ISBN-13 : 978-4623092260
クリミア戦争(一八五三~五六年)-「ヨーロッパ協調」の転換点
十六世紀初頭に地中海世界を席巻し、ヨーロッパ大陸を恐怖におとしめたオスマン帝国も、十九世紀半ばまでには「ヨーロッパの瀕死の病人」とまで呼ばれるほどに衰退した。このためギリシャの独立(一八三〇年)や、二度のシリア戦争を経た後のエジプトの事実上の独立(一八四一年)など、かつての支配地が次々と自立していった。
これに目をつけたのが、地中海への南下を狙うロシアであった。フランス皇帝ナポレオン三世が聖地イェルサレムの管理権をめぐってオスマン皇帝と折り合いを付けたことに、ロシア皇帝が抗議した。ロシアとオスマン帝国との関係が日増しに悪化し、ウィーンでの四大国(イギリス・フランス・オーストリア・プロイセン)による調停も失敗に終わり、一八五三年一一月までにはロシアとオスマンは戦闘状態に突入する。
2展 開
強力なロシア陸軍によりオスマン軍は押され、バルカン半島の主要部がロシアに占領された。地中海を通っての「インドへの道」を保持したいイギリスは、同じくロシアの南下に脅威を抱いたフランスと提携し、ここにロシアに対して宣戦布告した。(一八五四年三月)。
こののち戦争は、黒海に面するロシア最南端のクリミア半島をめぐって長期化・泥沼化した。一八五五年三月、各国で厭戦気分が高まるなか、ウィーンで会議が開かれたが、英仏露三国の調整は失敗に終わった。この間に、イギリスではパーマストン子爵が首相に就任し、陸海軍の強化が図られた。
一八五五年九月、黒海最強のセヴァストポリ要塞が陥落し、パーマストンはこれを機に本格的な遠征に乗り出すつもりであった。しかし同盟国のフランスはすでに戦闘意欲を失っており、ロシア側でも皇帝に即位したばかりのアレクサンドル二世が停戦へと動いた。
一八六五年二月下旬から、ナポレオン三世のフランスが主催国となり、パリで講和会議が開かれた。本来は紛争当事国の一つだったフランスが会議を開催できたのは、同盟国イギリスを「裏切る」形で、敵国ロシアに譲歩を示したからである。三月に締結されたパリ条約では、オスマン帝国の領土が列強により保障され、ロシアが占領した地域が変換されるとともに、黒海の非武装・中立化も盛り込まれた。ロシアによる南下政策は阻止されたが、セヴァストポリを落とされたロシアの被害も最小限で済んだ。
3意 義
クリミア戦争が、ウィーン体制下のヨーロッパ国際政治に与えた影響は甚大であった。まずは、それまでの鉄の絆を誇ってきた北方三列強の同盟関係を瓦解させた。ロシアが英仏二国と交戦状態に入ったにもかかわらず、地中海に権益を持たないプロイセンは見て見ぬふりをし、バルカン半島に利害を持つオーストリアに至っては、いつでも対露参戦できるよう英仏と密約を結んでいた。これにより、こののちはバルカン問題をめぐってロシアとオーストリアの対立が表面化していくとともに、ドイツ統一問題をめぐりオーストリアとプロイセンの確執を仲介する存在(それまではロシア)がいなくなってしまった。
さらに、パリ講和会議で外向的な成果を収めたナポレオン三世治下のフランスが、これ以降はヨーロッパでの地域紛争を「パリ会議」で収めていくとともに、さらなる領土的な野心も高めていく、そして、この戦争ではイギリス陸海軍(特に陸軍)の弱点が露呈し、イギリスはそれまでのような強力な調整役にはなりえなくなった。
その意味でも、クリミア戦争はウィーン体制と「ヨーロッパ協調」が崩壊していく転換点となったのである。
参考文献