2024年6月24日月曜日

20240624 株式会社東京堂出版刊 池内紀著「ドイツ職人紀行」 pp.116-120より抜粋

株式会社東京堂出版刊 池内紀著「ドイツ職人紀行」
pp.116-120より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4490209924
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4490209921

 スズという金属をごぞんじだろうか。漢字では「錫」、金属元素記号ではSnで示される。原子番号というのは何のことかは知らないが、50と表示されている。

 銀色、あるいは水銀色といわれるのにあたるが、よく見ると、ほんの少し青みがかかって色合いに深みがある。性質はよくのびるので、箔にしたりチューブにもできる。使いやすいので金ヘンに容易の「易」があてられたのだろうか。ドイツ語ではZinn、英語のtinと対応している。

 現在ではマレーシアやボリヴィアが主な産地だが、かつてはドイツとチェコの国境の山地でも産出した。そのためドイツでは早くから知られていた。性質が鉛と似ているので、両者を区別して、錫を「白い鉛」、本来の鉛を「黒い鉛」と言ったりした。箔にもチューブにもできるので、鉄や鉛にかぶせられる。黒かったものが、とたんに神々しい白銀色になる。

 そんなところから宗教の儀式のための用具に好んで錫が使われた。聖遺物入れ、水差し、燭台、儀式皿、ロザリオ、メダル・・・。金銀のように注目はひかないが、優れた錫の工芸品が数多く残されている。

 おのずとこの道の名工といわれた人がいた。ドイツ工芸の歴史を述べた本には、十六世紀のころのN・ホルヒハイマーやA・プレイセンジンといった名があげてある。「ドイツ・バロック美術展」などには、きっとまとめて代表作が並んでいるはずだが、その辺りはおおかたの人が素通りして、たいていひとけがない。

 マイセン市のフーゴー・レーマン氏は現代の名工である。つつましい人だから当人はそんなふうには言わないが、マイセンの錫工レーマンといえば、この世界でひろく知られている。レーマン工房の創業は1792年、現当主は七代目。共産党政権下にあっては安価な大量生産が原理であって、一つ一つ丹念につくる手仕事は白い目で見られた。それでもねばり強く工房をつづけてきた。

 創業200年とドイツ統一が、ほぼ一致したのは、我慢してきたゴホービかもしれない。以来、レーマン工房のガラス窓を、晴れやかな「マイセン錫200年」の銀色の文字が飾っている。

 わざわざ「マイセン錫」と断っているのは、知られるようにご当地マイセンは焼き物で有名だからだ。交叉した細い剣がマイセン磁器のマークであって、白く、なめらかな硬質の肌に青で染めつけてある。その世界中に知られたマイセン窯の本場で、200年にわたり錫工芸の伝統を守ってきたわけである。フーゴー・レーマンの先祖たちが、とびきりのガンコ者たちだったことがわかるだろう。

 この分野の名工が十六世紀以後あまり伝わらないのは、錫の効用が変化したからである。技術が進み、宗教や儀式用だけではなく生活具にも使われてきた。錫の性質からして利用しやすく、錆びないし、品のいい銀色をしている。安くつくれるとなると、ひっぱりだこだ。生活に余裕ができてくると、人々はそれまでの鉄器や銅器を錫製品に買い代える。

 古書ではたいてい甲冑師や蹄鉄師のあと、鉢づくりや鈴づくりにまじって錫工が出てくる。手前にズラリと並べてあるのは仕上がりの品だろう。錫の鉢や瓶や水差しや壺は、版画ではわからないが、壺からの明かりを受け、仄かな銀色の輝きを見せていたにちがいない。

火入れして鋳型をつくる

錫職人とはわしがことよ

ビール、ブドー酒には

瓶とコップがつきもの

鉢、盆、皿なんでもござれ

銚子、壺台、水差しときて

燭台、皿受け、ほかにも色々

家庭の入り用、何でもつくる

 名工による工芸品ではなく、職人仕事による生活用具がつくられていたことがわかるのだ。さぞかし注文がひきも切らない状態だったのだろう。こころなしか図に見る三人の職人は、とびきり忙しげだ。並べられた仕上がり品も、すぐさまとぶようにはけていったのではなかろうか。

 錫工の景気のよさを見込んでだろう、十八世紀末に、初代レーマンがマイセンの小山の麓に工房を開いた。町はエルベ川に面しており、船運が通っていた。チェコ国境の山地は同じザクセン王国の領土であって採掘された錫が船で運ばれてくる。たしかにいいところに目をつけた。ただ一つの不運は、同じ小山の上で、べつの技術の開発が進んでいたことである。

 マイセン磁器の誕生は、「剛胆王」とよばれるザクセン国王アウグストが、力づくで錬金術師ヨハーン・ベトガーを山上の工房に閉じこの、磁器の発明を命じたことにはじまる。十八世紀の初め、最初の赤い磁器、つまり赤器が陽の目をみた。ついで白磁に成功。

ベトガーの死後、J・ヘロルトやヨハーン・与アヒム・ケンドラーといった陶工があとを継ぎ、マイセン磁器の声価を高めた。フーゴー・レーマン氏の工房のすぐわきに小山へ登る石段があり、登りつめたところの建物に記念の銘板がつけられていて、そこがかつて名工ケンドラーの住居であったことがわかるのだ。

「どうして磁器のお膝元で錫の仕事場を開いたのでしょう?」

当主にたずねたことがある。マイセンといえば焼き物の町と同義語だ。錫の仕事は場所をずらして初めてもよかったのではなるまいか。

 フーゴー・レーマンさんの意見は明快だった。磁器と錫とは用途がちがう。買い手がかさなることがない。とりわけマイセン磁器は国王の肝入りでつくられ、とびきりの高級品とされてきた、金器銀器と同じく宮殿や邸宅に飾られ、貴族やブルジョアに求められてきた。一方、錫の産物は生活用具であって、人々の暮らしに欠かせない。宮殿の壁よりも居酒屋の棚に合っている。ブルジョアの宴よりも、庶民のお祝いごとに似つかわしい。だからこそ「マイセン錫200年」は、なおのこと意義があるー。

 現フーゴー・レーマンがこんなふうに述べ立てたわけではない。奥の椅子にすわり、風格のある鼻ひげの下にパイプをくわえ、ほんのふたこと、みこと口にしただけである。言外を私が捕捉したまでのこと。