2015年9月18日金曜日

北杜夫著「どくとるマンボウ青春記」新潮社刊pp.153-155より抜粋

『ともあれ、私たちはかなりの愚行を重ねて日を送ってきた。あとでふりかえってみて自ら忸怩たるものがある。
しかし、すべてがあながち無駄ではなかったと思うし、それどころか、これほど吸収するところの多かった時代は、わが生涯に於いて唯一のものといってよいのではあるまいか。

私の場合、高校に入るまで、あまりに無知でそれだけ無地であったことが、むしろ幸いだったのかもしれない。
たとえば読書ひとつにしろ、現在の私は、なにかの目的に縛られて読んでいる。あるときは小説の資料のため、あるときはストレスを解かんがため、七面倒な、またはくだらぬ本を読む。それが当時は、自分が何も知らないという不安解消のためもあったが、より多くはほとんど目的なしに読んだ。
それが面白かったから読み、素晴らしかったから読み、何が何やらわからないから驚嘆して読んだのだ。空腹だったから雑草まで食べたように、精神的の飢餓が貪婪に活字を求めたのである。また、すべてが遊びの要素を含んでいた。それだけ自由であったともいえる。
吉川英治の「宮本武蔵」もトルストイの「戦争と平和」も同じ基準をもって読んだ。
その挙句、「トルストイはなんたる退屈さだ」という感想を抱いても一向に差し支えなかった(私がトルストイの偉大さがわかったのはかなりの後年になる)一方、ホールデンの「生物学の哲学的基礎」という本は当時の私に非常な感銘を与えたらしいが、いま私はその内容をまったく忘れてしまっている。それはそれで一向にかまわないことだが、現在の職業に縛られた私にとっては、その抜き書きのノートを失ったことを残念に思うことも確かで、これはなさけないスケベ心といえよう。
無目的の読書のほうが、ぞんがいその人間を豊かにするものだ。若さのもつエネルギーというものは、もともと無色無方向なことを特色とする。それは太平洋をヨットで横断もし、特攻隊となって死地におもむきもし、睡眠薬を飲んでフリーセックスもし、非合法なデモを行いもする。偉大であると共に危険であり、純粋であると共にいやらしくもある。社会から賛美されもすれば非難されもする。しかし、それが本来意識をもたぬエネルギーの本質なのだ。

ヴァレリーの言葉

「彼がなした馬鹿なこと、彼がなさなかった馬鹿なことが、人間の後悔を半分ずつ引き受ける。」

ゲーテの言葉

「われわれは生まれつき、美徳に転じえないような欠点は持っていないし、美徳も持っていない」

大人は齢をとればとるほど若者に対しブツブツ文句をいう。
それが当然で、もし全然文句をいわない大人があったら、彼は若さを体験してこなかったのだ。
若者よ、齢とった者には安んじて文句をいわせておけばよい。
しかし、片耳でその言葉のひとかけらを聞き、片目でその生き方を見ておいても無駄にはなるまい。

バーナード・ショウは、「四十歳を過ぎた男は誰でもみんな悪党である」と言ったが、悪党というものは善人よりなにかしらの智慧があるものだ。

若者よ、年寄りを侮蔑してもよい。しかし、必然的に自分もまた年寄りとなり、近ごろの若い者は、などと言い出す存在であることも忘れるな。若者よ、自信をもち、そして同時に絶望せよ。

北杜夫
どくとるマンボウ青春記
どくとるマンボウ青春記 (新潮文庫)
ISBN-10: 410113152X
ISBN-13: 978-4101131528




                            

北杜夫著「どくとるマンボウ医局記」 加藤周一著「日本文学史序説」下巻より各々抜粋

北杜夫著「どくとるマンボウ医局記」中央公論社刊pp.100-101より抜粋

だがその中でもっとも目立つのは、ナチの帽子をかぶり、チョビ髭を生やした男がヒットラーの演説をやることであった。それもチャップリンの「独裁者」のヒンケルの演説と同様、本物のドイツ語はちょっぴりで、あとはいかにもドイツ語らしく聞こえるエセ・ドイツ語である。それでも彼は得意満面、胸をはり腕をふりあげて、やたらRの音を強調して堂々と演説する。昔の医者はほとんどドイツ語教育で育ったから、本物のドイツ語とインチキドイツ語の区別がつき、そのおかしさが分かり、この男は拍手喝采を受ける。

