二千数百年前、弥生時代後期の西日本では、中国地方を中心として東西二つの文化圏が存在しました。それぞれ、西は銅剣や銅矛を祭器とする文化圏であり、東は銅鐸を祭器とする文化でした。中国地方の中心とも云える出雲地方では、さきの東西双方の文化圏にて特徴的な祭器である銅剣・銅矛と銅鐸が、それぞれ多量に出土しており、そこから、双方勢力の接点であったのと同時に、双方に対して強い影響力を持つ勢力が出雲にいたことが理解出来ます。また、そこから記紀にある「国譲り神話」のようなことが実際に、当地であったのではないかと考えさせられるのです・・。
さて、この出雲地方にて出土が多い銅鐸は、元来、朝鮮半島およびさらに北部の遊牧文化での家畜の首に下げる鈴を祖としたものであり、それが徐々に大きくなり、我が国に至っては祭器となり、さらに大きくなり、装飾性も高くなり、全長1mを越えるような近畿式・三遠式銅鐸へと至るのだと云えます。
換言しますと、銅鐸祭祀文化での最終形態の銅鐸が近畿式・三遠式であり、双方共に大きく、装飾性が高く、比較してみますと、近畿式の方がより、形態が繁縟的で縄文以来の文化が引き継がれていることを思わせ、他方の三遠式の方は、形状の華やかさよりも、むしろ、描かれた文様の線の職人的な巧みさの方に目がいき、当三遠地域が我が国近代工業の祖の地であったことにも通底する何かがあるのではないかと考えさせられます。また他にも銅鐸は文様や取っ手部分の断面の形状などからの分類の仕方がありますが、分かり易いのが、後期式を代表する近畿式と三遠式とそれ以外に分類するのが、簡便であると思われます。そして、この「それ以外」をさらに細かく分類していきますと、技術の進化、それぞれの時代の新旧や形式の伝播の仕方なども理解することが出来るのではないかと思われます。
そうした中で大変興味深いと思われる銅鐸の一つが和歌山市の太田・黒田遺跡から出土した銅鐸です。これは全長30㎝ほどの最初期型よりかは少し大型化した弥生時代中期に作製されたものであり、面白いことは、その作製に用いたのと同じ鋳型により、さらに四つの鋳型が作製されており、それらは全て島根県雲南市の銅鐸の国内最多出土として知られる、加茂岩倉遺跡にて出土していることです。そこから、それらが作製された当時から、紀ノ川下流域と出雲地方には、祭祀を基軸とした同盟関係があったのではなかと考えられます。
また、30㎝ほどの大きさの場合は、鋳型の型を材料となる石に刻み込む、彫り込むことが可能でしたが、これが大型化しますと、石を用いた鋳型では作製が困難となり、粘土にて鋳型を作製してから内子を設置して、それらをある程度熱してから溶湯状態の青銅を流し込むことになりますが、この粘土による鋳型に溶湯を鋳込むと、鋳込まれた青銅器を取り出す際に、通常の手順で考えますと鋳型を破壊することになります。
そうしますと、同じ鋳型にて作製された銅鐸とは、同時に大型の近畿式・三遠式では存在しないことが、技術の進化の一般的な様相から理解することが出来ます。
そしてまた、粘土に文様を比較的自在に刻み込むことが可能な、大型の近畿式・三遠式の銅鐸は、自然と文様が多く、高装飾になっていったのかが理解出来るのではないかと思われます。
ともあれ、その後、銅鐸が祭器として用いられていた弥生時代の水稲耕作社会に大きな変化が生じたのが3世紀初頭でした。この時代から、それまでの弥生時代が終り、古墳時代に移行したとされています。つまり、多少の端境期はあったと思われますが、それまでの祭祀に用いていた銅鐸を地下に埋納秘匿して、代わりに、地域毎での首長霊を祀る墳墓を祭祀の基軸とする古墳時代へと比較的短期間で変化、収斂していったものと思われます。
そして、このあたりの経緯を伝えるのが、さきに述べた「国譲り神話」であると思われますが、さきに挙げた太田・黒田遺跡の銅鐸と同じ鋳型にて作製した銅鐸全てが出雲地方で出土していることも、さらに出雲での国譲りではなくとも、和歌山には複数、神武東征による土着勢力の国譲りの話が伝わっており、そのために、多くが、地域第一の神格を持つ神社が一ノ宮と称されており、和歌山でのそれは、旧国造家が代々祀っておられる日前神宮・國懸神宮(通称:にちぜんさん)がそれなのですが、地元では、その他に二つの一ノ宮があるとのことでした。それらは丹生都比売神社と伊太祁󠄀曽神社ですが、これらの神社には元来、日前神宮・國懸神宮の場所にあったのを、神武東征による国譲りで、少し離れた所に行かされたとのことであったが、この地域では、おそらく他の地域と比較して、神武東征に関しては、それなりにリアリティを持っている方々がおられるのではないかと思われます。記紀で神武東征の際に神武勢と戦ったとされる登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)との河内湖沿岸での上陸戦で手に矢傷を負った神武天皇の兄、五瀬命は亡くなってしまい、紀伊国に上陸して土着の女酋長を誅してから、五瀬命の遺骸を葬ったとされています。そして、この墳墓があるとされているのが、和歌山市内の竈山神社です。そしてまた、面白いことに、さきの紀州に上陸して成敗されたとされる女酋長を祀る社も、その比較的近辺にあるのです。こうした神武東征時とされる説話の断片が、その登場人物を祀った古社の存在によって、ある程度現実感を以て迫ってくるのではないかとも思われました。
ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
さて、この出雲地方にて出土が多い銅鐸は、元来、朝鮮半島およびさらに北部の遊牧文化での家畜の首に下げる鈴を祖としたものであり、それが徐々に大きくなり、我が国に至っては祭器となり、さらに大きくなり、装飾性も高くなり、全長1mを越えるような近畿式・三遠式銅鐸へと至るのだと云えます。
換言しますと、銅鐸祭祀文化での最終形態の銅鐸が近畿式・三遠式であり、双方共に大きく、装飾性が高く、比較してみますと、近畿式の方がより、形態が繁縟的で縄文以来の文化が引き継がれていることを思わせ、他方の三遠式の方は、形状の華やかさよりも、むしろ、描かれた文様の線の職人的な巧みさの方に目がいき、当三遠地域が我が国近代工業の祖の地であったことにも通底する何かがあるのではないかと考えさせられます。また他にも銅鐸は文様や取っ手部分の断面の形状などからの分類の仕方がありますが、分かり易いのが、後期式を代表する近畿式と三遠式とそれ以外に分類するのが、簡便であると思われます。そして、この「それ以外」をさらに細かく分類していきますと、技術の進化、それぞれの時代の新旧や形式の伝播の仕方なども理解することが出来るのではないかと思われます。
そうした中で大変興味深いと思われる銅鐸の一つが和歌山市の太田・黒田遺跡から出土した銅鐸です。これは全長30㎝ほどの最初期型よりかは少し大型化した弥生時代中期に作製されたものであり、面白いことは、その作製に用いたのと同じ鋳型により、さらに四つの鋳型が作製されており、それらは全て島根県雲南市の銅鐸の国内最多出土として知られる、加茂岩倉遺跡にて出土していることです。そこから、それらが作製された当時から、紀ノ川下流域と出雲地方には、祭祀を基軸とした同盟関係があったのではなかと考えられます。
また、30㎝ほどの大きさの場合は、鋳型の型を材料となる石に刻み込む、彫り込むことが可能でしたが、これが大型化しますと、石を用いた鋳型では作製が困難となり、粘土にて鋳型を作製してから内子を設置して、それらをある程度熱してから溶湯状態の青銅を流し込むことになりますが、この粘土による鋳型に溶湯を鋳込むと、鋳込まれた青銅器を取り出す際に、通常の手順で考えますと鋳型を破壊することになります。
そうしますと、同じ鋳型にて作製された銅鐸とは、同時に大型の近畿式・三遠式では存在しないことが、技術の進化の一般的な様相から理解することが出来ます。
そしてまた、粘土に文様を比較的自在に刻み込むことが可能な、大型の近畿式・三遠式の銅鐸は、自然と文様が多く、高装飾になっていったのかが理解出来るのではないかと思われます。
ともあれ、その後、銅鐸が祭器として用いられていた弥生時代の水稲耕作社会に大きな変化が生じたのが3世紀初頭でした。この時代から、それまでの弥生時代が終り、古墳時代に移行したとされています。つまり、多少の端境期はあったと思われますが、それまでの祭祀に用いていた銅鐸を地下に埋納秘匿して、代わりに、地域毎での首長霊を祀る墳墓を祭祀の基軸とする古墳時代へと比較的短期間で変化、収斂していったものと思われます。
そして、このあたりの経緯を伝えるのが、さきに述べた「国譲り神話」であると思われますが、さきに挙げた太田・黒田遺跡の銅鐸と同じ鋳型にて作製した銅鐸全てが出雲地方で出土していることも、さらに出雲での国譲りではなくとも、和歌山には複数、神武東征による土着勢力の国譲りの話が伝わっており、そのために、多くが、地域第一の神格を持つ神社が一ノ宮と称されており、和歌山でのそれは、旧国造家が代々祀っておられる日前神宮・國懸神宮(通称:にちぜんさん)がそれなのですが、地元では、その他に二つの一ノ宮があるとのことでした。それらは丹生都比売神社と伊太祁󠄀曽神社ですが、これらの神社には元来、日前神宮・國懸神宮の場所にあったのを、神武東征による国譲りで、少し離れた所に行かされたとのことであったが、この地域では、おそらく他の地域と比較して、神武東征に関しては、それなりにリアリティを持っている方々がおられるのではないかと思われます。記紀で神武東征の際に神武勢と戦ったとされる登美能那賀須泥毘古(とみのながすねびこ)との河内湖沿岸での上陸戦で手に矢傷を負った神武天皇の兄、五瀬命は亡くなってしまい、紀伊国に上陸して土着の女酋長を誅してから、五瀬命の遺骸を葬ったとされています。そして、この墳墓があるとされているのが、和歌山市内の竈山神社です。そしてまた、面白いことに、さきの紀州に上陸して成敗されたとされる女酋長を祀る社も、その比較的近辺にあるのです。こうした神武東征時とされる説話の断片が、その登場人物を祀った古社の存在によって、ある程度現実感を以て迫ってくるのではないかとも思われました。
ともあれ、今回もまた、ここまで読んで頂き、どうもありがとうございます!
祝新版発行決定!
ISBN978-4-263-46420-5
*鶴木クリニックでのオペ見学につきましても承ります。
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