2015年9月18日金曜日

北杜夫著「どくとるマンボウ医局記」 加藤周一著「日本文学史序説」下巻より各々抜粋

北杜夫著「どくとるマンボウ医局記」中央公論社刊pp.100-101より抜粋

だがその中でもっとも目立つのは、ナチの帽子をかぶり、チョビ髭を生やした男がヒットラーの演説をやることであった。それもチャップリンの「独裁者」のヒンケルの演説と同様、本物のドイツ語はちょっぴりで、あとはいかにもドイツ語らしく聞こえるエセ・ドイツ語である。それでも彼は得意満面、胸をはり腕をふりあげて、やたらRの音を強調して堂々と演説する。昔の医者はほとんどドイツ語教育で育ったから、本物のドイツ語とインチキドイツ語の区別がつき、そのおかしさが分かり、この男は拍手喝采を受ける。

この人物が、弱ったことに戸籍上は私の兄にあたる斎藤茂太氏なのである。

私は少年時代から、ボール紙でナチの軍帽を作るのを手伝わされた思い出がある。

その当時こそヒットラーは栄光に包まれていた。
しかし、ドイツも日本もみじめに戦争に敗れ、ヒットラーの威風もすっかり地に墜ち、悪名ばかり高まった戦後の時代になっても。
この人物はなおかつその真似を得意になってやらかすのだ。
しかも、それは新年会の名物になっているらしく、満座の人々は喝采するのである。

私はさすがに恥ずかしくて、最初の正月のみこの演説を聞きはしたが、以来北里講堂には行かないことにした。
それからどれほどの歳月が経ったことか。つい先年のこと、私は兄にこう尋ねてみた。

「お兄さまのヒットラーは何時頃までやったのですか?」

すると、あきれたことに兄はこう澄まして答えたのだ。

「なに。まだやっているよ」

と。

加藤周一著「日本文学史序説」下巻 筑摩書房刊pp433-434より抜粋

「自然」と「詩」に対して、見事に知的に武装していた斎藤茂吉は、歴史的な「社会」に対しては、無防備で、ほとんど小児の如くであった。30年代末の軍国主義の時代に。彼が突然、中国侵略戦争を謳歌し、東条をはじめとする軍閥の指導者たちを賛美し、戦争宣伝のために沢山の馬鹿げた歌を作ったのではない。権力がそれを求めたときに、彼にはそれを拒否するどういう理由もなかったのである。茂吉は便乗せず、まさに小児のように、信じた。それより早く、たとえば、1923年に、オーストリア・ドイツに留学していた頃、彼はミュンヘンでヒトラーの「プッチュ」に出会ったことがある。帰国後、その事件の概要を当時の手帳をもとにして綴り(1926~27)、後に追記を加えて35年に発表したのが、「ヒットレル事件」(「斎藤茂吉全集」第五巻、岩波、1973、所収)である。そこには、事件の意味が「一介の医学書生の私」にはわからぬとか、ヒットラーの全体は「一精神医の私」には決してわからぬだろうとかいう言葉が頻りにあらわれ、「ナチ」という歴史的政治的現象の、そういうものとしての分析も批判も、みられない。そのことと、455月にヒットラームッソリーニの死を聞いて、荷風がその日記に「天網疎ならず」と書いていたとき、茂吉がその日記(「昭和2052日」の条、「全集」第32)に、ヒットラーの死を誌しながら、一語の感想もそこに書き加え得なかったことと、決して切離しては考えることができないだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