2024年7月10日水曜日

20240710 慶應義塾大学出版会株式会社刊 福澤諭吉著 伊藤正雄訳「現代語訳 文明論之概略」 pp.103‐106より抜粋

慶應義塾大学出版会株式会社刊 福澤諭吉著 伊藤正雄訳「現代語訳 文明論之概略」
pp.103‐106より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4766417445
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4766417449

 ペリーが渡来して以来、徳川幕府が諸外国と条約を結ぶに及んで、日本人は始めて幕府の措置の拙劣さ、その弱体さを知るに至った。さらに外国人と接触して、彼らの意見を聞き、また洋書を読み、訳本を見るにつれて、いよいよ見識が広くなり、鬼神の如き幕府といえども、人の力で倒せぬことはないと信ずるようになった。たとえていえば、つんぼや盲の耳や目が急に直って、始めて声や色を見聞したようなものである。

 こうして起った最初の議論は攘夷論であった。そもそも攘夷論が起った原因は、決して人々の利己的な感情ではない。自国と外国との別を明らかにし、自国の独立を守ろうとする誠意から出たものである。開闢以来始めて見知らぬ異国人と接したのだから、真っ暗で静かな深夜から、急に騒音だらけの白昼に変ったようなものだ。見るもの聞くものすべて奇奇怪怪で、気に食わなかったのは無理もない。攘夷家の志は、自分一個の利益のためではなく、日本と外国との優劣を自分なりに想像して、身を以て万国に冠たる祖国の運命を担おうと誓ったのだから、義勇奉公の精神といわなければならぬ。もちろん急に暗やみから明るみに飛出したような時代とて、戸惑うあまり、その思想は理路整然たるわけにはゆかない。その行動もとかく粗暴で、無分別に陥りやすかった。要するに、愛国心としては、粗雑で未熟なるを免れなかったが、ともあれ、国に尽くそうというのが目的だから、やはり無私の精神とせねばならぬ。またその論は、外敵を追っ払おうという一念だけだから、きわめて単純なものである。無私の精神で単純な議論を唱えれば、当然その意気込みはエスカレートせざるを得ない。これすなわち攘夷論が最初、力を得た由縁である。世間も一時この勢にのまれて、外国と交際することの利益は見ずに、ただ外国を憎む一方となった。天下の悪事はすべて外国との交際にありとして、少しでも国内に災害があれば、何もかも外人の所業、外人の謀略と称し、国をあげて外国との交際を喜ばぬ始末であった。たといひそからにそれを欲する者があっても、世間一般の風潮に同調せざるを得なかったのである。

 ところが幕府自体は、外交の衝に当る責任者だから、外人との交渉には相当の道理を以て臨まねばならぬ。幕府の役人とて、内心外交を好む者ではなかったが、外国の圧力と理詰めの談判とに抵抗しかねて、一応外交の必要を国民に説かざるを得なかった。だが、そんな理由は、攘夷論者から見れば、いかにもいくじのない一時遁れの欺瞞にした映じない。そこで幕府は、国民の攘夷論と外国人との板ばさみとなり、進退きわまった格好である。国民の力と平衡を保つどころか、ますます体制の弱体ぶりを暴露するに至った。そこで攘夷論者はいよいよ図に乗って、その活動は天下御免の形となり、攘夷復古・尊王討幕を看板にして、もっぱら幕府を倒し、外人を追っ払うことに狂奔した。その際、殺人・放火など、識者の眉をひそめるような暴力沙汰も少なくなったが、ともあれ倒幕という点で世論は一致し、全国の知力がすべての目的に集中した結果、慶応の末年に至って、ついに維新の革命は成功したのである。

 しかるに、この線を進めてゆけば、当然王政復古の暁は、直ちに攘夷を実行すべきであるのに、そうはならなかった。また仇敵の幕府を倒した上は大願成就のはずなのに、さらに一般の大名や武士まで抹殺したのはどうしたことだろう。思うにそれは偶然ではない。攘夷論は単に維新の最初の段階にすぎず、いわゆる事の近因をなしただけだからである。国民の知力は、最初かたその進む方向が別にあった。目的とするところは、王政復古でも、攘夷でもない。復古攘夷を名目にして、実は旧来の門閥専制の制度を退治するのが眼目だったのである。だから維新の主役は皇室ではなく、また適役も幕府ではなかった。つまりは知力と専制との戦いで、これを遂行した原動力は、国民すべての知力だったのだ。この知力こそ、事の遠因だったのである。

