2024年10月21日月曜日

20241020 株式会社平凡社刊 ルイス・ネイミア 著 都築忠七・飯倉章 訳「1848年革命: ヨ-ロッパ・ナショナリズムの幕開け」 pp.38-40より抜粋

株式会社平凡社刊 ルイス・ネイミア 著 都築忠七・飯倉章 訳「1848年革命: ヨ-ロッパ・ナショナリズムの幕開け」
pp.38-40より抜粋
ISBN-10 ‏ : ‎ 4582447074
ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4582447071

 ポーランド人とハンガリー人の間では、ジェントリーー非常に大人数で、他の民族においてはこれに相当するものがほとんどなかったーが、中産階級にとって代った。彼らは民族主義的革命勢力として、中産階級よりもはるかに効果的であった。というのは、彼らは何世代にもわたって軍人教育を受けており、戦士の精神と伝統を持っていた。貴顕の有力者とともに、国政において権力を独占していたジェントリーは、民族主義思想の唯一の主唱者となった。さらに、ポーランド人のジェントリー国家は、リトアニア、白ロシアの地主階級と、ウクライナの地主階級の大部分を同化し、ポーランド農民の住む地域のおよそ三倍を覆ったことがあったので、ポーランドの偉大さは、ジェントリーによる階級支配と密接な関係を持っていた。多少異なっていたものの、ハンガリーでも同じことが言えた。しかし、ポーランド人ジェントリーと農民との間の隔たりは格段に大きかったので、ポーランド語を話す農民たちは大体において、自分たちが自分たちの主人と同じ民族に属すとは見なさなかった。一八四八年とその後半世紀近く、オーストリア系ポーランド人の主たる指導者の一人であったジェミャウコフスキは、ずっと後の一八六五年三月にこう書いた。「・・・ガリシアにおいては、農民はポーランドのことを考えもしないし、ポーランドを欲してもいない。一方で、都市の住民は、その眠りからやっと覚め始めたばかりである」。事態はむしろ悪化していた。というのは、大土地所有者と農民との関係は、重い賦役と世襲の領主裁判権によって未だに毒されていたし、敵対的なオーストリア官僚は、両者の悪化する関係を利用し続けていた。

 一八四五年、ポーランド民主協会員は、多くは西ヨーロッパにある亡命者組織の指令によって、ポーランドを分割する三カ国すべてにたいし民族蜂起を準備していた。この蜂起は、必要があって陰謀的な方法で計画されたが、そのために、財源が全く不足していたことと計画が夢のようなもので実際に役に立たないことは、指導者たちにさえも、隠されてしまった。一八三〇年と三一年には、貴族あるいはジェントリーといったポーランドの指導者たちは、農民の完全な解放を宣言して、彼らに訴えかけるような気持ちにはなれなかった。一八四五年から四六年に活躍した人びとは、自らジェントリー階級であったが、誤りに気づいた。つまり、ポーランド人の努力の持つ弱点とその失敗を、勝ち誇ったフランス革命軍(当時、彼らもまた不利な状況に直面し、見たところ勝ち目はなかったが)の勢いと比べてみて、社会的革命勢力を蜂起させることによってのみ、彼らもその敵や抑圧者の組織された勢力を打ち負かすことができる、と結論したのである。一方で、彼らは世界的な革命と戦争を夢想し、世界政治システムはポーランドによって決定され、ポーランドを中心に展開し、その復活によって完成し、最終的には新たな偉大なポーランドとして結実する。と絵空事を描いていた。このような空想とうぬぼれが、ポーランド人の運動を鼓舞し続けたのであるー当時も、そしてそれ以来ずっと。このようにして本質的に貴族的かつ好戦的な民族で、ジェントリーの剣の伝説が深く染みつき、不在地主とその広大な所有地に基づいた偉大さを備え、今もって愛国的動機から社会革命的行動へと身を投じる民族という、異常な類型が現われたのだった。ポーランド人は、代わるがわる、自由の主唱者として賞賛されたり、反動勢力として非難されたりしてきた。実際、彼らはそのどちらでもなかった。むしろ、どの民族もそうであるように特殊な事例の一つにすぎなかったのだ。だが、彼らの場合は、その立場の複雑さ故に、他よりももっと複雑であったのだが。