2024年1月26日金曜日

20240126 岩波書店刊 宮地正人著「幕末維新変革史」上巻 pp.48-52より抜粋

岩波書店刊 宮地正人著「幕末維新変革史」上巻
pp.48-52より抜粋
ISBN-10 : 4006003919
ISBN-13 : 978-4006003913

 クリミア戦争はナポレオン戦争につづく世界的規模での大戦争となった。ロシア帝国の北太平洋海軍拠点カムチャッカ半島ペテロパヴロフスク港を攻略するため、英国の太平洋艦隊(当時、東印度艦隊の守備範囲と区分されていた)四艦は仏艦三艦とともに一八五四年五月一七日、南米ペルーのカリャオ港を出港、七月一七日ハワイに寄港した後、同月二五日にはカムチャッカ近海に達し、八月三〇日、ぺ港に入港して猛烈な砲撃を開始した。しかしロシア側の守備は堅固で強力に応戦し、翌三一日、英国のプライス司令長官は自殺、九月一日と五日、二度にわたり海兵隊を上陸させて攻略を試みたが、いずれも失敗し、八日英仏艦隊は撤退を余儀なくさせられたのである。

 しかし、英仏艦隊のこのような攻撃が繰りかえされるならば長期にペ港は維持できないとも、ロシア側には明らかとなった。ロシア軍は一八五五年四月同港を撤退(カラフトのクシュンコタンに兵営を築いていたロシア兵も攻撃に備え同年六月に撤退する)、このことは同時にアリョーシャン列島とロシア領アラスカの維持が不可能となったことも意味したのである。

 この年五月二〇日、英艦九艘、仏艦五艘の連合艦隊がペ港攻略のため再入港するが敵兵は皆無、連合艦隊はアラスカに向かうこととなる。

 このペ港の壮烈な攻防戦はロシアの極東戦略の転換点となった。北米大陸進出の方向性が断たれ、それにかわり、清国領内を流れるアムール河を下って太平洋に進出し、サハリン島全域とアムール河以北及び後年沿海州と命名されるアムール河南岸・ウスリー河東岸の広大な清国領の自国編入が国家的課題となるのである。

 クリミア戦争はディアナ号を失ったプチャーチン以下五〇〇名のロシア海軍軍人の問題でもあった。プチャーチンは一日も早く帰国させたがっている幕府と交渉、伊豆半島西岸の戸田で洋式帆船建造にとりかかった。二本縦帆マスト、八〇トン(四〇〇石船に相当)、船の長さ八一尺、竜骨の長さ六二尺、船幅二三尺、砲門八口(実際には積まず)のスクーナー型船である。竜骨を骨格とする船舶建造は戸田村の船大工棟梁上田寅吉(後日の横須賀造船所初代工長)以下、協力する多くの日本人船大工にとっては、技術修得の絶好の機会となった。

 建造中の安政二(一八五五)年一月二七日、米船カロライン・フート号が下田に入港、クリミア戦争に参戦するため一五〇名余の士官・下士官たちが同船を雇って二月二五日下田を出帆、ペ港に到着する。

 つづいて竣工したヘダ号に乗ったプチャーチン等四八名は三月二二日出港、当初はオホーツク海のアヤンに寄ったのちペ港に向う予定であったが、英艦に追跡されアムール河河口のニコラエフスクに逃げ込むことに成功する。

 残置されたロシア人二八〇名余は、六月一日、ドイツ商船グレダ号で下田を出帆する。この中には掛川藩浪人の橘耕斎と彼から日本語を学ぶ中国語通訳ゴシケヴィッチ(後日、最初の函館領事となる人物)がいた。グレダ号はアヤン港に入港する直前、遊弋中の英艦バラク―タ号に拿捕されてしまい、乗組員全員はクリミア戦争終了後の一八五六年四月、ロンドンで釈放されるのである。

 ところで、ヘダ号の設計図をプチャーチンが残してくれたこともあり、上田寅吉ら戸田村の船大工は、その後スクーナー型船を六艘建造し、これらの船は君沢型(戸田村は伊豆国君沢郡にある)と呼称されることとなった。さらに函館で改良されたものが建造されることとなり、これは函館型と呼ばれ(その後「小廻船」といわれるようになる)、蝦夷地・北海道で長く活躍することとなった、現在北海道の利尻町立博物館には二本の縦帆と二つの船首三角帆をもつ「小廻船」模型が展示されているが、その解説には大正から昭和にかけ、動力船が出る前の帆船で、利尻では天塩と結ぶ航路に使われ、島からはニシンカスや海産物、天塩からは製材・薪材や米・味噌・醤油等の生活物資を運んだ、小廻船は動力船の出現と、利尻との交易地が稚内にかわったことにより消滅した、と述べられている。