300まで記事数が到達すると「果たして何かが生じるのか?はたまた、何も生じないのか?」とは今現在において分かりません。
しかし、そのように考えてみますと100、200記事に到達した際にも特に大きなことは何も生じませんでしたので、次の300記事においても、おそらくそのようなものではないかと思われます・・。
では300記事の次に400記事に到達した場合においてもそれは同様なのでしょうか?
そして、そうであるのならば、何故私はここまでブログ記事の更新を継続してきたのでしょうか?
無論、当初このブログをはじめた理由とは、これまでにも記した通り、様々な意味において功利的なものではなく、単に「何かしらまとまった文章を(再度)書けるようになりたい!」といった単純且つ切実なものでした。
そして書籍の抜粋を含めた記事を継続し投稿してきた結果、たしかに以前より容易に、ある程度まとまった文章を書くことが出来るようになったのではないかと思います・・(いや、果たして本当にそうなのであろうか?)。
では、これまでの一連の作成、投稿してきたブログを閲覧することにより、その過程とは何かしら認識、理解できるものなのでしょうか?
こうした疑問に対し、自身の見解を述べますと、おそらく昨年春‐秋にかけての対話形式の記事の方が最近投稿した一連のそれに比べ、その内容が深いものが多く、相対的に優れているのではないかと思われますが、皆様はどのようにお考えになるでしょうか?
しかし一方、ブログ記事作成に要する時間とは、最近投稿したものの方が昨年春‐秋に作成した一連の記事よりも概ね、短時間にて作成されております・・。
こうしたことから考えてみますと「少なくとも、以前に比べ「効率的」に文章を書くことが出来るようになったのではないだろうか?」とはいうことが出来るのではないかと思います・・。
では「効率的」に文章を書くとは、一体どういうことなのでしょうか?
そして、それはさきほどの文章内容の深さ、濃さとは無関係なのでしょうか?
感覚的な私見としては、何かしら関係があるのではないかと思われますが、同時にそれは、他の何かの要因により左右されているのではないかと思われます。
では「その他の何かの要因」とは、一体どのようなものなのでしょうか?
おそらくそれは一つではなく、また抽象的には「自身の総合的な状態」といったものではないかと思います。
また、そうした状態を維持、保持することが、文章を書く上において、なかなか重要なことではないかと思います。
そして、その文章を記すのに適した具体的な「自身の総合的な状態」とは、究極には個別的なことであり、それ故、自身にしか理解できないのではないかと思います・・。
そして、そうしたことをもしも普遍的に言語化できるのではあれば、それはそれでスゴイことなのではないでしょうか・・?」
今回の九州、熊本での大地震にて被災された地域の今後早期の復旧・復興を祈念しております。また、ここまで興味を持ってブログ記事を読んでくださった皆様、どうもありがとうございます。
そして、今後ともどうぞよろしくお願いします。