この人物が、弱ったことに戸籍上は私の兄にあたる斎藤茂太氏なのである。

私は少年時代から、ボール紙でナチの軍帽を作るのを手伝わされた思い出がある。

その当時こそヒットラーは栄光に包まれていた。
しかし、ドイツも日本もみじめに戦争に敗れ、ヒットラーの威風もすっかり地に墜ち、悪名ばかり高まった戦後の時代になっても。
この人物はなおかつその真似を得意になってやらかすのだ。
しかも、それは新年会の名物になっているらしく、満座の人々は喝采するのである。

私はさすがに恥ずかしくて、最初の正月のみこの演説を聞きはしたが、以来北里講堂には行かないことにした。
それからどれほどの歳月が経ったことか。つい先年のこと、私は兄にこう尋ねてみた。

「お兄さまのヒットラーは何時頃までやったのですか?」

すると、あきれたことに兄はこう澄まして答えたのだ。

「なに。まだやっているよ」

と。

加藤周一著「日本文学史序説」下巻 筑摩書房刊pp433-434より抜粋

「自然」と「詩」に対して、見事に知的に武装していた斎藤茂吉は、歴史的な「社会」に対しては、無防備で、ほとんど小児の如くであった。30年代末の軍国主義の時代に。彼が突然、中国侵略戦争を謳歌し、東条をはじめとする軍閥の指導者たちを賛美し、戦争宣伝のために沢山の馬鹿げた歌を作ったのではない。権力がそれを求めたときに、彼にはそれを拒否するどういう理由もなかったのである。茂吉は便乗せず、まさに小児のように、信じた。それより早く、たとえば、1923年に、オーストリア・ドイツに留学していた頃、彼はミュンヘンでヒトラーの「プッチュ」に出会ったことがある。帰国後、その事件の概要を当時の手帳をもとにして綴り(1926~27)、後に追記を加えて35年に発表したのが、「ヒットレル事件」(「斎藤茂吉全集」第五巻、岩波、1973、所収)である。そこには、事件の意味が「一介の医学書生の私」にはわからぬとか、ヒットラーの全体は「一精神医の私」には決してわからぬだろうとかいう言葉が頻りにあらわれ、「ナチ」という歴史的政治的現象の、そういうものとしての分析も批判も、みられない。そのことと、455月にヒットラームッソリーニの死を聞いて、荷風がその日記に「天網疎ならず」と書いていたとき、茂吉がその日記(「昭和2052日」の条、「全集」第32)に、ヒットラーの死を誌しながら、一語の感想もそこに書き加え得なかったことと、決して切離しては考えることができないだろう。