 この遠因たる国民の知力は、開港以来、西洋文明国の学問思想を援軍としたので、洋学の勢力は強大になった。だが、知力の戦いを進めるには、先頭を切る兵隊が要るわけだ。そこでしばらくかの近因たる尊王攘夷論を味方にして、専制門閥打倒の戦いを展開し、維新を成功させて凱旋したのである。先鋒をつとめた攘夷論は、一時大いに力を得たようだが、維新後には、次第にその理論が粗雑で、永続できぬことが分かってきた、そこでかつての無鉄砲な攘夷家も、だんだん武力主義を捨てて、知力主義の方に転向し、今日の日本を見るに至ったのである。今後もこの知力がますます勢いを得て、往時の粗暴幼稚な愛国心を周密高度の愛国心に高め、それによってわが国体を護持できるならば、無量の幸福というべきである。くり返していえば、王政復古は皇室の威力によるのではなく、皇室はただ国内の知力に尊王の看板を貸したにすぎない。廃藩置県も、維新の実力者の英断によるのではなく、彼らはむしろ国内の知力に動かされて、国民のエネルギーを具体化しただけである。

20240709 株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田 裕之訳「21 Lessons ; 21世紀の人類のための21の思考」 pp.138-142より抜粋

株式会社河出書房新社刊 ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田 裕之訳「21 Lessons ; 21世紀の人類のための21の思考」
pp.138-142より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4309467458
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4309467450

 もし、一握りのエリート層の手に富と権力が集中するのを防ぎたいのなら、データの所有権を統制することが肝心だ。古代には、土地はこの世で最も重要な資産であり、政治は土地を支配するための戦いで、あまりに多くの土地があまりに少数の手に集中したときには、社会は貴族と庶民に分かれた。近代には機械と工場が土地よりも重要になり、政治闘争は、そうした必要不可欠な生産手段を支配することに焦点を合わせた。そして、あまりに多くの機会があまりに少数の手に集中したときには、社会は資本家階級と無産階級に分かれた。それに対して二一世紀の最も重要な資産はデータで、土地と機械はともにすっかり影が薄くなり、政治はデータの流れを支配するための戦いと化すだろう。もしデータがあまりに少数の手に集中すると、人類は異なる種に分かれることになる。

 データの獲得競争はすでに始まっており、グーグルやフェイスブック、百度(パイドウ)、勝騰(テンセント)といった巨大なデータ企業が先頭を走っている。これまでのところ、こうした巨大企業の多くは、「注意商人(attention merchant)」というビジネスモデルを採用しているようだ。彼らは無料の情報やサービスや娯楽を提供することで私たちの注意を惹き、その注意を広告主に転売する。とはいえ巨大なデータ企業はおそらく、従来のどの「注意商人」よりもはるかに上を狙っている。彼らの真の事業は広告を売ることではまったくない。むしろ、私たちの注意を惹いて、私たちに関する膨大なデータを首尾良く蓄積することだ。そうしたデータはどんな広告収入よりも価値がある。私たちは彼らの顧客ではなく、製品なのだ。

 中期的には、このようなデータの蓄積は、これまでとは根本的に異なるビジネスモデルへの道を拓く。その最初の犠牲者は、広告業界そのものになるだろう。新しいビジネスモデルは、物を選んで買う権限を含め、さまざまな権限を人間からアルゴリズムへと移すことに基づいている。いったんアルゴリズムが私たちのために物を選んで買うようになれば、旧来の広告業界は潰滅する。グーグルを考えてほしい。グーグルは、私たちが何を尋ねても、世界一の答えを与えられる段階まで到達することを望んでいる。私たちが、「こんにちは、グーグル。あなたが自動車について知っていることのいっさいと、私(私の必要や習慣、地球温暖化についての見方、さらには中東の政治についての意見まで含む)について知っていることのいっさいに基づけば、私にいちばんふさわしいのはどの自動車?」とグーグルに訊くと、どうなるか?もしグーグルが適切な答えを与えることができ、もし私たちが、簡単に操作されてしまう自分自身の感情でなくグーグルの知恵を信頼することを経験から学べば、自動車の広告など、なんの役に立つだろう?

