2021年6月1日火曜日

20210601 株式会社岩波書店刊 藤原彰著「中国戦線従軍記」-歴史家の体験した戦場-pp.183‐186より抜粋

 株式会社岩波書店刊 藤原彰著「中国戦線従軍記」

-歴史家の体験した戦場pp.183‐186より抜粋

ISBN-10 : 4006004079
ISBN-13 : 978-4006004071

八月十五日昼、聯隊の幹部は本部に集合して、天皇の放送を聴くことになった。前の晩から降伏のニュースは秘かに流れていたが、やはり信じたくない気持ちが強かったのである。天皇の声は雑音がまじって聴きとりにくかった。しかし「忍び難きを忍び」などという言葉がところどころわかったので、私はポツダム宣言受諾だとわかった。集まった多くの人も敗戦の予想をもっていたはずで、降伏の放送と判明したはずである。

 連隊長の片岡中佐は、放送が終わったあと、短い訓示をした。別命があるまで従来どおりの方向で進むというもので、明日からの九州への出発は予定どおりということだった。敗戦、降伏という事実は、時間が経つにつれ明らかになった。兵士たちの動揺も大きかったに違いない。だが当座は、とにかく軍隊としての秩序は保たれていた。

 翌日聯隊主力はあわただしく九州へ出発していき、私の大隊だけが残された。新聞とラジオは、堰を切ったように敗戦の実相を報道しはじめた。1000人以上の部下をもつ大隊長として、敗戦という事態にどう対処すべきか迷うばかりだった。師団長も連隊長も九州へ発ってしまって、指揮を仰ぐ上級者には、まったく連絡がつかなかったのである。そこで私は独断で鉄道当局に要求して臨時列車を編成させ、八月十八日に九州に向けて出発した。あとで考えれば、何もわざわざ九州へ行かなくても、姫路で復員の手つづきをしてしまえばよかったのだが、そこまでの考えはおこらなかった。部下の中隊長たちのだれ一人も、そうした意見を述べなかった。まだ戦争中の威光が残っていたのか、鉄道も素直に私の要求をいれて、列車を仕立ててくれた。

 姫路から熊本まで、一日以上かかった。関西の各地出身の兵たちにしてみれば、戦争が終わったのに故郷から遠ざかっていくのは不安だっただろう。すでに姫路にいるときから動揺がはじまり、脱走者が出るようになっていた。列車の途中で逃げ出す者もあった。やっとの思いで熊本に着くと、聯隊本部は熊本平野北方の温泉町山鹿にあり、私の大隊はその東方のこれも温泉のある来民町が宿舎として配当されていた。結局この来民の町で、半月近く過ごすことになった。

 九月の初めになって、ようやく武装解除と復員の命令がきた。武器を返納したうえで、部隊は姫路まで輸送し、そこで復員するというのであった。大隊本部の置かれていた来民の小学校の校庭で、大体全員を集めて武器の返納と大隊旗の焼却式をおこなった。私は故郷に帰って祖国の復興につくすようにとの訓示をし、副官が大隊旗に石油をかけて火をつけた。終わってから大隊長室としていた校長室に戻ると、校長先生が部屋に入ってきて、「御心中お察し申し上げます」といってぽろぽろと涙をこぼした。何の感想もなかった私は一瞬虚をつかれた感じを受けた。天皇の詔書放送からはじまり、九州への転送、武装解除、復員というはじめての経験を、大隊長として責任をもって対応しなければならず、涙を流すということはなかったので、校長先生の落涙に驚いたのである。

 聯隊は姫路へ輸送されることになっていたが、交通事情が悪く列車の目途が容易に立たなかった。待ちかねた兵たちのなかから脱走者が次々に出るようになった。もはや軍隊としての統制もとれなくなってきたのである。九月十七日ようやく熊本から列車で出発したが、おりから西日本一帯を襲った枕崎台風に遭遇することになった。線路が不通になって復旧が遅れ、下関から姫路まで三日もかかった。

 九月二三日姫路で聯隊は復員した。内地の各部隊は、被服や食糧など山のような荷物を分配して復員し、悪評を受けていた。わが部隊は長途の輸送のあとの解散なので、解散する兵士たちに支給する荷物は何もなかった。しかし兵たちは故郷へ近づいたので一目散に家族のもとに帰っていった。

 兵たちを送り出したあと連隊長以下の幹部には、復員関係の書類を作る仕事が残っていた。聯隊本部付下士官の一人が加古川上流の滝という町に縁故のある旅館があるというので、そこにこもって書類作りをすることになった。新設部隊なので復員関係の書類作りは、簡単に終わった。この町を流れている加古川では、滝を飛び上がろうとする鮎を網ですくうのが名物だという。おりからそのシーズンだったので、私も試みて一尾をすくった。

 一〇月初め復員業務も終わって聯隊本部も解散した。私は本籍が奈良県だったので、奈良聯隊区司令部付の命令を受けて奈良の司令部に出頭した。そこには何の仕事もなく、予備役編入だから、もう家に帰れということだった。もはや用ずみで、これで軍との縁も切れたのである。