おそらくそれは、さまざまな視野・規模において存在するのではないかと思われる。それは世界史的な規模から個々人の人生に至るまで多様であると思われる。
そのことをもう少し考えてみると、世界史であれ、個人の人生であれ、それらは何れも不可視なものではあるが、同時にそこから共通して何かしらの『動き』あるいは『流れ』のようなものが感覚的に認識されるのではないだろうか?
それ故、それらが本来抽象的・不可視であるにも関わらず『動き』あるいは『流れ』といった動態として認識されることにより、我々ははじめてそれらの中に『法則らしきものがあるのではないか?』といった疑問を抱き得るのではないだろうか?
そうした我々の持つ一種の感覚的とも云える能力の根源にあるものとは、ある文字列を読み、認識することにより、その文字列が示す実在の対象が想起されることと、近似したものであるように思われる。
端的にこれらは、我々が知覚・認識した対象を脳内にて変換する能力であり、あるいはさきの世界史であれ、個人の人生においても同様に『抽象化』と表現することも出来るのではないかと考える。
そしておそらく、この脳内での変換『抽象化』が高度に為されるのは人類のみであり、また我々はその能力の発達によりこれまでのような進化発展を成し遂げることが出来たと云える。
その意味において現今進行中のインターネットを媒介とする現実に存在する、さまざまな事物の抽象化(IOT化)とは、さきに述べた我々人類の進化発展の方向に沿う必然的な『流れ』であるのかもしれない。
しかしながら、同時に、それは前世紀のモノクロ喜劇映画によって風刺された現代の機械による大量生産の結果生じた社会から、その先にある、さらに未知なる社会へと我々を導くのであろうが、その社会が現在よりも『良い』社会であるのかどうかとは未だ疑問であると云える・・。
あるいは、これの良し悪しを判断するのもまた、さきに述べた我々の『抽象化』の能力によってであるとも云える。
それ故、我々は、この抽象化の能力を既存の現実を後付けするカタチにて行う受容的とも云える抽象化(過去に対する抽象化)と同時に、先にある現実としての未来を認識しようと欲する能動的な抽象化(未来に対する抽象化)双方の能力を洗練、励起させておく必要があるのではないかと考える。
おそらく、この二つの抽象化とは同じ抽象化ではあるものの、その基本的な性質が、もしくはその洗練、励起の方法が異なるように思われる・・。
そして断言は出来ないが、少なくとも現在の我が国の場合、どのような経緯によるものか、後者の『未来を認識しようと欲する能動的な抽象化』の能力を過度に評価・重視するような性質があるように思われるのだが、さて如何でしょうか?
今回もここまで読んで頂きどうもありがとうございます。
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