いうまでもなく、その心理的基礎の一貫性として考えられるものは、幕末の攘夷論にみられる士族的危機感にほかならなかった。
しかし、その実感としての危機感が、開国=維新の論理に旋回しえたのは、国際関係に対する一種の普遍的理念の媒介を必要とした。
つまり、鎖国と幕藩体制というスタティックな環境において形成された武士階級の思考様式の中から、全く新しい問題状況(国家と国家の交際もしくは対峙)への適応態度が展開するためには、そこのなんらかの変換軸が存在しなければならなかった。
この問題について、もっとも深い洞察を示したものは、丸山真男が「近代日本の思想史における国家理性」等で提示した解釈であろう。
その要旨は次のようなものであった。
まず旧武士階級の認識の中に列強対峙という国際社会のイメージが比較的スムーズに、リアリスティックに定着しえたのは、「日本の国内における大名分国制からの連想ではなかったろうか。
戦国時代の固定化としての大名分国制によって多年養われた国内的イメージは、国際的危機感に触発されて、いまや世界規模にまで拡大(丸山真男「開国」)されたためと考える。
また、国際的規模(国際法)の存在が同様に比較的スムーズに承認されるにいたったのは、「・・・要するに儒教的な天理・天道の観念における超越的な規範性の契機を徹底させることを通じて」(同上)実現されたものと考えられている。
この二つの仮説は、東海散士のナショナリズムを考える場合にも有効であろう。
この仮説と、先に引いた飛鳥井論文における集団―個人に関する解釈とを結びつけることによって、私は「佳人之奇遇」におけるナショナリズムの思想史上の定位を明らかにすることができると考える。
引用の部分に示されるように、亡国の遺臣たちの談話を聞いたとき、散士の胸中にあふれたものは、何よりも会津藩滅亡の回想であった。
これはいうまでもなく士族的実感の立場であり、その実感がそのままアイルランド、スペイン等々の独立問題に対する散士の論理的思考の基礎となっている。
封建的思考の次元で養われたナショナリズム(封建的忠誠)が、そのまま国際的規模に拡大されているのである。
散士は自己の身分と結びついた体験の含む普遍性について何ら疑わないばかりか、己のイメージを幽蘭や紅蓮、范卿の境涯と同一化して涙を流すのである。
ここではまさに大名分国制の中で養われた国家の対峙の感覚が、そのまま国際社会の事態にあてはめられている。
散士ばかりではない。一般に分国制のもとでの体験が強烈なナショナリズムへの媒介契機となった例は少なからず見出せる。そのもっとも有名なものの一つは、板垣退助が「自由党史」で述べている感想だろう。
彼は東征参謀として会津落城を実見したのであるが、そのさい、藩に殉じたものはわずか五千の藩士にすぎず、庶民はただ逃げ惑うのみであったといわれる。
さらに、前に見た福沢の場合でも、やはりその封建下の諸体験が、国際政治の論理的理解の基礎になっていた。
一方、士族的ナショナリズムの健全な側面として特徴的なことは、対外人コンプレックスの比較的少ないことであった。
それは、すべての人類の妥当する普遍的規範の意識がかれらにおいて健全に保たれていたことによるが、「佳人之奇遇」においてそれがもっともよく示されるのは、やはり散士と外国女性との交情においてであろう。
そこには近代的恋愛の複雑な内面関係はないかもしれないが、人間同士の恋愛の姿は、比較的、普遍的な感動を引き起こす形で描かれている。
これらの事情について飛鳥井は「佳人之奇遇」において「個人は民族の代表者としての意味を持っていた。
変革期において、個人はそのバックとする集団と本質的な矛盾を持たず、個人の運命はその集団の中に溶け込んでいた」と述べている。
これは概括的な意味では正しいであろうが、問題はその集団の統一核となる精神構造―そのイデオロギーの内容であろう。
ここでは、その点において、伝統的思考様式(教養)の果たした役割を合わせて考えることが必要であった。
「佳人之奇遇」におけるナショナリズムの士族的起源について、以上の様な考察を行ったのちには、その文体の問題は比較的容易に類推することができよう。
それは簡単にいえば「漢学趣味とロマンティシズム」の結合形態であったが、新たな国際社会へと開かれたヴィジョンは、当面、漢文くずしの文章でしかこれを表現することが出来なかった。
そのことは、透谷や樗牛、鴎外(とくにその「即興詩人」)、土井晩翠などについても一部適合する事情であったが、なぜそれ以外の文体が有効たりえなかったは、近代文章史において、より詳しく検討される必要があろう。
橋川文三セレクション (岩波現代文庫)
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ISBN-10: 4006002572
ISBN-13: 978-4006002572
橋川文三
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