中島岳志篇 「橋川文三セレクション」 岩波現代文庫刊 pp.90-93より抜粋

一体、明治期におけるナショナリズムの理念を支えた主体の構造はいかなるものであったか?
いうまでもなく、その心理的基礎の一貫性として考えられるものは、幕末の攘夷論にみられる士族的危機感にほかならなかった。
しかし、その実感としての危機感が、開国=維新の論理に旋回しえたのは、国際関係に対する一種の普遍的理念の媒介を必要とした。
つまり、鎖国と幕藩体制というスタティックな環境において形成された武士階級の思考様式の中から、全く新しい問題状況(国家と国家の交際もしくは対峙)への適応態度が展開するためには、そこのなんらかの変換軸が存在しなければならなかった。
この問題について、もっとも深い洞察を示したものは、丸山真男が「近代日本の思想史における国家理性」等で提示した解釈であろう。
その要旨は次のようなものであった。
まず旧武士階級の認識の中に列強対峙という国際社会のイメージが比較的スムーズに、リアリスティックに定着しえたのは、「日本の国内における大名分国制からの連想ではなかったろうか。
戦国時代の固定化としての大名分国制によって多年養われた国内的イメージは、国際的危機感に触発されて、いまや世界規模にまで拡大(丸山真男「開国」)されたためと考える。
また、国際的規模(国際法)の存在が同様に比較的スムーズに承認されるにいたったのは、「・・・要するに儒教的な天理・天道の観念における超越的な規範性の契機を徹底させることを通じて」(同上)実現されたものと考えられている。
この二つの仮説は、東海散士のナショナリズムを考える場合にも有効であろう。
この仮説と、先に引いた飛鳥井論文における集団―個人に関する解釈とを結びつけることによって、私は「佳人之奇遇」におけるナショナリズムの思想史上の定位を明らかにすることができると考える。
引用の部分に示されるように、亡国の遺臣たちの談話を聞いたとき、散士の胸中にあふれたものは、何よりも会津藩滅亡の回想であった。
これはいうまでもなく士族的実感の立場であり、その実感がそのままアイルランド、スペイン等々の独立問題に対する散士の論理的思考の基礎となっている。
封建的思考の次元で養われたナショナリズム(封建的忠誠)が、そのまま国際的規模に拡大されているのである。
散士は自己の身分と結びついた体験の含む普遍性について何ら疑わないばかりか、己のイメージを幽蘭や紅蓮、范卿の境涯と同一化して涙を流すのである。
ここではまさに大名分国制の中で養われた国家の対峙の感覚が、そのまま国際社会の事態にあてはめられている。
散士ばかりではない。一般に分国制のもとでの体験が強烈なナショナリズムへの媒介契機となった例は少なからず見出せる。そのもっとも有名なものの一つは、板垣退助が「自由党史」で述べている感想だろう。
彼は東征参謀として会津落城を実見したのであるが、そのさい、藩に殉じたものはわずか五千の藩士にすぎず、庶民はただ逃げ惑うのみであったといわれる。
さらに、前に見た福沢の場合でも、やはりその封建下の諸体験が、国際政治の論理的理解の基礎になっていた。
一方、士族的ナショナリズムの健全な側面として特徴的なことは、対外人コンプレックスの比較的少ないことであった。
それは、すべての人類の妥当する普遍的規範の意識がかれらにおいて健全に保たれていたことによるが、「佳人之奇遇」においてそれがもっともよく示されるのは、やはり散士と外国女性との交情においてであろう。
そこには近代的恋愛の複雑な内面関係はないかもしれないが、人間同士の恋愛の姿は、比較的、普遍的な感動を引き起こす形で描かれている。
これらの事情について飛鳥井は「佳人之奇遇」において「個人は民族の代表者としての意味を持っていた。
変革期において、個人はそのバックとする集団と本質的な矛盾を持たず、個人の運命はその集団の中に溶け込んでいた」と述べている。
これは概括的な意味では正しいであろうが、問題はその集団の統一核となる精神構造―そのイデオロギーの内容であろう。
ここでは、その点において、伝統的思考様式(教養)の果たした役割を合わせて考えることが必要であった。
「佳人之奇遇」におけるナショナリズムの士族的起源について、以上の様な考察を行ったのちには、その文体の問題は比較的容易に類推することができよう。
それは簡単にいえば「漢学趣味とロマンティシズム」の結合形態であったが、新たな国際社会へと開かれたヴィジョンは、当面、漢文くずしの文章でしかこれを表現することが出来なかった。
そのことは、透谷や樗牛、鴎外(とくにその「即興詩人」)、土井晩翠などについても一部適合する事情であったが、なぜそれ以外の文体が有効たりえなかったは、近代文章史において、より詳しく検討される必要があろう。
橋川文三セレクション (岩波現代文庫)
橋川文三セレクション (岩波現代文庫)
ISBN-10: 4006002572
ISBN-13: 978-4006002572
橋川文三