A「本日の首都圏は日中は天気も良く、気温も上昇しましたが、夕刻より降雨となり、今現在では日中に比べ気温も大分下がり、幾分か肌寒く感じます・・。
さて、昨日投稿の記事は、あまり良い出来ではないと感じつつも思いのほか多くの方々に読んで頂けたようです・・。
また、昨今のように多少疲労を感じる時期とは、自身の記憶に頼り、想起に基づいた記事を作成するのが良いのではないかと考えるのですが、しかし、そうした時期に限り、記事の主題となり得るような記憶が甦ってこないのかもしれません・・(苦笑)。
とはいえ、であるからといって本日分の記事作成を断念するのは悔しいため、現在まさにそのことを題材として書いている次第といえます・・(苦笑)。
また、本日これまでの段階においては、昨日の投稿記事に関連する大分以前に投稿した記事が割合多く読まれていることから、こうした指摘、反応とは、どなたにより為されているのかは分かりませんが、少なくとも現今のような、新たな記事の作成を行っている状態においては、大変刺激になるものであり、また、そうした直近に投稿された記事に対する読みの深さ、あるいは的確とも云える指摘が為し得る感性およびその背景知識に敬意を表します・・。
そして、こうした指摘、反応が為されることがなければ、これまで継続してブログ記事を作成することが出来たかどうかとは、大変疑問に思うところです・・。
そういえば、本日になり気が付いたことですが、昨日の投稿記事内容を抽象しますと『温故知新』というコトバに集約されるのではないかと思われます・・。
また、おそらく現在の我が国の社会いや、世界情勢こそ、まさにこのコトバをキレイに忘却しているのではないでしょうか・・?
とはいえ、こうした情勢もまた、これまでの多くの経緯の蓄積およびそれらの反応により成立しているのですが、一体こうしたことは、どこにその原因の起点を求めれば良いのでしょうか・・?
その意味で現今の世界で見られる多くの不安定な状況もまた、少なくとも共通の落とし所、妥協点を見出せるところまでは時間を遡って考える必要があるのでしょうが、そうしますと、今度はその遡った時点での状況の認識が互いに異なり、そこからの調整、すり合わせがさらに困難を極めるのではないかと思われます・・。
また、そうした過去の状況に対する認識とは、往々にして現在の利害損得に基づいて為されていることから、そうした認識とは時代によって変化するのではないかと思われます・・。
具体例として我が国の場合、戦前と戦後における自国の歴史(過去)に対する認識とは大きく変化したのではないでしょうか?
そしてまた、自然と、そこで登場する人物たちの評価もまた異なってくると云えます・・。
しかしながら、あくまでもたとえ複数の国にまたがった出来事の歴史であろうと、あくまでもその歴史の出来事とは一つであり、パラレルワールドのものではありません・・。
それ故、理屈(のみ)で考えれば、存在するのはただ表現する言語のみの違いであることから、共通の落とし所、妥協点を見出せると思われるのですが、おそらくは、さきに述べた事情により、国際間にて共有される認識が得られることが妨げられているのではないかと思われます・・。
そして、こういったところが歴史をはじめ人文社会科学の学問が同じ科学ではあっても理系学問と大きく異なると思われるところではないでしょうか・・?
しかし、であるからといって歴史という人文社会科学を科学(普遍的)ではないと考えるのは、それこそ本末転倒な見解であり、そうした面倒をも踏まえて史実といえるものを考え続けること(ポーズ、格好だけではない)こそ、どの時代においても重要なことではないかと思われます・・。
これは特に面白い、刺激的なことではありませんが、一方、そうしたことを継続していると、さきとは異なる次元の面白い、刺激的なことをも見出すことが出来るようになるのかもしれません・・。
そして、それを望むかどうかとは一種の自身に対する賭けではないでしょうか・・(笑)?
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺にて発生した地震により被害を被った地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」
2017年4月12日水曜日
20170411 蓄積した疲労と能動的、創造的行為について・・(温故知新?)
本日の首都圏は終日の降雨であり、また気温も上がらず肌寒い一日でした・・。
そして、こうした日とはあまり活性が上がらず、記事作成を開始しても、イマイチ滑らかに行きません・・(苦笑)。
また、それに加え600記事到達が現実のものとして認識されるようになった現在、これまでの蓄積している疲労もまた、あらわれ易くなっているようです・・。
具体的には、気が抜ける時間が少し続くと、すぐに睡魔が襲ってくるという現象であり、これは昨今に至るまで認められなかった現象です・・(苦笑)。
それ故、今後600記事に到達しましたら、再度ある程度の期間、断筆を行い、これまでにブログ記事作成に充ててきた時間を読書や早寝あるいは応募書類の作成に充てようと思います・・。
そしてまた、ほとぼりが冷めてきましたら、能動的に文章が書きたくなり、再度何かを書き始めるのではないかと思われます・・。
そして、こういったことを考えてみますと、文章作成などを含む能動的、創造的な行為全般とは、熱中し取り組んでいる最中には特に感じることはないのですが、やはり生命、活力を消耗、削りつつ行っているのではないかと思われるのです・・。
また、我々の行うさまざまなこうした(能動的、創造的)行為とは、一面においては概ねそうした性質を持っているのではないでしょうか・・?