 長期的には、巨大なデータ企業は十分なデータと十分な演算能力を併せ持つことで、生命の最も深遠な秘密をハッキングし、そうして得た知識を使って私たちのために選択をしたり私たちを操作したりするだけでなく、有機生命体を根本から作り直したり非有機生命体を創り出したりできるようになりうる。巨大なデータ企業は、短期的には経営を維持するために広告の販売を必要とするかもしれないが、アプリケーションや製品や企業を、それらが生み出すお金ではなく獲得するデータに即して評価することが多い。人気のあるアプリは、ビジネスモデルを欠いていて、短期的には損失を出しさえするかもしれないが、データを惹き寄せてくれるかぎり、莫大な金銭的価値を持ちうる。たとえ今はそのデータからどうやって利益をあげるかわからなくても、データは持っておく価値がある。なぜなら、将来、生命を制御したり、生命の行方を決めたりするカギを握っているかもしれないからだ。巨大なデータ企業がそれについてのそういう形で明確に考えているかどうかは、はっきりとはわからないが、彼らの行動を見ると、ただお金よりもデータの蓄積を重視していることがうかがわれる。

 普通の人間は、この過程に逆らおうとしたら、ひどく難儀するだろう。現時点では人々は自分の最も貴重な資産、すなわち個人データを、無料の電子メールサービスや面白おかしい猫の動画と引き換えに、喜んで手放している。色鮮やかなガラス珠や安価な装身具と引き換えに、ヨーロッパの帝国主義者に図らずも国をまるごと売ってしまったアフリカの部族やアメリカの先住民と少し似ている。後で普通の人々がデータの流れを遮断しようと決めたとしても、そうするのはしだいに困難になるだろう。自分のありとあらゆる決定はもとより、医療や身体的生存のためにさえ、ネットワークに頼るようになれば、なおさらだ。

 人間と機械は完全に融合し、人間はネットワークとの接続を絶たれれば、まったく生き延びられないようになるかもしれない。子宮の中にいるうちからネットワークに接続され、その後、接続を絶つことを選べば、保険代理店からは保険加入を拒否され、雇用者からは雇用を拒否され、医療サービスからは医療を拒否されかねない。健康とプライバシーが正面衝突したら、健康の圧勝に終わる可能性が高い。

 あなたの体や脳からバイオメトリックセンサーを通してスマートマシンへ流れるデータが増えるにつれて、企業や政府機関は簡単にあなたを知ったり、操作したり、あなたに代わって決定を下したりするようになる。なおさら重要なのだが、企業や政府機関は、すべての体と脳の難解なメカニズムを解読し、それによって生命を創り出す力を獲得しうる。そのような神のような力を一握りのエリートが独占するのを防ぎたければ、そして、人間が生物学的なカーストに分かれるのを防ぎたければ、肝心の疑問は、誰がデータを制するか、だ。私のDNAや脳や人生についてのデータは私のものなのか、政府のものなのか、どこかの企業のものなのか、人類という共同体のものなのか?

 政府にそのデータを国有化するように義務づければ、おそらく大企業の力を制限できるが、ぞっとするようなデジタル独裁国家を誕生させかねない。政治家はミュージシャンのようなもので、彼らが演奏する楽器は人間の情動系と生化学系だ。彼らが演説を行う。すると国中で恐れの波が拡がる。彼らがツイートする。すると憎しみの爆発が起こる。こうしたミュージシャンにこれ以上高性能の楽器を与えて演奏させるべきではないと思う。いったん政治家が、直接私たちの情動のスイッチを入れて、不安や憎しみ、喜び、退屈を意のままに生み出せるようになれば、政治はただの情動操作の茶番と化すだろう。私たちは大企業の力を恐れるべきではあるが、歴史を振り返ると、やたらに強力な政府の管理下に置かれるほうが必ずしもましではないことが見て取れる。