株式会社新潮社刊 新潮選書 高坂正尭著「歴史としての二十世紀」pp.106-109より抜粋
ISBN-10 : 4106039044
ISBN-13 : 978-4106039041
共産主義を理解する上で忘れてはならないのは、それが近代合理主義的な楽観論の極致であることです。しかも、その裏には終末論的楽観論があります。キリスト教の黙示録に典型的に現われていますが、既存の体制が瓦解した後、素晴らしい世の中がやってくるという終末論の世界観は、段階的に経済や社会が改善されていくという普通の楽観論とは異なります。
その萌芽はマルクスの著書にあります。「経済学・哲学草稿」「経済学批判」「資本論」などの著作があり、近代経済学を批判的に捉え直したマルクスの思想を簡単に紹介するのは不可能ですが、骨子はこれから申し上げるようなことになります。
資本主義生産の元では、労働者が過剰になり失業が増える。その原因は機械制生産であるのが第一点。次に、失業が生じる状況下では、労働力は買い手市場となり、労働者はますます貧しくなっていく。この「絶対窮乏化」理論がマルクスの思想の根底にあります。そして、生産力は伸びているので、少数の資本家がますます豊かになり、生産力は彼らの経営するところに集中していくと指摘します。
ところが、労働者は貧しくなっているのですから、購買力は増えず、商品は過剰気味になる。また生産力は向上するが、労働者に対して十分な賃金が払われないので、資本も過剰気味になる。この矛盾を解決するため、具体的には、余剰商品と余剰資本を売り捌くために、列強は帝国主義的に海外進出しますが、問題の解決にはならず、やがて過剰商品により恐慌が起こり資本主義が崩壊する。簡単に言えば、こういうことです。
先ほどの「終末論的楽観論」がこの図式に存在することを皆さんお気づきでしょう。人間の矛盾した二つの気持ちを満足させる説明のし方がそこにあるのです。一方では、文明が進歩し生産力が上昇する。他方、都市においては貧困がなくならないどころか一層、悲惨さを増している。マルクスが生きた十九世紀はまさにそんな時代でした。
産業革命後、なぜ都市労働者は苛酷さを強いられたのか、その理由はわかりませんが、一方で、我々が農村労働を長閑なものだと偶像化しがちであるという面はあろうかと思います。実際にやったことがないから、漠然と、自然の中で働くのは楽やろなという気持ちがあるのでしょう。しかし、実際のところ、それを値引きしても、産業革命初期の労働が田園における農業労働よりも苛酷であったことは間違いないでしょう。中世の農業は天気が悪いと休みになりますし、他にもやたらと休日がある。ヨーロッパであれば、キリスト教関連の祝日は一年中ありました。それに比べて、都市では労働時間が増え、工場の劣悪な環境で汚染された空気を吸って働かなければならなかった。当時の記録をみると、一八五〇年代のロンドンなどは言葉で言い表すことができないくらいすごかったようです。十軒長屋がずらっと並び、便所は一つ。衛生状態が悪いので、結核、コレラ、チフスなどの伝染病が時々流行したのもわかります。
ところが十九世紀のイギリス人も何もしなかったわけではなく、人道主義的にいろいろな工場法を制定しています。それでも、一八七〇年に至るまで平均寿命は五〇歳以下で、ほとんど延びてない。人びとはひどい環境の中で生きていたことがわかります。しかし、そういう状況でも、近代人の頭には「進歩」という理念があり、彼らは「人間は進歩するはずだ」と思っているわけです。
生産力も伸びているが、世の中に悲惨さも溢れている。それを見たとき、二、三〇〇年前なら、「人間の生活には悲惨さがつきものだ」「しかたがない」と自分を納得させたのだと思います。しかし、近代人は「しかたがない」とは言えない、そう考えられない頭の構造になっていまっている。そうすると、人間がもっと幸せになれるはずだし、世の中が進歩するはずなのに、この現状はなんだという暗澹たる気分になり、それなら、現状の体制を潰して伸びつつある生産力を使い、理想的な社会を作ればいいと考えるのは当然の帰結でしょう。
マルクス主義者が「科学」と呼んでいる「人間は進歩するはずだ」、「こうすれば世の中は変えることができる」という信念に普通の人間的な共感が結びつくと、それが共産主義になるわけです。そして、そのブロセスの青写真を描くことができる少数者が社会を指導すべきなのだという思考回路を、レイモン・アロンは「終末論的楽観論の極致である」と指摘しています。
世の中は複雑かつ不思議なもので、いいことが悪くなったり、悪いものがよくなったりすると柔軟に物事を考える立場だと、なかなかこういう発想にはなりません。しかし(人間は進歩すべきで、必ずその方法はある。その青写真は共産主義になる」という固い信念がある人間は、他人の意見には聞く耳を持たず、強引な形で政治を進めることになります。周囲もまた彼の批判ができなくなり、処刑する人も処刑される人も、正しい主義主張と一体のまま死にたいと思うでしょう。