理的な距離にとどまります。ところがトクヴィルの場合は、視線が一方では大西洋の向こう側にまでとどいて、まだ見ぬ世界へと出発する決心をさせ、他方では自身が生れる以前に崩壊し消滅してしまっている、アンシャン・レジームつまりフランス革命の以前の社会の解剖へとも導きます。空間的ばかりではなく時間的な隔たりをも乗り越えて、なにごとかを見つめるまなざしなのです。
トクヴィルの眼の光はさらに、ある種の悲哀と諦念を帯びているようにも思えます。石版画の彼の表情を凡庸と形容してしまいましたが、しかしここからも社会にたいする無関心あるいは距離を感じることができないわけではない。いや、同時代のアメリカ社会とアンシャン・レジームのフランスの社会を詳細に記述し分析した彼が、社会についてただ無関心であったはずはけっしてなく、なにか思案げにいささか左のほうへ流れているのです。
この視線の流れが、主著の「アメリカのデモクラシー」(以下「デモクラシー」と記します)や「アンシャン・レジームとフランス革命」(同じく「アンシャン・レジーム」と記します)の文体などから受け取ることのできる、どこか人間と社会の深い部分を見てしまったトクヴィルの悲しみに近い感情を思い出させてしまいます。自身もふくめて「デモクラシー」と彼が名づける社会を生きる人間についての洞察力についてもいうなら、彼のまなざしの向かう「遠さ」には「深さ」も加えるべきなのかもしれません。
ISBN-13 : 978-4004312680
アレクシス・ド・トクヴィルには彼の姿を描くいくつかの絵画作品が残っています。そのなかでアンドレ・ジャルダンの手になる伝記をはじめとして、彼をめぐる書物の表紙のデザインにしばしば用いられていて、もっともよく見かけるのはテオドール・シャセリオーの描いた油彩の肖像でしょうか。本書の冒頭をごらんください。これは一八五〇年つまりトクヴィルの亡くなる九年前に制作されたもので、現在ヴェルサイユの美術館に所蔵されています。その次に知られているのは、レオン・ノエルの手になる石版画でしょう。
そのいずれも私は現物を見たことはないのですが、この二点を並べると、トクヴィルが後者ではどちらかというと凡庸な顔つきを示しているようであるのにたいして、前者では四〇歳代の半ばに達しているとは思えないほどの若わかしい表情とともに、とりわけ彼の眼の輝きが見る者の注意を惹き、そのまなざしがどこに向けられているのかたいへん気になるところです。画家を、あるいは作品に対峙する者を正面から見据えているようでありながら、本人からして心もち左のほうを向いているとも思えるトクヴィルの視線は、遠く世界の果てにまで到達しているのではないかとさえ考えたくなってきます。
二〇世紀の終わりから二一世紀のはじめにかけて刊行されたガリマール社のプレイヤード版の著作集では、その第二巻にノエル、第三巻にはシャセリオーの肖像の一部分が使用されていますが、第一巻にはまだ幼児の頃のトクヴィルの顔が現れます。全体としてはまだあどけない表情を残しているけれども、その眼もまた独特の光を放っているようで、この顔つきを眺めていると、彼のまなざしは終生とおして変わることがなかったのではないかという印象が強まります。
あるいはこの眼の光り具合は、彼が近視であったかもしれないことを想像させます。「政治的に不適切な」いいかたかもしれませんが、近視のかたの眼はふつうの人間のそれよりもずっと美しい。これら三点の肖像に加えてもう一つ、あの風刺画家のオノレ・ドーミエが「政治家さまざま」と題した石版画シリーズのなかでトクヴィルを採りあげています(第四章の扉に出てきます)。
そこには小さな鼻眼鏡を手にした姿があり、「彼がいつも手にしているこの眼鏡のお蔭で外交問題を明晰に見ることができますように」という文言が添えられているのが大変興味深い。この眼鏡は近視のためのものだったのでしょうか。それともひょっとすると老眼鏡なのでしょうか。
「外交問題」とあることからもわかりますが、これはトクヴィルが一八四九年に外務大臣となった頃の作品です。つまりこのとき彼は四四歳になっています。その年齢で老眼は少し早すると思われるかもしれませんが、同じく四四歳で老眼鏡をかけることになった私には、そちらの可能性も否定はできません。そして早くから老眼鏡を必要とする者には、その以前から遠くにあるものがよく見えていたこともわかります。
ただし私のようにふつうの者であるなら、その「遠く」というのは物理的な距離にとどまります。ところがトクヴィルの場合は、視線が一方では大西洋の向こう側にまでとどいて、まだ見ぬ世界へと出発する決心をさせ、他方では自身が生れる以前に崩壊し消滅してしまっている、アンシャン・レジームつまりフランス革命の以前の社会の解剖へとも導きます。空間的ばかりではなく時間的な隔たりをも乗り越えて、なにごとかを見つめるまなざしなのです。
トクヴィルの眼の光はさらに、ある種の悲哀と諦念を帯びているようにも思えます。石版画の彼の表情を凡庸と形容してしまいましたが、しかしここからも社会にたいする無関心あるいは距離を感じることができないわけではない。いや、同時代のアメリカ社会とアンシャン・レジームのフランスの社会を詳細に記述し分析した彼が、社会についてただ無関心であったはずはけっしてなく、なにか思案げにいささか左のほうへ流れているのです。
この視線の流れが、主著の「アメリカのデモクラシー」(以下「デモクラシー」と記します)や「アンシャン・レジームとフランス革命」(同じく「アンシャン・レジーム」と記します)の文体などから受け取ることのできる、どこか人間と社会の深い部分を見てしまったトクヴィルの悲しみに近い感情を思い出させてしまいます。自身もふくめて「デモクラシー」と彼が名づける社会を生きる人間についての洞察力についてもいうなら、彼のまなざしの向かう「遠さ」には「深さ」も加えるべきなのかもしれません。