しかし、であるからといって何もしない方が良い、生命、活力を保持出来るというわけでもなく、能動的、創造的な行為とは、たしかに一面において生命、活力を消耗するといった性質を有しながららも、他面において、まさにそのこと(生命、活力を消耗する行為)によって、新たな生命、活力を吸収、得ているのではないかと思われるのです・・。
とはいえ、こうしたことを上記のように文章にて著してみますと平凡、陳腐なことのように捉えられがちですが、それでもなお、我々の生きている社会には、そうしたことまで思い至らずか、いたずらに生命、活力の保持のため活動を躊躇していると見られることも少なからず認められるのでないでしょうか・・?
実はそうしたことは、本末転倒であるにも関わらず・・。
また、そうしたこと(能動的、創造的行為)は、さまざまな時代の事物を観察することによっても認識することが出来るのではないでしょうか・・?
具体的なそうした事例として弥生時代につくられた銅鐸、そして古墳時代に造営された巨大古墳などを想起してみても理解することが出来るのではないかと思います・・。
弥生時代につくられた銅鐸とは、現在においても同様の原理にてつくられる鋳造によるものであるのであるのですが、弥生時代の銅鐸の身の金属(青銅)の薄さ(2㎜程度)とは、現在の鋳造技術においても、その身の金属の薄さとは、再現が困難であると云われております・・。
また、古墳時代に造営された巨大古墳も、重機など存在しない古代において、一体如何なる手法によって造営されたものであるかとは、完全には理解されておりません・・。
しかし、それらはいずれも間違いなく、我々の遠い先祖のつくったものであり、また、それを為さしめた要因とは、当時の技術であると共に端的に当時の人々つまり我々の遠い先祖の生命、活力であるのです・・。
こうしたことはあまり考えられることはありませんが、そこには何か大変深いものがあるのではないかと思われるのです・・。
そして、歴史などを知る、考えるうえでの面白さ、興味深さとは、一つに、これら目に見える遺物から、当時の人々の生命、活力つまり心、魂を(内面から)理解しようとすることではないかとも思われるのです・・(温故知新とはまさにそういった意味ではなかろうか?)。
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺にて発生した地震により被害を被った地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」
そして、こうした日とはあまり活性が上がらず、記事作成を開始しても、イマイチ滑らかに行きません・・(苦笑)。
また、それに加え600記事到達が現実のものとして認識されるようになった現在、これまでの蓄積している疲労もまた、あらわれ易くなっているようです・・。
具体的には、気が抜ける時間が少し続くと、すぐに睡魔が襲ってくるという現象であり、これは昨今に至るまで認められなかった現象です・・(苦笑)。
それ故、今後600記事に到達しましたら、再度ある程度の期間、断筆を行い、これまでにブログ記事作成に充ててきた時間を読書や早寝あるいは応募書類の作成に充てようと思います・・。
そしてまた、ほとぼりが冷めてきましたら、能動的に文章が書きたくなり、再度何かを書き始めるのではないかと思われます・・。
そして、こういったことを考えてみますと、文章作成などを含む能動的、創造的な行為全般とは、熱中し取り組んでいる最中には特に感じることはないのですが、やはり生命、活力を消耗、削りつつ行っているのではないかと思われるのです・・。
また、我々の行うさまざまなこうした(能動的、創造的)行為とは、一面においては概ねそうした性質を持っているのではないでしょうか・・?
しかし、であるからといって何もしない方が良い、生命、活力を保持出来るというわけでもなく、能動的、創造的な行為とは、たしかに一面において生命、活力を消耗するといった性質を有しながららも、他面において、まさにそのこと(生命、活力を消耗する行為)によって、新たな生命、活力を吸収、得ているのではないかと思われるのです・・。
とはいえ、こうしたことを上記のように文章にて著してみますと平凡、陳腐なことのように捉えられがちですが、それでもなお、我々の生きている社会には、そうしたことまで思い至らずか、いたずらに生命、活力の保持のため活動を躊躇していると見られることも少なからず認められるのでないでしょうか・・?
実はそうしたことは、本末転倒であるにも関わらず・・。
また、そうしたこと(能動的、創造的行為)は、さまざまな時代の事物を観察することによっても認識することが出来るのではないでしょうか・・?
具体的なそうした事例として弥生時代につくられた銅鐸、そして古墳時代に造営された巨大古墳などを想起してみても理解することが出来るのではないかと思います・・。
弥生時代につくられた銅鐸とは、現在においても同様の原理にてつくられる鋳造によるものであるのであるのですが、弥生時代の銅鐸の身の金属(青銅)の薄さ(2㎜程度)とは、現在の鋳造技術においても、その身の金属の薄さとは、再現が困難であると云われております・・。
また、古墳時代に造営された巨大古墳も、重機など存在しない古代において、一体如何なる手法によって造営されたものであるかとは、完全には理解されておりません・・。
しかし、それらはいずれも間違いなく、我々の遠い先祖のつくったものであり、また、それを為さしめた要因とは、当時の技術であると共に端的に当時の人々つまり我々の遠い先祖の生命、活力であるのです・・。
こうしたことはあまり考えられることはありませんが、そこには何か大変深いものがあるのではないかと思われるのです・・。
そして、歴史などを知る、考えるうえでの面白さ、興味深さとは、一つに、これら目に見える遺物から、当時の人々の生命、活力つまり心、魂を(内面から)理解しようとすることではないかとも思われるのです・・(温故知新とはまさにそういった意味ではなかろうか?)。
今回もまた、ここまで興味を持って読んで頂いた皆様、どうもありがとうございます。
去る2016年、熊本、山陰東部、福島県周辺にて発生した地震により被害を被った地域の諸インフラの出来るだけ早期の復旧、そして、その後の復興を祈念しております。」
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